朝の光が射し込んでいた。
障子越しにちらちらと揺れるさまは、とても綺麗だ。
それをぼんやり眺めていた総司は、不意に、はっと我に返った。慌てて飛び起きる。
「! ここは……っ」
茶屋ではなかった。むろん、どこぞの宿屋でもない。
そこは、総司自身の部屋だったのだ。
「え? どうして……?」
いつのまに帰ってきたのか、まったくわからなかった。
昨日、土方に抱かれたのは確かだ。だが、それ以降の記憶が全く消えてしまっている。
呆然と坐りこんでいると、廊下を誰かの足音が近づいてきた。思わず身構えたとたん、すっと障子が開かれる。
「総司」
入ってきたのは、斉藤だった。
心配そうな表情で、すぐさま歩みよってくる。
「大丈夫か、躰の調子はどうだ」
「躰の調子って、私……」
「昨日、寺の境内で倒れているところを見つけたんだ」
「見つけたって、え? 斉藤さんが?」
「あぁ」
斉藤は頷いた。そっと総司の背に手をあてて寝かせてやりながら、言葉をつづける。
「おまえの代わりに巡察に行ってな、その後、オレ一人であの市がたっていた寺へ来てみたら、おまえが石灯籠の陰に倒れていたって訳さ」
「私……」
「いったい何があったんだ。おまえ、何も覚えていないのか?」
「え」
思わず言葉につまった。
むろん、何があったか覚えていた。
酔漢に襲われたことも、あの茶屋へ連れ込まれたことも。そして、そこへ助けにきた男に抱かれたことも……。
「……」
それを思い出したとたん、かぁっと頬に血がのぼった。羞恥心がこみあげたのだ。
だが、それを隠すように総司は布団を引き上げた。小さな声で答える。
「何も……覚えていません。斉藤さんとはぐれてから、その後のことは何も」
「そうか」
斉藤はまだ訝し気だったが、それ以上追及する気はないようだった。
「とりあえず熱があるみたいだから、非番の申し出を代わりにしておいた。副長も納得してくれたよ」
「副長……」
びくりと躰が震えた。
「あぁ。昨日、土方さんも一緒におまえを探してくれたんだ。もっとも、オレがおまえを駕籠に乗せて戻ると、ちょうど帰ってきた処だったみたいだがな」
「……」
「じゃあ、養生しろよ」
ぽんぽんと布団を軽くたたいてから、斉藤は部屋を出ていった。遠く、隊内の喧騒が聞こえてくる。
それを聞きながら、総司は身をまるめた。息をひそめるようにして、斉藤が云った言葉を考える。
やはり、あれは土方だったのだ。斉藤の言葉からいけば、彼は総司を探すため屯所を出ていたらしい。そこで、総司を見つけ、あのような結果になったのだろう。
だが、土方が最後まで正体を明かさなかった以上、知らない顔をしなければならなかった。それに。
(もし違ったら、どうすればいいの……?)
総司はきゅっと唇を噛んだ。
それが一番恐ろしかったのだ。
あの時、感触や、癖、微かな声から、土方だと思った。
だが、それがもし違っていたら、どうなるのか。自分は、まったく見知らぬ男に抱かれてしまった事になるのだ。それも自ら進んで躰を開き、快感まで覚えてしまった。
土方と念兄弟としてつきあっている以上、そんな不道徳な事があるだろうか。もしそれが真実であれば、到底、自分が許せなかった。
だから、土方に訊ねることなど決して出来ないのだ。
もし違っていたら、別の男であるとしたら、総司の不義を土方は決して許さないだろう。あの矜持の高い彼のことだ、侮蔑の表情で容赦なく切り捨てられるに違いない。
(そんなの怖い、土方さんに嫌われたら、私はもう……)
涙がこみあげた。それを堪えようと目を閉じる。
その時だった。
また足音が近づいてきたかと思うと、すっと障子が開かれたのだ。身をすべりこませた男は、すぐさま障子を閉めたようだった。
歩みより、褥の傍に膝をついてくる。
「――総司」
低い声に、びくりと目を開いた。躰が大きく震えてしまう。
おそるおそる布団から顔を出すと、思ったとおり、土方が覗き込んでいた。視線があったとたん、その形のよい眉が顰められる。
その男らしい表情に、どきりとした。思わずぼうっと見惚れてしまう。
だが、それを土方は誤解したようだった。
「顔が赤いな。熱があるのか」
「え……あ、少し」
こくりと頷いた総司に、土方は懐から何か包みを取り出した。
「何…ですか?」
「水菓子だ。この時期だから売っていないかと思ったが、熱があると聞いて買い求めてきた」
「土方さんが、私のために?」
思わず驚いてしまった総司に、土方は肩をすくめた。
「別におかしな事じゃねぇだろう。俺はおまえの念兄だ。当然のことだと思うけどな」
「そ、そうですね。あの……ありがとうございます」
「ここへ置いておくから、後で好きな時にな」
「はい」
素直に返事をした総司と、土方の間に、沈黙が落ちた。しばらく互いから視線をそらしたまま、黙り込んでしまう。
総司は、まだ信じられない気持ちだった。
昨日、土方さんは私を抱いたのだ。
でも、あれは本当にこの人だったの……?
