「……俺が許さん」
低い声だった。
押し殺された感情の烈しさがわかる、凄みのある声音だ。
ゆらりと青白い焔が土方の躰を包みこんだような、そんな錯覚さえ覚えた。
土方は鋭い瞳で伊庭を見据えた。
「そんな事、俺が絶対に許さん。総司はおまえの元には行かさねぇよ」
「行かさない、か」
伊東は肩をすくめた。
「けどさ、土方さん、あんたがそんな事を云えるのかね」
「……」
伊庭の言葉に、土方はきつく眉根を寄せた。それに、人の悪い笑みをひらめかせる。
「あんたの実の弟でもない、ましてや、念弟でもない。そのあんたが、何で総司の身の振り方に口出しするんだい」
「……」
「これは、おれたちの事だよ。総司はおれの念弟だ。放っておいてもらいたいね」
そう云いきるなり、伊庭は背を向けた。さっさと歩き出してゆく。
背に男の鋭い視線を感じたが、ふり返る気にはなれなかった。これ以上、恋敵と言葉をかわす気にはなれなかったのだ。
あの男は総司を愛している。
それは確かな真実だった。
だが、総司は知らないのだ。知らないからこそ、傷ついて苦しんでいる。
救ってやりたいと云うのなら、その事を教えてやればよかった。だが、そんなこと出来るはずがないのだ。
伊庭もまた、総司を心から愛しているのだから。
江戸にいた頃からずっと想いつづけてきた相手が、ようやくふり返ってくれたのだ。笑いかけてくれたのだ。
その存在を奪われたくないと願うことは、罪なのだろうか。
いや、罪なのだろう。
総司を救いたい、幸せにしてやりたいと願いながら、その手を掴んで閉じ込めようとしている己は―――
屯所を出た伊庭は固い表情でしばらく歩いていたが、やがて、道傍にあった神社へと足を踏み入れた。
しんと静まり返った神社は、人気がない。
参道近くの石段に腰をおろすと、吐息をもらした。
両手で顔をおおい、呻く。
「……総司……っ」
先ほど、土方と対していた時とは全く違う、弱弱しい声音だった。
「すまねぇ……本当に、すまねぇ」
謝罪の言葉が唇をついて出た。
自分で自分がいやになる。
身勝手さがたまらなく嫌だった。
だが、それでも、出来ないのだ。総司を手放し、あの男に渡すことがどうしても出来ない。
そうなれば、総司が幸せになるとわかっていても、それでも。
「おれだって、愛しているんだ。総司、おまえを愛している……っ」
その幸せを願ってやることが出来ないほど。
罪深い恋だと、思った。ずっと永遠に、この想いは抱きつづけていくのだろう。日夜、総司の笑顔を見るたび、その総司を気も狂うほど愛しているあの男を思い出し、嫉妬と罪悪感に息もできなくなるに違いない。
だが、それでよかった。それでも、総司が欲しいのだ。
どんなに苦しくても辛くても、あの愛しい存在さえ、この手にあるのなら構わない。
己は地獄に落ちてもいいのだ。
「……総司」
その愛しい名を呼び、伊庭は固く瞼を閉ざした。
……殺してやろうかと思った。
いっそ、伊庭の言葉どおり斬ってやればよかったのだ。
(ざまぁねぇよな)
伊庭が去った後、土方は薄く嗤った。
見事にしてやられたのだ。総司に念兄がいると知りながら、その相手を調べようとしなかった。正直な話、恐ろしかったのだ。総司が誰かのものになっていることを、目のあたりにすることを恐れていた。
情けない話だった。現を直視しなかった挙句が、このざまだ。
局長室へ向かいかけていた足を返し、自室へ戻った。
正直な話、近藤と言葉をかわす気になれなかったのだ。話をすれば、当然、総司のことになるだろう。そんなもの聞きたくもなかった。
「……」
副長室へ戻ると、土方は後ろ手に障子を閉め切った。大きくため息をもらす。
仕事上であるのなら、幾らでも冷徹に振る舞える。
どんな辛辣な攻撃を受けても、平然と切り返せる自信があった。だが、総司に関してだけは駄目なのだ。
どうしても冷静に振る舞えない。それは、愛しているからなのか、愛されたいと願っているからなのか。
己の情愛の深さに、激しさに、つくづく嫌になった。ここまで男を貶める恋ならば、もう手放してしまった方がいいに違いないのに。
それでも、駄目なのだ。総司を失うことは、己の世界を失うことだった。手足をもがれるよりも辛い。
自分がどうなるか、わからない程だった。
常に傍にあった総司が離れていった時でさえ、我を忘れそうになったのだ。今もずっと地獄を味わいつづけている。なのに、まだこれ以上なのか。これ以上、自分は苦しまなければならないのか。
あの時、山南のことで嫉妬し、断じた自分が間違っていたのか。いや、総司の事がなくても、あの判断は下されていた。そうではない、総司との関係だ。ねじれてしまった関係を悔いつつも、いつか元に戻ることができるとたかをくくっていた自分が、愚かだったのだ。傷はそんな簡単に癒えはしないのに。
