「好きです」
 そう云った時、叶うはずのない恋だと思っていた。
 彼みたいな人が自分を好いてくれるなど、千に一つもありえない。
 だから、あっさり承諾された時、信じられなかった。
 夢みたいだと思った。
 でも、それは夢ではなく、冷たい水底のような現の始まりだった……。











 ふと目が覚めた。
 障子ごしに射し込んでくる光から、もう朝なのだとわかる。
「……」
 総司はゆっくりと身をおこし、傍らに視線をやった。
 むろん、そこには誰もいない。
 いつものように、明け方、男は立ち去ってしまったのだ。今頃、自室で着替えをしている頃だろう。
「……土方さん」
 彼のぬくもりを求め、総司は褥の上へ指さきを滑らせた。
 だが、そこにぬくもりは残っていなかった。ひやりとした冷たさに、胸奥がきゅっと痛くなる。
 総司はゆるく首をふると、思い切って立ち上がった。さっさと身支度をしていく。
 夜を過ごしたと云っても、躰を重ねた訳ではなかった。いつも抱きしめられ、眠るだけなのだ。


(あの人が私に手をだすなんて、ありえないし……)


 手早く身支度を整えた総司は、井戸端で顔を洗い、足早に広間へと向かった。朝餉をとるため、隊士たちが集まっている。
 総司が入っていくと、数人の男たちが顔をあげた。
「――総司」
 笑顔で手招きしてくれる斉藤に、ほっとしつつ、総司は傍へ歩み寄った。自分のために用意された膳の前に坐りながら、朝の挨拶をかわす。
 ちらりと見れば、上席の方で近藤が土方に何か話しかけていた。
 土方は食事をしながら、黙って頷いている。
 その端正な横顔に、思わず見惚れた。


 綺麗な男だと思う。
 男にしては長い睫毛に、濡れたような黒い瞳、切れの長い目、引き締まった口許にいたるまで、本当に綺麗だった。
 端正という言葉がこれ程似合う男も少ないだろう。
 そのくせ、甘さは全くない。
 甘さや柔らかさを削ぎ落とし、冷たい鋭さだけを残した男の精悍な顔だちは、仇っぽい女から小娘にいたるまで虜にさせるのも当然の色香を漂わせている。
 無駄一つない引き締まった長身は、着やせする質なのか、一見すれば細身な方だった。
 だが、その着物の下にある鍛えられた躰つきを、総司はよく知っている。


 そこまで考えたとたん、頬が熱くなった。慌てて視線をそらす。
 斉藤が不思議そうに、顔を覗き込んだ。
「どうかしたのか」
「な、何でもありません」
 誤魔化すように笑い、箸をとりあげた。食事を始める。
 その後、食事を終えた土方がすぐ後ろを通り過ぎていったが、こちらに声をかける事も、視線一つ向ける事さえなかった。


 秘密の関係なのだ。
 別に、公的な場で仲が悪いふりをしている訳ではないが、副長と一番隊組長、江戸の頃からの道場仲間の域を出ない関係であるにすぎなかった。
 実際、少なくとも、数か月まではそうだったのだ。
 総司が「好きです」と告白してから、関係は大きく変わったが、それは二人だけの秘め事だった。
 他に、この事を知っているのは近藤ぐらいだ。何しろ、土方に総司とのつきあいを承諾させたのは、近藤自身なのだから。


 その時の事が脳裏に蘇り、総司はきつく唇を噛みしめた。












 それは、土方とのつきあいが始まってひと月が過ぎた頃だった。
 非番で出かけていた総司は、ある寺で近藤と土方の姿を見かけた。黒谷屋敷からの帰りなのか、二人とも正装姿だった。
 声をかけようと近づいていった総司は、自分の名が会話に出ているのに気づき、思わず足をとめた。樹木の陰に身をひそめる。
 そして、聞いてしまったのだ。二人の会話を。





