驚かずにはいられなかった。
まさか、土方がそこまで云うとは、思っていなかったのだ。
土方が総司を手放したくないのは、わかりきっている。
だが、処断まで口にするとは、信じられない話だった。
総司は長い睫毛を伏せた。
「あの人にとって、私はまだ利用価値がある駒って事なんですよね。一番隊組長の私が隊を出るなんて、色々と困ることがあるのでしょう。実際、こうして騒ぎにもなっていますし」
「利用価値がある駒って……そんなふうに、土方さんが云ったのか」
「云っていませんけど、でも、それ以外に考えられますか? 他に、あの人が私を引き留める理由なんてありえないでしょう? 弟みたいに可愛がってくれていた頃ならいざしらず、山南さんの時には皆の前で罵倒までした私です、こんなに険悪な関係で引き留めたいと思うはずがない」
きつく両手を握りしめた。
「あの人にとって、私はもう切り捨てられた人間なのです。隊のために、引き留めているに過ぎない」
「そんな事あるはずないだろう。だいたい、おまえも土方さんを避けてきたじゃないか。お互い様だろうが」
「私はあの人に逆らったのです……!」
総司は顔をあげ、叫んだ。声が掠れる。
「皆の前で、恥をかかせた。なのに、それまでと同じようにつきあっていけるはずがないでしょう? いくら後悔しても、あの人は二度とふり返ってくれなかった。土方さんの中に、私の存在なんてもうないのです。苦しくてたまらないのに……こんな処から逃げ出してしまいたかったのに……っ」
「だから、逃げ出すのか。おまえは何もかも捨てて、逃げようとしているのか」
斉藤は手をのばし、総司の肩を掴んだ。
鳶色の瞳がまっすぐ見つめた。
「おまえはそれでいいだろう。だが、土方さんはどうなる? どれだけ苦しむと思うんだ」
「土方さんが苦しむ……?」
総司は目を見開いた。そして、思わず笑いだした。
「そんな事あるはずないでしょう! あの人が私のために苦しむなんて。土方さんにとって、私はただの駒でしかありえないのに」
「それは、おまえが勝手に思っているだけかもしれないだろう」
「見ていればわかるじゃないですか」
総司は珍しいほど冷たい声音で云い放った。
「山南さんが亡くなってから、私に対する態度を見れば、わかります。土方さんは私を切り捨てた、もう二度とふり返ってくれることなどないのです」
「どうして、そう思い込むんだ。土方さんと、まともに話をしたこともないのに」
「話も何も……私は、聞きましたよ。土方さんはどう思いますか? と。その答えが、処断するだった。それでどう判断しろと云うのです」
立ち上がり、総司は部屋を横切った。障子に手をかける。
そのほっそりとした後ろ姿に、斉藤は声をかけた。
「総司、本当に後悔しないのか」
「……」
「あとで悔いても、遅いんだぞ」
「……もう決めたのです」
小さな声だった。少し掠れた、だが、凛としたものを秘めた声。
総司は静かに答えると、障子を開いた。すっと部屋を出ていく。
「……」
その後姿を見送り、斉藤はため息をついた。
瞬く間に日が過ぎ、総司が屯所を出る日がきた。
朝早くに、伊庭がわざわざ迎えにきてくれた。玄関先に出てきた総司に、ほっとしたような表情になる。
「何です?」
「いや、ちょっと心配していたからさ」
「……?」
不思議そうな総司に笑いかけ、斉藤は総司の後ろに視線をやった。そこには、心配そうな表情の近藤が佇んでいる。他に、斉藤や原田などの姿があったが、土方の姿はどこにもなかった。
それに心なし安堵しつつ、伊庭は丁寧に頭を下げた。
「朝早くから失礼します。総司はしっかり療養させて頂きますので、ご安心下さい」
「……」
近藤は何か伊庭にむかって云いかけたが、結局、首をふるだけにとどめた。総司に視線を移し、歩み寄る。
「総司」
「はい」
「元気になって早く戻って来ることを、願っている」
「近藤先生……」
こくりと頷いた。優しく穏やかな恩師から離れることも、辛い。
だが、もっと辛いのは、彼から離れることだった。自ら選んだ道とはいえ、胸がきつく締め付けられる。
それをふりきるように、総司は踵を返した。伊庭と肩をならべ、歩いてゆく。
「……」
近藤はその姿が見えなくなるまで、見送っていた。やがて、総司たちが視界から消えると、深くため息をつく。
