平穏な日々が過ぎていった。
むろん、手入れや斬り合いなど、隊の仕事上では様々な事があったが、それは新撰組内ではもはや日常茶飯事と化していた。隊士たちへの厳しい粛清、切腹や打ち首でさえ同じくだったのだ。
その血なまぐさい隊の中で、伊東は徐々に己の立場を強固にしていった。もともと、隊随一の使い手であり、近藤の一番弟子たる総司を手許に置いているのだ。その力が副長である土方でさえ侮れぬものになるまで、さして時はかからなかった。
一方、総司はあれきり土方に全く近づいてこなかった。公の場では目上のものに対する態度を崩さず、丁寧に接してくるのだが、私的な場での会話は皆無に等しかった。
非番の時のほとんどを伊東と過しているらしく、土方は何度も、伊東の傍にいる総司の姿を目にした。
総司が伊東に深い愛情と敬慕を抱いているのは明らかであり、伊東もまたこの美しい若者を心から慈しんでいた。誰が見ても似合いの一対で、二人が深い仲だという事は公然の噂となっていた。
だが、むろん、土方はそれらの噂を耳にしても、平然とした態度を崩すことはなかった。人一倍誇り高い彼が心の内を気取られるような真似をするはずがなかったが、それは二人の間を遠ざけるばかりだった。
そんな日々の中、一つの問題が巻き起こった。それは、隊士の数が増え、屯所が手狭になった事が発端だった。
西本願寺への移転問題だ。
激しい議論が交わされた。
まるで既に決定済であるかのように話す土方に対して、総長である山南が真っ向から反対したのだ。
その両者の口論に、近藤は困惑し必死に宥めようとしていたが、伊東は黙したままだった。当然ながら、総司も全く意見はのべていない。
だが、その心中は複雑だった。
(今の山南さんは、かつての私のようだ……)
総長と云えば、聞こえはいい。
だが、実態は全くの閑職だった。何の権限もなく、お飾りに等しい存在なのだ。
そんな地位へ山南を追いやったのは、副長の土方だった。だからこそ、山南は彼を憎んでいる。
だが、土方は追い詰める手を全く緩めなかった。この西本願寺の一件もうまく利用する事で、山南をより追いつめてゆくのだろう。
それを考えると、総司は土方の容赦のなさに身震いする思いだった。
傍にいて慕っていた頃はまるでわからなかったが、土方は恐ろしいほど冷徹な人間だった。彼の中では何よりも隊が優先し、隊を大きくする事、力をもたせる事だけに、全神経を注いでいる。だからこそ、それを阻害するような輩には容赦がないのだ。
隊の名を穢すもの、隊を弱体化させようとするもの、それらに対し、土方は一切の躊躇いもなく制圧の鉈をふるった。
そして、今。
土方が誅殺しようとしているのは、山南なのだ。
(あの時、私は殺されなかっただけ、良かったのかもしれない)
そんな事を、ぼんやりと思った。
下手すれば殺されていたかもしれなかったのだ。
自分が土方に殺されなかったのは、やはり、近藤の一番弟子だったという事が大きいのだろう。総司が江戸へ帰る時も、土方に食ってかかるようにして反対し、泣いてまでくれた近藤なのだ。
だからこそ、江戸で再会した時、再び隊へ戻りたいと願った総司を、一も二もなく受け入れてくれた……。
「あの分では、まだまだ紛糾しますね」
自室に戻ってから、伊東は嘆息まじりに呟いた。
それに、総司は目をあげた。
「伊東先生は……」
「何ですか」
「今回の事、どう思っておられるのです」
「私は、土方君に賛成ですよ」
「え」
驚く総司の前で、伊東はくすっと笑った。
「西本願寺が幕府よりではないとか、そんな事はどうでもいい。一番重要なのは、嫌がる彼らの懐へ乗り込めば、いずれ別の場所に新しい屯所を建てる金が奪い取れるだろうという事です。むろん、土方君も、だからこそ、西本願寺などという場所を選び出したのでしょうが」
「そこまで考えて……」
「策士は先の先まで、読みますからね。もっとも……」
伊東は微かに苦笑した。
「肝心の己自身の気持ちは、読めないものですが」
「え……?」
「いや、何でもありません。それより」
手にとりかけていた書類を置き、伊東は総司の方へ向き直った。どこか探るような瞳で見つめてくる。
「躯の方は、どうなのです」
「……」
「医者は何と云っていました」
伊東の言葉に、総司は目を瞠った。
