日々は穏やかに過ぎていった。
初め、色々と戸惑っていた総司も、夏が過ぎる頃にはかなりここの暮らしにも慣れたようだった。
伊庭は毎日のようにこの家を訪れている。それを、総司も拒みはしなかった。
むろん、念兄弟になる決心がついた訳ではない。今尚、総司の心には、土方への想いが強くあるのだ。
だが、伊庭の優しさに惹かれるのも、また事実だった。それ程、人は強くないのだ。心が折れそうな時、傍に寄り添い、受け入れてくれた人を好いてゆくのは、ごく当然のことだった。
(土方さんへの想いとは違うけれど……)
穏やかな気持ちなのだ。
やさしく静かで、あたたかい気持ち。
それが、総司が伊庭に対して抱いている想いだった。だが、土方に対しては全く違う。
苦しくて切なくて。
叫び出したくなるほどの執着と嫉妬に、躰中が燃えたった。狂ったように恋しくて恋しくて、何もかも投げ捨ててでも追いかけ、縋りつきたくなる。
そんな惨めでみっともなくて、愚かな恋。
昔はそうではなかった。綺麗で恰好よくて優しい彼に、憧れ、甘ずっぱい恋心を抱いていたのだ。逢えた日は嬉しくて、あの綺麗な笑顔を見せられたりしたら、もう一日中気持ちが舞い上がっていた。
だが、それは山南の事件で一変した。土方に切り捨てられたことで、総司の中でも変化がおきたのだ。
昏い翳りを帯びた愛が、そこに在った。手に入らないのなら、いっそ殺してしまいたいと願うほどの執着に、己自身を恐れたことさえある。それでも、想いは止められなかった。
だからこそ、彼の元から逃げ出したのだ。苦しくて切なくて哀しくて。そして、何よりも怖かった。自分の中にある狂気が恐ろしかったのだ……。
総司は目を伏せ、そっと吐息をもらした。
華奢な躰つきも儚さも相変わらずだが、発作はかなり減ってきている。やはり休んだことが、総司の躰にいい影響を与えたようだった。
それに、ここへ来てからは、医者へもきちんと通っていた。今日も薬を貰いにいくつもりなのだ。
住まいにしている家を出ると、総司は医師のもとへ向かった。近くなので十分歩いていける距離だ。
街中を抜けて、高い塀がつづく道にさしかかった時だった。
「……」
総司は、ふと細い眉を顰めた。
向こうから一人の侍が歩いてくるのだ。その歩き方、姿形に、既視感を覚えた。
黒い編み笠をかぶっているため、顔は見えない。黒い着物を着流し、両刀を腰に斜めざしにしていた。
(……まさか……土方さん?)
思わず足が竦んだ。どうしようと躊躇ってしまう。
そうこうしているうちに、二人はすれ違った。相手の侍もこちらの存在に気づいたらしく、編み笠のふちを軽くあげる。
切れの長い目が、総司を見下ろした。
「!」
息を呑んだ。
次の瞬間、総司は身をひるがえしていた。後先のことも考えず、走りだした。
「総司ッ!」
後ろで、男の声が響いた。だが、ふり返る余裕もない。
総司は歩いてきた道を逆戻りに走った。京の町屋の間をすり抜けるようにして、駆けてゆく。この辺りはよく歩いているため、道も何もかもしっかり頭に入っているのだ。
だが、相手は土方だった。体格差も力の差もある上に、新選組副長なのだ。人を追いつめることなど、当然馴れきっていた。
副長として指示をする時も、的確に隊士たちを走らせ、徐々に浪士を追い詰めてゆく手腕は息を呑むほどの鮮やかさだった。そんな男から、逃げられるはずがないのだ。
「……ッ」
たちまち追いつめられた。逃げ込んだ先は雑木林の中であり、小さな崖のようになっている処を飛び下りたとたん、目を見開いた。
行き止まりだったのだ。池がそこに広がっている。
立ちつくしたとたん、後ろから腕を掴まれた。びくりと躰を震わせ、ふり返ると、眦をつりあげた土方が見下ろしている。
総司は必死に身を捩った。
「はな…して……!」
「なぜ逃げる。俺に会うのがそんなにも嫌か」
「……っ」
激しく首をふった。
嫌だなんてあるはずがない。ただ、怖かったのだ。
自分は彼を裏切り、彼の言葉に逆らい、隊を出た。そんな自分に投げつけられるだろう言葉が、怖かった。
何を云われるか、どんなふうに侮蔑されるか。
それに、彼はあの時、云ったのだ。
隊を出れば、殺す――と。
新選組隊士として生きてきた以上、死は恐れない。だが、土方に処断されるのは怖かった。おまえは駒だったのだと云いきかされるようで、恐ろしかったのだ。
「だ…って……っ」
総司は喘ぐように、叫んだ。
「私を殺すのでしょう? 処断するのでしょう!」
「総司」
「土方さん、あなたが云ったことです。隊を出れば処断すると。だったら、逃げて当然じゃない」
大きな瞳で男を睨みつけた。青白い焔にその身が包まれているようだった。
勝気な総司が、男の意のまま処断されるはずがないのだ。
「あなただって、そのつもりで追いかけたのでしょう? 私をこんな処に追い込んで」
