「莫迦野郎!」
 思わず怒鳴りつけていた。
 別につけてきた訳ではなかった。土方自身、黒谷屋敷からの帰りだったのだ。
 雪が降ってきたなと思いながら、屯所への道を辿っている途中で総司の姿を見かけた。
 初めは声をかけずに通り過ぎるつもりだった。何をどう言葉をかけてよいのか、わからなかったのだ。
 だが、気になって見るうちに、様子がおかしい事に気づいた。慌てて駆け寄り、腕を掴んだのは、欄干から落ちる寸前だった。
 怒りに頭の奥が熱くなった。思わず怒鳴りつけてしまった。
 だが、こちらを怯えたように見上げている総司を見たとたん、たちまち、その怒りも消えてしまう。


(俺が手込めにしたからか)


 思ったのは、その事だった。
 男に手込めにされたのだ。屈辱のあまり死にたくなっても、仕方がない事だった。しかも、それは彼自身のせいなのだ。
 彼があの時、総司を手込めにしたから、死を選びたくなったのだ。
「……総司」
 思わず声が喉に絡んだ。
 罪悪感のあまり、その場に膝を折りそうになる。
 膝を折って謝り、すべてを懺悔してしまいたかった。いっそ、その方が楽だとさえ感じた。


 失うぐらいなら、これ程傷つけるぐらいなら、いっそ、この場で……!


「……土方さん」
 懺悔の言葉が喉まで突き上げたその瞬間だった。
 突然、総司が彼を見つめたまま訊ねた。
「私に……飽きたのではなかったの?」
「え?」
 思わず目を瞬いた。何を云われたのか、さっぱりわからなかったのだ。
 唖然とする土方の前で、総司はさっと頬を紅潮させた。
「私とつきあうの、もう限界だったのでしょう? 嫌になってしまったのでしょう? だって、当然ですよね。綺麗な女の人の方がいいに決まっている、私なんかよりずっと」
「総司……おまえ、何を」
「叶うはずがないと思っていたから。一時の事だと思っていたから……でも、苦しくて。土方さんが私に見向きもしてくれなくなった事が、たまらなく淋しくて……」
「いったい何を云っているんだ」
 肩を掴み、顔を覗き込んだ。


 どう考えても、総司は何か誤解していた。
 ここ数日、まったく声をかけなかったこと、視線さえ向けなかったことを、総司は最悪な方向に考えてしまっているのだ。


「俺がおまえに見向きしなくなっただって? そんな事あるはずねぇだろう!」
 土方の言葉に、総司は目を見開いた。それに、激しく言葉をつづける。
「飽きるなんて絶対ありえねぇよ。俺がおまえに飽きるなんざ、天地がひっくり返ってもあるものか。俺はおまえが好きだし、ずっと傍にいる」
「……」
「だから、頼むから死のうとなんてするな。俺がおまえの傍にいるから、嫌だと云われても離さねぇから」
「嫌、だなんて……」


 そんな事あるはずがなかった。
 この人と一緒にいたい、ずっとずっと一緒にいたい。
 それだけが一番の願いなのに。
 もちろん、愛されたいという願いは、叶うはずもない事だけれど……。


「私が土方さんといるのを嫌だなんて、思うはずないでしょう? そんな事、絶対にありえませんよ」
 小さく笑ってから、総司は、ふと彼の言葉に気がついた。え? と顔をあげる。
「死のうとなんてって……え? どういう事?」
「おまえの事だ。さっき、川へ飛び込もうとしていただろうが」
「そ、そんな事しませんよ!」
 思わず叫んでしまった。
「まさか、そんな事するはずないでしょう? 川へ飛び込むなんて、私はただ雪を見ていただけです」
「雪を見ていただけ……?」
「そうです。それに、もし私が自死するなら、武士なのです、刀で命を絶ちます」
「……そうか、そうだな」
 呆気にとられた顔をしていた土方は、やがて、おかしさがこみあげたようだった。くっくっと喉奥で笑い出す。
「川に身投げなんかしねぇよな。それも、俺のことで……あぁ、ほっとしたよ」
「ほっとしたって、どうして?」
「いや、それは……」
 土方は笑いをおさめ、口を閉ざしてしまった。視線を落としている。
 その端正な横顔を、総司は見つめた。


 あの夜のことは告げてくれない。
 決して、自分が総司を抱いたのだと、云ってはくれないのだ。
 だが、それは彼が選んだことだった。
 どんな理由であれ、彼がそう心に決めたのなら、自分は従う他ない。


