沈黙が落ちていた。
 先程まで人で賑わっていた広間は今、静まりかえっている。
 そこには、土方と近藤しかいなかった。
 新入り隊士たちの紹介が一通り済むと、幹部たちもふくめ後の者は皆、仕事に、部屋にと引き取っていったのだ。
「……」
 近藤は僅かに嘆息した。
 先程から何度もくり返している懐手を、再び行った。だが、話の糸口が掴めず、また嘆息してしまう。
 目前で何を考えているのか、目を伏せたまま黙している土方への対応を考えあぐねているのだ。
 あれ程、土方が強硬に断じて追い出した総司を、再び京へ連れ戻してしまった。
 それも、伊東派の者として。





 実際、江戸で総司に逢った時、近藤は驚愕したのだ。
 伊東の傍に端然と坐る総司は、この一年でまるで変わってしまっていた。
 もともと娘のように色も白く整った顔だちだったが、誰もそれに気をとめた事もなかった。
 無邪気で生意気で、野良猫のような少年だった。
 男所帯で育ったためか、あまり身の周りを気づかう事もなかった。そのため、総司がこんなにも美しい若者だとは、誰も気づいていなかったのだ。


 まるで──艶やかな蝶へ孵ったようだった。


 さほど手入れもされていなかった髪は、艶やかに結い上げられ、絹糸のようだった。
 大きな瞳は暁の明星のように輝き、しっとり濡れた桜色の唇は接吻を誘っているようだ。
 しなやかな身に纏う着物は質素だが、趣味がよく品もあり、総司のもつ清楚な美しさを十分引き立てていた。
 だが、外見が変わっただけではない。
 総司はもともと剣術に優れた若者だったが、学問の方はそれ程でもなく、また所作も洗練されているとは到底云えなかった。だが、今の総司は思わず見惚れるほど美しい所作、仕草を見せた。
 知識の方は云うまでもない。おそらく、文武両道に優れた伊東が手ずから教え込んだに違いなかった。
 そう。
 総司をここまで磨きあげたのは、伊東甲子太郎なのだ。





「実際、おれも驚いた」
 ようやく、近藤は重い口を開いた。
 聞いているのかいないのか、ただ押し黙っている土方を前に、言葉をつづける。
「総司がまさか伊東の傍にいるとは」
「……」
「伊東の道場を訪ねて初めて知ったのだが、総司はしばらくお光さんの処ですごしてから、再び江戸へ出てきたらしい。そこで、伊東と出会い、伊東の道場に寝起きするようになったという話だが……」
「……」
「伊東はかなり総司を気にいっているようだ。何しろ、妻女でさえ妬く程の仲らしいからな」
「つまりは……」
 初めて、土方が言葉を発した。
 伏せられた目に、冷え冷えとした光が宿った。
「妬かれるような仲、という事だろう」
「歳」
「どのみち、伊東が連れてきた以上、拒絶する事もできん。あんたのいいようにしてくれ」
「おれは……」
 近藤は躊躇いがちに云った。
「総司を、元の役職に戻そうと思う。そして、昔のように仲間として迎え入れてやりたい」
「……」
「歳、おまえもそう望んでいるのではないか」
「昔のように?」
 土方は僅かに唇を歪めた。くっと喉奥で笑い声をたてる。
「そんなもの……この俺が望むはずねぇだろうが。だいたい、あれは昔の総司ではない。全く別物だ」
「それは、おれも認めるが……」
「役職の方は認める。だが、それ以外の事で俺は関わる気はない。あんたの好きにやってくれ」
 冷たく云いきると、土方は袴の裾を裁いて立ち上がった。固く口許を引き結んだまま、部屋を出てゆく。
 その友人の背を見送り、近藤は再び嘆息した。












 あれは、総司ではないと思った。
 屯所の門前。
 微笑みかける総司を見た瞬間、土方は心臓を鷲掴みにされた気がした。
 ただ、呆然と立ちつくす他なかったのだ。
 そこにいるのは、総司ではなかった。少なくとも、土方がよく知っている、無邪気な明るい少年ではありえなかったのだ。
 初め、土方はこの「総司」を拒絶したいと望んだ。
 認めたくない、と。
 だが、そうするには、この生き物はあまりにも美しかった。


