キスをして
まるで、薔薇のような
甘く激しいキスをして
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きらきらとステンドガラス越しに、朝陽が射し込んでいた。
その様がとても美しい。
総司は綺麗に礼拝台を磨きながら、それを眩しそうに見上げた。
マリア像も十字架も、確かに敬虔な信仰心を抱かせた。だが、それ以上に、総司はこのステンドガラスを見るたび、その身も心も清められる想いがするのだった。
とくに、朝は柔らかな陽光が射し込み、より神々しく美しい。
総司は思わず跪くと、短いがとても心のこもった祈りを捧げた。その姿は、まるで一枚の美しい絵のようだ。
華奢な躯に、柔らかな黒と白の衣装を纏っている。尼僧の姿だった。柔らかな髪は隠れ、ただその綺麗で小さな顔だけが見えている。
僅かに伏せられた長い睫毛。そっとあげられた瞳は深く澄み、とても清らかで美しい。しみ一つないなめらかな頬も、ふっくらした桜色の唇も、まるで人形のような可憐さだった。
清楚で可愛らしいその姿は、尼僧にしておくのがもったいない程だ。だが、確かに、総司は尼僧だった。一生を純潔を、神に捧げた身なのだ。
「……さぁ、早く片付けなくちゃ」
総司は立ち上がると、また掃除を始めた。
小さな町の片隅にある、小さな教会だった。
ここは、総司が一人で管理をしていた。教会の隣にあるこれまた小さな家に住み、時々訪れる信者や子供たちの様々な相談ごとなどを受け、彼らの心の拠り所となっていたのだ。
むろん、ここを本当に管理すべき神父は別にいる。だが、彼は基本的に一ヶ月に一度ほど訪れるのみで、実際的には、総司にすべてが任されていた。
総司もまだ19才になったばかりだ。様々に戸惑う事も多かったが、ここでの静かな暮らしは気にいっていた。
小さな町の片隅にある、小さな教会と小さな家。
それだけが、ここ数年の総司の世界すべてだった。
「うん、掃除は終わったし。朝ご飯にしようかな」
総司は一人満足げに頷くと、教会を出た。
朝靄が濃い朝だった。乳白色の靄にあたりはつつまれ、薔薇の香りとともに、どこか不思議な心地へと誘う。
世界はしん──と静まりかえり、鳥の囀りさえ聞こえなかった。ただ、総司が草むらにはった薄氷を踏む音だけが、微かに響くだけだ。
総司はゆっくりと、隣にある自分の家へ向かった。
教会と家の裏には広い庭が広がっていた。そこには総司が丹精して育てた薔薇が、今、あふれんばかりの咲き誇っている。甘い香りが周囲に漂い、うっとりする程だった。
その香りを胸いっぱいに吸い込み、総司は微笑んだ。少しつみ取って家の中に飾ろうと、庭の中へわけ入ってゆく。
だが、次の瞬間、総司はハッと息を呑んだ。
「……誰……っ?」
人の気配を感じたのだ。
この庭の中に、朝靄の中に、自分以外の誰かがいる。
子供たちではありえなかった。こんな朝早くに、誰かが訪れてくる事などありえないのだ。
「……」
返事がなかったので、仕方なく総司は歩み寄っていった。おそるおそる近づく。
裏木戸のすぐ近くの辺りだった。そこの鍵は錆びてしまい開かずの戸となってしまっている。それが今、開かれ、キィ…ッと微かな音をたてた。
胸がどきどきした。不安と怖さで息をつめてしまう。
朝靄の中、真紅のベルベッドローズが咲き誇る一角だった。そこに、その誰かはいたのだ。
総司はそっと近づき、次の瞬間、息を呑んだ。
「……あっ」
思わず声をあげてしまい、慌てて両手で唇をおさえる。
それは、まるで絵のようだった。
美しい写真でも見ているようだ。
白い朝靄の中、真紅の薔薇にうもれて。