身を捩り、男の手から逃れた。そうして、両手をひろげてみせた。
「殺せば? さっさと私を始末すればいい」
「……」
「ここなら人気もないし、都合がいいでしょう?」
挑むような口調で云い放った総司に、土方は無言だった。押し黙ったまま、静かに見つめている。
やがて、目を伏せると、低い声でぽつりと呟いた。
「……できねぇよ」
彼にしては、弱々しい声だった。
「おまえを殺すなんざ……この俺に出来るはずがないんだ」
「――」
見たこともない男の様子に、総司は息を呑んだ。ぼんやり見つめていると、土方は視線をあげた。
深く澄んだ黒い瞳で、こちらを見つめてくる。
それに息がつまるような思いを感じながら、総司は云った。
「そんなの……嘘つかないで。私なんか、簡単に殺せるでしょう? あなたにとって、私はもう不要な人間なのだから」
「不要?」
意味がわからぬという表情で、土方は眉を顰めた。
「どういう意味だ」
「そのままです。あなたは、私を軽蔑し呆れたから、切り捨てた。声もかけず、見向きもしなくなった。あなたにとって、私は不要な人間なはずです」
「おまえ、何を云っているんだ」
土方は思わず足を踏み出し、叫んだ。
「そんな事、あるはずねぇだろうが! 俺にとって、おまえは大切な宝物だ。誰よりも慈しみ、この手で大切に育ててきたんだ。そのおまえを不要だと思う事なんか、天地がひっくり返ってもありえねぇよ」
「だ、だって……」
総司は戸惑いつつ、それでも反論した。
「土方さん、私に怒っていたじゃない。声もかけてくれなかったし、冷たくなったし」
「それはおまえもだろうが。山南のことで、おまえはかなり落ち込んでいたし、俺のことも憎んだはずだ。それで、俺に背を向けたのだろう」
「背なんか向けていませんよ!」
「なら、何故、態度を変えたんだ」
「だって、隊士たちも大勢見ている前で、あなたを罵倒したんですよ。あんな酷い事をしておいて、今までどおり話しかけられる訳がないでしょう? すぐに土方さんの態度が冷たくなったから、呆れられた、見捨てられたと思って……っ」
「何だよ、それ」
土方は呆れたように云った。
「じゃあ、何か? 俺たちは互いに互いが嫌っていると思い、反目しあっていたって事か」
「そういう事……になりますね」
俯きながら答えた総司の躰に、突然、男の腕がまわされた。それに、目を見開く。
驚いたことに、総司は今、土方の両腕に抱きしめられていた。胸もとに引きよせられ、ぎゅっと抱きしめられる。
「ひ、土方さ……」
「安堵したよ」
男のなめらかな低い声が耳もとにふれ、びくりと躰を震わせた。よく透るいい声なのだ。耳もとで囁かれると、躰の芯がとろけそうな気がする。
うっとりしていると、土方は言葉をつづけた。
「おまえに嫌われていないとわかって、本当に安堵した」
「そんな」
総司は首をふった。
「私が土方さんを嫌うなんて、ありえないのに」
「本当に?」
「天地がひっくり返ってもありえません」
先ほどの彼の言葉を真似て云い返した総司に、土方は思わず笑い出した。朗らかな少年のような笑い声だ。
(……土方さん)
優しい笑顔に、思わず見惚れた。
幾度、この笑顔がみたいと願ったことか。話しかけられたい、優しくされたいと、何度も何度も願ったのだ。
再びあたえられたそれに、嬉しくてたまらなくなる。
一度失ったからこそわかる、彼への強い恋慕だった。昔は当然のように思っていた。
だが、そうではないのだ。人の気持ちや想いというものは、ほんの少しのことで変わってしまう。
「とりあえずは、仲直りだな」
悪戯っぽい口調で云った土方に、総司はこくりと頷いた。
若者の細い躰に柔らかく腕をまわしたまま、言葉を続ける。
「とんだ兄弟喧嘩になっちまったな。けど、俺も意地をはって悪かったよ」
(兄弟喧嘩……)
小さく息を呑んだ。
だが、そうなのだ。実際、あの事が起こる前、二人は兄弟のような関係だったのだから。
土方の言葉は当然のことだった。だが、ならば、どうしてこんなにも胸が重くなるのか。
総司にとって、土方は、兄代わりではなかった。幼かった恋が、今や、激しく狂おしい大人の恋へと変化してしまっている。
土方は、この世の誰よりも愛しい男なのだ。
最愛の男―――。
そう思って見つめる総司に、土方は僅かに眉を顰めた。
ちょっと心配そうに訊ねてくる。
「何だ、まだ怒っているのか?」
「まさか。私の方こそ、意地をはっていたのです。ごめんなさい」
総司は頭を下げた。それに、土方が「これで一件落着だな」と髪を撫でてくれる。それがまたいかにも弟相手のようで、ひそかに唇を噛んだ。
だが、仕方がないのだ。
土方にとって、総司はいつまでも子どもであり、弟代わりなのだから。女に不自由しない土方にとって、衆道など考えたこともないのだろう。だからこそ、伊庭とのことを誤解した時も、あんな突き放した云い方で忠告してきたのだ。