玄関をあがり、その足でまっすぐ副長室に向かった。部屋に入ってみれば、土方はいつものように務めをとっている。
「歳」
声をかけてから、近藤は腰を下ろした。
「総司は出ていったぞ」
「……そうか」
土方は筆を走らせる手をとめることもなく、答えた。感情のない声音だ。だが、長年のつきあいのためか、近藤には、土方の中にある葛藤や苦しみが痛いほど伝わってくる気がした。
静かな声で問いかけた。
「本当に、とめなくて良かったのか。無理にでも引き留める手段はあったと思うが」
「近藤さん」
喉奥で低く嗤った。
「俺が総司を無理にでも引き留めていたら……殺していたぜ? それでもよかったのか」
「! それは、よくないが、しかし」
「なら、無事ことが済んでめでたしめでたしじゃねぇか。穏便に済んでよかったと、喜んでくれよ」
「歳……」
自暴自棄になっているとしか思えなかった。土方にしては、あまりにも投げやりな物言いなのだ。
近藤は眉を顰めた。
「あまり、自分を追い詰めるな」
「そんなつもりはねぇよ」
土方はため息をつくと、筆を置いた。近藤の方へ向き直り、微かに笑ってみせる。
「今更どうこう云っても仕方ねぇだろう。総司は出ていっちまったんだ」
「……」
「まぁ、俺もあいつのことは忘れるよ。その方がお互い、いいのさ」
そう云いきると、これで話は終わりだとばかりに土方は再び文机の方へ向き直った。筆をとり、仕事のつづきを始める。
その背を眺めながら、近藤は唇を噛みしめた。
総司は家の中を見回した。
小奇麗な家だった。小さな庭もあり、とても静かで落ち着ける。確かに、療養には最適だろうと思った。
「片づいたかい?」
部屋に入ってきた伊庭が、訊ねた。それに、小さく笑ってみせる。
「そんなに荷物もないですから」
「びっくりするぐらい、少ないねぇ。ま、総司はあまり物欲がなさそうだから」
「欲しいものがないだけです」
そう云ってから、総司は思った。
欲しいものがないなんて、嘘だ。
渇望するほど、欲しいものはある。だが、それはものではなかった。
この世でただ一人。
狂おしいほど愛しい男の心が欲しかった……。
(……土方さん……)
一度だけ心の中で呟いてから、総司は視線をあげた。
にっこりと伊庭にむかって、笑いかける。
「伊庭さんには色々と迷惑をかけますが、これからよろしくお願いしますね」
「迷惑なんかじゃねぇよ」
伊庭は肩をすくめた。
「おれがしたいからしているだけの事さ。可愛い総司と、しょっちゅう逢えるんだ、こんな嬉しいことはないね」
「もう、またそんな事ばかり云って」
首をすくめるようにして笑い、総司は畳の上に腰を下ろした。日差しが障子ごしに入ってくる。
それを心地よげに受ける総司に、伊庭は話しかけた。
「身の回りの世話は、近くの娘っこを雇ってあるから、それに任せればいいさ」
「そんなの自分で出来ますよ」
総司は首をふった。
「道場にいた頃は、皆の世話をしていたくらいなんですから。料理も出来ますし。断って下さい」
「でも、それじゃ、療養にならねぇよ」
「なりますよ。自分のこと以外することないんですから。退屈で仕方ないし」
「おれが遊びにくるさ。まぁ……ここに住んでもいいけど、それじゃ、総司も息がつまるだろう?」
さり気なく口にした言葉に、総司は何も感じなかったようだった。
「え、別に構いませんけど?」
あっさり答えられ、思わず黙り込んでしまう。
悔しい話だが、総司の中で、伊庭は友人にすぎないのだ。
心を許してはくれているが、そういった形での好意は持っていない。
今も、総司は一途にあの男を愛しているに違いなかった。
「総司」
一つため息をついてから、伊庭は云った。
「そう簡単に許されたら、困っちまうんだけどな」
「え……?」
「おれは、総司が好きなんだぜ」
「……」
不思議そうに、総司は伊庭を見つめた。伊庭の言葉の意味を理解していないらしい。
仕方なく、伊庭は手をのばした。総司の細い肩を抱き寄せながら、耳もとに唇を寄せる。
「おれは総司に惚れている……念弟になってくれねぇかい」
「え……っ」
総司は驚いたようだった。伊庭の腕の中で、体を固くしている。
だが、突き放すことはなかった。もともと土方に片恋してきた身のうえだ。衆道に嫌悪感などあるはずもなかった。
「伊庭さんが私を……?」
「そうじゃなきゃ、こんな強引な事はしねぇよ」
自嘲するように笑った伊庭を、総司は見上げた。大きな瞳で、じっと探るように見つめてくる。