 狂おしいほどの美しさ──。


 色香あふれる少年なら、京でもさんざん目にした。
 その手の色街は京にもあるのだ。
 だが、総司は、彼らとはまるで違っていた。美しさの種類が全く違うのだ。
 例えるなら、そう、涼やかな木蓮の美しさだった。
 凜とした表情は息を呑むほど美しく、しなやかな肢体は匂いたつ若さにあふれている。
 清楚で初々しい顔だちは、なめらかな花のようだった。朝露にぬれる花びらのような、艶やかさと瑞々しさをあわせもった美しさ。
 長い睫毛を瞬かせ、潤んだ瞳で見つめられれば、誰もが一瞬で虜にされてしまうだろう。
「だが、俺は……」
 土方は指の背を唇に押しあてながら、苦々しく呟いた。
「前のおまえの方が好きだ」 
 そう口にしてから、すぐ我に返った。己の言動を自嘲してしまう。





 生意気で、手におえないやんちゃな仔猫のようだった、総司。
 九つも年上である彼にも平気で口答えするぐらい勝ち気で、青白い焔のように激しい気性を秘めて。
 初めはなかなか懐かなかったくせに、いったん心を開いたとたん、甘えて我侭を云ってさんざん困らせた。
 気まぐれで、生意気で、泣いたり笑ったり怒ったり。
 くるくるかわるその表情が、誰よりも愛しかった。
「土方さん……!」
 澄んだ声でそう呼ばれる瞬間、世界中がぱっと明るく色づくような幸せを感じた。
 腕の中、飛び込んでくる細い躯が、たまらなく愛しかった。
 愛しくて、愛しくて。
 もう、他の何も見えなくなってしまうほど……





 土方は微かに吐息をもらした。
 己の奥にある秘めた想いを、今更掴み出す気にはなれない。一年前に封じたはずの想いは、このまま静かに押し殺すべきなのだ。
「──」
 固く唇を引き結び、土方は表情をあらためた。
 廊下を歩いてゆくと、足裏に感じる床がひやりと冷たい。
 すれ違う隊士たちが皆、身を引くようにして一礼した。それに感覚の鈍い処で応じながら、あることを自覚した。
 この屯所の内に、その気配を求めてしまっているのだ。
 一年前には確かに己の傍にあったはずの、存在を。
 ──総司を。
 切り捨てたのは、己自身だったはずなのに。


(……無様だな)


 土方の唇に、苦い笑みがうかんだ……。












 総司はふと手をとめ、中庭の方を見やった。
 そのまま、書物を膝上に、柔らかな光が降り注ぐ庭の光景を見つめている。
「……」
 伊東はそれを眺め、僅かに目を細めた。
 きれいだった。
 そこに在るだけで、一種独特の匂いたつような美しさを醸し出す。
 まるで、涼やかな木蓮のようだ──とは、いったい誰が総司の事を評した言葉だったのか。
 初めて逢った時は、まるで捨てられた仔猫のようだったのにと、伊東は僅かな苦笑と共に思い出した。





 伊東が総司と初めて逢ったのは、雨の日だった。
 一人外出した冬のある夕暮れ、刺すように冷たい雨の中、通りがかった軒先の下にこの少年はいたのだ。
 否、既に若者と呼んだ方がよい年頃だった。だが、びしょ濡れのまま蹲り、震えているその姿は、幼く思えるほどいとけなかった。
「……どうしました」
 いつもなら、通り過ぎていたはずだった。
 伊東はもともと誇り高く、また、己にも他者にも厳しい人間だった。そのため、自分の足で立てないような者は侮蔑し、こんな場合も、男であるのに情けないと眉を顰め、常ならば通り過ぎるはずだった。
 だが、その日は違った。
 細い肩が震えているのを見た瞬間、何故か声をかけてしまったのだ。
 顔をあげた少年が、意外に力強い瞳で見返した時には、尚のこと通り過ぎようという気持ちは失せてしまっていた。
「こんな処で雨宿りですか。当分、やみそうにありませんよ」
 そう云った伊東を、しばらくの間、少年は無言のまま見つめていた。小さな顔に、警戒心がよぎる。
 青ざめた唇が、やがて、言葉を発した。
「……そんな事わかっています」
 いかにも勝ち気な、生意気そうな口調だった。だが、それがこの少年らしくて、伊東はただ苦笑しただけだった。
 ゆっくりと手をさしのべると、少年は驚いたように目を見開いた。
 それに、微笑みかける。
「傘に入りなさい。私の道場はすぐ近くです、そこで雨がやむまで休めばいい」
「……」
「私は伊東道場の伊東甲子太郎と云います。きみは?」
「……」
 少年は僅かに躊躇っているようだった。だが、このままではどうしようもないとわかったのだろう。
 小さな声で、答えた。
「……沖田…総司と申します」
「そう、沖田君ですか」
「はい」
「なら、沖田君、傘へ入りなさい。私も早く道場へ帰りたいのです」
 静かな声で命じると、総司は慌てたように立ち上がった。年上の者にあれこれ云われる事に、抵抗がないらしい。
 伊東は総司を傘に入れてやると、そのまま道場へ連れ帰った。そして、風呂に入れて着物を貸してやり、食事までさせてやったのだ。
 門人たちは新しい弟子ですかと訊ねてきたが、そんな事は考えもしなかった。
 まるで、猫を拾ったような感覚だったのだ。
 なかなか懐かない、生意気な仔猫を。





