どんな美しい花魁にしなだれかかられても、全く動じなかった男だった。
だが、今、どこか少し照れたような表情をしている。それが意味することは、たった一つだった。
「……まさか、総司と想いが通じたのか」
思わず声をひそめて問いかけると、土方はかるく首をかしげた。
「いや、そうじゃねぇな。あいつは伊庭の念弟さ」
「なら、何もなかったのか。もめたりしなかったのか」
「もめたりはしなかったが、何もなかったという訳ではねぇな。契りを結んだ」
淡々とした口調で、今度もまたあっさり云ってのけた土方に、近藤は目を瞬いた。
まったく意味がわからないのだ。想いが通じていないのに、契りを結んだとは、いったいどう意味なのか。
「言葉どおりさ。想いは告げていないし、総司に想いを寄せられてもいない。ただ、体の関係は持ったんだ」
「……歳、おまえ」
長い沈黙の後、近藤は深々とため息をついた。
「それ、まずくないのか。そんなややこしい事をして、いったいどんな得策になると云うのだ」
「何もねぇよな。ただ、総司に告げられるような状況じゃなかったんだ」
「かといって、このままという訳にはいかないのだろう。それでは、まるで総司を……遊び女扱いしているという事になるのではないのか。だいたい、総司は何故、おまえを受け入れたのだ」
「わからねぇ。総司は伊庭とまだ契りは結んでいなかったようだがな」
「ちょっと待て」
近藤は思わず片手をあげ、話をとめた。しばらく考え込んでから、顔をあげ、土方を真っ直ぐ見る。
「どう考えても、それはおかしいだろう。やはり、伊庭と総司はただの友人ではないのか。念兄弟であれば、総司がおまえを受け入れるはずもない」
「……」
「だいたい、総司の性格を考えてみろ。あれほど自分にも他人にも厳しい総司が、念兄がありながら他の男に躰を任せるような事をするとは、到底思えんのだ。伊庭と総司はただの友人だと、おれは思うぞ」
「もし……そうなら」
黙って近藤の話を聞いていた土方が、低い声で云った。感情が押し殺された、だが、それだけにこの男の中で燻る激情が伝わってくる声音だった。
「俺は総司をこの手に連れ戻す。必ず伊庭から奪い返してやる」
「歳」
慌てて近藤は膝をすすめた。
「事を決して荒立てるな。間違っても伊庭と斬りあいになるような事だけは、避けろよ。そうなって一番傷つくのは、総司なんだぞ」
「……」
土方の黒い瞳が揺れ動いた。
やはり、愛しい総司を傷つけてしまう事が、この男の最も恐れることなのだ。
「……わかっているさ」
ぶっきらぼうな口調で答えた。まだ心配そうに見ている近藤に、笑いかけてみせる。
「近藤さんが心配するような事はしねぇよ。俺も、自分の立場ぐらいわかっている」
「歳……」
「だが、俺は総司を連れ戻すつもりだ。それだけは変わらない」
きっぱりと云いきった土方に、近藤は黙然と頷いた。
むろん、未だ不安はある。
だが、こうなっては当事者同士に任せる他ないのだ。昔から云うではないか、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られろと。間違っても、近藤は馬に蹴られる愚か者にはなりたくなかった。
深々とため息をついた近藤の前で、土方はかるく肩をすくめた。そして、再び箸をとりなおすと、食事の続きを始めていったのだった。
伊庭が訪ねてきたのは、土方と事があった翌々日のことだった。
一日経っていたので、総司もだいぶ動けるようになっていたし、大丈夫なはずだった。だが、家に入ってきた伊庭は、総司の顔を見たとたん、気づいてしまったのだ。
「……まさか」
伊庭は愕然とした表情で、総司を見つめた。その意味がわからなくて、総司は目を瞬いた。
