表面上は、何変わらぬ日々がつづいた。
むろん、屯所の内で、土方と総司が顔をあわす事は幾度となくある。お互い、副長と一番隊組長という大幹部なのだ。ごく当然のことだった。
隊の中で、二人は常に、よく云えば他人行儀な態度をお互いにとりつづけた。
相変わらず、総司は伊東の傍にあり、その小柄な姿が土方の傍で見られることは全くなかったのだ。
だが、隊を出れば、それは違った。
土方は幾度となく二人きりの逢瀬を求め、総司もそれに素直に応じた。心の中で何を考えていたにしろ、おとなしく男の腕に身をゆだねたのだ。
初め、土方は総司にふれる事さえ、躊躇いがちだった。どこか眩しいものを見るようなまなざしで総司を見つめ、ただ言葉を重ねるだけなのだ。逢っても、口づけと抱擁に終ることばかりだった。
それに、総司は奇妙なほど苛立ちを覚えた。
己が何に苛立っているのかさえわからぬまま、躊躇う土方をひどく冷めた目で眺めた。だが、自分から誘うのは矜持が許さないし、また、恐れや不安もある。
土方に告げた言葉どおり、総司は伊東と契りをかわしていなかった。むろん、恋人でもない。その点では、総司は土方に嘘を云っていなかった。
伊東自身の気持ちはわからないが、総司の気持ちは尊敬のみだったのだ。
だからこそ、土方の腕に抱きしめられる時、隣室に褥が敷かれているのを見る瞬間、躯中が竦み上がった。
怖い、と思った。
もしかしたら、土方はそんな総司をよく理解していたのかもしれない。怖がっていると気づいているからこそ、躊躇い、手を出さないでいるのかもしれなかった。
だが、今の総司は、そんな彼の優しさを素直に受けとめる事ができない。
(器だけが欲しいなら、さっさと奪えばいいのに)
抱きしめてくる土方の腕の中、総司はきつく唇を噛みしめた。
その日、料亭の離れに現われた土方は疲れているようだった。
だが、その理由を総司は知っている。
後味の悪い事件が起こったのだ。
元四番隊組長であった松原忠司の死だった。未遂には終ったが、もともと彼が切腹した原因は、土方との口論によるものだと噂されていた。
そして、その彼が先日、女と心中したのだ。
「……疲れた」
部屋に入ってくるなり、そう云って横になってしまった土方を、総司は黙ったまま見つめた。
本当の恋人であれば、こんな時、抱きしめてやすらぎをあたえ、心を癒してあげるのだろう。
だが、総司はそんな事をするつもりは全くなかった。きちんと端座したまま、瞼を閉ざす土方の端正な顔を、酷く冷ややかな目で眺めている。
この人は、また、駒同然に人を断じたのだ。
それを思うと、激しい憎しみと怒りがふつふつとこみあげた。
人を人と思わぬ所業ばかり繰り返すこの人に、やすらぎなど求める資格などない。なのに、この人は私を呼んだのだ。
自分を抱くことで、苛立ちを発散しようと云うのか。
どこまでも、土方さんは私を人扱いしていない──。
きつく唇を噛みしめた時、土方が低い声で呟いた。
「……うまくいかねぇものだな」
畳の上に横向きに寝ころび、庭先の方を眺めていた。
秋のつるべ落しと云われるように、秋の夜の訪れは早い。もう庭は夕闇にみち、ぼんやりと灯された灯籠が雅な光景をつくり出していた。
その光景を無表情のまま眺めながら、土方は言葉をつづけた。
「思ってもみなかった結果ばかりだ。俺もやきが回ったな」
「噂で聞きましたが……以前、松原さんと、何の話をしたのです」
「たいした事ではないさ。ただ、男としてその所業は見苦しいと思わんのかと、云った。だが……」
ふと、苦笑をうかべた。
「云った後で思ったのさ。この俺が云えた義理かってな」
「……」
「おまえを切り捨て、自分勝手な気持ちでまた、おまえを己のものにしようとしている。そんな俺が云えた義理じゃねぇよな」
「なら、私を己のものにしなければ宜しいでしょう?」
冷えた声音に、土方の肩が僅かに震えた。
思わず起き上がってみたが、総司は静かな瞳でこちらを見返している。
まるで、美しい京人形のような顔だった。
綺麗だが、どこか冷たく何の情もない。
「総司」
「あなた自身が私を求めたのです。それを、今更……何を云うのです」
「……すまない」
「今の謝意は、言葉に対して? それとも、私を求めたことを否定するために?」
「否定なんざするものか。俺はおまえを求めている……それは真実だ」
「……」
「だからこそ、あんな事は云うべきじゃなかった。弱音を吐いた、すまない」
謝った土方の前で、総司はそっと顔をそむけた。きゅっと片手を握りしめながら、小さな声で応える。
「いいのです……別に」
そう云ってから、総司は立ち上がった。部屋を横切り、襖をすっと開ける。