やがて、ゆっくりと訊ねた。
「私を隊から出した事には……伊庭さんの都合も入っている……?」
「そうだと云ったら、怒るかい?」
首をかしげてみせた伊庭に、総司は「いいえ」と答えた。細い指さきで伊庭の着物を掴みながら、言葉をつづける。
「恋って、そういうものでしょう? 身勝手なものだし、相手を自分のものにしたいと欲するのも、当然のことだから」
「……」
「伊庭さんの気持ちが本当なのだと、わかりました。でなきゃ、こんな事できませんよね」
くすっと笑った。
「ずっと不思議に思っていたことが、理解できた感じです」
「不思議に思っていたって、何を」
「だから、どうして、伊庭さんはこんなにも親切なんだろうって。でも、そういう下心があった訳ですよね」
「そうさ」
伊庭は悪戯が成功した少年のように、声をあげて笑った。
「下心ありまくりだった訳さ。ま、本当はもっと時をかけていくつもりだったけどね」
「でも」
総司はきれいに微笑んだ。
「まだ、私を手に入れてはいませんよ。まだまだ時をかける必要があるんじゃないですか?」
「確かに、そうだけど」
伊庭は身をかがめ、総司の愛らしい顔を覗き込んだ。
「一緒に住めば、ぐっと早くなるぜ?」
「お断わりします」
「おや? さっきは許してくれたのに」
「下心をもった人と一緒に暮らすなんて、出来ません。私は……想う人がいるから」
不意に、総司の声音が沈んだ。
どうしても、土方のことを口にする時、気持ちが翳ってしまうのだ。先ほどまでの明るさなど欠片も残さない表情で、目を伏せる。
そんな総司を、伊庭は見つめた。やがて、低い声で問いかける。
「土方さんのことかい……?」
「!」
弾かれたように、総司は顔をあげた。目を見開いている。
それに、伊庭は思わず笑った。
「鳩が豆鉄砲くらったみたいだね」
「知って、いたのですか。知っていて……隊から私を出したの?」
「総司が苦しんでいたからさ。土方さんとの関係が冷え切っていることも全部、わかっていたよ。でも、本当は黙っていようと思っていた。云っても仕方のない事だし、総司が辛い思いをするだろうから」
「……っ」
彼の優しい声に、胸がつまった。
下心なんかじゃない。
伊庭は、総司が苦しんでいるのを知っていたからこそ、手をさしのべてくれたのだ。
強引にでも、あの場所から連れ出してくれた。
愛する男との関係に絶望しながら、それでも、狂ったように土方だけを恋焦がれていた場所から。
「伊庭…さん……っ」
気が付けば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
俯いたまま泣き出した総司を、伊庭が柔らかく抱きよせてくれる。その男の胸に顔をうずめ、総司は泣いた。
ゆっくりと背を撫でてくれる彼の手が、心地よい。
「……よく我慢したね、総司はよく頑張ったよ」
「……っ」
声もなく泣きつづける総司を、伊庭は抱きしめた。
まるで子供のような寝顔だった。
泣き疲れ、眠ってしまった総司を、伊庭は見つめていた。
縋るように伊庭の手を握りしめた総司が、何よりもいとおしく可愛い。
(愛してる……)
そっと心の中で囁いた。
江戸にいた頃から、愛してきたのだ。一度は諦めた恋だった。だが、もう二度と諦めるつもりはない。
あの男に返す気は決してないのだ。
(土方さん、あんたには返さないよ)
今朝、土方は見送りに出てこなかった。おそらく己を抑えきれないためだろう。
矜持の高い男だ。醜態など晒せるはずがなかった。
だが、それが彼の弱点でもあった。
あの矜持がある限り、行動を起こすことは一切出来ないのだ。総司をどれ程愛していても、なりふり構わず奪い返しにくることはできない。
ましてや、総司に膝を折り、懇願することなどありえないだろう。
だが、伊庭には出来るのだ。
新選組副長である土方のように背負うものがないため、面子も立場も気にする必要がなかった。
それに、ここは京だ。江戸にいる頃より、自由に振る舞える。
伊庭は一切手を緩めるつもりはなかった。何としても、総司を己のものにしてしまうのだ。
罪の意識はなかった。総司も云っていたではないか。
恋は、身勝手なものだと。
「確かに、身勝手さ」
自嘲するように、笑った。
そして、手にいれようとしている若者を、優しく抱きしめたのだった。