一人の若い男が眠っていた。
すらりとした長身に、黒いシャツとブラックジーンズを纏い、すべて黒ずくめだ。が、それが薔薇の真紅とあいまって、美しいコントラストを成していた。
額にかかった艶やかな黒髪、頬に翳りをおとす男にしては長い睫毛。微かに開かれた形のよい唇。
投げ出された手、そのしなかやな指さきに至るまで、男は美しかった。ただ端正なだけではない、どこか男特有の艶があるのだ。それが、総司の心を強く惹きつけた。
薔薇にうもれ、男は眠っている。
否、もしかすると、気を失っているのかもしれないが……。
ぼうっと男の姿にみとれていた総司は、その事にようやく気がついた。慌てて跪くと、男の躯にそっと手をのばす。
「……」
だが、その指さきがふれる寸前、男が不意に身じろいだ。ゆっくりと目を開き、しばらく空を見上げていたかと思うと、傍の総司に気がついた。視線をうつし、じっと見つめてくる。
それに、総司は思わず息をつめた。
(……なんて綺麗な瞳……)
まるで美しい黒曜石のような瞳だった。深く澄んだ黒い瞳が、まっすぐ総司だけを見つめている。
やがて、低い声が問いかけた。
「……シスター?」
それに、総司は小さく頷いた。
手をさしのべる。
「そうです。私はシスターです。ここは教会の裏庭です」
「教会の……」
男は呟き、僅かに眉を顰めた。
のろのろと身を起こすと、ゆるく頭をふる。
「俺は……ここで倒れていたのか」
「そうみたいです。私も今、気がついた処なので……立てますか?」
「あぁ……」
男は頷き、ゆっくりと立ち上がった。だが、まだ目眩がするようで、顔色も悪い。
総司は気遣い、手をさしのべた。男の手をとり、そっと握りしめる。
とたん、男が一瞬、目を見開いた。僅かにその躯が震える。
だが、そんな男の様子に気づかぬまま、総司は優しく彼をみちびいた。
「こちらです。とりあえず、私の家で休んで下さい」
「……」
「何かあたたかいものでもとれば、少しは気分がよくなりますよ」
総司が住む家は居間とキッチン、水回り、あとは二部屋だけのこじんまりとした家だった。だが、小綺麗に片付けられ、どこかあたたかい雰囲気が漂っている。
今も、窓にかけられた薄いカーテン越しに陽光が射し込み、クリーム色の漆喰の壁にあたってとても柔らかだ。
総司は、男を腰窓の際においたソファへ坐らせると、忙しく立ち働き始めた。大急ぎであたたかいハーブティーを入れ、男のもとへ運んでゆく。
「飲んでください。うちの庭で作ったハーブのお茶です」
「……あぁ」
躊躇いがちにだったが、男はカップを受け取り、口をつけた。少しずつ飲んでゆく。
それをじっと見守っていた総司は、男が飲み干したのを見て取ると、手をさし出した。
「もう一杯飲みますか?」
「いや、いい」
そう答えながら、男はカップを返した。が、不意に、片方の手がのばされた。
細い手首をつかんだかと思うと、きつく握りしめてくる。
「!」
総司は驚き、慌てて手を引き抜こうとした。だが、男の力は凄まじく、抜こうとすればするほど強く握りしめられた。手首の骨が折られてしまいそうだ。
「やっ、痛い……っ!」
たまらず悲鳴をあげると、ようやく力が緩められた。
慌てて総司は両手を背にかくし、後ずさった。その目は恐怖に瞠られている。
「どう…して、こんな……っ」
「手、握っただけだろうが」
くっくっと喉を鳴らして笑いながら、さもおかしそうに男は答えた。
それを総司は青ざめた顔で見つめた。だが、不意に気がついた。
男の様子が明らかに変っていたのだ。先ほどまでと違い、顔色も戻り、その躯に力が漲っている。
お茶を飲んで躯があたたまったからだろうか?