「土方さん」
 総司は手をのばし、そっと彼の腕にふれた。
「もし、本当に私に飽きたのでなかったら、また誘って下さい。屯所では声をかけない約束だけど、でも……」
「すまん、総司」
 低い声で云われ、総司はびくりと肩を跳ね上げた。もう誘わないと云われるのかと思ったのだ。
 土方は欄干にかるく凭れかかりながら、ため息をついた。
「俺が悪いんだな。おまえにそんな事を云わせるなんて……十日もほうっておけば、疑いもするだろう。本当にすまなかった」
「いえ……」
「むろん、誘うよ。また文をよこすから、誘いに応じてくれるか」
 笑顔をみせてくれた土方に、総司はふわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
「はい!」
 元気よく答えてから、あっと顔を赤くする。何だか、ずっと待っていたと云わんばかりで、たまらなく恥ずかしくなってしまったのだ。
 だが、そんな総司に、土方は柔らかく微笑んだ。手をのばし、なめらかな頬を撫でてやると、耳もとに囁きかける。
「今すぐ誘っていいか? 可愛いおまえに離れがたくなっちまった」
「あ……」
 総司は潤んだ瞳で男を見上げた。
 そして、その幼いが、艶めかしい表情に、土方が秘かに息を呑んでいる事に気づかぬまま、こくりと小さく頷いたのだった。













 二人は北山の川沿いの道をゆっくりと歩いた。
 大きな樹木が枝をさしかける道は、冬のためか、人気はない。
「この木は桜らしいな」
 土方は懐手しながら、見上げた。
「春になれば、見事な眺めになるだろう」
「ここから向こうまで、ずっと桜みたいですよ。でも、冬の方が好きかな」
「どうして」
「だって……何の気兼ねもなく、土方さんとこうして歩くことが出来ますし」
 長い睫毛を伏せて答えた総司に、土方は虚を突かれた。
 総司のためだからと隊内に関係を秘めているが、それ自体を総司が淋しく思っていることは確かだった。人前でふれることも、話すことも出来ない関係が、決して喜ばしいはずがないのだ。
 土方は静かな声で問いかけた。
「俺とのことを……公にした方がいいか?」
「え」
 総司は驚いたように顔をあげた。大きな瞳で彼を見つめてから、すぐさま首をふる。
「いいえ。そんな事をすれば、土方さんに迷惑がかかります。醜聞沙汰になってしまいます」
「俺のことは構わねぇよ」
「構わないはずがないでしょう? 土方さんは副長で、立場もおありです。なのに、私なんかと関係をもっている事を知られたら」
「俺は」
 思わず云いかけた。


 おまえのためなら、どんな非難を受けようが構わない、と。


 だが、云える話ではなかった。
 実際、二人の関係が暴かれれば、より噂されるのは受け身である総司の方なのだ。そうである以上、公にする訳にはいかなかった。
 そのため、土方は違う方向に話を変えた。
「それ、口癖か」
 もともと気にはなっていたのだ。
「え?」
 と目を瞬く総司に、きつい口調で云った。
「私なんか、だ。おまえ、よくそう云っているだろう」
「……あ」
 たちまち、総司は俯いてしまった。ぎゅっと両手を握りしめる。
「ごめんなさい……云い方が悪くて、不愉快にさせてしまいました」
「謝ってほしいんじゃねぇよ。そうじゃなくて、おまえ、どうして、そんなふうに自分を卑下するんだ」
「……」
「おまえは可愛いし、綺麗だ。気立てもよいし、素直で優しい。その上、剣の腕も一流で、おまえのどこに卑下する理由があるのか、さっぱりわからねぇよ」
「だって……私は娘じゃないから!」
 思わずとも云うように、総司は叫んだ。すぐに、ぱっと顔を赤くしたが、それでも小さな声でつづける。
「私は……娘ではありません。だから、あなたの子供を産むことも出来ないし、妾になる事もできない。そんな私があなたの傍にいることを、誰もが不思議に思うに決まっているのです。私なんかより、もっと相応しい人がいっぱいいるだろうし」
「総司」
 土方は嘆息まじりに、恋人の名を呼んだ。じっと俯いてしまった総司の手をとり、その顔を覗き込む。
 長い睫毛に露のような涙がたまっているのを見ると、胸奥が痛くなった。いじらしくてたまらず、細い躰を腕の中にぎゅっと抱きしめる。
「俺は……おまえが一番だと思っているよ」
「……」
「おまえが誰よりも好きだし、愛している。男だとか女だとか、そんなもの関係ねぇんだ。他の誰が何を云ってもどうだっていい。この俺自身がおまえを望んだ。大切なのは、その事じゃねぇのか」
「……っ」
 腕の中で、総司の躰が小さく震えた。それが可愛くて愛しくて、髪に頬を擦りよせる。
「愛しているよ、おまえが好きだ。すげぇ可愛いと思っている。だから、そんなふうに云うな。俺の大切な総司を、そんなふうに卑下する事だけはやめてくれ」
「土方さん……」
「おまえは俺に相応しいよ。いや、俺の方がおまえに相応しいのかどうか、わからない。だが、俺とおまえは恋人だ。そのおまえが俺の傍にいるのは、当然の事じゃねぇのか」
「恋人……」
 小さく呟いた。
 総司は土方の逞しい腕に抱かれたまま、問いかけた。
「私……あなたの恋人……?」
「あぁ。そうだ、おまえは俺の恋人だ」
「契りも……結んでないのに、そう云ってくれるの?」
「――」
 総司を抱く土方の躰が強張ったのを感じた。
 咄嗟に何と答えればよいのか、わからないのだろう。押し黙ったまま、総司を腕に抱いている。
 その胸に両手をつき、総司はそっと躰を離した。見上げると、土方が形のよい眉を顰め、じっと見下ろしている。
「恋人、念兄弟と呼ばれるなら、契りがあるべきだと聞きました。もちろん、心だけの繋がりもあるけど、でも、いつかは躰の繋がりもあると」
「総司……それは」
「この間、土方さんは云いました。私を傷つけたくないと。でも、それは、私自身が望んでも……なの? 私があなたとの契りを望んでも、拒絶される……?」
「……」
 押し黙ってしまった土方を、総司は大きな瞳で見つめた。
 だが、やがて俯くと、きゅっと唇を噛みしめた。長い沈黙の後、小さな声で告げる。
「ごめんなさい」
「え……?」
「私、あなた以外の男に抱かれました。この間、行方知れずになった事があったでしょう? あの夜、私は男に抱かれていたのです」
「――」
 土方の目が見開かれた。
 まさか、ここでそれを云われるとは思ってもみなかったのだろう。
 一瞬、彼の唇が震えたが、何も言葉は発しなかった。何と云ってよいのか、わからなかったに違いない。
 呆然と立ち尽くす男を見たとたん、総司は奇妙な喜びさえ覚えた。