 思わず小さく笑った伊東に、総司がふり返った。
 不思議そうに小首をかしげてくる。
「……伊東先生?」
「いや」
 伊東はまだ笑みをたたえたまま、答えた。
「少し……思い出していたのです」
「?」
「昔の事を。なかなか私に心を開いてくれなかった、きみのことをね」
「……」
 総司の頬がさっと紅潮した。長い睫毛を伏せ、気まずそうに手を組み合わせる。
「あの頃の事は……申し訳ありません。誰も信じる気になれなくて、周囲にあたり散らしてばかりいたのです」
「わかっています。何かを抱えていると、あの時も思ったからこそ、私は放っておいた。きみが泣いても怒っても、私はただそこにいて受けとめようと思ったのです」
「伊東先生には、本当に感謝しています」
 総司はきれいに澄んだ瞳で伊東を見つめた。
「あの時、伊東先生に拾って頂かなければ、私はきっと駄目になっていたと思います。あんな生意気な子どもだった私に、様々な事を教えて下さり、こうして導いて下さった。そして、今また……」
「新撰組へ戻る手助けをした、と? その事をきみは感謝するのですか?」
「……」
 黙ったままの総司に、伊東は苦笑した。鳶色の瞳が怜悧な光をうかべる。
「私は私なりの、欲や利害関係で動いたのです。むろん、きみ自身を私が欲した事もありますが、それだけではない。きみを私たちの一派としてこの新撰組へ乗り込めば、私の立場が有利になると思ったからこそです。感謝される謂れはありませんよ」
「それも……わかっています」
 総司は小さく頷いた。
「わかっていて尚、私は伊東先生についてきたのです。そして、これからも伊東先生についてゆきたいと思っております」
「つまり、私を支えるために、新撰組に戻ったと?」
「はい」
「偽りでしょう、それは」
 総司は「え」と目を見開いた。
 それに、伊東は淡々とした口調で云った。
「きみの目的は違う。きみは……別の理由があって、この隊に戻ってきたはずです」
「……」
 黙り込んでしまった総司を、伊東は鳶色の瞳で見つめた。やがて、ふっと笑ってから、訊ねる。
「彼、ですか」
「え……?」
「新撰組副長、土方歳三。彼が、その人なのではありませんか」
「──」
 総司の表情がさっと硬くなった。頬が青ざめ、指さきがぎゅっと握りこまれる。
 それを注意深く眺めながら、伊東は言葉をつづけた。
「先程、きみたちの様子を見て、そう思ったのです。他の幹部たちは皆、きみとの再会を喜び、親しげに話しかけていた。だが、彼だけは違った。まるで、視界にいれる事さえ厭うかのように、完全にきみを無視していた」
「……」
 総司は黙ったまま俯いた。
 そのきれいな顔は青ざめ、ふっくらした唇が血の吹きでそうなほど噛みしめられる。
 伊東は僅かに嘆息した。
「……言葉が過ぎましたね。きみを傷つけてしまった」
「いえ……」
「この話はもうやめにしましょう。きみの前で、彼の話はせぬ方がいいようだ」
 そう云った伊東に、総司は何も答えなかった。ただ、黙ったまま目を伏せている。
 その様子を眺めた伊東は、ふとある事を思った。


 まるで、何かを探しているようだ──と。
 総司は目を伏せたまま、何かを探しもとめている。
 否、何かではない。
 誰かの気配を、求めているのだ。
 それは……?


