しゅんしゅんと湯気がたっていた。
あたたかい部屋の空気が、とても心地よい。
総司は柔らかなものに埋もれた状態で、そっと目を開いた。
かるく細い眉を顰める。
(? ……あれ……?)
見慣れた天井だった。自分の部屋だ。
いったい、いつのまにここへ来たのか。
しかも布団の中で、ぐっすり眠っていたのだ。
身じろぐと、額から濡れた手拭いがすべり落ちた。
「……いったい、誰が……」
そう呟いた総司は、のろのろと上体を起こした。
眠ったせいか、かなり躯の調子はよい。もう熱も下がったようだった。
総司は部屋の中を見回してみたが、むろん、そこには誰の姿もなかった。残された気配さえない。
だが、総司は副長室で倒れたはずだった。
土方を待つうちに───
「……あ」
彼に呼ばれていた事を思いだし、慌てて総司は立ち上がろうとした。
何があったかわからないが、早く行かなければ又叱責をかってしまう。これ以上、土方に嫌われたくなかった。
小袖の襟元を整えた時、廊下から声がかけられた。
「総司、起きているか」
それは斉藤の声だった。
総司が「はい」と返事をすると、斉藤が入ってくる。だが、すぐ立ち上がろうとしている若者の姿に、眉を顰めた。
「いったい、どこへ行くつもりなんだ」
「え、あの……副長室へ」
「報告か。あれは、島田が代わりに済ませたみたいだぞ」
「……そう…ですか」
小さく頷き、目を伏せた。
いったい、土方はどう思っただろう。
己の体調管理もできない不甲斐なさを、いつもどおり嘲笑ったか。
相変わらず役立たずだと、切り捨てられたか。
いたたまれなさに、総司は思わず唇を噛みしめた。それに、斉藤が優しい声で話しかけてくれる。
「あまり気にするな。熱があるのだろう、もう少し休んだ方がいい」
「もう大丈夫です……熱は下がりました」
「本当か?」
そう云うと、斉藤はいきなり身を乗り出した。総司の白い額に額を押しあててくる。
それに、総司は目を見開き、慌てて飛び退いた。
「さ、斉藤さん……!」
「本当だ。熱、さがったみたいだな」
くすくす笑う斉藤に、総司は頬を紅潮させたまま唇をとがらせた。そんな表情がたまらなく可愛らしい。
ふとあるものに気づき、ちょっと小首をかしげた。
「斉藤さん、あのね」
明るさを取り戻した声で、総司は斉藤に話しかけた。
「何だ」
「その手に持っているのは何ですか? お薬?」
「おまえの好きなものだよ。喉越しがいい水菓子だ」
「あ……本当だ! ありがとうございます」
水菓子を受け取った総司は、嬉しそうに微笑んだ。
まるで、ぱっと花咲いたような笑顔だ。
その時、だった。
「……」
縁側が僅かに軋んだ。
それに、総司は何気なくふり返った。だが、とたん、ひゅうっと息を呑んでしまう。
「……土方…さん……」
開け放たれた障子の向こう。
いつからそこにいたのか、縁側に土方が佇んでいたのだ。
冷たく澄んだ黒い瞳で、総司を鋭く見つめている。
そのまなざしの冷ややかさに、総司は思わず身をすくめてしまった。その顔から笑みがかき消され、さっと青ざめてしまう。
俯いたその姿は、完全に土方を拒絶し、そして、恐れていた。
「……」
土方は、そんな総司の態度に、一瞬だけ苦しげに眉を顰めた。が、すぐいつもの冷徹な表情に戻ると、静かに訊ねた。
「もう……躯の調子は良いのか」
「……はい」
「島田から報告は聞いた。俺はおまえ自身の口から聞きたかったが、その体では仕方あるまい」
「……」
「今夜、一番隊は出動の予定だ。手入れがある。それまでには、おまえも体調を整えておけ」
事務的に告げると、土方は踵を返した。
そんな彼に、斉藤が慌てて声をかけた。
「土方さん、今夜だなんて……総司が倒れてしまいます。三番隊が代わりに出ては駄目ですか」
「駄目だ」
断言した土方は僅かにふり返ると、冷ややかな一瞥を総司にむけた。
「それとも、何か? 総司、おまえは斉藤に肩代わりしてもらうことを望むのか。おまえの失態を?」
