食事が終る頃には、もう夕暮れになっていた。
 辺りは夕闇がみち始め、ぽつぽつと明かりが灯されつつある。
 そんな京の街の光景を、総司は窓から眺めた。
 鴨川沿いの店なので、二階から見下ろすと、対岸の家屋に灯された明かりが雅だった。川面に黄昏時の淡い紫がかった空が淡く映し出される。
 先程まで降っていた雪はもうやみ、静かな夕暮れの光景が広がっていた。
「綺麗ですね」
 小さく呟いた総司に、土方は頷いた。
「そうだな。夕暮れ時は風情があって、いいものだ」
「土方さんでも、そう思いますか?」
「何だ、その俺でもというのは」
 片眉をあげた土方に、総司はくすくす笑った。
 鈴を転がすような声は、明るく澄んでいる。その表情も心許した様子で、とても柔らかだった。
「……」
 だが、それを、土方は複雑な気持ちで眺めた。
 食事の時から、総司はまるで昔にかえったようだった。彼との間の諍いや確執など忘れたように、振る舞っていた。
 どうしても黙りがちな土方に微笑いかけ、澄んだ声で様々な事を話した。決して隊の事や伊東の事は口にせず、ただ、江戸の話や京で見つけた菓子のこと、久しぶりに逢った友人たちの事などに、話は終始した。
 そんな総司に、土方は眉を顰めるばかりだった。





 己がした所業はわかっているのだ。
 それを総司がどう受け止めたか、どれほど憎まれているかも、いやという程わかっているはずだった。
 だが、ならば、今こうして彼に微笑みかけてくる総司は──何なのだろう?
 偽りなのか。
 副長である彼に対し、一番隊組長として大人の対応をとっているだけなのか。
 憎しみを胸に秘めながらも、嫌悪する相手に笑いかけられるほど、大人になったという事なのだろうか。
 そのどれもがあたっている気がした。
 だが、子どもで外面をつくろう事などできなかった総司を、こんなふうに仕込んだのは誰なのかと思い当たったとたん、ずきりと胸の奥を痛みが刺し貫いた。
 伊東が、総司を変えたのだ。大人にしたのだ。
 やんちゃな仔猫のままでいいと思っていた土方と違い、伊東は、総司を大人びた美しい若者にするため、様々な事を仕込んだのだろう。
 それは、この食事の席でもあらわれていた。
 昔の総司なら、こんな小料理屋に入ればもの珍しげに見回し、あれこれお喋りして、食事も好き勝手に食べ散らかし、土方が世話を焼いてやるのをごく当然のように受けていた。
 やんちゃで我侭で、甘えたの仔猫そのものだったのだ。
 だが、今日は違った。
 総司は静かに端座し、見惚れるほど美しい所作で食事をとった。食事の合間にかわされる会話も流れるようで、場慣れしている事を土方に知らせた。
 この総司なら、己の心情を押し隠し、憎悪する男に笑いかけるなど造作もない事だろう。
 そして、そこまで総司を仕込み育てたのは、あの伊東なのだ……。