「……」
警戒心もあらわに見据える総司の前で、男はゆっくりと立ち上がった。しなやかな身ごなしで歩み寄ってくる。
それに総司は慌てて後ずさった。だが、もう後がなかった。どんっと背が壁についてしまう。
「あ……っ」
怯えきった表情で、総司は男を見上げた。
それに、男は喉奥で低く笑った。
「……そんな警戒するなよ」
「警戒しない方がおかしいでしょう! あんな酷い事をしたくせに」
「手、握っただけだぜ? お優しいシスターさまなら、それぐらい許してくれるだろ?」
「せっかく助けたのに……心配したのに……」
「じゃあ、俺を今から追い出すか?」
男は腕を組むと、嘲りにみちた瞳で総司を見下ろした。身をかがめて、その可愛らしい顔を覗き込み、僅かに唇の端をつりあげてみせる。
「この教会じゃ、行き倒れの男を見捨てるって訳だ。ご立派な話だよなぁ」
「あなたは、私を愚弄しているのですか」
「さぁ……どう思う?」
くすっと笑った男を、総司は大きな瞳で睨みつけた。
腹がたって仕方がない。
こんな礼儀知らずで恩知らずの男、今まで見たことがないと思った。綺麗なのは外見だけだ。心は優しさの欠片もない男なのだろう。
だが、それでも、男の言葉どおり追い出す訳にはいかなかった。
自分は神に仕える身であり、人々の手助けをするためにここにいるのだ。教会は、救われぬ人々の最後の砦であるべきだった。
「……朝食にしましょう」
総司は静かな声で云うと、踵を返した。
そのまま足早にキッチンへ入ると、さっさと朝食の用意を始める。
ほっそりとしたその後ろ姿を見つめる男の瞳が、ふと昏く翳った……。
男の名は、土方歳三といった。
何度も訊ねた総司に、ようやく男が答えたのだ。
朝食が済んでしばらくしたら、総司は土方に出ていってもらおうと思っていた。あんな不作法で恩知らずにいてもらう理由もなかったのだ。
だが、教会で様々な仕事をすませて戻ってきた総司は、驚いた。
土方がまた青ざめ、ソファにぐったりと倒れこんでいたのだ。今度は呼んでも目を覚まさない。どうやら完全に気を失っているようだった。
「……この人、躯のどこかが悪いんだ」
総司はそう確信した。でなければ、こんなに何度も失神するはずがない。
仕方なく、総司は男の躯に毛布をかけてやり、そこで休ませる事にした。今度目を覚ましたら、病院へ行くよう云おうと思った。
だが、夕方になってようやく目を覚ました土方は、それをあっさり拒絶した。
「別にどこも悪くねぇよ」
ぶっきらぼうな口調で云い捨てた土方に、総司は唇を噛みしめた。
「でも、そんな何度も失神するなんて、絶対におかしいです」
「もしそうであったとしても、おまえには関係ねぇ事だろうが」
「関係あります。私はあなたを助けたのですから、ここにいる以上、ちゃんとして下さい」
「なら、さっさと出ていってやるよ」
土方は肩をすくめ、立ち上がろうとした。だが、また目眩がおこったらしく、低く呻くとソファに倒れこんでしまう。
それに、総司は慌てて手をのばしたが、その瞬間、また男の手に鋭く掴まれた。反射的に、びくんっと躯を震えてしまう。
「いや……っ」
思わず身をひいたが、今度は力をこめられなかった。
土方もただ緩く手首を掴んでいるだけだ。そんなにも苦しいのかと覗き込むと、男は固く瞼を閉ざしていた。だが、やがて、ゆっくりとその頬に血の気がよみがえってくる。
「……」
静かに、土方は目を開いた。長い睫毛が瞬き、その美しく澄んだ黒曜石の瞳が総司を見つめる。
男の濡れたような黒い瞳に、総司はまた息をつめてしまった。
なんて、綺麗な瞳なのか。
こんな瞳をもつ人が、悪い人であるはずがないのに……。
「病院へどうしても行くのがいやなら、せめて躯を休めてください」
手を握られた状態のまま、総司は云った。
「ここで好きなだけ躯を休めてくれればいいです。何の気兼ねもいりませんから」
「……」
それに、土方はかるく目を瞠った。しばらくの間、総司をじっと見つめていたが、やがて、ふっと唇を歪ませた。
「おまえ、変ってるな。俺が怖くねぇのかよ」
「怖い? どうしてですか?」
「どこの誰とも知れねぇ男だぞ。それを、おまえは簡単に一人住まいの家に泊めちまうのか?」
「……」
「尼僧と云っても、女だ。身の危険とか考えねぇのかよ」
「それは……」
総司は思わず云いかけた。
その心配はないのだと。そんなことありえないのだと。