 彼を困らせたくない、ずっと傍にいたいと思っていたはずなのに、一方で何もかも壊してしまいたい、この偽りを終わりにしてしまいたいという衝動がこみあげる。
 それは総司自身の清冽さゆえだったのかもしれなかった。
 いくら愛する男の傍にいられるからと云って、いつまでも、自分の勝手で縛りつづける訳にはいかないのだ。
 そんな事許されるはずがなかった。
 自分に彼を惹きつける魅力がない以上、早く解放してあげなければならないのだ。


 口早に言葉をつづけた。
「私はあなた以外の男に抱かれました。契りを結んだのです」
「……」
「契りを結ぶのが念兄弟の証だとすれば、私はあなたの念弟たる資格を失ったのだと思います。あなたと契りを結ぶ前に、他の男に抱かれてしまったのですから」
「総司、俺は」
「ごめんなさい、別れて下さい」
 総司は静かな声で云った。
「私は、自分を許すことが出来ません。他の男に抱かれたのに、土方さんの念弟であり続けるなんて、そんなの間違っています。許されない。だから……お願いです、別れて下さい」
「総司」
 不意に、腕が掴まれた。顔をあげると、鋭い瞳がこちらを真っ直ぐ見据えている。
 心の奥底まで探りだすような視線だった。どきりとする。
 土方は感情を押し殺した声で、訊ねた。
「それが本当の理由か」
「え……?」
「他の男に抱かれた。それが、俺と別れたい本当の理由なのかと、聞いているんだ」
「――」
 鋭く胸が痛んだ。


 この人の前では何もかも暴かれてしまう。何も偽ることは出来ないのか。
 だが、こうするより他なかった。
 もう……限界だったのだ。
 これ以上、何も知らないふりをするのが苦しかった。
 全部わかっているくせに、彼が仕方なく念者になってくれた事も、彼が自分を抱いた男であることも、わかっているくせに。
 なのに、何も知らない顔をして彼をふりまわしつづけるのだ。
 そんな酷いこと、もうしたくなかったのだ。


「……別の理由を云った方がいいの?」
 総司は、掠れた声で訊ねた。頬が紅潮し、瞳がきらきらと光っている。
 その興奮した手負いの仔猫のような様子に、土方が眉を顰めた。
 それに、笑った。
「どれが嘘か本当かなんて、あなたもわからないでしょう? でも、さっきの理由で納得できないなら、云ってあげる」
「……」
「もう……こんな関係いやなの。人に隠して、契りも結ばなくて、ただ逢うだけの関係なんておかしいでしょう? これで恋人って云えるの?」
「総司、俺は……」
「お願い、別れて。私の我儘を許して」
 そう叫ぶなり、総司は土方の手をふり払った。勢いよく走りだす。
 土方はその名を呼びはしたが、引き留めようとはしなかった。黙ったまま、駆け去る総司を見つめているようだった。
 それを感じながら、頬にあたる冬の風を感じながら、総司はきつく唇を噛みしめた。