鈴のような笑い声が響いた。
緑豊かな道だった。南禅寺への道を歩きながら、伊庭が身振り手振りも大きく、最近あった出来事を話す。
それに、総司は思わず笑った。
「やだ、それって本当ですか?」
「もちろんさ。総司は、やってみたいと思わないかい?」
「え、ちょっと怖いですよ」
「おれがついているから、大丈夫。今度、一緒に行ってみようぜ」
明るく笑いながら誘ってくれる伊庭に、総司はこくりと頷いた。なめらかな頬が上気している。
土方の前で見せていた憂い顔は、そこになかった。本来の性格のまま、明るく楽しそうに笑っている。
それを満足そうに眺めながら、伊庭は総司に話しかけた。
「ところで、今日はいつまで一緒にいられるんだい?」
「あ、えーと……あと半刻ぐらいです」
「成程。さすが一番隊組長は忙しいね」
くすっと笑った伊庭に、総司は長い睫毛をふせた。
「別に……そんな忙しくありませんよ」
「そうかね。ま、あまり無理はしなさんなよ」
ぽんっと総司の頭をかるく叩いた伊庭に、びっくりして顔をあげた。すると、柔らかく髪を撫でられる。
優しい手つきだった。見上げれば、男の瞳がこちらを見下ろしている。包みこむようなまなざしだった。それに、体の力が抜けるような気がする。
恋心はなかった。
だが、伊庭と一緒にいると、気持ちが和んだ。
居心地がよいのだ。ふわりと柔らかく、気取ったり無理をしたりしないで済む。
それは昔、土方に感じた安心感だった。
ずっと兄代わりとして育て、守ってきてくれたのだ。
どんな事があっても、何があっても、彼が自分を守ってくれる。
それは絶対的な信頼感だった。だが、その信頼は突き崩された。
守られるどころか、今や、土方自身に傷つけられているのだ―――。
「伊庭さん……」
大きな瞳で見上げながら、総司はそっと問いかけた。
それに、「ん?」と伊庭は小首をかしげた。優しく促してくれるのに勇気づけられ、総司は思い切って訊ねた。
「伊庭さんは、どうしてこんなに優しくしてくれるのですか」
「優しくって……総司にかい?」
「はい。伊庭さんも忙しいはずなのに、何度も私に逢ってくれるし、優しくしてくれるし……」
「総司が好きだからだよ」
明るい声で、伊庭は答えた。悪戯っぽく笑いかける。
「それじゃ駄目かい?」
「え、あの」
「おれが総司を好いていて、それで逢いたい、優しくしたいと思ったから、しているんだ。総司があれこれ気にすることじゃねぇよ」
そう云ってから、伊庭は首をかしげてみせた。
「それとも、総司は嫌かい? おれと逢ったり、こうして一緒にいること」
「ま、まさか!」
総司は慌てて首をふった。
「そんな事あるはずありません。とっても嬉しいのです。伊庭さんといると本当に楽しくて……その、いつも感謝しているのです」
「嬉しい事を云ってくれるねぇ」
くすくすと伊庭は笑った。手をのばし、総司のなめらかな頬にふれた。
「可愛いよ、総司。このまま食べちまいたくなるね」
「た、食べる?」
不思議そうに総司が小首をかしげた。それに、伊庭は黙ったまま微笑んだ。
そうして、若者の細い肩に腕をまわすと、歩き出した。また、総司が喜びそうな話で、気持ちを弾ませる。
寄りそい歩いていく二人を、青空が静かに見下ろしていた。
総司は玄関をあがると、まっすぐ広間へと向かった。
組長たちだけの打ち合わせが予定されていた。
伊庭との逢瀬の後だった。西本願寺の屯所まで送ってきてくれたのだ。
足早に角を曲がったとたん、誰かに突き当たりそうになった。慌てて身をひき、謝る。
「す、すみません」
「……」
相手は無言だった。それに顔をあげた総司は、あっと息を呑んだ。
そこに佇んでいたのは、土方だったのだ。冷たく澄んだ瞳が、総司を見下ろしている。
総司は思わず身を竦めた。頭を下げる。
「申し訳ありません。失礼いたしました」
「……」
土方は返事一つしなかった。黙ったまま、すれ違っていく。
その背を悲しげに見送ってから、総司はまた足早に歩き出した。もう時がおしているのだ。早く行かなければ、遅刻になってしまうだろう。
だからこそ、気づかなかったのだ。
渡り廊下から、立ち去ったはずの土方が総司に鋭い視線をあてていたことを。