「……土方さん?」
 不思議そうに、総司が小首をかしげた。
 黙り込んでしまった土方に、不審を抱いたのだろう。だが、訝しく思わざるをえないのは己だと思った。
 土方は手の中の杯を弄びながら、総司を見つめた。黒い瞳で見つめれば、総司がどこか不安げな表情で見返してくる。
 それがまた愛らしく、手許に引き寄せたいという衝動を胸の内で押し殺した。
「総司、おまえは……」
「え?」
「おまえは……伊東と深い仲なのか?」
 思わず口に出したその問いに、一番動揺したのは土方自身だった。その言葉を放った直後、はっと我に返り、慌てて目をそらす。
 そんな土方の前で、総司は黙っていた。怒った様子もなく、ただじっと土方を見つめている。
 彼の言葉は余計な詮索であり、また副長であっても口だしすべき事ではなかった。
 隊士の個人的な恋愛にまで踏み込む資格は、もとよりないのだ。総司が不快に思って当然のことだった。
 だが、総司は細い眉一つ顰めなかった。
 短い沈黙の後、そっと長い睫毛を伏せた。細い指さきを握りあわせながら、小さく呟いた。
「……そういう噂があること、私も知っています」
「噂?」
「えぇ、ただの噂です」
 総司は顔をあげると、大きな瞳で土方を見つめた。
「私は、伊東先生とそういった関係は一切ありません。お世話になった事は確かですが、同志として京へも同行させて頂いただけなのです」
「……」
「伊東先生も同じお気持ちだと思います。それに、伊東先生にはお綺麗な奥方がいらっしゃいますし」
 くすっと笑った総司は、ふと、どこか不安げな表情になった。
 少し躊躇ってから、土方の傍に寄ると、その彼の端正な顔を下から覗き込んだ。細い手がそっと彼の膝上に置かれる。
 思わず見下ろすと、潤んだような瞳が上目遣いに彼を見上げた。紅潮した頬、襟元からのぞく白い肌とあいまって、くらりとするような酩酊感に襲われる。
「土方さんは……」
 桜色の唇が囁いた。
「私を信じられない……?」
「……総司」
 膝上に置かれた手を掴み、握りしめたくなった。ふれたいという衝動が突き上げてくる。
 それを押し殺すように奥歯を噛みしめた土方の前で、総司は柔らかな甘い声で言葉をつづけた。
「信じてくれないかもしれないけど、でも……本当の事だから。伊東先生とは何の関係もないのです。噂されているのもわかっています。他の誰にそう思われていても構わない。だけど、土方さんには……あなたには、そんなふうに思われたくないのです」
「何故だ」
 思わず問い返していた。
「何故、俺には……などと云う」
 その問いに、しばらくの間、総司は答えなかった。だが、やがて、微かな吐息をつくと、まるで夢見るような表情で話しはじめた。
「一年前……私は、あなたに恋をしていました」
「……え」
「初恋でした。憧れと好きという気持ちでいっぱいになって、今にもはちきれてしまいそうだった」
 そう云ってから、総司は恥ずかしそうに、小さく笑ってみせた。
「土方さんが、私の初恋だったんですよ。びっくりしました?」
「……」
「だから、その土方さんには、そんなふうに思われたくないのです。伊東先生と親しくしているのは確かですし、私を救ってくれたあの方の役にたちたいと心から願っています。でも、そんな……噂されるような関係はありませんから」
 そう、きっぱり断言した総司を、土方は見つめた。
 過去の事として語られた恋心に、胸奥が締め付けられた。そうと知っていれば手放さなかったと悔やんでも、今更遅い。
 だが、伊東のものとなっていないならば、それは僅かな慰めになると思った。


 生涯、想いつづけるだけで、成就などありえぬこの想い。
 だが、それでも、愛しつづける事が許されるのならば、少しは救われる。
 彼には、他の男のものになった総司を愛しつづけるなど、到底できそうになかった。
 そんな事は己の矜持が許さないし、何よりも、総司自身を許せない。
 もしも、総司が本当に他の男のものになれば、それを自分が知ってしまったなら……


(俺は、総司をこの手で殺めるだろう)


