見事な紅葉だった。
清水の舞台から見下ろせば、まるで紅葉の海のようだ。朱と黄金色が秋の日射しにきらきらと輝き、眩いばかりだった。
周囲の人々も皆、歓声をあげ、見入っている。
「……綺麗」
欄干に凭れかかり、総司は小さく呟いた。
そのすぐ傍に佇んだ土方は、押し黙っている。だが、その黒い瞳は、紅葉でなく総司を見つめていた。
屯所内ではあまり傍に寄らないため気づかなかったが、若者の躯は以前より細くなっていた。
そのくせ、存在感は息を呑むほどだった。
真紅の花の中、艶やかに咲く白木蓮のように、清楚であるがゆえに心惹かれてしまうのだ。
その証に、今も、道ゆく男たちのほとんどがふり返っていた。美しく清楚な佇まいの総司に、見惚れるような視線をおくっていくのだ。
それに気づいているのかいないのか、総司はそっと吐息をもらした。
「本当に、綺麗ですね」
そう云ってふり返った総司に、土方は僅かに目を細めた。黙ったまま頷くと、その場から離れるように歩き出す。
総司は肩をすくめ、男の後を追った。二人して、紅葉の中へ歩んでゆく。
まるで、黄金と朱にうもれるようだった。見上げた青空に、きらきらと輝く紅葉が眩しい。
「京に戻ってこられて……良かった」
小さな声で、総司は呟いた。それに、視線をやると、にこりと笑ってみせた。
「こんな綺麗な紅葉を、土方さんと見る事ができて……本当に良かったです」
「俺と?」
土方は思わず、くっと喉を鳴らした。
「俺と一緒に見る紅葉など、かえって興ざめだろう」
「そんな事ありませんよ。それとも……」
総司はきれいに澄んだ瞳で、土方を見上げた。
「土方さんの方こそ、私などとでは興ざめですか……?」
「……いや」
しばらく黙った後、そう答えた土方に、総司は「よかった」と愛らしい笑顔をむけた。軽やかな足どりで石段を下りてゆく。
土方は思わず唇を噛んだ。
───翻弄されている。
己自身でもわかっていた。
この誘いを受けた時から、総司にふり回されてしまっているのだ。いいように弄ぶ総司に、抗う事ができない。
話があるのだと、覚悟していた。
云いたい事は山ほどあるに違いない。だからこそ、総司は彼をここへ誘ったのだ。
だが、総司は何も云わなかった。何事もなかったように、一年前の時から途切れる事なく二人の仲がつづいてきたように、振る舞っていた。
それが逆に、土方を追いつめている。
「土方さん」
気がつけば、総司が呼んでいた。
まるで、あの頃のように、明るい笑顔をむけてくる。
それを複雑な気持ちで眺めながら、土方はゆっくりと歩み寄った。
総司は拾い上げた紅葉を手にしていた。それをくるくると回しながら、笑いかける。
「ほら、きれい」
「あぁ」
「約束、覚えていますか?」
「え」
突然の言葉に、土方は眉を顰めた。いったい、何を云われたのかわからない。
だが、そんな彼の前で、総司は言葉をつづけた。
「約束。京に来てすぐ清水寺に行きたいとねだった私に、あなたが云ったのです」
「何を……」
「あそこは紅葉の名所らしいから、その頃に連れていってやるって……そう、約束を」
「……」
思わず息を呑んだ。
……忘れるはずもなかった。
果たされなかった約束。
総司が京を去ってから暫くして、土方はここを一人訪れたのだ。紅葉を見上げながら、総司のことを思っていた。
だが、それを今口に出しても虚しいだけだ。
無言のままの土方の前で、総司はくすっと笑った。
「……そんな事、あなたが覚えているはずもないですか」
「総司、俺は……」
「もういいのです、全部」
総司は何かをふり払うように、土方を見上げた。
「あなたは、こうして私といるだけでも迷惑なのでしょう。思い出したくもない、いいえ、覚えている必要もない記憶ばかりなのだから……」
「……」
「でも、一つだけ聞きたいのです」