総司が足早に歩いてゆく。
打ち合わせのため、広間に急いでいるのだ。
それを苦々しい思いで、土方は眺めていた。
「……」
ゆっくりと目を細めた。
(……男と逢ってきたのか)
そうとしか思えなかった。
淡く上気したなめらかな頬、しっとりと艶めかしく潤んだ瞳。
まさに、男との逢瀬を終えたばかりの表情だった。
先ほどまで総司は外出していたのだ。あの愛らしい笑顔をむけたのか、その細い躰を男の手にゆだねたのか。
さまざまな光景が頭にうかび、叫びだしそうな嫉妬と怒りに、奥歯をぐっと噛みしめた。
ずっと花開くのを待ちつづけてきた存在が、今、確かに花開こうとしている。だが、それは、自分相手ではなかった。他の男のために、艶やかに花開くのだ。
到底、許せなかった。
この手で斬り殺してやりたいほどの殺意が、相手の男に対してわきおこる。
土方にとって、総司は大切な宝物だった。どれほど慈しみ、守り、愛してきたことか。もう十年以上も見守りつづけてきたのだ。
気が強く、猫のように気まぐれな少年の頃からだった。何度も引っ掻かれたり、反抗されたりしながら、それでも、手放そうとは思わなかった。
他のどんな美しい女も叶わなかった。土方にとって、総司は特別なのだ。
何を失ってもいい、何を奪われてもいい。
ただ、総司さえいてくれれば、それでよかったのだ。なのに……。
「……」
土方は微かに眉を顰めつつ、ため息をもらした。
そして、口許を引き締めると、歩き出していったのだった。
「どないしはったん?」
傍らから声をかけられた。
それに、伊庭は視線をむけた。
花街だった。祇園の一角で、伊庭はあの後、酒を口に含んでいたのだ。むろん、傍には馴染みの芸妓がいる。
いつもなら楽しく奔放に遊んだことだろう。だが、今日はあまり気が乗らなかった。
「ごめんよ、ちょっと一人にしてくれねぇかい」
そう云うと、芸妓は心配そうにしつつも頷いた。部屋を出ていく。
それを見送り、伊庭はため息をもらした。窓枠に凭れかかり、外の風景を眺めやる。
もともと、伊庭は飄々とした雰囲気をもつ男だった。
幾多もの女と逢瀬をくり返し、友人も遊び仲間も多い。そのため、物事に深く拘らず、執着心も薄い男のように見られていた。
だが、実際は、その剣と同じように、鋭く激しいものを内に秘めた男だった。感情も激しく、愛することも深く一途だ。そんな伊庭にとって、総司は特別な存在だった。
まったく総司は気づいていないようだったが、江戸の頃から想いを寄せていたのだ。もっとも、それを表に出したことはない。
当時、宗次郎と呼ばれていた愛らしい少年の傍には、いつも一人の男がいた。寄りそうにように世話をやき、甘やかし、時には叱り、自らの手で育て慈しむ男の姿があったのだ。
とても手を出せるものではなかった。二人の関係が兄弟の域を超えぬものだと、傍から見ていればわかった。だが、互いの想いがどうなのかはわからない。少なくとも、伊庭が総司に近寄ろうとするたび、男の鋭い瞳で見据えられたことは確かだったのだ。
そのため、江戸にいた頃は、さほど総司と言葉をかわす機会もなかった。
だが、京に来てから再会し、その上、今、総司の傍にはあの男の姿がないのだ。伊庭にとって、僥倖としか云いようがなかった。
本気で落とすつもりいる。江戸にいた頃から、惚れていたのだ。
猫のように気まぐれな総司を、自分の方へふり向かせるのは、なかなか大変だ。友人までは簡単にいけても、その後がもっと奥へ進むことが出来ない。
伊庭は焦るつもりはなかった。少しずつ、ゆっくりと懐へ入れていけばいいと思っていたのだ。
だが、総司の様子に、眉を顰めた。
逢うたびに元気をなくしていく総司が、ひどく追い詰められている気がしたのだ。その原因があの男にあるのかと思えば、面白くないが、愛しい者が苦しんでいる姿を見て、このままにしておけるはずがない。
伊庭は、総司を救い出してやりたいと、心から願った。しかし、一方では思うのだ。
これは思い上がりではないかと。
人を救うなど、自分に出来るのか。自分はただ、総司が欲しいだけなのではないかと。
あの男に知られれば、綺麗ごとをと冷たく嘲笑されそうな気がした。