だが、僅かに口ごもっただけで、総司は俯いた。長い睫毛が頬に翳りをおとし、とても可愛らしい。
それを見つめる男の前で、小さく答えた。
「私は……神に純潔を捧げた身ですから」
とだけ云うと、総司はそっと手を抜いた。土方もそれに抗わない。
総司は立ち上がると、踵を返した。それに、声がかけられた。
「どこへ行くんだ?」
「客間の用意をしてきます。それが済んだら、夕食にしましょう」
「なら、俺がやる」
「え?」
驚いてふり返ると、土方は立ち上がった処だった。先ほどまでのぐったりした様子が嘘のように、大股に部屋を横切ってくる。
「客間はどこだ」
「あ……えっと、あの部屋ですけど」
「わかった」
土方はさっさと部屋に入り、棚からシーツや枕を下ろし始めた。手際よくベッドメーキングをしてゆく。
それを呆気にとられながら見ていると、土方が手を動かしながら云った。
「一つだけ云っておくが、おまえ、今夜部屋に入ったら扉の前に重い家具でも置いておけ。鍵があるなら鍵をかけるんだ」
「え……どういう事ですか?」
「おまえも鈍いな」
舌打ちし、土方は視線をあげた。
「俺がおまえを襲っちまわねぇようにだよ。それぐらいの防御は自分でしろ」
「そんな。あなたが自制すれば済む事でしょう?」
「泊れと云ったのは、そっちだろうが。俺に責任を押しつけるな」
身勝手極まりない事を平然と云ってくる男に、総司はかっとなった。
本気で追い出してやろうかと思う。だが、先ほどのぐったりした姿を思い出すとそれも出来なかった。
総司は苛立つ気持ちをおさえこみながら、キッチンへ戻った。手早く夕食の支度を始める。
やがて、夕食ができあがると、二人むきあって食事をとった。土方はとても綺麗なマナーで食事をしたが、ひどく少食だった。逞しく引き締まった躯つきをしてるわりには、あまり食べない。だから、尚更倒れるのではないかと総司は思った。
「もっと食べた方がいいんじゃないですか?」
半分しか食べてないシチューの皿を押しやった土方に、総司は思わず云った。
「こんな少ししか食べないから、倒れるんだと思いますよ」
「だから」
土方はうんざりしたような口調で答えた。頬杖をつき、眇めた目で総司を眺める。
「その事が、おまえに何の関係があるんだよ」
「だって……」
「ここにいるなら、か? 俺はいつでも出ていくと云ってるのに、引き留めてるのはおまえの方だろうが。ったく、うざってぇガキだな」
「!」
総司はきつく唇を噛みしめた。ぐっと両手のひらに爪が食い込んだ。
憎らしくてたまらなかった。
こんなにも、誰かが嫌いだと思うなんて。
憎らしいとまで思うなんて。
ずっと、総司は優しい小さな世界の中で暮らしてきた。
教会の前に捨てられていた孤児、それが総司だったのだ。だが、優しい神父の家族に拾われ、大切に育てられた。今も、この教会を訪れてくれる神父は、総司にとって兄のような父のような存在だ。
神につかえ人々の心に慰めを与える事だけを、日々の糧として生きてきた。だから、優しい心で接したことに、こんな風に返された事がなかったのだ。
総司にとって、土方はまるで別世界の人間のようだった。
「……」
黙って見つめていると、土方は薄い笑みをうかべてみせた。
「何だよ? どうせ俺が汚れきった最低の悪人だとでも思ってるんだろ? 別世界の人間だとても」
「……」
「顔に書いてあるぜ」
くっくっと喉を鳴らし、土方は笑った。
「そうさ。俺はお綺麗で穢れ一つないおまえとは、全く別世界に属する男だ。おまえなんかが知ったら卒倒しそうな程、悪事もくり返してきたぜ。だから、追い出せと云ってるのに……ったく」
土方は片手をあげると、うるさそうに前髪を指さきでかきあげた。艶やかな黒髪がさらりと指の間を流れてゆく。
「おまえは本当に莫迦だな」
そう肩をすくめると、土方は立ち上がった。朝から思う事だが、この男の動きはとても洗練され、まるで流れるようだった。仕草一つにも零れるほどの華があるのだ。
総司はじっと彼の姿を見つめた。
手早く食器を片付ける、そのしなやかな指さき。
艶やかな黒髪に、深く澄んだ黒い瞳。
僅かに伏せられた切れの長い目、長い睫毛。頬から顎にかけての引き締まったライン。
一見すれば冷たいほど整った顔だちだが、何かが彼に艶をあたえていた。身に纏う空気自体が、他の誰とも違う気さえしてしまう。
(でも、綺麗で優しそうなのは外見だけだ。こんな失礼な人って見たことがない……!)
