春の日射しの中で、総司が微笑った。
緑がとても美しかった。竹林の音がさらさらと鳴る。
傍を流れる小川は穏やかで、春の光に柔らかく輝いた。それに、総司が声をあげる。
「今の……魚?」
「さぁ、どうだろう」
土方はくすっと笑った。
うららかな春の日だった。多忙な仕事の合間をぬい、あわせた非番の休みだ。
少し遠出したことに、総司は先ほどから子供のようにはしゃいでいた。それが可愛らしく、思わず笑ってしまう。
総司が不思議そうに土方を見あげた。
「何?」
「いや、魚なら捕まえるつもりかと思ったのさ」
「また子供扱いして。そんな事しませんよ」
尖らせた桜色の唇が、愛らしい。それに、ふと煽られ、土方は軽く身をかがめた。
そっと唇を重ねると、一瞬、総司の目が見開かれた。だが、すぐ素直に目を閉じると、抱きよせる男の手に身をゆだねた。
彼の腕の中に、その頼りなげな細い躰は、すっぽりとおさまってしまう。
「……総司」
土方は狂おしいほど愛しい恋人を抱きしめた。耳もとに唇を寄せ、囁きかける。
「好きだ……愛してる」
「土方さん……」
なめらかな頬が仄かに紅潮した。細い指さきが男の着物の襟もとを、そっと掴む。
その細い指さき、潤んだ瞳、柔らかな唇、何もかもが愛しかった。愛しくて愛しくて、たまらなかった。
一時でも手放したくないほど、溺れているのだ。
この若者が宗次郎と呼ばれていた頃から、ずっと愛してきたのだから。
それを思い返しながら、土方は、腕の中の総司をより強く抱きしめた。否、抱きしめようとした。
だが、次の瞬間――息を呑んだ。
「……総司?」
腕の中は、空っぽだった。
そこに、総司の姿はなかった。
周囲の光景は変わらない。やはり、先ほどまでと同じ、優しく穏やかな春の光景だ。だが、一つだけが明らかに違っていた。
総司がいないのだ。
まるで、初めから、その存在などなかったように。
「総司……!」
思わず叫び、土方は駆け出した。失われた恋人だけを、探し求める。
だが、どこにも総司の姿はなかった。春の光景の中、土方だけが一人残されてしまう。
独りだけ。
「――」
凄まじい空虚感に、目を見開いた。
「……ッ!」
何か、叫んだかもしれない。
跳ねるように飛び起きた土方は、一瞬、そこが何処かわからなかった。
たてられた障子、襖、文机。それらの物に、意識が少しずつ明確になってゆく。
そこは、西本願寺屯所にある彼の自室だった。まだ夜が明ける前のためか、薄暗い。
「……」
だが、それがわかっても、しばらくの間、土方は呆然と坐りこんでいた。あまりの空虚感に、何も考えられなかったのだ。
それほど、夢は甘美だった。例え、失われる夢であっても、それでも尚。
現では決してありえぬ事だからこそ、夢は美しいのだ。儚くも、幸せなのだ。
「……総…司……っ」
土方は低く呻き、抱えた片膝の上に顔を伏せた。きつく奥歯を食いしばる。
躰中が震えた。
この世の誰よりも愛しい存在を求めるあまり、叫び狂ってしまいそうだ。
だが、どんなに求めても、彼の手には入らないのだ。永遠に手に入ることはありえない。なぜなら、あの愛らしい若者は、もはや他の男のものだった。
「……」
土方は固く目を閉じ、吐息をもらした。
もうすぐ夜が明けるのだ。また、副長としての多忙な日々が始まる。こんな恋に狂う男の姿など、見せる訳にはいかなかった。
いつもの己を取り戻さなければならないのだ。
狂おしいほど愛しい総司の前でも、平然と振る舞い、総司が誰に笑いかけても、心許していても、無表情でいなければならなかった。己の矜持を守るためにも。
毎日毎日、くり返される偽りの日々。
「……面倒くせぇ」
江戸の頃のように、荒っぽい口調で呟き、苦笑した。乱れた黒髪を片手で煩わしげにかきあげる。
疲れているのかと思った。
己も何もかも偽りつづけていく日々に。
土方はごろりと褥に身を横たえると、すべてを拒むように、固く瞼を閉ざした。
「――副長」
後ろから呼ばれ、土方はふり返った。
三番隊組長である斉藤が立っている。それに、眉を顰めた。
「どうした」
「巡察のご報告をと思いまして。部屋におられなかったので、随分探しましたよ」
「それは悪かったな」
斉藤は、土方に対して遠慮をしない隊士の一人だった。思ったことはずけずけ云うが、ある意味、信頼のおける男だと思っている。
また、斉藤は、総司の数少ない友人の一人だった。同じ年であり、剣術の腕も優れている事から、親交を深めたようだ。その仲の良さに嫉妬したこともあったが、今となっては、まだ斉藤の方がましだったと思っている。
ここ西本願寺の屯所に移転してから、斉藤は土方の右腕となっていた。別に土方が命じた訳ではないが、気がつくと、背を預けて戦うことができるようになっていたのだ。