「? 何ですか」
「ここに……土方さんが来たのかい?」
「――」
総司は嘘がつけない性質だ。さっと顔を強張らせたのが、確かな証だった。
それに、伊庭は膝上に置いた手を握りしめた。
「いや、それだけじゃねぇ……総司……」
言葉を途切れさせたのは、伊庭の嫉妬ゆえだった。どうしても、その先を口にすることが出来なかったのだ。
まさかとは思った。
だが、明らかに総司の様子は変わっていた。
あの男の刻印が色濃く残されているのだ。
先日まで、純真であどけなく、気が強い猫のようだった総司が一変した。
幼いながらも、匂いたつような色香がその華奢な肢体にあるのだ。
長い睫毛は煙り、その瞳はしっとりと潤んでいた。なめらかな頬は上気し、愛らしい唇は生き生きと艶めいている。
男を教えられたとしか、思えなかった。
「……」
伊庭の胸に、激しい焦燥と怒り、嫉妬がこみあげた。
新選組から連れ出したことで、安心し、隙があったのか。
いったい何処で二人は出逢ってしまったのか。
ならば、一昨日、自分が訪れた時、あの男はこの家にいたという事なのか。
総司も、伊庭の様子に気づいたのだろう。怯えたような表情になった。
言い逃れもできないと思ったのか、小さな声で告げる。
「私……土方さんと逢いました。そして、この家で契りを結んだのです」
「……」
「ごめんなさい。伊庭さんに念弟になってくれと云われていながら、でも、私はどうしても土方さんが忘れられなかった……」
「……」
伊庭は黙り込んでいた。
ここで怒りと嫉妬を総司にぶつけるのは、簡単だった。
だが、それでは、総司の心も何もかも失ってしまうだろう。
伊庭にとって、総司は愛しい存在だった。あの男から奪い取ってやりたいと、渇望した存在だ。
それを奪われた今、嫉妬と怒りをむき出しにしても、総司が土方のもとへ逃げるだけだった。
恋敵の手助けなどしたくなかった。
「……いいさ」
やがて、僅かに掠れた声で答えた。
不安げな総司に、笑いかけてやる。
「おれも男だ、潔く引き下がるよ」
心にもない言葉だった。総司への想いだけは、引き下がれるはずもないのだ。
「土方さんと想いが通じたのかい?」
湯呑みに手を伸ばしながら、伊庭はさり気ない口調で訊ねた。むろん、胸の内は波打っている。
身も心も一つになったのならば、自分が入れる隙はないだろう事は、よくよくわかっていた。
昔、江戸にいた頃も、土方は、総司の傍に、伊庭を初めどんな男も一切寄せ付けなかったのだ。
それが念兄弟になれば、尚の事だった。
だが、そんな伊庭の前で、総司は長い睫毛を伏せた。
「いえ……想いは通じていません」
ぎゅっと膝上の両手を握りしめた。
「私は土方さんに想いを告げてもいないし、土方さんも何も云いませんでした。ただ、流されるように契りを結んだだけです」
「契りを結んだだけって……まさか、手込めにでもされたのかい」
「そんな事、土方さんはしません」
怒ったのか、総司は大きな瞳できっと伊庭を見据えた。それに、すまねぇと笑いながら、訊ねかける。
「なら、どうして想いを告げねぇんだい? 契りまで結んでおいて、おかしいだろう」
「私もわかりません。私は……もちろん、土方さんを想っているから嬉しかったけど、でも、土方さんは気まぐれだったのか、その場限りと流されたのか」
「……」
あの男に限って、場の雰囲気に流されるなどありえないのだ。
総司を愛していることは、傍から見ていてわかりすぎるほどわかっている。だからこそ、抱いたのだろう。
己のものとして、奪い返すために。
(そうはさせねぇよ)
伊庭は微かに目を細めた。
さんざん総司を苦しめておいて、今更何だという気持ちもある。