総司にあたえた傷の深ささえ、自分は理解していなかった。そして、その傷を癒し、抱きこんだのはあの伊庭なのだ。
伊庭が傍にいたからこそ、総司は笑顔をとり戻したのだろう。念兄弟になったのだろう。
そして、今、総司を躰ごとさらっていこうとしている。
「……させるものか」
土方は低い声で呟いた。だが、すぐその傍から、本当にとめる事ができるのかと思う。
総司は今、土方などいないかのように振る舞っていた。まるで知らぬ顔で通り過ぎていく総司に、何度胸奥に痛みを覚えたことか。だからこそ、無表情を保ち、総司の言動など些細な事にすぎぬという風に振る舞う他なかったのだ。
だが、そんな彼が、総司をとめることが出来るのか。
『これは、おれたちの事だよ』
そう云い捨てた伊庭の声が、耳奥に蘇った。
土方など関係ない、部外者なのだと、思い知らせるような言いぐさだった。実際そうなのだろう。土方には、二人の間に立ち入る事も出来ない。
そんな彼が総司をとめられるとは、到底思えなかった。たとえ、土方が跪き、懇願しても、総司は冷たい瞳で見下すだけだろう。それどころか、背をむけ去っていくに違いない。
だが、そんなこと我慢できるはずがなかった。許せないのだ。
総司を奪われるぐらいなら、いっそ、この手で―――
(……殺してやろうか)
呻くように思った。
のろのろと手をあげ、己の手のひらを見据えた。
この手で、総司を殺す。
本当に、そんな事ができるのだろうか。あの愛らしい生き物の命を奪うなどという暴挙が、自分に出来るのか。
ずっと守ってきたのだ。愛してきたのだ。
幸せであるように、誰よりも幸せであるように願い、育ててきた。その総司を殺すというのか。
(……総司……っ)
土方は、己の中にある黒い衝動に、固く瞼を閉ざした。
「え?」
総司は驚き、目を見開いた。
夕方、伊庭に呼び出され、小料理屋におもむいたのだ。いつもの楽しい逢瀬だと思い、すぐさま応じた総司だったのだが。
伊庭の話は、驚くようなものだった。
「どういうこと……ですか?」
「だからさ」
伊庭は、ちょっと躊躇いつつ、云った。
「新選組の屯所を出て、外で療養しねぇかいって云ったんだ」
「屯所を出るって……」
「もちろん、脱退とかじゃねぇよ。ただ、総司の体のために療養が必要だ。少し場所をかえて、落ち着いて療養してみたらどうだいって聞いているのさ」
「で、でも」
総司は戸惑いがちに瞳を揺らした。
「私……勝手には出来ませんし、それに、療養するほどの事じゃ……」
「池田屋で血を吐いたんだろ?」
「……」
すうっと、総司のなめらかな頬が青ざめた。
労咳であることを云われるのは、総司にとって辛いことなのだ。
それを知りつつ、療養を口実につかまえようとする己を、伊庭は嫌悪した。
だが、今更、引き下がるつもりはない。
「おれは、おまえを連れ出してぇんだ」
そう云って、伊庭は総司の手をとり、握りしめた。
「総司が何か苦しんでいることも、全部、わかっているさ。それを、おれが救えるなんざ思っちゃいねぇ。ただ、少しの間、離れてみねぇかと云っているんだ」
「離れる……?」
「そうさ。少し離れて落ち着けば、また何か違って見えてくるかもしれねぇだろ? おまえは……ひどく追い詰められているように見えるよ」
痛ましげな言葉に、総司は胸が突かれる思いがした。
確かに、追い詰められているかもしれなかった。
一縷の望みもない絶望的な恋に。
兄弟のように過ごしていた頃なら、よかった。弟のように可愛がられることで、自分を納得させることが出来た。だが、今はそれさえ許されないのだ。
彼の傍に寄ることも、笑いかけられることも、話しかけることも許されぬ恋。
幸せなど、そのどこにもなかった。
あるのは、ただ、真っ暗な奈落の闇だ……。
「そう……かもしれませんね」
総司は長い睫毛を伏せた。きゅっと桜色の唇を噛みしめる。
「伊庭さんの云う通りかもしれません。私は追い詰められているのかもしれない……」
「総司」
「ただ、隊から出るのは……難しいと思うのです。新選組には隊規がありますし」
「だから、療養だと云っているのだろう?」
「でも」
「実は、近藤さんの了承は得ているんだ」
伊庭は少し躊躇いがちに云った。先走ったことで、総司が怒りだすかと思ったのだ。
だが、総司はちょっと目を見開き、「いつのまに……」と呟いただけだった。
「この間、隊を訪れて話をつけてきた。その、先走っちまってごめんよ。おまえが心配でたまらなかったからさ」
「いいのです。私のことを思って下さっての事だとわかっていますから。でも……そうですか、近藤先生は了承して下さったのですか」
安堵したような言葉を口にしながら、総司はどこか物憂げだった。
やはり、土方のことが気にかかっているのだろう。それを思うと、伊庭は罪悪感と嫉妬がない混ざった気持ちに襲われたが、堪えた。