仄かな明かりだけが灯された部屋の中、褥が敷かれてあるのが目に入った。二組の褥がならんで敷かれてある様は、艶めかしい。
しばらくの間、総司はそれらを無言のまま眺めていた。
土方も黙って、部屋の間に佇むほっそりした後ろ姿を見つめている。
綺麗に結いあげた髪から、細い肩、凜とした立ち姿まで、若者はどこまでも涼やかに美しかった。
白く儚い木蓮のように清らかなのだ。
総司だけが欲しい──と思った。
もう二度と手放すような事はしたくないのだ。
そして、そう思うのならば、今ここで契りを結んでしまうべきだった。
「……」
土方は、今日も屯所の中で見た光景に、唇を噛みしめた。
松原の事件の報告を受け、陰鬱な気分になった土方が廊下を歩いている時、中庭の向こうに見てしまったのだ。
ある小さな部屋で、伊東と総司が坐り、談笑していた。何か云った伊東に、ちょっと目を見開いてから、総司が楽しそうに言葉を返した。身も心も寄りそいあうその姿は、幸せな恋人たちそのものだった。
思わず見るうちに、総司が伊東の前で花のように微笑った。
心を許した者にだけ見せる、愛らしい笑顔。
それを目にした瞬間、胸の奥がギリッと錐で抉られたように痛んだ。
どれほど逢瀬を重ねても、決してむけてもらえぬ笑顔。
柔らかく開かれた、総司の心。
俺がどんなに求めても欲しても、絶対に得られないそれらを、あの男は易々と手にいれるのだ。
土方の胸を、激しい焦燥と嫉妬の炎が胸奥を灼いた。
とたん、嫌な想像が頭をよぎり、奥歯を食いしばった。
今は、伊東も総司に手を出していないだろう。だが、いずれはそうなるに違いなかった。伊東が総司を愛しいと思っていないはずがないのだ。
総司を狂おしいほど愛している土方から見れば、伊東の気持ちは一目瞭然だった。世にも稀な宝物でも見るようなまなざしで総司を見つめ、誰よりも柔らかな笑顔をむける伊東が、総司を愛していないはずがないのだ。
ましてや、相手は総司だった。あの花のような笑顔をむけられて、心が動かぬ男がいるだろうか。
だからこそ、土方は恐れていた。総司が伊東のものとなってしまう事を、心底恐れていたのだ。そんなことになれば、己は気が狂ってしまう。一度取り戻したと思った愛しい存在をこの手から奪われて尚、正気を保っていられる自信が彼にはなかった。
総司のすべてを、今すぐ手にいれたいのだ。
土方は立ち上がり、ゆっくりと部屋を横切った。
その気配を感じたのか、総司の細い肩がぴくりと震える。それを気づいてはいたが、気づかぬふりでそっと後ろから抱きすくめた。
耳もとに唇を寄せ、囁きかける。
「おまえを……求めてもいいか」
「……」
「さっきの言葉は嘘ではない。否定もしない。俺はおまえを求めたい」
「土方さん……」
総司の声が僅かに震えた。やはり怖いのだ。
だが、土方はこれ以上待てないと思った。
今回の松原の件は、ただの切腹だけの騒ぎでは終らない。隊中の争いの火種の一つとなってゆく事は必定だった。そうなれば、伊東はつけいる好機と見て、いよいよ隊に亀裂を入れようとするだろう。
その時、総司を完全に己のものにするのは、目に見えていた。今以上に総司を手中におさめ、土方には二度とふれられぬよう離してしまうに違いない。
伊東は総司を、土方から必ず奪いとるのだ。
そんなこと許せるはずがなかった。
他の男に奪われるなら、いっそこの手で殺してやる……!
そんな事まで考えてしまう己に、苦笑した。
本当に、松原の事をとやかく咎める資格などない。これでは、同じではないか。
地獄の果てに、恋しい女と命を絶ったあの男と……。
「土方さん」
彼がそんな事を考えていると、気づいているのかいないのか、総司は小さな声で呼びかけた。
長い睫毛を伏せ、不安げに唇を噛みしめている。
それを見たとたん、込みあげるような愛しさで、土方の胸はいっぱいになった。いじらしくて愛しくて、たまらなくなる。
幼い頃から、ずっと見守ってきたのだ。愛してきたのだ。
もう二度と奪われたくない、失いたくない存在。
誰よりも愛しい、恋人───
「……総司、愛している」
そう囁くと、腕の中で、総司の躯がびくんと竦みあがった。
目を瞠り、驚いたように彼の方をふり返ってくる。
その訊ねるような瞳を見返し、土方は静かな声でくり返した。
「おまえを愛している。誰よりも……大切に思っている」
「本当……に?」
「あぁ」
頷き、再び後ろから抱きすくめた。白い首筋に、頬に、唇を押しあててゆく。
それを総司はおとなしく受けながら、目を閉じた。だが、それでも躯が細かく震えてしまうことは否めない。
どうしても、怖いのだ。不安なのだ。
本当に、これでいいの──?