いくら無償の愛がキリストの教えであっても、総司はまだ若かった。それほど悟っている訳でもない。
感情を向けられれば、どうしても、その青白い焔のような本質のまま鋭く反応してしまうのだ。
「……」
総司は唇を噛むと、手にしていたスプーンをきつく握りしめた。
それから数日、土方は総司の家に滞在した。
喧嘩ばかりになるかと思ったが、意外と、日々は平穏にすぎた。
土方は己の事に干渉されなければ、驚くほど口数が少なかった。総司が話しかけなければ、話すこともない。
教会の管理も手伝ってくれた。庭の薔薇への水やりも、冷たく辛い水仕事も黙々とやり、果ては信者の人々との応対までそつなくこなした。
総司が驚いた事に、土方は信者や子供たちに対し、とても優しかった。いつも柔らかな綺麗な微笑みをうかべ、接している。
そのうち、彼になつく子供や、彼に恋慕の気持ちを抱く女性も現れた。だが、それも当然のことだろうと、総司は思った。
何しろ、総司に対する時とは別人かと思うほど、綺麗で優しい笑顔を見せるのだ。
その日の午後も教会の一角で子供たちにせがまれたのか、歌を唄っていた。その瞳は優しく、唄う声もとても綺麗で柔らかで、思わず見惚れるほどだった。
だが、それと同時に、総司の胸奥は鋭く痛んだ。
(……どうして……?)
悲しいほど、思った。
どうして、他の皆にはあんなに優しい笑顔を見せるの?
私には、いつも冷ややかな瞳、嘲るような笑みしか、見せないくせに。
あんなふうに柔らかく笑いかけてもらった事など、一度もない。
あんなふうに、優しい瞳で見つめられた事など……。
そう思ったとたん、つんっと目の奥が痛くなった。なぜか、涙がこみあげそうになる。
総司は慌ててそれを押し隠すため、きつく唇を噛みしめた。子供たちと笑いあう彼に背をむけ、足早にその場から離れてゆく。自分でもわかっていたが、まるで逃げるような足取りだった。
ずっと感じていたのだ。
ここ数日、彼と過ごした日々の中、いつも互いの間に置かれた境界線に。
少しでも彼に近づこうとすれば、手をさしのべれば、いつも彼はすっと身をかわしてしまう。冷ややかな瞳で一瞥し、嘲りにみちた笑みをうかべて。
拒絶されている──。
それを痛いほど感じた総司は、ならば彼をこちらも拒絶すればいいと思った。初めて逢った日に感じた憎らしさ、嫌悪を、彼に返してやればいいのだと。
だが、そんな事できなかった。
どうしてだか、できなかったのだ。
総司は彼にふり返ってほしかった。
あの綺麗な黒い瞳で見つめ、柔らかく笑いかけてほしかった。
優しくして欲しいなんて、望まない。
だけど。
せめて、嫌わないで欲しかった……。
「……っ」
総司は教会を出て薔薇の庭に走り込むと、そこで蹲った。両手で顔をおおい、嗚咽をあげて泣く。
その理由はまったくわからなかったが、彼に嫌われているという事実が、痛いほど胸を引き裂いたのだ。
辛くて悲しくてたまらなかった。
「…っ、ひ…く……っ」
泣きじゃくる総司の傍で、その涙を見守るように、薔薇が柔らかく揺れていた。
日々が過ぎていった。
あの朝から、もう二週間が過ぎている。
だが、土方はまだこの家にいた。否、彼自身は何度も出ていこうとしたのだが、そのたびに総司が引き留めたのだ。
もう躯の調子もいいようで、倒れることは全くなかった。ここにいる理由などないのだ。なのに、総司は彼を追い出そうとしなかった。そればかりか、あれこれと云い訳をつけて、引き留めたのだ。
それに対し、不思議と土方も逆らわなかった。