それは珍しいことだった。普段、あまり人を信用しない男である土方は、誰かに背を預けることなど到底できない。だが、斉藤だけは別だった。
縁側で胡坐をかいて庭を眺めていた土方は、立ち上がった。
それに、斉藤が鳶色の瞳をむける。
「土方さんが庭を眺めているなど、珍しい。何かありましたか」
「俺が庭を眺めていると、珍しいか」
「珍しいですね。そんな見ごたえのある庭とも思えませんし」
相変わらず鋭い処を突いてくる斉藤に肩をすくめ、土方は歩き出した。だが、すぐに、その肩が僅かに強張る。
「……?」
彼の様子に気づいた斉藤が視線をやると、渡り廊下を総司が一番隊隊士たちと歩いてくる処だった。明るく澄んだ声がここまで届く。
一瞬、土方はきつく唇を噛みしめた。だが、すぐ、いつもの怜悧な表情になると、歩きだしてゆく。すれ違う時も、表情一つ変えなかった。
その感情の抑制ぶりに、ある意味、斉藤は呆れたが、仕方がない事だとも思った。
(己の感情を吐露するなど、この人には許されていない……)
ふり返ってみたが、総司はこちらをふり返ろうともしなかった。まるで気にもとめていないようだった。
確かに、そうなのだろう。
総司の中には、土方の存在などないとしか思えなかった。
斉藤にとって、総司は大切な友人であり、片想いの相手でもあった。だが、その恋が叶わぬこともよくよくわかっている。総司には想う男がいるのだ。
飄々としているくせに、人の気持ちは察しやすい斉藤は、総司の気持ちも土方の気持ちも、わかる気がしていた。お互い、じれったくなるほど想いあっているくせに、今や、口さえきかぬ関係なのだ。
赤い糸というものがあるなら、二人が繋がれているのは確かなのに。
(どんなに強い糸でも縺れてしまったら、解くのは大変だな)
斉藤は、目の前を行く男の背を眺めながら、ため息をついた。
宗次郎と呼ばれていた頃から、愛していた。
こんな子ども相手にと土方も初めは否定したのだ。だが、惹かれてゆく自分を抑えきれなかった。
宗次郎は誰にでも愛想のよい子供ではなく、気が強い猫のような性格の少年だった。そんなところも可愛くてたまらなかったのだが、土方も何度も引っ掻かれたのだ。その鋭い爪で。
仲の良い兄弟のような間柄だった。喧嘩もしたが、宗次郎は土方に甘え、その身も心も委ねていたのだ。
京にのぼってからも、その関係は変わらなかった。いつしか、愛らしい少年は、息を呑むほど美しい若者となっていたが、それでも、土方の愛情は変わらなかった。彼にとって、総司は掌中の珠だったのだ。
だが、土方が総司に想いを打ち明けることはなかった。見守り、陰に日向に己の庇護のもとにおきながら、それでも指一本ふれず愛しつづける男の姿に、近藤などは驚いていたが、気にもとめなかった。
清らかで玲瓏な少女のように純真な総司。
気が強くて凛としていて、息を呑むほど愛らしく美しい花。
己がふれることで、壊してしまいそうな気がした。穢してしまうのではないかという恐れさえ抱いた。だからこそ、手を出さなかったのだ。
だが、土方も若い男だ。ともすれば総司にぶつけそうになる己の情欲を、花街の女を抱くことでまぎらわせた。たいして気持ちがいいとも思わなかったが、それでも、ある程度の欲は抑えられた。
そして、可愛い総司を大事に大事に、見守りつづけたのだ。
他の男に奪われる日まで。
「俺も愚かな男そのものだな」
ほろ苦く笑った。
長い年月、見守り、手塩にかけて育て愛して。挙句、横合いから奪われてしまうとは。
まるで、他の男に総司をさし出すため、守りつづけてきたようなものだった。これほど愚かな男もいないだろう。
二人の仲違いの原因となったのは、総長山南の脱走事件だった。
土方にとっても、総司にとっても、山南は友人だった。
だが、隊に背いた山南を、土方は放置しておくことができなかった。新選組の将来を思えば、断罪するべきなのはわかりきっていたのだ。
総司もそれはわかっていたはずだったが、山南が総司を愛していたことが、事の混乱に拍車をかけた。
だいぶ前に想いを打ち明けられていたらしい。そのため、総司は大津まで山南を追ったのだ。そして、帰営後、すぐに土方に懇願してきた。どうか命だけは助けて欲しいと、縋るように頼み込んだ。
その姿に、激しい嫉妬と怒りを覚えた。
ずっと堪えて来たのだ。誰よりも傍にいて、誰よりも愛しつづけてきたのは、自分だった。なのに、その彼をさしおいて、山南は総司に告白したというのか。
挙句、副長である彼に逆らってまで、命乞いをする総司の姿に、目も眩むほどの嫉妬を覚えた。
愛しているのか。
おまえは、山南を愛しているのか。
答えが否だったことは、むろん、わかっている。