「何を」
「これから……あなたはどうするつもりですか」
総司の問いかけに、土方は目を細めた。
話が核心に入ってきているのを感じる。だが、総司が何を告げようとしているのか、その真意までは掴めなかった。
「どうする、とは?」
「切り捨てたはずの駒を、です」
「……」
「あなたが切り捨てたはずの駒を、これからどう扱うつもりなのか、聞きたいのです」
静かな声だった。
だが、確かに何かを孕んでいる。
土方は無言のまま、総司を見つめた。
誤魔化しなどきかぬと、よくわかっていた。もっとも、総司相手に誤魔化す気などまったくなかったが。
幾多もの人々を騙し、陥れてきた土方だったが、唯一それが通じないのが、この若者なのだ。
彼にとって、総司のきれいな瞳に映るすべては真実であり、嘘偽りのない世界だった。
だが、それでも、あの時。
総司を──欺いた。
「……今更」
土方は俯き、微かに笑った。
「俺にどうする事もできんだろう」
「……」
「おまえはもう……俺の駒ではない。伊東の駒だ。それをどうこう出来ると思うほど、俺も自惚れてはいないさ」
「そうですね……」
総司は目を細め、遠くを眺めやった。さらさらと風に吹き乱される髪を片手でかきあげ、薄く笑った。
「私は伊東先生の駒だ。他の人の物になった駒など、あなたには何の関心もない」
そう云ってから、不意に総司は歩き出した。ひらりと袂がひるがえる。
まるで、花びらのようだった。
それを土方は反射的に追おうとした。一歩踏み出した彼の前で、総司はふり返った。
「土方さん、今日はありがとうございました」
花のような笑顔だった
だが、どこか感情を思わせぬ、美しい人形のような顔。
冷たく澄んだ瞳が、彼を見つめた。
「明日から、また宜しくお願いしますね。副長」
そう云った総司は、くるりと背をむけた。軽やかな足どりで走り出してゆく。
待てと云いかけた土方は、総司が駆けてゆく先を見た。
そのとたん、鋭く息を呑んだ。
「!」
清水寺の門脇だった。
紅葉の海が途切れるあたりに佇んでいるのは、一人の侍だった。駆けてくる総司に気づくと、迎えるように両腕を広げる。
男の腕の中へ、総司は迷わず飛び込んでいった。そうして、嬉しそうに、抱きとめてくれた男に微笑みかける。
「……っ」
その瞬間、土方の胸を抉るような痛みが貫いた。
立ちつくす土方に気づいたのか、伊東は彼の方を一瞥した。総司をその腕に抱いたまま、丁寧に目礼してくる。
だが、総司はもうふり返らなかった。彼の事など、もう頭にないのだろう。
総司の世界には、伊東しか存在していないのだ。
優しく肩を抱いてくれる伊東に話しかけ、楽しそうに笑っている。その鈴を転がすような笑い声が、土方のもとにまで届いた。
先程彼に見せた冷ややかな笑みとは、まるで違う。
幸せそうな、愛らしい笑顔だ。
「……」
見つめる土方の前で、二人は歩み去っていった。
仲睦まじげに寄りそう彼らは、許された至福の恋人たちだ。互いを求め、信じ、愛しあっている。
一年もの間、彼らは互いの愛をはぐくみ、育ててきたのだろう。そんな二人に、他者が入る隙は全くなかった。
時は、二度と──取り戻せぬのだ。
その場に立ちつくした土方は、固く拳を握りしめた……。
その日、伊東と総司は外泊した。
むろん、届けを出した上での事だった為、何も咎められる謂れはない。
それを近藤から聞かされた土方は何も云わなかったが、どうする事もできぬ焦燥感にかられたのは確かだった。
もう手遅れだとわかっている。
今から考えれば、あの時の判断は誤りだった事も。
だが、今更何を云っても仕方のない事だった。
愛しい総司はこの手から去り、他の男のものとなってしまっている。それをとめる術は彼にはなく、また、その資格もなかった。