「……そろそろ行く」
突然、土方が云った。腰をあげる。
それに、はっと息を呑んだ。
この躰には、彼に抱かれた痕跡が色濃く残されていた。なのに、彼は何も云ってくれないのだ。
それとも、やはり、彼とは別人だったのか。
総司は思わず身を起こし、叫んだ。
「土方さん……!」
切羽つまった声音に、土方が驚いたようにふり返った。障子に手をかけ、もう部屋を出ようとしていたが、そのままの姿勢で視線を返してくる。
「何だ」
「あの、お願いがあるのです」
総司の言葉に、土方の口許が引き締まった。眉が顰められる。
黒い瞳に探るような色を見たと思ったのは、錯覚なのか。
「願い……?」
「はい」
こくりと頷いてから、総司は思い切って云った。
「お願いです、私に……口づけて下さい」
「……」
土方の目が見開かれた。呆気にとられた表情で、総司を見ている。
だが、やがて、喉奥で笑うと、安堵したように頷いた。何だ、そんな事かと云いたげだった。
「いいぜ」
綺麗な顔で笑い、土方は歩み寄ってきた。立ったまま身をかがめ、総司の肩に手を置く。
そして、口づけた。啄むような口づけではない、甘くて激しい口づけだった。
しばらく舌を絡めあい、互いを愛しみあう。
「……っ……」
唇を離された瞬間、総司は思わず吐息をもらしてしまった。大きな瞳は潤み、頬も上気している。
それに、土方は優しく微笑んだ。
「すげぇ可愛いな」
「土方…さん……」
「また来る。いい子にしていろよ」
頷いた総司にもう一度だけ口づけてから、土方は部屋を出て行った。廊下に滑るように歩み出ると、静かに障子を閉める。
遠ざかる足音を聞きながら、総司はそっと指さきで唇にふれた。
(やっぱり、土方さんだった……)
そんな事をするつもりはなかった。
だが、昨夜、あまりの情交の激しさに、男の舌を噛んでしまったのだ。血の味が広がり、驚いたのを覚えている。
その傷口が土方の舌にあった。口づけの甘さも、癖も、逞しい腕も何もかも、土方でしかあり得ないのだ。
(私は土方さんに抱かれた……土方さんのものになったんだ……)
歓喜がこみあげた。
今頃になって訪れた実感だった。嬉しさだった。
総司は涙をこぼしながら、己の躰をそっと抱きしめた。
山崎が出ていった処だった。
監察からの報告があがってきたのだ。その報告を受け、指示を出した。山崎は真面目で的確な男だ、必ず指示どおりに動くだろう。
土方は背後で閉められる障子の音を聞きながら、瞼を閉じた。
とたん、先ほど、見たばかりの総司が思い浮かんだ。
潤んだ瞳、上気した頬。華奢な身を包んでいた白い寝着。
何もかもが愛しく、艶めかしく、可愛かった。
あの躰を自分は抱いたのだ。己のものにしたのだ。
だが、それは背徳の夜だった。
(俺は、総司を手込めにした……)
幾度くり返したかわからぬ言葉を、土方は苦々しい思いで噛みしめた。
傷つけたくないなどと綺麗ごとを云っておきながら、このざまなのだ。目前にさし出された獲物に堪えきれず、獣のように貪り喰らってしまった。
昨夜は、理性など吹っ飛んでしまっていた。ただもう本能だけに突き動かされ、総司を犯したのだ。
あの初な総司を。
誰よりも大切にしてやりたかった、可愛い総司を。
悲鳴をあげて抗っていた総司を、何度も思い出した。そのたびに罪悪感に苛まれる。
夢で見るだけならよかった。
だが、現で本当に総司を手込めにしてしまうなど、許されるはずもなかった。
昨日の夜、土方は気を失った総司の躰を清め、着物を着せてやると、例の寺の石灯籠の陰に横たわらせた。巡察から戻った斉藤が再び総司を探しに来るのは、わかりきっていた。
だからこそ、あの寺に置き、物陰から見守っていたのだ。
もしも斉藤が現れなければ、駕籠にでも乗せようと思っていた。だが、幸い、斉藤はしばらくすると現れ、総司を屯所に連れ帰ってくれた。それを見届けてから、土方は帰営したのだ。
朝、斉藤が総司が熱を出したと云ってきた時は、無表情で聞き流したが、むろん、心配でたまらなくなった。近くの菓子屋を思い出し、何の償いにもならぬとわかっていながら、水菓子を手に総司の部屋を訪れたのだ。
