美しい夜景だった。
 まるで、きらきら輝く星が地上に舞い降りたようだ。
 紺色の夜空に月が浮かんでいる。
 星は見えなかった。だが、地上には眩いほどのイルミネーションが広がっていた。
 不夜城都市の夜。
 ここは、ビルの屋上だった。
 先程食事したホテルの屋上だ。美しい空中庭園がつくられてあったが、夜の肌寒さのためか人影は全くなかった。
 緑の樹木と、美しい芝生や花々を見れば、まるで地上の公園にでもいるようだ。
 総司はその庭園の真ん中に佇むと、両手を組みあわせた。
 バックミュージックもなく唄うのは、初めてのことだ。だが、それでも総司は躊躇わなかった。
 自分の歌と、声には、絶対的な自信があるのだ。
「……」
 総司は、目の前のベンチに腰かけるたった一人の観客を見つめた。
 世界中の誰よりも愛しい男を。
 七日間だけの恋人を。
 そして、静かに唄いはじめたのだった。



 ──LOVE SONGを。



 夜の帳をぬけて、柔らかな歌声が響いてゆく。
 透きとおるような、美しい声。
 のびやかで澄みきった歌声は、豊かな声量をもって響き、そして、聞く者の心を静かに揺さぶった。
 百年に一度とまで評された、歌姫の声だった。
 総司は澄んだ瞳で土方だけを見つめたまま、柔らかく唄った。
 切なく哀愁をおびた旋律が、夜の闇に花に樹木にひろがってゆく。
 それを、土方は黙ったまま見つめていた。
 月の光に、柔らかな髪が艶めいた。
 こちらをまっすぐ見つめる、きれいな瞳。
 ふっくらした頬に、桜色の唇。
 少し力をこめて抱きしめれば壊れてしまいそうな、細い華奢な躯。
 だが、今、その躯からは信じられないほど張りのある声で、総司は唄っている。
 月の光を纏いながら。