一度は自分の手元から手放したのだ。
なのに、総司が落ち着いてきた頃に、またこんな……。
「土方さんも男だからねぇ」
伊庭は、出来るだけ軽い口調で云った。
「綺麗で可愛い総司を目の前にして、その気になっちまったのかもしれねぇ。場の雰囲気に流されちまったって事もあるだろうし」
「綺麗とか可愛いは別として」
総司はおずおずと訊ねた。
「伊庭さんも……そう思いますか? これきり、一度きりだと」
「その方が、総司にとってもいいんじゃねぇの」
伊庭は静かな声で云った。
「念兄弟になった訳じゃねぇんだ。体の関係だけなんて、まるで妾扱いだろう。そんな状況に、総司は堪えられるのかい」
「――」
総司の目が見開かれた。傷ついたような表情になっている。
その表情に胸の痛みを覚えつつ、言葉をつづけた。
「それに、土方さんだって今や新選組副長だ。そのうち、どこかいい家の娘さんを妻に迎えることもあるだろう。そうなった時、総司はどうするつもりだい?」
「……」
答えは返らなかった。
ただ俯き、血が噴き出そうなほど唇を噛みしめているばかりだ。
伊庭は、その様子を見ながら、己自身の醜さに舌打ちしたくなった。
恋とは人をどこまで身勝手にするのか。
己の恋さえ成就するならば、何をしてもいいという道理はないだろうに。
苦々しい表情で黙りこんでしまった伊庭の前で、総司は固く瞼を閉ざした。
土方から文が来たのは、その夜のことだった。
夕暮には、伊庭もこの家を辞する。もしかすると、そのあたりを見計らって文を寄越したのかもしれなかった。
文を開けば、そこには出て来られるのなら、すぐ近くの神社の鳥居脇まで来て欲しいと書いてあった。
「……あ」
嬉しさがこみあげた。心の臓の鼓動が早くなる。
また、あの人に逢えるのだ。
土方さんに、逢ってもらえるのだ。
総司は目を閉じると、そっと大切に文を抱きしめた。そうしてから、丁寧に折りたたみ、懐に仕舞う。
身支度を整え、家を出た。もう夜になっていたので、提灯をかかげて歩いた。神社はすぐそこなので造作ない事だった。
鳥居脇には、一人の侍が佇んでいた。歩み寄る総司に気づくと、ふり返る。
「土方さん」
小さな声で呼んだ総司に、土方は微笑んでくれた。手をのばし、そっと肩を抱いてくれる。
「すまん、こんな処に呼び出して」
「いいのです」
「少し話をしたいんだ。どこか店にでも入ろう」
「あ、土方さん」
総司は慌てて彼の腕を掴んだ。ふり返った男に、小さな声で云う。
「もう夜ですし、私の家ではだめですか? その方が近いでしょうし」
「だが、いいのか」
土方は僅かに眉を顰めた。
「先日、泊まったばかりだし……また、伊庭が来たら事だろう」
「伊庭さんは夜、訪れてきません」
何気ない調子で答えた総司に、土方は無言のまま目を細めた。
……夜に訪れがない。
それはつまり、泊まったことがないという事なのだ。
念兄弟であるのなら、おかしなことだった。やはり、近藤の云うとおり、二人はただの友人同士なのか。
だが、あえて口に出して問おうとは思わなかった。
総司を抱いた今となっては、念兄弟であろうがなかろうが、もはや関係ないのだ。土方にすれば、総司を何としても奪い返す他なかった。
家に戻ると、総司は土方を部屋にあげ、茶を入れた。それに礼を云ってから、土方は目の前にいる愛しい若者を見つめた。
先日、抱いた存在だった。己のものにしたはずの存在だった。
だが、こうして目の前にすると、それが現だったのかと危うい気持ちになってしまう。
伊庭は総司が男を知ったと見たとたん気づいたのだが、そうして男を教えたはずの土方にすれば、今ひとつ実感がなかった。