そんな彼が、総司の気持ちを知れば、たちまち、態度を硬化させるに決まっていた。
(兄代わりでもいい……傍にいられるなら。もう二度と、この人に冷たくされたくない)
総司は黙ったまま、土方の胸もとに身を寄せた。それに優しく抱きよせてくれる男の手が、嬉しい。
たとえ、そこに愛がなくともいいと。
切なく願うように思った。
「ここです」
総司は案内した家の前で、土方に云った。
それに、土方はどこか戸惑ったような表情で、目を細める。
医者に行った帰りだった。結局、土方が医者までつきそってくれて、薬をもらい、そのまま戻ってきたのだ。おかげで、いつも一人の道が、土方と一緒にいることで夢のように楽しかった。
相変わらず、土方は優しかった。一時期、冷たかったことが嘘のように、優しく肩を抱いてくれたり、総司の話に相槌をうってくれたり、本当にとろけそうなほど甘やかしてくれる。以前と何ら変わらなかった。
だが、だからこそ、総司はあの頃、思い違いをしてしまったのだ。もしかしたら、彼も自分を好いてくれる日がくるかもしれない、と。
(そんなこと、あるはずないのに)
総司はふるりと首をふり、土方を見上げた。
「あがっていきますか?」
「……いいのか」
一瞬の間の後、土方が低い声で問いかけた。それに、総司はくすっと笑う。
「当然ですよ。私、娘じゃありませんし」
「いや、そういう事ではなく……」
土方は彼らしくもなく視線を彷徨わせた。
「伊庭との家、だろう。そんな場所に、他の男が無断であがるのは……」
「ここ、近藤先生が用意して下さった家なのです」
総司の言葉に、驚いた顔になった。
「近藤さんが?」
「はい。初め、伊庭さんが用意すると云ってくれたんですけど、いつのまにか近藤先生が用意して下さっていて。あ、でも、借家ですよ。そんな高いことありませんし」
「そうだったのか」
「もちろん、私は一人住まいです。伊庭さんは毎日のように訪ねてきてくれますけど」
そう云ってから中へ誘われたが、まだ躊躇いがあった。
「もしかして、今日、伊庭が来るんじゃねぇのか。それはやはりまずいだろう」
「いえ……」
総司は長い睫毛を伏せた。
土方が伊庭との関係を念兄弟だと誤解していることは、わかっていた。
だが、それを今、解く気になれなかった。
他に好きな人がいると、口をすべらせてしまいそうなのだ。
「大丈夫です。今日は伊庭さん、来ない日ですから」
顔をあげ、にこりと笑ってみせた。
それを、土方が眩しいものでも見るように目を細める。短い沈黙の後、僅かに目を伏せた。
「……そうか。なら、少しだけ上がらせてもらうよ」
「はい、どうぞ」
からりと戸を開け、総司は中に入った。土方もつづいて入ってくる。
小さな家だが、一人暮らしには十分の広さだった。奥の部屋へ通されると、土方は物珍しそうに見回した。
「綺麗にしているんだな。誰かに頼んでいるのか」
「伊庭さんが手配して下さったんですけど、私、それじゃ退屈で。馴れていますし、全部自分でやっています」
「そうだな、馴れているものな。おまえがつくった飯は、いつもうまかった」
微笑みながら云ってくれた土方に、総司は頬を染めた。
あの頃、彼に憧れ恋していた総司は、少しでも彼が試衛館に来てくれるようにと、一生懸命頑張っていたのだ。料理も練習したし、彼の好物をつくれるようにもした。
そんな総司を、土方はとても可愛がってくれた。総司がつくった料理なら、たとえ失敗作でも、うまいと云って食べてくれたのだ。
「じゃあ……」
総司は思い切って云った。
「今日はここで夕餉をとっていかれますか?」
「……」
その言葉に、土方の目が見開かれた。呆気にとられたような表情になっている。
男の様子に気づいた総司は、慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい」
「総司」
「あの、調子にのって……土方さんも都合がありますものね」
「……いいのか」
低い声で問いかけられ、総司は驚いて顔をあげた。そのとたん、濡れたような黒い瞳に見つめられ、どきりとする。
「あ、あの……」
「本当にいいのか? 馳走になっても構わねぇのか」
「え、あ、はい。喜んで」
こくりと頷いた総司に、土方は優しく微笑んでくれた。きれいな笑顔に、頭の中がぼうっとなる。
さっそく食事の用意をしなくちゃと、腰をあげかけた時だった。
「――御免よ」
外から声がかけられた。それに、息を呑む。
伊庭の声だった。
戸板ごしに、いつもの飄々とした調子で声をかけ、呼びかけてくる。予定を変えてこの家を訪ねてきたのだろう。
「……」
総司は思わず土方を見上げた。どうすればいいの? という問いかけのつもりだった。
本当に、どうすればいいのか判断がつかなかったのだ。
「……」
そんな総司を見下ろし、土方は黙ったまま目を細めた。