そのまま口早に告げた。
「場所はちゃんと用意する。療養のための家さ。おれもそこから通うつもりだし、医者にも見せるよ。総司は安心して、休んでりゃいいのさ」
「そこまで、伊庭さんに迷惑をかけるなんて」
「迷惑じゃねぇよ。おれが総司と一緒にいたいのさ。駄目かい?」
悪戯っぽく笑いながら訊ねる伊庭に、総司は目を見開いた。それから、くすっと小さく笑う。
その可愛い笑顔に、伊庭は安堵した。
「じゃあ、総司も承知ってことでいいかい? さっそく話を……」
「あ、待って下さい」
慌てて、総司はそれを止めた。伊庭が「え?」という表情になるのに、頭を下げる。
「ごめんなさい。少しだけ待って欲しいのです」
「……」
「あんまり急な話で、びっくりして……少し考えたいんだけど、駄目ですか?」
「ごめんよ」
伊庭は無意識のうちに急いていた己に気づき、顔を赤くした。どこまで焦っているのかと、自分を叱咤したくなる。
ゆっくりとつきあっていこうと、決めたのではなかったのか。
総司の心を、何よりも大切にしてやりたいのに。
「ごめん、おまえの気持ちも考えずに」
「いえ、そんな謝らないで下さい。ただ、大事なことだと思うから、しっかり考えたいのです」
素直で真摯な言葉だった。
可憐な容姿と裏腹に、総司はもともと芯の強い若者なのだ。だからこそ、新選組一番隊組長などという地位にもいられるし、土方も伊庭も惹かれる。
だが、そんな総司がどこかへ消えたくなるほど追いつめられるなど、余程のことしか云えなかった。伊庭も当然、その理由をわかってはいるが、口には決して出せない。
黙ったまま見つめる伊庭の前で、総司はもう一度頭を下げた。
新選組を出る。
それは、とりもなおさず土方から離れることを意味していた。
もし、これが昔であるのなら、即座に断ったことだろう。土方の傍にいて、彼を支え続けることが総司の生きがいだったのだから。
だが、今は違った。
土方との関係は完全に冷え切り、もはや修復不可能な状態だ。顔をあわすことも稀で、逢っても、公の副長と一番隊組長としての会話だった。挙句、先日の言葉だ。
総司は切なくて哀しくてたまらなかった。
恋しい男にすげなくされる日々は、心ばかりか体までも苛んでゆく。いつまで堪えられるのか、自分でもわからなかった。
いつか爆発してしまいそうで、怖い。みっともない処は見せたくなかった。後で悔いる惨めな思いだけはしたくないのだ。
なら、伊庭の云うとおり、離れた方がいいのか。
手遅れにならぬうちに、離れてしまった方がいいのだろうか。
優しい伊庭は、決して聞き出そうとしない。だが、総司が何かに思い悩んでいることを、知っているようだった。
それが土方のことだと知っているのか、わからないが……。
(……どうすればいいの)
総司は玄関の框をあがりながら、ため息をついた。
だが、顔をあげたとたん、息を呑んでしまう。
出かける処なのか、土方がそこに佇んでいたのだ。鋭い視線をむけられ、体中がすくみ上る。
「……っ」
慌てて頭を下げた総司に、土方は低い声で云った。
「……伊庭と逢っていたのか」
突然の問いかけに、驚いた。こんなふうに声をかけられることなど稀だったし、それに何よりも、その問いかけ自体が驚きだった。
どうして、伊庭との逢瀬を土方が知っているのか。だが、考えてみれば、先ほど、伊庭は近藤に話を通じてあると云っていたのだ。当然、土方にもその話はいっているに違いない。
総司は素直に返事をした。
「はい、逢っていました」
「そうか」
しばらくの間、土方は無言だった。端正な顔には何の表情もなく、僅かに目を伏せている。
やがて、ゆっくりとした口調で訊ねられた。
「新選組を出ていくのか」
「療養のことなら、まだ……少し決めかねています」
「何故」
「……」
あなたがいるからだとは、到底云えなかった。だが、他に何も思いつかず、黙り込んでしまう。
それに、土方は淡々とした口調でつづけた。
「伊庭はいい奴だ。あの男が念兄であるのなら、おまえが隊を出たいと思うのも当然のことだろう。確かに隊規はあるが、療養のためなら致し方ない」
「……はい」
「後のことは心配するな。しっかり養生してくればいい」
そう云うと、土方は背をむけた。総司の横を通り過ぎ、框から降りる。
その一連の動作を、総司は呆然と見つめていた。
(どうでも……いいの?)
思ったのは、その言葉だった。
まったく関心がないと云わんばかりの態度。おまえなど関係ないのだから、不要なのだから、好きにすればいいと、突き放されたのだ。
この世で誰よりも愛しい男に。
「……土方さん」
気がつけば、その名を呼んでいた。
思わず手をのばし、縋るように彼の腕を掴む。
「……」
ふり返った土方が、無言のまま目を細めた。