「どうして、それを……」
「きみは孤独を好むくせに、一人で外出することを嫌う。そのきみが一人で出かけたのですから、おおよその察しはつきますよ」
「伊東先生には、隠し事ができない」
総司はそう呟いてから、どこかほっとしたような笑みをうかべた。
「でも、だからこそ、伊東先生の前では楽に息ができるのかもしれません。何も隠さなくていいから」
「そう思うのなら、隠さずに話して下さい。医者は何と云ったのです」
「無理はするなと」
僅かに目を伏せた。
「薬を貰いました。養生ができないのなら、無理だけはしないようにと云われました」
「江戸にいれば、きみは養生できた。きみの躯を思えば、京へ来るべきではなかったでしょう」
「それはわかっています。でも」
「この事、近藤さんや土方君は知っているのですか? きみの病の事を」
「!」
総司は弾かれたように顔をあげた。縋るような瞳で伊東を見つめ、そのまま、ぎゅっと両手を握りしめてしまう。
それに、伊東は苦笑した。
「どうやら、秘密のようですね。ならば……」
「云わないで下さい!」
不意に、叫んだ。
「お願いですから、云わないで下さい。でないと、また追い出されてしまいます」
「それは無理でしょう。私の一存がなければ、きみをどうこうする事はできない。だが」
伊東は僅かに目を細めた。慈しむような表情で、総司を眺めやる。
「私も、きみを江戸へ戻して養生させるべきだ、とは思います。むろん、その一方で、きみを手放したくない。傍に置いておきたいという気持ちが強いからこそ、こうして京にまで連れてきたのだが……」
そう云って、ふと苦笑した。
「男の我侭かもしれませんね」
「我侭……?」
「独占欲、執着……様々な云い方をできるが、きみを手放したくないという気持ちは、同じです」
男の掌に頬を包みこまれ、総司は驚いたように目を見開いた。だが、従順に見上げていると、そっと優しく頬を撫でられる。
鳶色の瞳が総司を見つめた。
「……自分でも不思議なぐらいです」
「え……?」
「もともと、私は何に対しても淡泊な質だ。ある意味、自分にしか興味がなかったのです。だが、きみは違う。きみを初めて見た時から、欲しくてたまらなくなってしまった。きみを自分だけのものにしたかったのです」
「伊東先生……」
「執着というものは、恐ろしいものです。恋などという生ぬるいものではない。無我夢中で、相手だけを求め欲して、挙げ句、狂気に囚われてしまう。それを恐れていたからこそ、彼は……」
「彼?」
不思議そうに、総司は伊東を見上げた。愛らしい表情で、小首をかしげている。
その大きな瞳が今は己だけを映している事に、奇妙な満足と切なさを覚えながら、伊東は微笑んだ。そっと総司の細い躯を抱き寄せ、その髪に顔をうずめる。
「今はまだ、このままで」
「……」
伊東の言葉の意味は、理解できなかった。だが、それでも、彼が抱いている切なさは微かながら伝わってくるようで、伊東のあたたかい腕の中、総司はそっと目を閉じた……。
事態が急変したのは、数日後の事だった。
早朝、山南が脱走したのだ。
副長付の小姓に起され、総司は土方の部屋へ向った。朝から何か全く見当がつかなかったが、入ってきた総司に突きつけられたのは、驚くべき言葉だった。
「……山南が脱走した」
「え」
総司は目を見開いた。
あまりにも淡々とした口調で云われたため、一瞬、意味がわからなかったのだ。
そんな総司に、土方は表情を変える事もなくつづけた。
「書き置きに、一身上の都合にて江戸へ帰ると記されてあった。どのみち、隊を脱した事には変わりない」
「そんな……」
「今すぐ、追って連れ戻せ」
総司は土方の言葉に、息を呑んだ。しばらく黙ってから、低い声で問いかけた。
澄んだ瞳で、まっすぐ男の顔を見据えている。
「それで……連れ戻ったら、どうなるのです。山南さんはどうなるのですか」
「隊規に従ってもらう」
ごく当然のように、土方は答えた。
「切腹だ」
「……」
「介錯はおまえがしろ。山南もそれを望むだろう」
「……土方さんは……」
総司の声が喉にからんだ。指さきが冷たくなり、頭の奥がじんと痺れた。
この人に、何を云っても仕方ないのかもしれない。
人の情けも、あたたかさも、もたないこの人に今更何を云っても。
でも……!