 ほろ苦さと、己の想いへの恐れ、一方でどこか微かに甘い愉悦感の中で、土方は思った。
 そんな土方の前で、総司は小首をかしげた。躊躇いがちに、愛らしい表情で訊ねてくる。
「色々ありましたけど……私を許してくれますか」
「それは、俺の台詞だ」
 土方は真摯な気持ちで、答えた。
「おまえには酷い事をしたと悔やんでいる。本当に悪かった」
「……」
「これからは、近藤さんのためにも、一番隊組長として戦ってくれるか」
「えぇ」
 総司はこくりと頷いた。
 それに、安堵の息をつき、土方は立ち上がった。そろそろ帰る時刻だった。あまり長居をしては、店の方も困るだろう。
 土方は、まだ坐ったままの総司に、片手をさしのべた。昔のように手をとり、立ち上がらせてやろうと思ったのだ。
 その手を、総司は一瞬、見つめた。きゅっと唇を引き結んだかと思うと、僅かに顔を背ける。
 訝しく思った時には、するりと身をかわされてしまっていた。彼の方を見やることなく、己自身ですっと立ち上がる。
「……」
 にこりと笑ってみせた。
「そろそろ、帰りましょうか」
 土方は何も応えられず、総司を見つめた。さり気なく手をひき、きつく握りしめる。
「……あぁ」
 声が喉に絡んだ。
「先に、下へ降りていますね」
 総司は柔らかな仕草で身をかえした。静かな足取りで部屋を出てゆく。
 その際、指さきで──先程、彼の手をとらなかった白い手で、かるく髪をふりはらった。
 艶やかな黒髪がひろがり、しなやかな指さきがはらう。
 まるで、先程までの二人の会話を、甘い空気を、すべて払いのけるかのように。
「……」
 歩み去ってゆく細い背を見送りながら、土方は苦い想いに唇を噛みしめた。












 総司の態度が目に見えて変わる事はなかった。
 今までどおり淡々と隊務をこなし、伊東の傍にありつつ、土方へも丁寧な態度をとりつづけた。
 ある意味、二人の関係を思えば他人行儀この上なかったが、副長に対する一番隊組長としては申し分のないものだった。
 だが、それは逆に、土方は苛立たせた。
 何も気づかなかったのならいい。
 何も知らなかったのならば。
 だが、先日、土方は、一年前とかわらぬ総司の姿を見てしまったのだ。あの愛らしい笑顔をむけられ、明るく澄んだ声で話しかけられた。
 幸せだった日々を思い起こさせるような、甘い時間。
 あの時の、総司の笑顔。澄んだ声。
 どんなふうに手を組み合わせたか、何をして笑ったか。
 自分を見上げていた潤んだ瞳まで、よく覚えていた。なのに、何もなかった事になど到底できなかった。
 まるで、阿片のようだった。
 自分を誘い込み、虜にする甘い蜜。
 一度味わったなら、もう二度と離れる事はできぬほど、土方の中で総司の存在は大きくなりつつあった。
 もともと愛していた少年だ。だが、一年前の事より忘れよう、諦めようと、努力しつづけてきた。伊東の恋人だという噂を耳にしてからは、尚のことだった。
 だが、そうではない事を知ったのだ。
 あの花のような笑顔を、むけられたのだ。
 甘い蜜を味わってしまったのだ。
 土方はまるで喉の渇きに苦しむ男のように、総司を求めた。行動をおこした訳ではない。だが、気がつけば、その目で総司を追っていた。
 総司だけを、見つめてしまっていた。


(無様だな……)


 己に失笑する事もしばしばだったが、もはやどうにもならない処まで来てしまっている。
 総司から、伊東のものではないと否定された時、箍が外れてしまったのだ。
 もっとも、だからと云って、総司を己のものにしようとは思わなかった。
 総司が今も彼を憎みつづけている事は明らかであったし、総司の言葉どおり、淡い初恋は昔のものだった。今も想ってくれていると誤解するほど、土方も自惚れていなかった。
 総司にした所業を思えば、当然のことだ。
 そんな土方の思惑とは別に、隊の中の動きは加速していった。
 西本願寺へ移った頃から、伊東の動きは活発になり、彼を慕う隊士たちも増えてきている。それを座視するつもりはなかったが、手出ししようがないのも事実だった。
 何しろ、最も手許に引き戻したい総司が、伊東の傍に相変わらず寄りそっているのだ。
 恋人ではないと云われたが、救ってくれた人だから役にたちたいという総司の言葉を、土方も忘れたつもりはなかった。
 あの言葉を口にした時の、静かな決意を秘めた総司の美しい表情を、今もよく覚えている。
 だからこそ、尚更腹ただしかった。
 思慕と尊敬の念だけで結ばれている、師弟関係のような二人を、裂く事など出来ない。それでは、己の惨めさ情けなさを晒すだけの事だった。
 彼らが恋人同士であるのなら、嫉妬し怒ることもできた。だが、これではどういった感情をもてばいいのか、わからない。
 師弟関係にまで嫉妬するような度量の狭さは、土方自身の矜持が許さなかった。
 かと云って、他の男のもとにあり他の男だけを慕っている総司に、嫉妬しないかと聞かれれば、それは嘘になる。
 己自身の矜持と、嫉妬、総司への想いが錯綜し、土方は己自身の感情の揺れに、苛立った。