「……総司とは上手くいっているのか」
 近藤は池の淵にしゃがみ、鯉を眺めながら話していた。土方は傍らに佇み、懐手をしている。
 低い声が答えた。
「あぁ。上手くいっているよ」
「優しくしてやっているだろうな。傷つけたりするなよ」
「わかっているさ。俺はあいつに優しくしているつもりだ」
 ため息まじりに答えた土方を、近藤が見上げた。
「すまんな、歳。だが、総司はおまえが好きなのだ」
「……」
「おまえから相談された時、総司がおまえの前から……隊から去るつもりだと思った。江戸ヘ帰るならまだいい、だが、もし、命を絶つような事があれば」
「俺にふられたら、命を絶つか? 女じゃあるまいし、あいつはそこまで弱くねぇよ」
「総司は強い。だからこそ、怖いのだ。誰よりも一途で懸命だ。病もちになった己を責めつづけている。隊の役にたてなくなる事、おまえの役にたてず弱くなってゆく己が許せないのだ。江戸へ帰っても治る見込みがない以上、この隊を出た後すぐ、あいつは自らの手で命を絶つだろう。そういう奴だ、総司は」
「……わかっているよ」
 土方は煩わしげに片手で黒髪をかきあげた。目を細める。
「わかっているから、俺はあいつを受け入れた。俺への告白を切っ掛けにして、あいつが命を絶つなど、最悪だ。そんな事させる訳にはいかねぇよ」
「すまん、歳」
「あんたが謝る事じゃねぇよ。俺もさんざん遊んできたんだ、総司の一人ぐらい受け入れられるさ」
「女遊びとは違うだろう」
「同じようなものさ」
 そう云ってから、土方は近藤に念押しをした。
「だが、これだけは云っておく。絶対に表沙汰にはしないでくれ。俺にも都合とか立場ってものがある」
「わかっている。総司もそれは承諾しているのだろう」
「あぁ。……まぁ、俺も当分、妻を娶る気も妾をおく気もねぇから、そっちは構わんが、一応、隊内への聞こえがあるからな」
 云いきった土方は、ゆっくりと歩き出した。しゃがんでいた近藤も立ち上がり、それを追う。
「……」
 遠ざかってゆく二人の声を聞きながら、総司は身動き一つできなかった。


 ……何も知らなかったのだ。
 彼が自分の告白を受け入れた裏に、こんな思惑があったなど、考えたこともなかった。
 まさか、近藤に頼まれたから、つきあう事にしたなどと。
 つきあうようになって、土方は本当に優しかった。
 二人きりの時、信じられないぐらい優しく総司を愛してくれた。
 だが、それはすべて偽りだったのだ。愛するふりをしてくれていただけだった。
 近藤に頼まれたから、総司を可哀想だと思ったから、隊の状況上、総司に命を絶たせる訳にはいかず、幾つもの都合による恋人関係だった。
 なのに、全く知らず、夢みたいだと舞い上がっていた自分はなんて愚かだったのか。


「今すぐ……別れた方がいいの?」
 総司は自分にそう訊ねた。だが、すぐに大きく首をふった。


 そんな事、出来るはずがなかった。
 ずっとずっと憧れ、恋してきた彼なのだ。その彼が偽りであっても傍にいてくれる、愛していると囁いて抱きしめてくれる。
 狡いとわかっていても、傍にいたかった。恋人であり続けたかった。
 愛する男を縛りつけている、酷い行為だと、よくわかっている。
 それでも、駄目だった。
 今の総司にとって、土方から離れることは、すべての終わりを意味していた……。












 朝餉の後、総司はすぐに巡察へ向かった。
 池田屋事件の後、浪士たちの数はめっきり減っていた。武装集団として新選組の力も増している。そのためか、今日は何事もないまま巡察を終えた。
 八坂神社前で隊士たちを解散させると、総司は南禅寺に向かった。
 屯所に戻る気になれず、かと云って隊士たちの誘いを受ける気にもなれず、一人で散策したくなったのだ。
 歩きながら隊服の羽織は脱ぎ、鉢巻も外した。懐に入れていた風呂敷に包んで持てば、どこにでもいる侍姿になる。
 長い黒髪を結い上げ、淡い色合いの着物を華奢な身にまとった総司は、玲瓏な美しい少女のようだった。
 武家姿であるのに、どこか艶めかしさを感じさせるのだ。
 愛らしい花のような姿に、道行く人は皆ふり返っていたが、総司自身はまったく気づいていなかった。己の容姿を良く思うどころか、逆に、引け目さえ感じていたのだ。
 幼い頃から、土方に憧れてきた。初恋の激しさで、一途に想いつづけてきたのだ。
 だが、土方の傍には、いつも艶やかで美しい女がいた。見るたびに違ってはいたが、それでも、大輪の牡丹のような彼女たちは、男前である土方とよく似合っていた。
 子どもだった総司にとって、まるで別の世界の住人のようだった。とても近寄ることのできない世界だった。
 だからこそ、ずっと想いを秘めつづけていたのだ。
 池田屋で血を吐き、自分が労咳だと知る時まで。