彼を憎んでいることは確かだった。
復讐のため、彼を溺れ込ませるために、この躯をあたえてやろうと思った。だが、そんな事をして、本当に後悔しないのだろうか。
躯を取引の道具に使うなど、結局は自分を傷つける事になるのではないか。
傷つける……。
そう言葉を胸にくり返した瞬間、総司はゆっくりと目を開いた。
傷つける、なんて。
これ以上、傷つく事があるのだろうか。
愛しい、この世の誰よりも愛しいと思った男に裏切られ、侮蔑され、見捨てられて。
半ば廃人のようになって戻った江戸の地。そこで伊東と出会い、拾われ、磨かれて。
中身は何も変わらないのに、外見だけ美しく磨かれたとたん、土方がふり返った。そして、手をさしのべ、好きだと云われた瞬間、総司の心は砕け散ってしまったのだ。
だから、もう……傷つく事など何もない。
この躯は抜け殻なのだから。心など、もうないのだから。
総司は不意に土方の躯を突き放した。そして、驚いて見つめる彼の前でさっさと部屋を横切ると、褥の上に坐り込む。
手早く着物を脱いでゆく総司に、土方は目を見開いた。
「総司……?」
「何を驚いているのです」
きつい声音で、総司が云った。
「あなたが云ったのでしょう。私が欲しいと」
「……」
「なら、早く私を抱いてしまえばいい」
そう云い放つ総司の大きな瞳は、まるで挑みかかるようだった。だが、その白い頬は強ばり、声も僅かに震えていた。
男を知らない生娘が虚勢をはっているようで、ひどく痛々しい。
土方は嘆息すると、襖を閉めた。ゆっくりと歩み寄り、総司の傍に跪く。だが、それだけでびくりと躯を竦ませてしまう若者に、苦笑した。
そっと手をのばし、頬にふれた。
「……そんなに怯えるな」
「お、怯えてなんか……」
「嫌なら無理強いはしない。俺はおまえが傍にいてくれるだけでいいんだ」
「土方さんは私が欲しくないという訳ですか」
「それは欲しいさ」
土方は僅かに目を細めた。
「今でも、欲しくて欲しくてたまらない。だが、無理強いだけはしたくないんだ」
「子どもを手込めにする程、不自由していないという事ですね」
「そういう事じゃない。俺はただ、おまえが……」
「欲しいなら、正直に欲しがって下さい。その方が私も気が楽です」
「気が楽? それはどういう意味だ」
思わず声を荒げた土方に、一瞬、総司は息を呑んだ。大きく目を瞠ったまま、彼を見上げている。
まるで、いとけない子どものような表情だった。可憐で愛らしくて、思わず抱きしめたくなる。
土方が息をつめたとたん、小さな桜色の唇がわなないた。
「……だって……」
掠れた、涙まじりの声だった。
「私……初めてだから……」
「……」
「男の人となんてもちろん、女の人ともした事ないのです。だから……何もわからなくて、不安でたまらなくて……っ」
「総司……」
土方の胸に、たまらないほどの愛しさが込みあげた。愛しくて愛しくて、息がとまりそうだ。
褥の上に坐り込んだまま、半ば着物を脱いだ形で男を見上げてくる総司は、可憐そのものだった。大きな瞳を潤ませている様は、雨に濡れる花のようだ。
「すまない……」
土方は低い声で謝った。怖がらせないよう、総司の頬をそっと撫でてやる。
「回りくどい云い方をして、すまなかった。おまえが欲しいなら、欲しいと求めるべきだった」
「土方さん……」
「俺は、おまえが欲しい。おまえの全部が欲しいんだ」
そう囁き、土方はそのほっそりした躯を腕の中に引き込んだ。ぎゅっと抱きしめたとたん、甘い花の香りがたつ。
彼の腕の中で、震えてはいたが、総司は抵抗しなかった。男のぬくもりに包まれ、不意に躯中の力がぬけるような気がした。たまらない安堵感がこみあげてくる。
だからなのか、そっと褥の上に寝かされた時も、怖くはなかった。のしかかってくる男を、黙ったまま見上げている。
そんな総司に、顔を近づけた土方は、くすっと笑った。不思議そうに首をかしげると、指さきで瞼を閉じられる。
「こういう時は目を閉じるものだ」
「ずっと?」
「口づけの時だけでいい」
素直に頷く総司に、そっと口づけた。
互いを抱きしめ、求め、深く唇を重ねてゆく。
「っ…ぁ、土方…さん……っ」
甘い吐息をもらし、総司は土方の首を細い腕でかき抱いた。躯を擦りよせる。
土方もその細い躯を抱きしめ、口づけた。
そこにいるのは、心から愛しあい睦みあう至福の恋人たちだった……。