「土方さんは、何故、私に命じるのです」
そう云った総司に、土方はほんの一時沈黙した。腕を組み、総司の方を一瞥もせぬまま答えた。
「……おまえが適任だ」
「そうでしょうか。他にもっと適任の人がいると思いますが。山南さんに同情した挙げ句、逃がすかもしれない私などよりも」
「嫌なら断れ。……昔のようにな」
ふっと、微かな嘲笑が唇にうかべられた。底びえするような冷たい瞳が、総司をまっすぐ見つめる。
それを跳ね返すように睨みつけ、答えた。
「断りはしません。追っ手も介錯も引き受けましょう。ですが、それはあなたに命じられたからではない。山南さんのためです。人として、友人として、山南さんに私がしてあげられる、精一杯の事ですから」
そう云った総司は、微かに息をつめた。冬の冷たい朝の空気が胸にせまり、咳込みかけたのだ。
とたん、土方の眉が顰められたが、それに気づく事なく、総司は立ち上がった。出ていこうと障子に手をかけた。
思わずとも云うように、呟く。
「……これは、私への見せしめですか」
土方は、その細い背を、昏い光を宿した瞳で見つめた。
「見せしめ……?」
「そうです。邪魔になればこうなるのだと、今度は命まで奪うのだと。それを思い知らせるために、この役目を私に命じた。そうではないのですか?」
総司の言葉に、しばらくの間、土方は黙っていた。だが、やがて、ふっと微かに嗤った。
視線を落とし、くっくっと喉を鳴らす。
嘲笑されたと怒りに燃えてふり返った総司を、座したままの土方は見上げた。いつもと視線の位置が逆転する。
奇妙に張り詰める空気の中、土方はまるで愉悦さえ覚えているような表情で、答えた。
「そうかもしれねぇな」
「……っ」
「だが、妙案だろう。身の程知らずにも戻ってきた愚かなおまえには、いい薬になるんじゃねぇか」
「!」
一瞬、総司の全身から殺意が迸った。憎しみにみちた瞳で、土方を睨みつける。
こんな早朝だというのに、土方は一分の隙もない姿だった。黒い小袖に袴まで端然と纏っている。
総司は息をつめたまま、その姿を見つめた。ある衝動が躯の奥底を突き抜ける。
癇性に合わさった襟元から覗く男の首筋。
そこに。
(刃を、突きたててやりたい……!)
刃を突きたて斬りつけて、彼の血を見れば、心が安らぐのか。
否、いっそ、彼を斬ってしまえば。この手で殺してしまえば。
憎しみも裏切られた絶望も哀しみも、何もかも浄化され、少しは幸せになれるのではないだろうか。
救われるのでは───?