「いえ……」
小さく答えた総司に、土方は薄く嗤った。
嘲るような笑みが、その形のよい唇にうかべられる。
「あまり、みっともない処を見せるな」
「……」
「仮にも精鋭と呼ばれる一番隊隊長なら、それなりの働きをしてみせろ」
容赦ない彼の言葉に、俯いていた総司がすっと顔をあげた。
その大きな瞳で、まっすぐ挑戦的に土方を見据えてくる。
先ほど斉藤と話していた時とは全く違う、低い声がその桜色の唇からもれた。
「……わかりました」
何の感情も伺わせぬ、乾いた声音だった。
「副長のご命令に従います。名に相応しいだけの働きをご覧にいれてみせます」
「その言葉、違えるなよ」
「はい」
青ざめた顔で頷いた総司に、土方は一瞬、言葉を途切らせた。何か云いかけるが、結局はそれを呑み込んでしまう。
口に出したのは、全く別の言葉だった。
「……俺を失望させるな」
冷ややかに云い捨てると、今度こそ土方は背をむけた。大股に歩み去っていってしまう。
「土方さん!」
斉藤は慌ただしく腰をあげた。部屋を飛び出し、それを追ってゆく。
おそらく、三番隊の出動に変更させるつもりなのだろう。
「……」
ぼんやりと総司はそれを目で追った。
引き寄せられるようにのろのろと立ち上がり、障子の間から顔をのぞかせてみれば、縁側の先で土方と斉藤が何か云い争っているのが見える。
総司は、冷ややかな彼の端正な横顔を見つめ、そっと唇を噛みしめた。
……私にむけられるものが。
あんな酷い言葉であっても。
あんな冷たいまなざしであっても。
彼の傍にいられるなら、それでも構わないのだと。
そう──思ってしまう私は、どこかおかしいのだろうか。
もう、狂ってしまっているのだろうか。
ならば……いっそ。
もっともっと狂ってしまいたい。
あの人に恋して、愛して、狂気の一線を踏みこえてしまえるのなら。
それは、私にとって僥倖だ。
この世の何を捨ててもいい。
ただ、あの人だけを感じていたいから。
最期の瞬間まで。
私にむけられる彼のすべてが、冷たい刃のようであったとしても構わない。
土方さん。
私は、あなただけを求め。
そして。
狂気にも似た激しさで、あなたを愛しているのだから───……
土方は斉藤の言葉を無視し、そのまま踵を返した。
固く唇を引き結んだまま、副長室へ戻る。
部屋に入るなり荒々しく障子を閉め、懐に入れていたものを床へ叩きつけた。
「……畜生っ」
どうにも苛立ちがおさまらなかったゆえの、行為だった。
だが、すぐに土方はそれを悔いた。拾い上げたものを、きつく唇を噛みしめながら見つめる。
それは、小さな竹筒に入った水菓子だった。
総司を褥に寝かせ、部屋をあたため、額に置いた手拭いを何度もかえてやった。
その後、少し呼吸が楽になってきたのを確かめてから、屯所を出た。
薬を飲ませなければと思ったのだが、もともと総司は薬嫌いだ。その後口になればと、水菓子を買いもとめた。
だが、懐に水菓子を入れて総司の部屋に戻ったとたん、土方が目にしたのは、斉藤と笑いあう総司の姿だった……。
斉藤が持ってきたらしい水菓子を手に、幸せそうに笑っている。
決して、自分にはむけられぬ、あの花のような笑顔だった。
それを見た瞬間、目の前が真っ赤に染めあげられた気がした。
嫉妬と怒りに、気が狂いそうだった……。
この世の中には。
どれほど望んでも願っても、決して手に入らないものがある。
俺にとって、それは……総司の心だった。
その優しい花のような笑顔だ。
一度だって、俺に向けられたことなどない。
いつも俺にむけられるのは、先程思い知らされた、冷ややかな拒絶。
もしくは、感情を無くしたような瞳と、固い表情だけなのだ。
その瞳の奥に、嫌悪と憎しみを燃え立たせながら、総司はいつも俺を見据えてくる。
まるで、この世の何よりも醜悪なものを見るかのような、まなざしで。
いや、実際、総司にとってはそうなのだろう。
