月明かりの夜だった。
 ふたり一緒に逃げていた。
 総司が縋りついた彼の躯は、氷のように冷たかった。
 だが、それに構わず、より強く抱きついた。
 ふたり一緒にいられることが、大事だったから。
 それ以外、もう何も望まなかったから。


 世界中で、ただ一人
 あなたがそこにいてくれればいい


 口に出した囁きではなかったが、不意に、彼が総司を見下ろした。
 視線があうと、優しく微笑んでくれる。
 それが、泣きたくなるくらい嬉しかった。






        そんな、幸せな夜だった……。














「……ジュリエットは、本当に恋したのだと思う?」

 突然の問いかけに、土方は「え?」と小首をかしげた。
 ふり返ってみれば、総司は大きな硝子窓から夜空を見あげている。
 ベッドの上に膝を抱えて坐ったその姿は、月明かりの中とても儚げで美しかった。

 小さな貝殻のような耳をかくしている、柔らかな髪。
 美しい湖のごとく、綺麗に澄んだ瞳。
 柔らかな花の蕾のような唇。
 白いシャツを纏った、いたいけなほど華奢なその躯。

(背に白い翼がはえてねぇのが、不思議なぐらいだ) 

 ずっと人間の醜さ、汚さばかりを味わってきた土方にとって、総司という存在は冒しがたいサンクチュアリだった。何よりも尊い存在、聖域なのだ。
 まるで、彼の腕の中へ突然、気まぐれに舞い降りて来てくれた、美しい天使のようだった。
 そんな事を思いながら、土方はゆっくりと総司の傍へ歩み寄った。
 ベッドの上に片膝をついて乗り上げ、柔らかく背中から抱きすくめる。
「……あ」
 小さく声をあげ身をすくませる総司が、たまらなく可愛らしい。
 微かな笑みをうかべながら、訊ねた。
「ジュリエットって……あの、ロミオとのか?」
「えぇ」
 こくりと頷いた総司は、小さくため息をついた。
「ふと考えちゃって。あんなパーティの一瞬で、どうして一目惚れなんかできちゃうんだろうって。本当にジュリエットは恋をしたのかな……と、そう思ってしまったんです」
「一目惚れが信じられねぇのか?」
「うん……だって」
 俯いてしまった総司の白い項に、土方はそっと唇を押しあてた。
「俺は、おまえに一目惚れしたぜ? 初めて逢った瞬間から、おまえだけの虜だ」
「土方…さん……」
「本当は、もっと早く逢っていたかった。芹沢なんざより早く、おまえを見つけ出していれば……」
 きつく眉根を寄せてしまった土方を、総司はふり返った。
 あたたかい彼の胸もとに頬をよせながら、小さく首をふる。
「そんなふうに後悔しないで……ぼくは、あなたに逢えただけでいいのです」
「総司……」
「あなたと今、こうしていられるだけで幸せだから……」


 ──月明かりの中。
 恋人たちは、互いをそっと抱きしめあった。
 燃えあがるような熱情も。
 情欲もなく。

 ただ、ひそやかで静かな愛のみが、存在する空間で。











 土方は25才という若さながら、数ある暴力団の中でも武闘派で知られる近藤組の若頭だった。
 組長の近藤は幼い頃からの友人であり、今、土方はその親友の懐刀だと云われている。
 最近、その近藤組は、同じ武闘派の芹沢組と手を組むことになった。もっとも、それには両者の様々な思惑があり、近藤自身というよりも、組の勢力のためと云ってもよいものだった。
「一時的なものだ」
 そう云って皮肉な笑みをうかべた土方に、近藤はため息をついた。
「おまえはそう云うがな、芹沢はおれが最も嫌うタイプの男だぞ」
「だろうな」
「やくざであるおれが云うのも何だが、芹沢は最低のやくざだ。あれでは図体がでかいだけの我が儘な餓鬼ではないか」
 吐き捨てるような近藤の言葉に、土方はくっくっと喉を鳴らした。
 近藤にしては珍しく的を得た表現に、思わず笑いがこみあげたのだ。
 だが、実際、先程の宴会で見た芹沢の態度は、酷いものだった。酒を飲んで泥酔し、暴れ、店のものを叩き壊し、それを弁償するどこから抗議した店を潰してしまった。
 それを近藤は苦々しい表情で見ている他なかったのだ。
 もっとも、その胸に様々な策略を抱いている土方は、薄く笑いながら眺めていたのだが。