総司はのろのろと何かを堪えるように、両手を握りしめた。その動きを、土方は何一つ見逃さぬように、じっと見つめている。
きつく唇を噛んでから、呟いた。
「……相変わらず」
目をそらした。
「あなたの前では……私など使い捨ての駒同然ですか」
それに、答えは返らなかった。
土方は無表情のまま、冷めた目でこちらを眺めている。だが、それが答えだと思った。
嘲りと侮蔑にみちた答え、なのだ。
「……」
総司は唇を固く引き結ぶと、部屋の外へ出た。
雨戸がもう開けられているため、きんと凍えるような冬の冷たさが肌を斬る。
その厳しくも冷たい空気を、いっそ心地よいものと感じながら、総司はまっすぐ前だけを見据えて歩き出していった。
山南の死は、隊内に大きな衝撃を与えた。
隊発足時からの大幹部であった山南が脱走の挙げ句、切腹させられたのだ。その事実は、鉄の隊規からは何人たりとも逃れ得ぬことを、隊士たちに思い知らせた。
追っ手となり、介錯したのが総司だった事も、衝撃だった。伊東の一派として戻ってきた総司は、再び試衛館へ──土方の元へ戻る事を決意したのだろうか。
だが、その噂を、総司は耳にするなり否定した。
「副長は、私など必要としていません」
柔らかな微笑とともに、やんわりと受け流す総司に、誰もが黙した。その傍にある伊東を見れば、事は一目瞭然なのだが、試衛館一派の面々、とくに近藤などは、土方と総司の仲が戻ることを願っている。
「総司がそんな気になれないってのも、わかっているが」
そう云って、斉藤はうんとかるく伸びをした。骨ばった腕が青空へ突き上げられ、のびる。若い男らしいのびやかな躯の動きだ。
黙ったままの総司を、ふり返った。
「それでも、そう望んでしまうのは……きっと、それが一番あるべき姿だと思うからだな」
「一番あるべき姿?」
「あぁ。二人が離れているのは、おかしいんだよ。変な感じがするんだ。おまえと土方さんは一緒にいるべきだと、オレも思っている」
「そんな」
総司はゆるく首をふった。
「そんなこと、私も……あの人も望んでいません。一緒にいるなど、今となってはありえない話です」
きっぱりと云いきった総司を、斉藤はじっと見つめた。
そして、問いかけた。
「本当に?」
「……」
「本当に、そう思っているのか?」
何故、私はあの問いに答えられなかったのだろう。
京の街を歩みながら、総司はそんな事を考えた。
冬の昼下がりだ。
ずっと続く白壁に陽光が映えた。枯れ木の大枝が影を落とし、絵のような光景をつくり出す。
青い空のどこかで、鳥たちが囀った。
それを一瞬見上げた総司は、ゆっくりと視線を戻した。
目の前には、すっと伸びた広い背がある。黒い着物を纏った男の背だ。
「……」
総司は僅かに目を伏せた。
別に待ち合わせした訳ではなかった。だが、たまたま屯所への帰り道に一緒になってしまったのだ。
無視する訳にもいかず目礼した総司に、土方は何も云わなかった。ただ、冷たい一瞥をむけただけで、踵を返す。
それは屯所への道ではなかった。どこへ行くのか知らないが、土方は黙々と歩いてゆく。自然、それを追う形になった総司は、自分でもわからぬ衝動に唇を噛みしめた。
殺してやりたい程、憎んでいる男。
手をのばせば、とどく処に彼はいた。幼い頃から、何度もおぶってくれた広い背だった。あの手で抱きあげられた事もある。
弟のように、自分を可愛がった彼。
だが、それを心から受け入れたとたん、手酷く裏切られた。
捨てるつもりなら、初めから知らぬ顔をしていればよかったのだ。飽きたら捨てる、その程度だとわかっていれば、自分も心開かなかったのに。
「……総司」
自分を呼ぶ声に、はっと我に返った。
顔をあげてみると、いつのまにか土方は立ち止まり、こちらを切れの長い目で眺めていた。
それがいかにも、見ているではなく眺めているという感じで、総司は少し不快になった。穿ちすぎだとは思うが、物扱いされている気がしたのだ。
「何ですか」
冷ややかな口調で返すと、土方は僅かに目を見開いた。だが、すぐ視線をそらすと、「いや」と小さく呟いてから、答えた。
「どこまでついてくるのかと、思ったのさ」
「別に」
くすっと肩をすくめるようにして、総司は薄く笑った。
「何となく、です。いけませんか」