 姿形や、その性質だけではなかった。
 そこにいるのは、まさに天使だった。
 彼だけの、愛しい天使だった……。


 気がつけば、総司はラストの一節を唄いあげていた。
 切なく、悲しく。
 胸の奥底まで揺さぶるような、激しさで。




   私を捨ててゆくなら
   二度とふり返らないで

   この瞳が涙に濡れていても
   あなたが心ゆれる事はないから

   だから、お願い
   私の想いを知らぬままでいて……






 唄いあげた瞬間だった。
 その大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。それは、まるで綺麗な真珠のような涙だった。
 だが、すぐにそれを隠すように、顔をそむけた。
 ごしごしと手の甲で目をこすっている。土方がたまらず立ち上がり歩み寄ってゆくと、慌てて背をむけた。
「……総司」
 そっと肩に手を置いた。
 それに、総司がふり返った。その瞳にはもう涙はない。
 いつもの笑顔、だった。
「どうでしたか? ぼくの歌は」
 明るい調子で訊ねた総司を、土方は一瞬痛ましげに見つめた。だが、何気ない風をよそおって答えてやる。
「あぁ、とても良かったよ」
「本当に? 嬉しい!」
「さすが天使の声だ。素晴らしいLOVE SONGだった。だが、あれは未発表の歌だろう? 初めて聴く曲だ」
「え、あ……そうです。この間、つくったばかりで……でも、よくわかりましたね」
「俺はおまえの歌は全部CDもっているし、頭に入っているからな。けど……」
 男の声が低くなった。
「おまえは、どうしてあれを選んだんだ?」
「え……」
 総司はちょっと息を呑んだ。顔から仮面が一瞬だけ剥がれおちる。
 だが、すぐ慌てて笑顔をうかべた。
「んーどうしてかな。何となく、ですよ」
「本当に?」
「本当ですって。他に何か理由があると思うんですか」
「思うから、聞いているんだ。あの歌を聞いてて、俺は胸奥が抉られるようだった。切なくて悲しくて、たまらなかった」
「……」
「それは、あの歌が……」
 土方は口に出しかけ、僅かに躊躇った。だが、深く澄んだ黒い瞳でまっすぐ総司を見つめると、一気に告げた。
「あの歌が、おまえ自身の気持ちを代弁していたからじゃないのか?」
「──」
 総司の目が大きく瞠られた。
 半ば呆然とした表情で、土方を見あげている。
 やがて、その顔がくしゃりと歪んだ。みるみるうちに大きな瞳に涙があふれ、ぽろぽろ零れおちてゆく。
 総司は崩れるように芝生の上へ坐り込むと、両手で顔をおおった。
「……なん…で……っ」
「……」
「なんで……そんなこと、云っちゃうの? 必死に隠してる……楽しいふりしてるぼくのこと、わかってるくせに……何で……っ」
「総司……」
「そんな事されたら、もう隠せなくなるじゃない。一生懸命我慢してたのに、堪えきれなくなっちゃって、わがまま云っちゃって……っ」
「昨日も云っただろ?」
 土方は総司の前に跪くと、そっと細い肩に手をかけて顔をあげさせた。
 頬の涙を唇でぬぐってやりながら、囁きかける。
「おまえのわがままなら、構わないって。云って欲しいって」
「だって……っ」
「云ってくれ。総司、おまえの本当の気持ちを。俺はそれが知りたいんだ」
「……っ」
 彼の言葉が、引き金となった。
 もう我慢なんかできるはずもなかった。
 ずっとずっと堪えて、我慢して、隠しとおすはずだったこの想い。恋。愛しさ。
 そのすべてが、たった今どうしょうもない程あふれて─── 
「好きなの……!」
 総司は涙に濡れた瞳で彼を見つめ、叫ぶように告げていた。
 夜空の中にひびく、愛の言葉。
「あなたが好き。だい好き……愛してる……!」
「……総司」
「恋人ごっこだとわかってるけど、七日間だけだとわかってたけど。でも、本当は、どんどんあなたを好きになっていったの。好きで好きでたまらなくて、あなたを失ったらどうしたらいいのかわからなくて、それが怖くて……ぼく……っ」
 不意に、総司の躯がすくうように抱きおこされた。
 背と腰に男の強靱な腕がまわされたかと思うと、次の瞬間、息もとまるほど抱きしめられていた。
 髪を指さきでかき乱され、首筋に頬に熱いキスが落とされる。
 震えながら見あげると、そのまま深く唇を重ねられた。
 吐息まで奪うような激しい、濃厚なキス。
「……っ、ぁ…ん……っ」
 総司は喘ぎ、必死になって土方の胸もとに縋りついた。指さきが彼のシャツを掴み、皺くちゃにしてしまう。
 何度も角度をかえて口づけられ、躯中が甘く痺れた。
 まるで、キスに酔ってしまったかのように。
「……総司……」
 キスの合間に、そっと名を囁かれて。
 頬にふれる指さきの感触に。
 首筋にあてられる彼の唇に。
 熱っぽく見つめる黒い瞳に。
 震えた。


 ……愛してる、愛してる、愛してる。


 ただ、それだけを思って。
 抱擁にキスに、身も心も溺れこんだ。
「……土方さん……っ」
「総司……」
「好き……だい好き……!」 
 力強い男の腕の中、甘やかにあたえられるキスに、総司は夢中で応えた。
 そして、静かに瞼を閉じたのだった。


 月明かりの中で。
 永遠、という存在を。
 生まれて初めて、願いながら───…… 











[After]



涙って不思議
泣いても泣いても
枯れたりしないの

でも、だからなのかな
どんなに泣いても

あの人への恋を忘れられないのは……










 朝の光は、眩しかった。
 オフも昨日で終わってしまい、今日からまた仕事だ。
 総司はもそもそと起き上がると、うーんと小さくのびをした。パジャマ姿、くしゃくしゃの髪のまま洗面所へと向かう。
 いつもどおり歯ブラシを手にとり、歯磨き粉をしぼり出した。
 だが、鏡を見たとたん、ちょっと固まった。
「……目、泣きはらしてる」
 ウサギのような目とまではいかなかったが、いかにも泣きましたよという顔だった。
 だが、それも当然のことだろう。
 夢のようだった、恋する七日間はもう終わってしまったのだから。