 土方は近藤の懐刀と云われるだけあり、策謀家であった。
 むろん、腕力にも優れ、他の誰にも負けない。すらりとした長身からは想像もつかない程、そのスーツの下にかくされた躯は鍛えられたものだった。
 端正な顔だちであり、その眦の切れ上がったアーモンド形の目も、男にしては長い睫毛も、優しげな唇も、まるでモデルのようだ。
 初めて会った者は、まさか彼が近藤組の若頭などと思いもしないだろう。
 だが、目的の為なら人を人と思わぬ残忍さも、彼の内に秘められた激しい気性も、暴力団関係者なら誰もが知るところだった。
 まさに武闘派近藤組の若頭にふさわしい男なのだ。



「そう云えば、おまえ知っているか?」
 近藤はソファにどさっと腰を下ろしながら、云った。
 それに、土方は注いでやった珈琲をさし出しながら、僅かに小首をかしげた。
「何をだ」
「芹沢の放蕩ぶりだ」
「女遊びか」
「それもだが、最近、いよいよ成り下がっているらしい」
「どういう意味だ」
「相手は、少年なのだと」
「……」
 それに、土方は片眉をあげた。
 しばらく黙ってから、くすっと笑う。
「そりゃまた……似合わねぇ趣味だな」
「似合うさ。芹沢は傲慢で、しかもサディスティックな男だ。可愛らしい少年を借金のかたに捕まえてきて、さんざん虐ぶるつもりだと聞いた」
「……最低だな」
「相手は、まだ16才の少年だぞ。唯一の肉親だったギャンブル好きの父親が借金を重ね、挙げ句、その少年を芹沢に売り飛ばしたらしい」
「よくある話だとは思うが、相手が悪すぎたな」
 土方はかるく肩をすくめると、その話を切り上げた。
 そんな少年のことになど何の興味もなかったのだ。もっと悲惨な状況も見てきたし、実際、己自身で手を下したこともある。
 もともと子供の頃から劣悪な環境で育ち、人を信じるどころか裏切りと偽りを重ねて大人になった。
 血も涙もない男だと罵られても、何の痛みも覚えた事がなかった。
 そんな土方に唯一手をさしのべてくれたのは、近藤だったのだ。
 土方にとって、近藤がやくざの息子であろうと何であろうと、どうでも良かった。
 この世でただ一人、初めて心から信じられる存在を得たのだ。
 この先に何があろうとも、自分がいるべきなのは近藤の隣なのだと信じていた。
 もし叶うのならば、最期の時を迎える時、近藤のために死ねたなら本望だと思っていた。こんな命でも近藤の役にたつのなら、と。
 以前そう云ってやった時、近藤に「莫迦野郎!」と怒鳴りつけられたが、今もその考えは変わらない。
 変えるつもりも、なかった。








 数日後の夜。
 土方は芹沢の屋敷にやってきていた。
 芹沢組の若頭である新見と、様々な仕事上の話をつけなければならなかったのだ。
 気の重いことではあったが、こちらの思い通りに話をつける自信はあった。
 だが、芹沢も新見も留守だった。呼びつけたのは彼らの方であったため、土方は思わず不快げに眉を顰めた。
 それを見た平間が慌てて頭を下げた。土方の恐ろしさをもれ聞いているのだろう。
「も、申し訳ありません。今すぐ連絡をつけますので、こちらでお待ち願えますか」
「……」
 土方は返事もせず、玄関から框にあがった。
 通された応接間は豪奢だが、いかにも成金趣味で土方の眉を尚のこと顰めさせた。
 こういう見た目だけ豪華なものは、どれも好まないのだ。
 それは彼の場合、女の好みにも現れていた。土方が選ぶのは意外なことに、いつも清楚で控えめな女性ばかりだった。
 もっとも、長続きはした事がない。彼が本当に誰かを愛する事など、ありえなかったからだ。
 土方はソファに身を沈めると、足を組んだ。
 スーツの胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をともした。紫煙をくゆらせ始める。
 そうやって一人ぼんやりしてると、やがて、控えめなノックの音が鳴った。
 先程の平間かと思って黙っていたが、扉は開かない。訝しげに眉を顰めた土方の耳に、細い声が響いた。
「あの……入ってもいいですか」
 平間ではなかった。
 どうも、子供のようだ。

(少年? もしかして、あの話に出ていた少年か……?)