他の誰よりも、俺は総司に嫌われている、憎まれている。
だが、それでも、総司を愛しいという気持ちは抑えきれなくて。
だからこそ、先程も倒れている総司を見た瞬間、我を失った。驚きに心臓が鷲掴みされたようだった。
慌てて抱きおこし、総司の息を確かめたとたん、安堵した。
だが、一方で腕の中にいてくれる総司が、愛おしくてたまらなくて。
愚かな俺は、懸命に看護してやることで、少しでも、総司が心開いてくれたらと願ったのだ。そんな儚い期待を抱いてしまったのだ。
水菓子を買ってきたのも、総司の笑顔を一瞬でも見たいが為だった。
(……なのに)
佇む俺に気づいた時の、総司の表情。
あの瞳はどうだ。
怯えきった、まるで化け物でも見たような瞳。
あんな……表情が見たい訳ではなかった。
俺は、ただ。
おまえに微笑ってほしかった、それだけ…だったのに……。
土方は水菓子を再び懐に戻しながら、きつく唇を噛みしめた。
彼にしてはぼんやりとした表情で、障子の向こうに広がる中庭へ視線を転じる。
ふと気がつけば、粉雪が舞い始めていた。
ひらひらと。
まるで、花びらのように。
「……道理で冷えるはずだ」
そう呟きながら、土方は雪空を見あげた。
天から降り舞う雪。
この雪の純白に、いっそすべてがおおい尽くされてしまえばいい。
己の報われぬ愛も。
狂気も。
愛するがゆえの愚かさも。
そう、愛とは愚かなものだ。
望んでもえられないものばかりを、求めつづける愚かな男。
こんなに心醜い己が、あの美しい蝶を手にいれられるはずがなかったのに。
いつだって、おそるおそる手をのばした瞬間、蝶はふわりと飛びだってしまうのだ。
美しい蝶は。
俺以外の男たちの間を、艶やかに飛び舞いながら……。
(……いっそ……)
土方は指の背に歯をたてながら、ゆっくりと目を細めた。
(壊してしまおうか……)
この手で美しい羽を毟り取り、壊してしまえばいいのだ。
だが、そんな事をすれば、あの蝶は衰弱してしまう。
この掌の中で、少しずつ少しずつ、命を失ってゆくかもしれない。
いや、もしかして。
狂った俺は、それを望んでいるのか──?
微かな笑みをうかべた土方は立ち上がり、縁側へと歩み出た。
ひらひらと降り舞う雪を眺めながら、懐手した。
指さきに、先ほどの水菓子の竹筒がふれたが、何も感じなかった。
……もう、望まなかった。
総司の心も。
あの花のような笑顔さえも。
どんなに望んでも、あたえられないのだと。
思い知らされた今は、ただ歪んだ闇に堕ちゆくばかりだ。
だから……総司。
俺を、もっと憎め。
苦しみと絶望にみちた慟哭の中。
憎しみの涙に濡れた瞳で、俺を見ればいい。
愛してる、という言葉さえ忘れた。
もう失った。
俺の手に残ったのは、おまえの憎しみだけだ。
憎まれているという事実だけだ。
だが、それでいい。
もう……俺は。
ただ一つの事しか、望まないのだから。
「──副長」
気がつけば、山崎が足早にこちらへ歩んでくる処だった。
それに表情を引き締め、ふり返った。
「何だ」
「至急ご報告したいことが」
「中で聞こう」
土方は踵を返すと、副長室へ入った。
総司を抱きあげた時と同じように、ひんやり冷たい畳の感触が足裏からのぼる。
ふと蘇った昏い想いに、土方は微かに笑った。
が、それも一瞬の事だった。
降り舞う雪をもう見やることもなく、土方は怜悧なまなざしを差し出さされた書類に落とした。
その奥にある激情もすべて、押し殺したまま……。
……そう。
たった一つの望みだ。
愛しい総司
その美しい羽を毟られ、壊されたおまえが
いつか、俺の手の中で
息絶える瞬間
あぁ……
俺はその時、心から願うのだ
たとえ、憎しみの涙に濡れていてもいい
愛など欠片一つなくともいい
それでも
───きみの瞳に映るのが、俺だけであればいい……と。
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