 わかりきった答えだと、伊東は僅かに目を細めた。












 一年という年月は、若者の上に様々なものをもたらしたようだった。
 雰囲気や身ごなし、知識だけではない。
 もともと優れていた剣術も、またしかりだった。
 伊東の庇護のもとで過した一年のうちに、総司の剣術はより鋭さを増していた。ある意味、以前はなかった何かを得ていた。精神的な成長が、剣術にも現われているのか。 
 剣術もまた、伊東に磨かれたのだ。
 それを確信しながら、斉藤は総司の動きを目で追った。
 のびやかで美しい、舞のような動きだ。そのくせ、隙がなく、また力強い。完璧なまでの剣術に、斉藤は圧倒される思いだった。
 天才と云う他ない。
 総司は、己の剣術をこの若さで極めたのだ。それが何に起因しているかまでは、わからなかったが……。
「……総司」
 稽古の後、道場の外で声をかけると、総司はふり返った。斉藤をみとめ、小さく笑う。
「斉藤さん」
 その白い花のような笑顔に、胸が痛むような心地を覚えつつ、斉藤は歩み寄った。
「元気だったか」
「えぇ、斉藤さんも」
「オレはたいして変わりのない毎日さ」
「そうですか? 活躍ぶりは聞いていますよ」
 総司は淡々とした口調で、答えた。丁寧な口調だ。
 だが、昔のように弾んだ声音ではなかった。落ち着いた、静かな声だった。
 斉藤は僅かに目を眇めた。
「……おまえ、変わったな」
「え?」
 不思議そうに首をかしげる総司に、斉藤は云った。
「おまえ、変わったよ。一年前から比べると、まるで別人みたいだ」
「そうですか?」
 総司はちょっと目を見開いてから、小さく笑った。
「人は誰でも変わるのではありませんか? 私も……斉藤さんも、皆。昔のように子どものままではいられない」
「遊びの時間は終ったという事か」
「そうですね」
 静かな声で答え、総司は風に吹き乱される髪を片手でかきあげた。後ろで結わえた長い髪は変わらない。だが、その髪は艶やかで、まるで絹糸のように柔らかだ。
 総司は僅かに目を細めた。
「子どもではいられない……無邪気に遊んだ時間は終ってしまった」
「……」
「そして……あの時、その事に気づいていなかったのは、私だけだったのです」
 総司の言葉に、斉藤はかるく息を呑んだ。
 それが何を示唆しているのか、わかっていた。だが、今更何も云う事は出来なかった。もう一年も前に、終ってしまった事なのだ。
 二度と取り返しのつかぬ出来事。
「……」
 黙り込んだ斉藤の前で、総司はふりきるように笑った。
 愛らしい笑顔で、友人を見上げてくる。
「そう云えば、斉藤さん」
「何だ?」
「紅葉がとても綺麗ですね。今年は少し早いのかな」
「あぁ……そうだな」
 思わず庭の樹木を見上げた斉藤に、総司は柔らかな口調で云った。
「明日にでも、一緒に紅葉見物に出かけませんか。清水寺なんていいですよね」
「いや、オレは明日無理だ」
「私は明日が非番なんですけれど……一人で行くのも淋しいから、他の人を誘ってみようかな」
 くすっと笑いながら、総司は肩をすくめた。
 その仕草も笑顔も、前と同じなのだが、どこか匂いたつような艶がある。
 斉藤がそれをぼんやり眺めていると、不意に、総司が「あ」と声をあげた。視線を斉藤の後ろの方へやりながら、云う。
「あの人を誘ってみます」
「え……?」
 ふり返った斉藤は、思わず息を呑んだ。
 だが、そんな彼に構わず、総司は縁側のすぐ傍まで歩み寄ると、そこを通りすぎようとしていた男に声をかけた。
「土方さん」
「……」
 まさか声をかけられると思っていなかったのだろう。
 驚いたように見下ろした土方は、一瞬、その端正な顔に苦痛の色をうかべた。だが、すぐさま視線をそらし、いつもの無表情にたちもどる。
「……何だ」
「明日、お時間頂けませんか」
「……」
「清水寺の紅葉がとても見事だそうです。だから、ご一緒にいかがですか?」
「……」
 土方は無言のまま、総司を見下ろした。視線がからみあう。
 押し黙ったままの彼の前で、総司は微かに笑ってみせた。だが、そこに甘さはない。
 その証に、大きな瞳は挑戦的にきらめき、桜色の唇は嘲りの笑みをうかべていた。少なくとも、土方にはそう思えた。
「……わかった」
 長い沈黙の後、答えた。
 総司の背後で、斉藤が微かに息を呑む。
 それをみとめながら、土方はゆっくりとつづけた。
「明日、おまえと一緒に行こう。それで……いいな?」
 念押しするように訊ねると、総司は小さく頷いた。微かな笑みを唇にうかべながら、答える。
「えぇ、ありがとうございます」
「……」
「楽しみにしていますね」
 そう云って、微笑いかける若者の細い肩に、ひらりと紅葉が舞い落ちた。