 昨夜、土方は何も云わなかった。
 甘いキスの後、総司をいつもどおりマンションに送りとどけたのだ。
 そして、別れの挨拶を云うべきなのか、それともいっそ縋った方がいいのかと迷いまくってる総司を見下ろして。
「……おやすみ」
 静かな囁きとともに、額にキスを落とすと、踵を返してしまったのだ。
 追いかけることさえ出来なかった。
 呆然としたまま、廊下の向こうへと遠ざかる彼の背を見つめることしか出来なくて。
 結局、土方がエレベーターに乗りこんで、その姿が視界から消えてしまっても、しばらくの間ずっと突っ立っていたのだ。
 部屋に戻ってからは、もう泣いた。
 泣いて、泣いて、泣きまくった。
 こんな事ならいっそ追いかけた方がよかったのかもしれないが、そんな勇気どこにもなかったのだ。





 だって、これは恋人ごっこ。
 七日間限定の、おつきあいだったのだから。
 今頃、きっと土方は総司から解放されて、やれやれと安堵の息でもついているに違いない。
 わがままな歌姫のお守りがようやく終わったと、思っているだろう。
 そんな彼に、どうして縋ることができるの?
 縋って、いったいどうするの?
 初めからわかっていた事なのに。恋人ごっこだったのに。
 だから、彼だって、携帯電話の番号や住所さえも、まったく教えてくれなかった。
 それが彼なりの答えなのだろう。
 甘やかし優しくしながら、その実、彼は常に一線をひいていたのだから。その線を越えようとした時、いつも「これは恋人ごっこだよ」と教えてくれていたのだから。
 本気になったぼくが、悪いのだ。
 ルール違反をしてしまったのだ。
 恋人ごっこという楽しいゲームだったはずなのだから。
 これ以上、彼をまきこむ訳にもいかないし、第一こんなふうに想いつづけてるなんて、彼に迷惑だ。
 ゲームセット。
 恋人ごっこは、もう終わりだった。
 それを理解しなければ、いけないのだ。






 総司は背筋をのばして立つと、ぴしゃぴしゃっと両手で自分の頬を叩いた。
「……頑張らなくちゃ!」
 いつまでも、ぐずぐずしてる訳にはいかないのだ。
 今日からまた、いつもの忙しい日々が始まるのだから。
 歌手として唄い、人々に笑顔をふりまかなければならない。
 たとえ、どんなに心の中で泣いていても。
 常に笑顔で。
「よし、頑張ろう!」
 総司は鏡の中の自分にむかって、にっこり笑いかけた。
 天使とも呼ばれる、明るい笑顔だ。
 だが、その瞳は。
 今にも、涙がぽろりとこぼれ落ちそうだった……。 









 また忙しい毎日が始まった。
 テレビ出演や、レコーディング、歌の稽古、インタビューと目まぐるしく日々は過ぎてゆく。
 そんな中で、総司はある日突然、問いかけられた。
「何かあったのか?」
 と。
 そう訊ねたのは、前々から総司を可愛がってくれているカメラマンの斉藤だった。
 写真撮影の後、カメラを片付けながら、さり気ない口調で言葉をつづけた。
「おまえ、雰囲気かわったよ」
「そう……ですか?」
「どこがどうとは云えないけれど、でも、絶対にかわった。それがある意味、魅力にはなってるけどな」
「……」
「被写体としては嬉しい限りだが、友人としては少し心配だな」
 そう云いながら、鳶色の瞳で見つめてきた斉藤に、総司は何も答えられなかった。
 自分ではよくわからなかった。

 いったい、どこが変わったと云うのだろう──?