相変わらず冷たい態度だし素っ気ない口調だが、総司がおずおずと口ごもりつつ引き留めにかかると、一瞬、ひどく辛そうな表情をしてから、ふいっと顔をそむけた。そして、出ていこうとしていたのをやめ、黙ったまま家の中へ戻ってゆくのだ。
それが何度もくり返された。
総司は自分の気持ちを、きっと人恋しいからなのだと思った。ここでずっと一人で暮らしてきた総司の前に突然、現れた男。
一人ぼっちで食事をしていた総司にとって、ほとんど会話がないとはいえ、誰かと向き合って食事をする事が嬉しかった。家の中に、自分以外の気配があること、それに安堵した。
だから、彼を引き留めてしまうのだと思った。そう信じた。
でなければ、今の自分の気持ちがまったく理解できなかったのだ。
一瞬、一秒でもいい。
少しでも、彼に傍にいて欲しいなどと。
そんな事を思ってしまうなんて───
「……土方さん?」
総司は不安げに彼の名を呼び、扉を開けた。
教会で様々な用事をすまるうち、とても遅くなってしまったのだ。慌てて戻ってきた家は明かりが灯されていなかった。それを見た瞬間、背中が寒くなるほどの不安を覚えたのだ。
「土方さん……?」
小さな声で呼んだ。
だが、それに答えは返らなかった。
しんと静まりかえった暗い部屋と、冷たい空気だけが総司を迎える。
思わずぶるっと身震いした。
なんだか、とても寒く感じた。誰もいない部屋がこんなに冷たかったなんて。
「……っ……」
総司は震えながら、家の中へ入った。あちこち部屋の中を歩き回ってみたが、どこにも彼の姿はない。
それを知った瞬間、総司は息をつめた。
両手でぎゅっと胸もとを掴み、きつく目を閉じる。
息ができない、と思った。
何故だか、自分のとても大切な部分がもぎとられてしまった様に感じた。
「……土方さん……」
その名を呟いてから、ふるっと総司は首をふった。
もう、彼は出ていってしまったのだ。二度とここには帰らないのだ。なら、それを認めるべきだった。
それに。
自分は神に仕える身なのだ。なのに、一人の男にこんなにも執着するなんて、とても許される事ではないだろう。
そこまで考えた総司は、ふと細い眉を顰めた。
「……執着?」
私は彼に執着していたのだろうか。
あんなにも冷たく失礼で恩知らずの男に? ずっと自分を拒絶しつづけた男に?
総司は一瞬だけ目を閉じると、すぐさまいつもの表情に戻った。お茶でも飲んで気持ちをきりかえようと、キッチンへむかう。だが、そこが妙に遠く感じた。
それを奇妙に思った次の瞬間、すうっと視界が暗くなった。ふっと頭の芯が霞んだようになり、躯から力が抜け落ちてしまう。
総司は、花が手折られるように、そのまま倒れた。床に倒れると思ったとたん、誰かの力強い腕がそれを抱きとめた。
「……総司……!」
聞き慣れた──そして、ずっと求めていた声が、総司の名を呼んだ。
それを聞いた瞬間、総司は思った。
はじめて──だと。
この人は初めて、私の名を呼んでくれた。
「……土方…さ…ん……」
小さく唇が動いた。
そこで、総司の意識はふっつりと途切れた。
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[あとがき]
一応、警告だけ。このお話は表においてありますが、次回、★マークがつきます。激しいお褥シーンが後半にあります。苦手な方はお褥シーンだけすっ飛ばして下さい。読まれるのに支障はありません。当然ですが、苦情は一切受け付けませんので、読まれるか読まれないかは、自己判断でお願い申し上げます。>
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