「あぁ」
 低い声で答えると、ようやく扉は開いた。
 やはり、一人の少年が入ってくる。手にトレイを抱え、おずおずとした表情で土方の方を見やった。
 が、とたん、あっという顔になる。
「……?」
 自分の後ろにでも何かあるのかと思わずふり返ってしまったが、何もなかった。
 訝しげな土方の前で、少年は頬を紅潮させた。
「す、すみません」
 そう小さな声で謝ると、歩み寄ってきた。トレイをテーブルに置き、珈琲カップをソーサーにのせて土方の前に置いた。
「どうぞ」
「……」
 無言のままの土方に、少年はちょっと躊躇ったようだった。だが、ぺこりと頭を下げると、そのまま背を向けて出ていこうとする。
 それに、土方は思わず声をかけた。
 自分でもどうしてだか、わからなかった。
 何故か、この少年と言葉をかわしてみたくなったのだ。
「おまえ……名は?」
 いきなり名前を聞かれた少年は、驚いたようだった。
 だが、ふり返り、その大きな瞳でじっと彼を見つめる。
「……総司、です。沖田総司といいます」
「そうか。おまえ……この家で何をしている」
「何って……」
 総司は視線をさまよわせた。
 それに、土方は云い方を間違えたと思った。こんな質問に、この少年が答えられるはずもない。
 土方は呟くように云った。
「すまん。おかしな事を聞いた」
 それを聞いた総司は、驚いたような顔になった。慌てて、首をふる。
「そんな……! 別に謝られるような事じゃありません……ぼくが、その、この家で飼われている事は確かですし」
「飼われている?」
「せ、芹沢さんにそう云われたのです。おまえはペットだと。犬同然なのだと」
「……」
「だから、その……何をされても、文句は言えないそうです。ぼくは借金のために売られたので、そのぼくを買った芹沢さんに何をされても……」
「……何か、されたのか」
 思わず、低い声で訊ねてしまった。
 その上で、総司の細い躯に視線を素早く走らせる。
 確か16才だと聞いていたが、その年齢よりも幼く見えた。小柄な方なのだろう。
 なるほど、芹沢が食指を動かすだけあって、綺麗な可愛らしい顔だちだった。男とは思えない程だ。
 大きな瞳が小動物を思わせ、サディスティックな衝動をかきたてるに違いないと、土方は考えた。
 だが、一方で、自分の中にわきおこった全く逆の衝動に戸惑ってしまった。
 彼は、傷つけるどころか、この少年を守ってやりたい──と思ったのだ。
 どんな恐ろしい事からも、不幸からも守りきり、この手で誰よりも幸せにしてやりたいと。
 庇護欲、というべきなのか。
 今まで味わったこともない感情に、土方は激しく狼狽した。



 そんな彼の前で、総司は目を伏せると答えた。
「いえ……まだ何もされてません」
「……そう、か」
 土方は思わず安堵の息をついていた。目の前の少年が汚されていない事に、傷付けられていない事に、ほっとしてしまう。
 だが、次につづいた総司の言葉に、顔を強ばらせた。
「ぼく、痩せてるし、病もちだから……今色々すると殺してしまうだろうと。それでは面白くないから少し待ってやると、芹沢さんが云ってました」
「……」
 何でもない事のように淡々と答える総司は、その言葉の意味を知っているのだろうか。
 この少年を待つ残酷な運命を思い、土方は奥歯をきつく噛みしめた。
 が、すぐに息を吐き出して己を落ち着かせると、スーツの胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。それに、自分の携帯電話の番号を書いて総司にさし出す。
「……俺の名刺だ。そこにあるのは、携帯電話の番号だ」
「え……?」
 戸惑ったように彼を見つめる総司に、土方は柔らかく微笑みかけた。
 この少年に怖がらせたくない。
 嫌われたくない。
 自分でも全く理解できない感情の動きだったが、強くそう願ったのだ。
「何か困った事があったら、そこに電話してくればいい」
「え……ほん、とうに……?」
 総司の目が大きく見開かれた。
 それに、土方は頷いた。
 ここから助け出してやる事はできない。
 総司を買ったのは、芹沢なのだから。謂わば、総司は芹沢組長の所有物なのだ。
 土方が手出しできる事ではなかった。
 だが、こうして連絡手段だけでもとっておけば、何かの役には立つだろう。
 この少年を、ほんの少しでも不幸から救い出してやりたかった。
「……土方…さん」
 そんな事を考えていると、総司が名刺の名を読み上げていた。
 いつも呼ばれ慣れている名なのに、総司に口にされると、なぜかたまらなく甘く感じた。
 そして。
 土方が、それが何故なのかを知ったのは、随分後になってからだった。





     その夜
     男は、彼だけのジュリエットと出逢った……

















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