「そんなもの、わかっているさ」
伊庭は酒の杯を投げだしながら、呟いた。
総司と別れた後だった。屯所の前で見た淋しげな笑顔が、今尚、胸奥にある。
それを思うと、胸が締め付けられる気がした。
恋を覚え始めた少年でもねぇだろうと、苦笑するが、しかし、愛しいものは仕方がないのだ。
可愛い、守ってあげたいと思う気持ちが、伊庭の矜持を凌駕する。
綺麗ごとだと云われようが何だろうが、総司を救いたかった。
その脆く柔らかな心を、守ってやりたいのだ。
猫のように気まぐれで少し我儘な性格だが、一方で、子供のように純真で初な心をもっている。そんな総司が愛しかった。愛していた。
ずっと好きだったのだ。愛してきたのだ。
あの男が手放したのなら、もう躊躇う必要はなかった。
手を放した自分が愚かだったと、後悔すればいい。
どれ程、貴重なものを失ったのか傷つけたのか、思い知ればいいのだ。
「今度は……あんたが苦しめばいい」
そう呟くと、伊庭は固く瞼を閉ざした。
その伊庭が新選組を訪れたのは、数日後のことだった。
西本願寺の屯所は広大だ。その玄関をくぐった伊庭を迎えたのは、近藤だった。
「いや、久しぶりだな」
旧知の仲でもある若者を、近藤は歓迎した。江戸の頃の仲間と逢うことが懐かしいという事もあったのだろう。
局長室に通されてから、伊庭は少しあらたまった調子で云った。
「今日は……お話があって参りました」
「話?」
小姓が運んできた茶を勧めつつ、近藤は首をかしげた。それに、伊庭は湯呑みをとりあげ、一口茶を飲んだ。
喉を潤してから、はっきりとした口調でつづける。
「近藤先生は、総司の様子をご存じですか」
「……」
一瞬、近藤は眉を顰めた。しばらく黙ってから、ゆっくりと云った。
「総司の様子とは、体のことか」
「むろん、それもあります。ですが、今日、ご相談したいのは、精神的なものです」
「……」
近藤は無言のまま、唇を引き結んだ。じっと考え込んでいる。
その彼に、伊庭は云った。
「総司はかなり追い詰められているようです。傍で見ていてもわかるほどで……」
「ちょっと待ってくれ」
不意に、近藤は伊庭の言葉を遮った。そうして、伊庭をまっすぐ見据える。
「一つ聞きたいのだが、伊庭君は、総司とどういった関係なのだ。江戸の頃は、さほど親しくなかったと思うのだが」
「京に来てから再会し、何度か外で逢っています。確かに、江戸の頃は親しくしていませんでしたが、今は……」
「もしかして……念兄弟の仲なのか」
朴訥な近藤らしい単刀直入な問いかけだった。それに、思わず言葉に詰まった。
むろん、念兄弟ではない。だが、今後、総司を己のものにしたいと願っていることは確かなのだ。
黙りこんでしまった伊庭をどう思ったのか、やがて、近藤は深々と嘆息した。
「いや、噂が流れていてな。総司に念兄がいると、だから、最近、外出も増えているのだと」
「そうですか」
「しかし……伊庭君が総司の念兄だとは、知らなかった」
愛弟子の念兄らしい男を前にして、近藤は少し困惑しているようだった。しばらく考えこんだ後、我にかえったように顔をあげた。
「すまん。話を遮ってしまったな」
「いえ」
「それで、伊庭君は総司のことで、何を云いたいのか」
「療養をさせては如何です?」
ゆっくりと、伊庭は問いかけた。驚いた顔をする近藤に、人をそらさぬ笑みをむける。
その胸奥でじりじりと燻る嫉妬や怒りなど、露とも感じさせぬ笑みだ。
「労咳の身でこの新選組にいれば、とても体を休めることなど出来ないでしょう。いずれ、私は江戸へ帰ります。その折り、一緒に連れて戻ろうと思っているのですが」
「江戸へ……?」
近藤は一瞬、何か考えるように視線を遠くへやった。だが、すぐに首をふる。
「しかし、それは……総司が納得せんだろう」
「私が説得します。これは総司のためです。このままでは、体も心も壊れてしまうに違いない」
「いや、だが……」
「では、これならどうです」
伊庭は静かな声音で、提案した。
「一時、私のもとで預かるという形にしては」
「伊庭君のもとで?」
近藤は驚き、目を見開いた。それに、たたみかけるようにして、言葉をつづける。