 最後だからと、想いを告げた。
 近藤が云っていたとおり、土方に想いを告げたら、すぐさま隊を去るつもりだった。そして、どこか遠くで一人命を絶つつもりだった。
 これから先、自分は少しずつ弱っていくだろう。役にたたなくなっていくだろう。
 なら、今のうちに身の始末をつけてしまいたかった。死ぬ前に一度だけ想いを告げてから、彼の前から消えようと決意していたのだ。
 だが、土方は受け入れてくれた。
 告白に驚いた様子だったが、翌朝、総司の部屋を訪ねてきて抱きしめてくれたのだ。


 むろん、今ではわかっている。
 あの日、総司に告白されてから、近藤に相談していたのだ。そして、近藤に懇願され、総司を受け入れる決意をしたのだろう。
 冷徹な副長として振る舞っていながら、実は、とても優しい人なのだという事を、総司はよく知っていた。
 彼の心の優しさ、純粋さ、真摯さ。
 だからこそ、惹かれたのだ。好きで好きでたまらなくなったのだ。
 だが、そんな優しい彼だから、総司を拒むことが出来なかった。拒んだ末に、総司が命を絶つだろうと云われれば、もうどうする事もできなかったのだ。


「私は……卑怯だ」
 総司は思わず呟いた。


 全部わかっているくせに、知っているくせに、それでも彼を縛りつづけているこの卑怯さが、たまらなく嫌だった。
 何度、自己嫌悪したことか。
 だが、それでも、彼の傍から離れたくなかった。好きなのだ。
 本当に、だい好きなのだ。
 愛する人の幸せを願うのが当然だと、聞いたことがある。でも、そんなのきれいごとだった。
 他の人と一緒になって幸せそうに笑う姿を見て、心から祝福するなど出来るはずもない。
 そんな事が出来るなら、本当に愛していないのだ。
 もし、本当に愛していたなら、頭がおかしくなる。嫉妬で狂ったようになり、いっそ相手を殺したいと思うに違いない。


 そこまで考えた総司は、はっと息を呑んだ。のろのろと片手をあげ、口元をおおう。


(私は……なんて酷いの)


 偽りの愛を強いて、彼を縛りつけて。
 それでもあき足らず、他の誰かと幸せになるぐらいなら、彼の命を奪ってしまいたいと思うなど。
 自分で自分が信じられなかった。こんなにも酷い、醜い感情が己の中にあったなど、考えたこともなかったのに。


 情けなくて辛くて悲しくて、総司はきつく目を閉じた。唇を噛みしめる。
 その時だった。
「――おい」
 突然、腕が掴まれた。
 強引にふり向かされ、顔を覗き込まれる。
「大丈夫か、発作が出たのか」
「……え」
 聞き慣れた声に顔をあげると、土方が心配そうに見下ろしていた。かるく身をかがめ、総司の顔を覗き込んでいる。
 それに、目を見開いた。
「土方…さん、何で……」
「偶々、通りかかったんだ。おまえこそ、こんな処で何をしている。巡察の後か」
「え、あ……はい」
 総司はこくりと頷いた。風呂敷をぎゅっと握りしめる。
「巡察が終わったので、少し……散策していこうかと思って」
「一緒に行ってもいいか」
「えっ」
 驚いて、声をあげてしまった。まさか、そんな事を云われるとは思ってもみなかったのだ。
 呆気にとられている総司の前で、土方はかるく眉を顰めた。
「嫌ならいいが」
「い、嫌じゃありません! そうじゃなくて、土方さんが」
「俺が?」
「迷惑……だと、思ったから」
「何を云っている」
 土方はくすっと笑った。手をのばし、優しく総司の髪を撫でてくれる。
「俺はおまえの念者だろう。一緒に散策することが、どうして迷惑になるんだ」
「……ごめんなさい」
「おかしな奴だな、謝ることでもねぇよ」
 かるく肩をすくめると、土方は歩き出した。南禅寺へと入ってゆく。
 それをぼうっと見つめていると、土方がふり返った。
 訝しげに眉を顰めている。
「どうした」
「え」
「来ないのか、総司」
「は、はい」
 慌てて返事をし、駆け寄った。土方と肩をならべ、歩きだしてゆく。
 二人の頭上で、紅葉がはらりと舞った。