「悪くはないが」
そう云った土方は、また、総司を眺めた。微かに目を細める。
「……」
総司は眉を顰めた。
男の表情に、今までにないものを感じたのだ。
それは、まるで、眩しいものでも見るような表情だった。
美しい蝶か花でも見るような、まなざし。
しばらくの間、総司は彼をじっと見返していた。大きな瞳でまっすぐ挑戦的に見つめる。
白い頬が薔薇色に紅潮し、そのきつい表情は、息を呑むほど美しく見えた。冬の冷たい光景の中で、ほっそりした姿は絵のようだ。
凜とした美しさ。
その言葉がこれ程似合う者もいないと、土方は思った。
そして、それは、明らかに、総司自身の気性に帰依するものだった。優しげな容姿と裏腹の激しさ、己への厳しさ、清廉さ。それらがあいまって、凜とした美しさを人に感じさせるのだ。
外見がより美しくなった事など、全く無関係だった。
もともと、土方は、総司自身の激しさを愛していた。傷だらけでも、汚泥の中にあっても尚、美しく咲きほこる総司を愛しつづけてきたのだ。だからこそ、幼い頃から、ずっと慈しみ可愛がってきた。
小さな花が凜とあるように、包みこむようにして守ってきたのだ。
この手の中で、幸せにしてやりたいと心から願っていた。ずっと、自分だけの花であって欲しいと思っていた。
それが叶わぬ願いだと思い知らされたのは、一年前だったが……。
「土方さん」
つと、総司は彼に歩み寄った。手をのばし、その腕にふれてくる。
黙ったまま見下ろすと、愛らしい笑顔をむけられた。
「そろそろ、行きませんか」
「……」
「こんな処に立っていても仕方ありませんし」
「なら、どこへ行く」
「どこって?」
総司は不思議そうに目を見開いた。そのあどけない表情が、また男の心を奇妙なほど騒がせる。
「土方さんは……私をどこへ連れて行くつもりなのですか?」
「俺は……」
云いかけ、口を閉ざした。
どこでも良かった。誰の思惑も届かないどこかへ。
このまま、総司を連れ去ってしまえたなら───
(馬鹿馬鹿しい)
己の身勝手さ、不甲斐なさに苦笑した土方は、ふと気づいて見上げた。
冬の天候は変わりやすい。
先程まで青空だった空は白く曇り、ひらひらと粉雪が舞い始めていた。小さな雪花が、京の街に柔らかく降り舞ってくる。
傍で、総司が白い手をさし出した。
「……雪」
桜色の唇で小さく呟く姿が、まるで絵のようだ。
儚くも美しいその顔を見つめ、土方は不意に息苦しくなるのを覚えた。
憎まれている事は、わかっている。
一年前の出来事だけではない。先日の山南の件で、総司の彼への気持ちは決定的なものになっただろう。
だが、だからと云って、彼自身の気持ちが変わる訳もなかった。変えられるはずもないのだ。
「総司」
低い声で呼びかけると、総司がこちらを見上げた。その表情をたまらなく愛しく感じながら、そっと広げた袖で庇った。
「濡れる」
「大丈夫ですよ」
「だが、風邪をひくといけないだろう」
彼の言葉に、総司はかるく目を見開いた。一瞬、その瞳に苦痛に似た色がよぎる。だが、すぐ顔を伏せると、きつく唇を噛みしめた。
土方はそれに躊躇いを覚えたが、その手をかるく引くようにした。屋根のある場所へと誘う。
それに、総司は素直についてきたが、小さく、くすっと笑った。何だと覗き込めば、子どもっぽい笑顔が彼を見返してくる。
「あのね」
「え?」
「ここのお店、とってもおいしいお料理を出すという話なんですよ」
総司の言葉にふり返ってみれば、そこは小料理屋だった。二階に部屋もあるようだ。
黙り込んでいる土方の袖を、総司はねだるように引っぱった。大きな瞳が彼を見つめる。
「ここ、入ったら駄目ですか? 私、食事をしたいのです」
「飯、食ってねぇのか」
「食べそびれちゃって」
肩をすくめるようにして笑う総司に、一瞬、土方は目を細めた。
まるで、昔に戻ったような気がしたのだ。
やんちゃな仔猫のようだった総司。
可愛くて、どこまでも甘やかしたくて。
あふれるような気持ちのまま慈しみ、この手の中で育て、愛してきた。
誰よりも愛しい、存在。
「……わかった」
土方は頷き、小料理屋の暖簾を片手であげた。促すように見れば、総司が躊躇いがちにだが入ってくる。
案内を頼む土方の後ろで、総司は小さく唇を噛んだ。