欺瞞そのものだった。
己が獣のように犯したせいで、総司は躰を壊してしまった。その総司をそ知らぬ顔で見舞うなど、最低な男そのものではないか。
だが、あれは俺だと告げることなど、到底できなかった。総司に嫌悪と侮蔑の表情で見られるのが、恐ろしかったのだ。
他の誰に指弾され、罵られても、動揺した事などまったくない。
だが、総司だけは別だった。総司からの非難、嫌悪だけは、到底堪えられないのだ。いったい誰が、この世で唯一愛している者からの拒絶に、堪えられるというのか。
土方にとって、総司は唯一の存在だった。あれ程、愛しいと思ったことはないのだ。不思議なほど惹かれ、夢中で愛した。手をだすことはおろか、話しかける事もままならぬほどに。
だからこそ、今の関係を壊したくなかったのだ。
総司が傍にいてくれる、笑いかけてくれる。
ただ、それだけで幸せだった。夢のようだと思った。
絶対に傷つけたくなかった。今の幸せを壊したくなかった。
どんな事をしても、総司を守りつづけること。己自身からも守ることが、大切なのだと思っていたのに。
そう――心から願っていたはずなのに。
「俺は全部、壊しちまいたいのか……っ」
片手で顔をおおい、呻いた。
翌日から、総司は隊務に戻った。
休んだ分を取り戻すように、懸命に隊務に励む姿を、土方は遠目に眺めていた。
相変わらず愛らしく、素直で優しい。一番隊隊士たちからも絶大な人気があり、総司は誰からも愛されていた。
だが、その顔に微かだが、憂いの色があるのを、土方は気づいていた。どこか沈んだ様子なのだ。
当然だろうと思った。男に手込めにされたのだ、精神的に傷を負っていないはずがないのだ。
むろん、土方は声をかける事はしなかった。もともと、公の場では視線さえあわさぬ関係なのだ。
今更、声をかけられるはずもなく、背をむけた。
その広い背を、総司が切ない瞳で見つめている事にも気づかぬまま……。
そっと心の中で呼んだ。
廊下の向こうを、土方が歩み去っていく処だった。すらりとした長身の躰つきは、完成された男そのものだ。身にまとった黒い着物がよく似合い、男の色香を感じさせた。
あの腕に抱かれたのだ、夢のような夜を過ごしたのだ。
だが、あれは本当に現だったのだろうか。夢ではなかったのだろうか。
もう十日以上の時が過ぎていた。だが、土方からの誘いはぱたりと途絶えてしまっている。部屋を訪れてくれたのも、結局あれきりだった。
「……また来るって云っていたのに」
思わず拗ねた声で呟いてしまった。だが、云った傍から、両手で唇をおさえた。
つきあってもらって、その上、抱いてもらって。だから、こんなふうに我儘になってしまったのだろうか。思い上がってしまったのだろうか。
土方は自分を見向きもしてくれなかった。ここしばらく、視線さえあわせていない。
もしかしたら、飽きられたのかもしれなかった。同性の自分など抱いて気持ちいいはずがないのだ。なのに、彼の躰に縋って、快楽に揺れてしまった自分を、土方はもしかしたら軽蔑しているのかもしれない。
そう思うと、総司は気持ちが沈むのを感じた。
(どんなに好きでも、叶わない恋ってあるんだ……)
総司は欄干に凭れかかり、ため息をついた。
非番だった。屯所にいてもつまらないので、一人、散策に出てきたのだ。むろん、先日の事があるので両刀はさしている。
「……あ」
小さく声をあげた。
粉雪がちらちらと舞いおちはじめたのだ。初雪かもしれなかった。
京の町が、真っ白な雪に少しずつおおわれていく。
それを、総司はぼんやりと眺めた。綺麗だなぁと心底思う。
だが、冷たいとも、帰ろうとも思わなかった。
「……」
総司は欄干から下を覗き込んだ。
川に、ひらひらと雪が舞い降りていた。それがとても美しく儚げだ。
まるで夢みたいと思い、そっと目を閉じた。
次の瞬間だった。
「……莫迦野郎っ」
鋼のような手が総司の腕を掴んだ。凄い力で引き戻される。危うく後ろへ倒れそうになったが、逞しい腕が抱きとめた。
驚いて目を開いた総司は、息を呑んだ。
「土方、さん……」
黒い瞳に怒りを湛えた土方が、総司を見下ろしていた。