だが、それでも、土方にとって、それは裏切りだった。己のものでもないのに、なぜか、そう思ったのだ。貞淑であるべき幼妻が、知らぬうちに他の男と密通していたような気持ちだった。
今となれば、理解できる。
あの時、土方は、ずっと大切にしてきた清らかな宝物を壊されたような気持ちだったのだ。愛らしく美しい総司は、誰のものであってもならなかった。純真で清らかで、永遠に美しい花でありつづけて欲しかったのだ。
だが、そんな想いを表に出す訳にはいかなかった。激しい嫉妬と怒りを押し殺し、冷徹な副長として振る舞った。そして、山南を容赦なく断罪したのだ。
むろん、総司との事がなくても、山南の処分は決まっていた。山南も、総司の行動は予期していなかったらしく、最後にあった時、「面倒をかけたね」と清々しい表情で笑ってみせたのだ。
だが、土方の胸奥に燃え上った感情は、消え去りはしなかった。裏切られたという想いと、嫉妬は燻りつづけ、以来、土方の総司への態度は変わった。冷たくなった訳ではないが、どうしても壁が出来てしまったのだ。
それは総司の方もだった。懇願をはねつけられ、挙句、介錯までさせられた総司は、山南の死後、沈んだ表情でいることが多くなった。土方との会話もなくなり、終いには彼を避けるようになっていったのだ。
だが、それでも、土方はそのうち元通りになるだろうと思っていた。時が過ぎれば傷も癒える。総司もまた以前のように戻ってきてくれるし、自分もわだかまりが解けるだろうと思い込んでいた。いや、たかをくくっていたと云ってもよいか。
土方の知らぬところで、事態は取り返しのつかぬ状況になっていた。
気づいた時には、もはや手遅れだった。
総司は、他の男のものとなっていたのだ……。
総司は澄んだ瞳で、春の空を見上げた。
柔らかな水色の空に、白い雲がうかんでいる様は、とても優しくのどかだ。殺伐とした京の空とは思えぬほどだった。
久しぶりに一人になりたくて、屯所を出たところだった。先ほど、すれ違った土方のことも心に昏い影を落としている。
(土方さん、少し痩せた……?)
そんな事を、ふと思った。
西本願寺の屯所に移ってから、土方の激務はさらに増したようだった。新選組のすべては、あの男の肩にかかっているのだ。その凄まじい重圧を、躊躇うことなく引き受け、戦いつづける男の姿に、ずっと憧れてきた。憧憬と恋慕のまなざしで見つめ、支えたい、少しでも役にたちたいと願いつづけてきたのだ。
だが、今、自分は土方の役にたつどころか、言葉さえかけてもらえぬ存在だ。
山南のことで、彼に対して非難じみた感情を抱いたことは確かだった。助命を申し出た総司に、土方は取り合おうともしなかった。見たこともないような冷たい目で見下ろし、介錯を命じて来たのだ。
随分前に、山南には想いを打ち明けられていた。だが、それを受け入れることは出来なかった。どこまでも純粋で一途な総司は、ただ一人の男しか愛することが出来なかったのだ。その想いが揺らぐことは決してなかった。
だが、それと友情とはまた別の話だった。総司にとって、山南は大切な年長の友人であり、また、試衛館時代からの仲間でもあった。そのため、必死になって奔走したのだが、それが土方の目には酷く情けない姿に見えたのか。いつまでも子どもじみた行為だと見えたらしく、冷ややかな侮蔑の目をむけられた時には、背中が寒くなった。
甘えていたのかもしれない。
土方は優しく甘い兄代わりだった。
京にのぼり、冷徹な副長となってからも、総司には優しく笑いかけ、甘えさせてくれたのだ。そのためか、総司は、今一つ彼を副長として認識できないでいた。
斉藤などには、危険だと注意されたが、それでも心のどこかで自分だけは違うと思い上がっていたのかもしれない。
挙句が、この結果だった。
しっぺ返しをくらったのだ。山南の事件後、土方は酷く余所余所しくなり、総司を遠ざけるようになった。声一つかけず、笑みも見せてくれないようになった男の姿は、ほんの少し前までの彼と比べると、まるで別人だった。他人行儀そのものだったのだ。
軽蔑された、切り捨てられたのだと思った。
総司も場所柄をわきまえず、隊士たちもいる中で、土方に助命を懇願したのだ。つづく口論も、皆が聞いている中だった。
わかっているはずだった。土方は誇り高く、誰よりも矜持の高い男なのだ。なのに、あんな屈辱、我慢できるはずがない。まさに、飼い犬に手を噛まれたようなものだった。
その屈辱と怒りと侮蔑から、総司は切り捨てられたのだ。もはや見向きもされない存在に成り下がってしまったのだ。
「……」
総司はため息をつき、歩き出した。とたん、傍らから声がかけられる。
それと同時に、ぽんっと肩に手が置かれた。
「総司」
聞き慣れた明るい声に、総司の顔がぱっと輝いた。