「少なくとも、ここよりは療養もできますし、隊務もない。医者にもみせて、きちんと休ませますよ」
「そうか……なるほど」
江戸へ帰すより、余程いい提案だった。これなら、総司も受け入れやすいだろうし、近藤自身も安心だった。
むろん、しばらくの間であると考えるべきだが。
頭から否定しない近藤の様子に、伊庭は内心胸を撫でおろした。強引すぎるかと危惧していたのだ。
だが、そうでもしなければ、あの男の手から救いだすことはできないだろう。
……わかってはいるのだ。
この感情に、嫉妬や怒りなど、生々しい男の情愛が絡んでいるということを。
ただ、それと同時に、否、何よりも、あの若者を守りたいという気持ちが強かった。
愛しい笑顔も、その脆い心も。
「総司には、私の方から話してみます」
そう云った伊庭に、近藤は頷いた。
「よろしく頼む。むろん、おれの方からも話しておこう」
「お願いします」
一礼してから、伊庭は立ち上がった。部屋を出たとたん、吐息がもれる。
だが、まだここは新選組の屯所内だった。気を抜く訳にはいかないのだ。
「……」
表情を引き締め、伊庭は歩き出した。次の瞬間、気がついた。
向こうから、一人の男が歩いてくるのだ。局長室へむかっているのだろう。
土方、だった。
「――」
伊庭が気づいたのと同時に、土方も気づいたようだった。こんな処にいるはずもない男の姿に、怪訝な表情になる。
かなり距離が近づいてから、伊庭はにこやかに挨拶をした。
「久しぶりだね、土方さん」
年上ではあるが、昔から、土方とは花街でも一緒に遊んだことのある仲だ。その上、土方は知らないが、今や総司をはさんでの恋敵だった。口調に遠慮はなかった。
土方は感情のない声で答えた。
「随分と久しぶりだな……伊庭、しかし、何故こんな処にいる」
「近藤さんに会いにきたのさ」
そう云った伊庭を、より訝しく思ったようだった。幕臣である伊庭がわざわざ訪れてくるなど、何事だと思ったのだろう。江戸にいた頃とは、お互い、立場も違うのだ。
だが、追及する必要を覚えなかったのだろう。すっと視線をそらした。歩をすすめ、すれ違いかける。
その瞬間、伊庭の声が落ちた。
「……あいつ、貰っていくよ」
「――」
土方は眉を顰め、ふり返った。
意味がわからないという表情だ。
「あいつ?」
「そうさ、総司のことだ。おれが貰っていく」
さり気ない口調で云ってのけた伊庭に、しばらくの間、土方は無言だった。押し黙ったまま、切れの長い目で見据えている。
やがて、低い声がその唇からもれた。
「……そうか、おまえか」
「何がだい」
「総司の念兄だ。伊庭……おまえだったのか」
感情の押し殺された声音だった。だが、逆に、男の中にある怒りと激しい情念を感じさせる。
剣呑な光を湛えた瞳が、伊庭を見据えた。それを、伊庭はまっすぐ見返した。
相変わらずいい男だと思う。
江戸にいた頃、彼をめぐって女たちが呆れるほど争いをくり返していたものだ。そんな騒ぎも他人事のように、知らぬ顔で酒の杯を口に運んでいた男の姿が、思い起こされる。
艷やかな黒髪に、切れの長い目。黒曜石のような瞳、形のよい唇。
一見すれば優しげな顔だちだが、引き締まった口許や黒い瞳にある冷徹な光が、男の中にある激しさを垣間見せる。
今も、すらりとした長身に隊服である黒い着物を纏っているさまは、端正そのものだった。
だが、どこか、しなやかで獰猛な獣の息遣いを感じさせる。
「そうだと答えたら?」
静かに聞き返した伊庭に、土方は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと目を細める。
それに、小さく肩をすくめてみせた。
「あんたが大事にしてきた総司に、手を出したんだ。斬るかい?」
「……」
「どのみち、総司は貰っていく。あんたの元に置いておいたんじゃ、いずれ壊されちまうからね」
「どういう意味だ」
「この隊から出して、おれの元に引き取るのさ。近藤さんにも了承を得た」
「――」
思ってもみない事だったらしく、土方の目が見開かれた。愕然とした表情で、伊庭を見ている。
やがて、突き上げる怒りを堪えるように、男の拳が固く握りしめられた。