「……生殺しだ」
 縁側に佇み、土方は低く呟いた。
 それに、傍にいた斉藤が「?」と訝しげな視線をむけてくる。
 土方は懐手しながら、僅かな苦笑を口許にうかべた。
「いや。つくづく、そう思ったのさ」
「生殺し……ですか?」
「俺自身の今の状況がな」
 まるで謎かけのような言葉だったが、斉藤はそれ以上問いかけようとは思わなかった。ただ、男の端正な横顔だけを眺めている。


 誰もがふり返るほど、整った容姿をもつ男だった。
 水も滴るようないい男だと、花街でも大層な評判らしい。それも当然のことだと思った。
 冷たく整った顔だちに、すらりと引き締まった体躯。長身に黒い隊服を纏った姿は、大人の男の色香を漂わせている。
 華、があった。
 他の誰にもない、艶めいた華が彼には備わっているのだ。それが、まるで魔のように女を惹きつけ、虜にしてしまう。
 否、女だけではない。
 彼に憧れ、狂うほどに恋しているのは、女だけではないのだ。


 斉藤は、凜と美しい若者の姿を脳裏にうかべた。
 一年前、総司がこの土方によって追われた時、何もできなかった。青ざめた顔で涙をうかべる総司の傍に、ただいてやる事しかできなかったのだ。それは、ある意味、斉藤も土方と同じ故だった。
 もし、土方が斉藤と同じ気持ちを総司に抱いているのなら、あの時の行動の意味がわかる気がしたのだ。そして、自分も恐らく同じ事をしただろうと思った。
 あれほど峻厳に冷徹に追うことは、できなかっただろうが。
 その点で、斉藤は、土方に叶わないと思っていた。むろん、彼を真似ようとも思わない。
 斉藤には斉藤の、愛し方があるのだ。
「……斉藤」
 そんな事をぼんやり考えていると、不意に、土方が呼びかけた。
 目線をあげると、こちらを一瞥もせぬまま命じられる。
「伊東に近づけ」
「……」
「伊東一派に潜り込み、行動を共にするんだ」
 その言葉に、斉藤は僅かに目を細めた。じっと押し黙ったまま土方を見つめてから、やがて、ゆっくりと問い返した。
「……つまり、間者になれという事ですか」
「そうだ」
 土方はごく当然のことのように答えた。不意にふり返り、切れの長い目でまっすぐ見据えてくる。
「おまえが適任だ。おまえなら、伊東も信用するだろう。何よりも、総司が心許している。むろん、危険は伴うが、無理な行動ではないはずだ」
「危険が伴うと……そう思われるのですか」
 斉藤は静かな声で問いかけた。
「この先、危険な立場になると」
「あぁ」
「……わかりました」
 目を伏せ、答えた。
「引き受けます」
 そう云った斉藤を、土方は静かに見つめた。一瞬、きつく口許を引き締めてから、低い声で云った。
「気を抜くなよ」
「わかっています」
 しっかりした声で答えると、斉藤は立ち上がった。そのまま、部屋から出てゆく。
 廊下の端まで行った時、ふとふり返ってみたが、土方はこちらを見ていなかった。懐手をしたまま、ただ外へと視線を投げかけている。
 だが、彼の目には、今ある光景など映っていないに違いなかった。
 土方が見ているのは、おそらく───


『……生殺しだ』


 その視線の先にあるものを想い、斉藤は唇を噛みしめた。