兄として慕われていた時なら、少しは関わる事が出来ただろう。だが、今、総司にとって自分は何なのか。
「……」
伊東の腕の中へ飛び込んでいった総司を思い出すたび、胸の奥がぎりっと痛んだ。
怒りと嫉妬で、気が狂いそうになる。
だが、どんなに嫉妬しても、怒りを覚えても、総司は気づきもしないとよくわかっていた。もはや、土方など全く眼中にないのだ。無関心なのだ。
土方が嫉妬に狂い、どれほどもがき苦しんだとしても、それを例え目にする事になっても、あの細い眉一つ動かさぬだろう。侮蔑したような瞳で冷ややかに眺める総司が、思い浮かぶようだった。
木蓮の花のように美しく、だが、清らかな青白い焔のように激しい総司。
たとえ見た目が変わったとしても、総司自身の本質は何も変わっていないのだ。清廉である処も、ふれれば火傷するような激しさも。
関心がなくなれば、その存在を消し去ってしまったかのように振る舞う、その冷たさも。
だが、だからこそ美しい。
激しい本性そのままに、外見を磨かれた総司は誰よりも美しく、愛らしかった。
気も狂いそうなほど。
「……総司……」
その名を口にし、土方はきつく唇を噛みしめた。
「きみは何を求めているのです」
巡察の後、総司と一緒になった伊東は静かな声で訊ねた。
その問いかけに、黒い隊服に身をつつんだ総司は目をあげた。
総司は、もとの助勤筆頭と同等である一番隊組長の座についていた。むろん、師範代筆頭でもある。
「何の事、ですか……?」
不思議そうに、総司は聞き返した。
それに、伊東は微かに笑った。
「彼の事ですよ。きみは何かを求めて、この京へ来たのでしょう」
「……」
「先日の事もそうだ。私との待ち合わせの前に、わざわざ彼をその場まで連れてきた。そうして、私との仲を見せつけた。あれで、少しは満足しましたか」
伊東の問いかけに、総司は長い睫毛を伏せた。
ふっくらした桜色の唇に、どこか冷たい笑みがうかぶ。
「満足なんて……するはずがありません」
「……」
「あんな事、あの人には何の痛手にもならないでしょうから」
そう云ったとたん、総司は自らの言葉に傷つき、目を伏せた。きつく両手を握りしめる。
桜貝のような爪が肌に食い込んだが、その痛みにも気づかなかった。
(あの人は、私になど関心もない……)
総司は、苦々しい想いの中で考えた。
昔から、そうだった。
彼にとって、自分は大勢いる道場仲間の一人にすぎなかった。いってよい処、弟どまりだった。
むろん、それ以上の関係を望む自分の方がおかしいと、よくわかっていた。
彼は男なのだ。それも、何もかもに優れた男だった。
すらりと引き締まった長身に、端正な顔だち。
冷たく澄んだ黒い瞳も、形のよい唇も、しなやかな指さきも。
何もかもが、息を呑むほどきれいだった。
常に冷静で端然としているくせに、身の内に秘めた気性は激しく燃えあがる焔のようで。
冷たくて優しくて、激しい彼。
時折見せてくれる少年っぽい笑顔に、総司はいつもどきどきした。
子どもの頃から憧れ、恋し、ずっと見つめてきたのだ。
せめて、弟としてでもいいと思っていた。
傍にいられるだけでいいと。彼の傍にいられれば、幸せだった。じゃれたり甘えたり、我侭を云ったり。土方もそれを全く拒まなかったし、いつも優しく笑いかけ、甘えさせてくれた。
そんな日々がずっと続くと思っていた。満たされない恋だったが、それでも、総司の初恋は永遠につづいてゆくはずだったのだ。
だが、それは誤りだった。
芹沢の死から、少しずつ土方の態度は硬化していき、気がつけば驚くほど遠ざかってしまっていた。どうすればいいのかわからず、幼い総司は戸惑った。話しかけても生返事しかかえらず、視線一つあわせてもらえない。
いったい、何がどうなったのか、総司にはまるでわからなかったのだ。
そして、ある日突然、完全に切り捨てられた。