 だが、それは他の人々からも云われている事だった。
 何よりも変わったのは、総司の歌だったのだ。
 今までの、優しくのびやかだった声が、どこか哀切をおびたのだ。そして、驚くほど艶めいた。
 その声は聴く者の胸を切なく締めつけ、より強く惹きつけた。
 LOVE SONGを歌うに相応しい、声だった。
 だからなのか、今度の新曲は発表と同時に、もの凄い反響を得ていた。
 まだCD発売されていないが、CMで流れたとたん、問い合わせが殺到したのだ。
 その事を磯子から聞かされた時、総司は複雑な気持ちになった。
 もしも、本当に自分の声が切なく艶めいたなら、LOVESONGを唄うに相応しくなったのなら、それは土方への恋のためなのだ。


 壊れてしまった。
 ううん、初めから存在さえなかった、彼への恋。
 愛しい愛しいあの人に、逢うことさえできない。
 この世界中で今、彼がどこにいて、何をしているのかさえ、わからない。
 そんな切なく悲しい恋をしているからこそ、きっと……。


 総司はスタジオで今日もまた歌を唄いあげると、楽屋に戻ってから深いため息をついた。
 衣装を脱いで着替えながら、目を伏せる。
 いっそ、あんな曲つくらなければよかった。
 あの曲は、彼との七日間の中でつくったのだ。そのため、どうしてもあれを歌うたび、彼のことを思い出した。思い出さずにいられなかった。
 総司こそ胸が締めつけられるような想いをしながら、いつも歌っているのだ。
 愛してる──と。
 今すぐでも、一瞬でいいから逢いたい。
 そう、叫び出したいほどの想いで願いながら。
 願ってはいけないことなのだと、わかってはいるのだけど……。





「……総ちゃん?」
 気がつくと、磯子が入ってきていた。
 スケジュール帳を手に、ぼーっとしていた総司を心配そうに眺める。
 それに、慌てて笑いかけた。
「あ、ごめんね。すぐ支度するから……次、どこだっけ?」
「インタビューで、社に戻るけど……でも、総ちゃん大丈夫?」
「え」
「最近、何だかぼーっとしてること多いから。元気ないし、何かあったのかと思って」
「……」
「何かあるのなら、あたしに云ってね。総ちゃんのためなら、頑張るから」
「うん……」
 磯子の思いやりにみちた言葉に、総司は力なく笑ってみせた。
 云ってどうにでもなる事ではないのだ。
 この恋の痛みを消すことは、誰にもできない。
 そう。
 たった一人、あの男以外は───
「……磯子ちゃん」
 総司は俯くと、足下をじっと見つめた。きゅっと唇を噛みしめる。
 それに、磯子が小首をかしげた。
「なぁに?」
 優しい声で訊ねられ、総司は一瞬だけ目を閉じた。


 どうしようかと思う。
 こんなこと、いけないのだとわかってる。
 何よりも彼に疎まれることが怖いけれど。
 でも、できるなら、遠くからでも一目逢えたら、それだけで少しは元気になれるかもしれないから……。


「……あのね」
 思いきって顔をあげると、総司は云った。
「あの、オフの前に云ってた事なんだけど」
「え?」
「ほら……その、恋人ごっこ。おつきあいしてくれる人を紹介してくれるって、磯子ちゃん云ったよね。それで、オフの時、ぼく……」
「え、あ……あぁ、あれね!」
 磯子は思い出したらしく、ぱんっと手を打ち合わせた。
 それから、ちょっと小首をかしげると、ばつが悪そうに笑った。
「ごめーん。すっかり忘れていたわ」
「え?」
「本当に紹介しようと思ってたんだけどね、忙しくて忘れちゃってて。結局、心あたりに声かける暇もなかったのよ」
「……え」
 総司は目を見開いた。
 それに気づかず、磯子は言葉をつづけた。
「ごめんね。次のオフの時は、絶対紹介するから」
「……い、磯子ちゃん……じゃあ……」
「え?」
「何も……何も、紹介、してないの? 恋人ごっこのこと……何も誰も、呼んでなかったの?」
「そうよ。どうして?」
 不思議そうに訊ねた磯子の前で、総司は呆然としていた。
 さぁっと血の気がひいてゆく気がした。
 躯中が震え、心臓の鼓動が耳奥でがんがん鳴った。
 何が何だか、わからなくなってゆく。

(……どういう…こと? 紹介してないって……じゃあ、いったい……)

 磯子は、誰も紹介してないのだ。声さえかけてない。
 だったら、どうして?
 なぜ、彼はあの日現れたの?
 恋人ごっこに、つきあってくれたの?
 ううん。
 それよりも。
「──」
 総司は呆然とそこに立ちつくしたまま、目を見開いた。




あの人は
いったい、誰だったの……?