まるで総司が変わらないように見えてしまうのだ。確かに、艶っぽくなった。大人びた感じがする。だが、そこまでだった。
何よりも、総司の態度が変わらないのだ。
土方と逢っても恥じらいもないし、不安げな瞳で見てくる事もない。前と同じように澄んだ声で答え、無邪気に笑いかけてくる。
まるで真っ白な花を染めようとして、しくじったような気持ちだった。
この可愛い花は可憐な姿形でありながら、決して何ものにも染まらないのだろうか。
「総司」
低い声で呼びかけると、総司は素直に「はい」と答えた。
それに躊躇いつつ、言葉をつづけた。
「おまえ……隊に戻らないか」
「……」
総司の目が小さく見開かれた。
「隊、にですか。新選組に……?」
「そうだ」
「でも、私は療養中の身です。労咳という人に疎まれる病だし……」
「西本願寺の屯所は広い。前とは違う、もっと奥の部屋をおまえに与えよう。いや、それが淋しいというなら、俺の部屋の隣はどうだ」
「土方さんの部屋って……副長室の隣?」
呆気にとられた顔で、総司は土方を見た。それに、頷いた。
「ならば淋しくないだろう。俺もすぐにおまえの様子を知ることが出来るし、安心だ。おまえがいいと答えてくれたら、明日にでも」
「ちょっと待て下さい」
総司は慌てて彼の言葉を遮った。
信じられない話だった。
屯所に戻るのはともかく、副長室の隣など。
この人は、いったい何を考えているのか。
「とんでもない話です。副長室の隣だなんて」
きっぱり云った総司に、土方は眉を顰めた。
「嫌なのか」
「嫌とかそういう事ではなく……皆が奇異に思いますよ。下手すれば、醜聞沙汰になります」
「醜聞沙汰? 俺とおまえの仲が噂されるという事か?」
土方はかるく肩をすくめた。微かに唇の端をあげると、あっさり云いきってみせる。
「いいじゃねぇか、何でも好きに云わせておけよ」
「駄目です。土方さんだって、いずれはいい処の娘さんを娶るでしょう? 昔とは違うのだから、私なんかと噂になったら妨げになります」
「は?」
土方の目が見開かれた。呆気にとられた顔で総司を見下ろしている。
だが、やがて、小さく苦笑した。
「妨げも何も、俺は妻なんざ娶らねぇよ」
「土方さんも昔とは違うのです。新選組副長ですよ、私なんかと噂されていい人じゃありません」
「俺自身の問題だろうが。おまえがつべこべ云うことか」
「私のせいで、あなたが醜聞沙汰に巻き込まれるのが嫌なのです。私という存在が、あなたの縁談の邪魔になって欲しくない」
あくまで抗弁する総司に、とうとう土方も不機嫌になったようだった。形のよい眉を顰める。
その黒い瞳に剣呑な色がうかんだ。
「おまえは俺が妻を娶ることを、望んでいるのか」
「……そうでは……」
「なら、何が云いたい。さっきから聞いてりゃ、俺といるのが嫌だと云わんばかりじゃねぇか。自分なんかに構わず、さっさと所帯をもっちまえと云いたいのか」
「……」
「つまり、こういう事か。おまえは先日のことを後悔しているのか」
「!」
はっとして総司は顔をあげた。
土方は完全に怒っていた。切れの長い目の眦がつりあがり、口許も冷たく引き結ばれている。
違うと云いたかった。
だが、ここで違うと云えば、彼は自分の傍にいてくれるのだろうか。
気まぐれであれ、何であれ、傍にさえいてくれればいいと思っていた。
しかし、それもまた、彼の邪魔になるというのなら、自分は身をひく他ないのだ。
総司は躊躇った。
俯き、視線を深く落とす。
そして、小さな掠れた声で云った。
「……後悔…しています」
「――」
次の瞬間、男の怒りがぱっと燃え上ったのを感じた。激しい勢いで腕を掴まれる。
見上げた総司の瞳に、怒りにみちた土方の顔が映った……。