あの時の衝撃は忘れない。
奈落の底へ、突き落とされたような絶望も。
地位も名誉も何もかも奪い去り、土方は総司を切り捨てた。追い出した。
傍にいる事も穢らわしいとばかりに冷笑し、追い立てたのだ。
あの時、総司は初めて知った。彼にとって、自分は何の価値もない人間だったのだという事を。
駒だ──と断言された時、頭の奥が痺れたようになった。躯中が震えた。
本当に、彼の言葉どおり思い上がっていたのだろうか。否、そうだ。思い上がっていたのだ。彼に弟のように可愛がられていると思いこみ、甘えきっていた。幼い恋に溺れ、何も見えていなかったのだ。
まるで何事もなかったように立ち去る土方を見据え、総司は両手を握りしめた。
生まれて初めて味わう感情が、奥底から突き上げた。
それは──憎悪だった。
どす黒く凝り固まった憎しみ。
黒い焔のようなそれは、総司の胸に燃えあがり、やがて、すべてを支配した。
殺してやりたい、とさえ思った。今、この瞬間にも、あの背に刃を突きたて殺せたら……。
だが、一方で、そんな事できるはずもないとわかっていた。
自分にできるはずがないのだ。
「……っ」
総司は顔をそむけ、きつく唇を噛みしめた。
何かを堪えるように、祈るように。
そして、翌日、総司は京を去った。
彼への憎しみだけを、胸に抱いて。
「……私は」
総司は一つ呼吸をしてから、話をつづけた。
伊東の方をふり返り、小さく微笑んでみせる。
「あんな事で、満足するはずがないのです」
「……」
「あの人にとっては……何の意味もない行為だったのですから」
「……そうですか」
伊東は嘆息した。鳶色の瞳で、総司をじっと探るように見つめた。
静かな声で云った。
「ならば、私は最初の問いにたち戻るしかない」
「……」
「きみは何を求めているのです」
しばらくの間、総司は押し黙っていた。きれいな横顔を見せたまま、じっと黙り込んでいる。
だが、やがて顔をあげると、小さく息を吐いた。
大きな瞳に夢見るような光がうかび、花のような笑みが唇にうかべられる。
そして、答えた。
「……復讐を」
伊東は無言のまま目を細めた。
じっと押し黙っている。
そんな伊東の前で、総司は一度目を伏せてから、つづけた。
「あの人に……復讐をしたいのです」
「……復讐ですか」
伊東は低く呟いた。
二人が佇んでいる川岸。京特有の柔らかな光景だ。
きらきらと秋の光に輝く川面を、鳶色の瞳で眺めた。
「だが、それは容易ではない」
「わかっています」
総司は目を伏せた。
ゆっくりと歩き出しながら、伊東の方を促すようにふり返った。その瞳に、どこか縋るようなものを見つけ、微かに息を呑む。
黙って見つめる伊東の前で、総司は言葉をつづけた。
「でも、だからこそ……復讐してやりたい。私がされたように、あの人から何もかも奪いたい」
「……」
「地位も名誉も男としての矜持も、すべて奪い去り……地獄へ堕してやりたいのです」
「……地獄とは、また」
くっと伊東は喉を鳴らした。
隣にならぶ、花のように可憐で愛らしい若者を眺めた。
「恐ろしい言葉だ。きみを裏切ると、怖いですね」
「……」
「私も気をつけなければいけませんか」
「伊東先生」
総司は少し困ったように笑った。なめらかな頬が僅かに紅潮する。
「あなたにそんな事をするつもりはありません。伊東先生は、私を助けてくださったのですから」
「そう、私はきみを助けた」
伊東はふっと笑った。
「だが、私はそれをきみに押しつけるつもりはありません。きみは自由だ。少なくとも、私からは」
「伊東先生……?」
「枷は、一つで十分でしょう」
意味がわからず、総司は目を瞬いた。
それに微笑みかけ、伊東は細い肩を抱いた。従順に寄りそってくる小さな躯が愛しい。
「帰りましょうか」
そう云った伊東の腕の中で、総司は小さく頷いた。
