はぁっと息を吐いた。
 とたん、白い息が目の前に広がる。
 それを眺めてから、総司は頤をあげた。
 頭上に広がるのは、薄曇りの空だ。
 明け方から降っていた雪はやんだが、未だ曇りがちな京の冬空だった。
 総司は一度立ち上がり、玄関の方を見やった。だが、まだ誰も帰ってきてはいない。それにため息をつきつつ、総司は柱に背を凭せかけた。



 そうして俯く横顔は、儚げな少女のようだった。
 木蓮の花のような、凜とした美しさをもつ若者。
 だが、総司自身は己を美しいとも何とも思っていなかった。伊東に磨かれてから見栄えがするようになった気はするが、美しい女を見慣れている土方の目に叶うとは思ってもいない。
 むろん、それは誤りであり、土方は総司を誰よりも美しいと感じていた。野良猫のようだった頃も、今の木蓮のような美しさも。その身だけでなく、凜とした心の美しさ、すべてを深く愛している。
 見惚れた事も、数えきれぬほどだった。だが、その熱っぽい視線や、眩しいものを見るような男の表情にも、総司は全く気づいていない。


 総司はため息をつき、また視線を玄関の方へやった。
 先程から、ずっと人を待っているのだ。
 今朝早くから、伊東は篠原を連れ、近藤の休息所へ行っているはずだった。例の分離を話しあうためだ。むろん、そこには土方も同席しているはずだった。
 総司も誘われはしたのだ。同席しませんか、と。
 それに、総司は怯えたような表情で、伊東を凝視した。


「……命令、でしょうか」
 躊躇いがちに訊ねた総司に、伊東は苦笑した。
「いや、違いますよ。ただ私が望んだだけの事です」
「……」
 安堵した。
 行くことなど出来るはずもないのだ。それこそ、決定打をうつような行為だった。
 隊からの分離を話しあう場に、総司が伊東と共に出席すれば、それは己の意志を明確にする事になる。伊東と共に行くと、土方に見せつけることになるのだ。
 そんな事、できるはずもなかった。
 愛していると云ってくれた土方の気持ちを思えば、到底できない。
 もっとも、それを総司は未だ完全には信じられないでいた。
 どうしても、本当に? と思ってしまうのだ。
 こんな病もちで、美しい女でもない子どもの自分が、彼に愛されるなど、あり得ない話だった。総司にすれば、まるで夢話だ。
 むろん、ずっと夢見ていた。彼に愛されたらどれほど幸せかと、美しい女と寄りそう土方を見るたび、陰でこっそり泣いてきたのだ。
 愛している。
 彼だけを愛している。
 だからこそ、彼の気持ちが真実であれ、偽りであれ、これ以上、土方を傷つけたくなかった。
 そのため、総司は首をふり、伊東からの誘いを断ったのだ。





 総司は柱に凭れたまま、目を伏せた。
「私は……甘えてばかりだ」
 伊東にも、土方にも。
 大人になったはずなのに、相変わらず甘えてばかりいる。それどころか、今のままでは二人の男を傷つけてしまうだろう。
 どちらの手をとるか、己自身が決めなければならないのだ。すべて自分が引き起した事なら、その始末も己でつけなければならない。
 誰を裏切る事になろうとも……。
「!」
 不意に、はっとして総司は顔をあげた。
 玄関の方で足音がしたため出てみると、伊東が框をあがる処だった。総司をみとめ、ほっとしたように微笑う。
「伊東先生」
 思わず駆け寄った総司は、いつもの癖で伊東に寄りそった。それを見下ろした伊東は、穏やかな口調で云う。
「待っていてくれたのですか」
「伊東先生、あの……」
「こんなに手が冷えて。朝餉はもうとりましたか?」
 優しく訊ねてくれる伊東に、総司の胸があたたかくなった。鳶色の瞳で見つめられ、頬をそめる。
「いえ、まだです」
「では、一緒にとりましょう」
「はい」
 こくりと頷いた総司は、何気なく玄関の方へ視線をやった。とたん鋭く息を呑んだ。
 たまたま、一緒になったのか。
 土方だった。肩についた雪を、煩わしげにはらっている。
 彼はこちらを見ていなかったが、二人の会話が聞こえている事は確かだった。この距離では、聞こえぬ方が不思議なのだ。
 その証に、土方は二人を見ても眉一つ動かさなかった。ゆっくりと框をあがった処で、伊東と寄りそう総司を一瞥する。
「!」
 思わず、総司は身を竦めてしまった。罪悪感と後悔で、躯が震えだしそうだった。
 それに土方は何も云わなかった。無言のまま視線を外すと、落ち着いた足どりで傍を通りすぎてゆく。
 だが、その遠ざかる背に、先日と同じ怒りの色を見た気がして、声を呑んだ。
「土方さん」
 気がつけば、彼の名を呼んでいた。
 手をのばし、縋るように男の腕を掴んだ。それに、土方がふり返る。
 冷たく澄んだ黒い瞳が、総司を見下ろした。
「何だ」
「お話が」
 どうしたらよいのかわからぬまま、総司は懸命に云いつのった。
「お話があるのです。時間をとって頂けませんでしょうか」
「……断る」
 低い声で、土方は答えた。びくんと目を見開いた総司に、冷淡な声音でつづけた。
「おまえの話など、聞かずともわかる。今更、わざわざ俺に断る事もないだろう」
「土方…さん」
「おまえが決めた事は、見ればわかるさ」
 そう云った土方は、総司の後ろに佇む伊東を一瞥し、片頬を歪めた。一瞬だけ、嫉妬と怒りに燃える瞳が総司を見つめる。
 だが、すっと視線をそらすと、踵を返した。今度こそ、ふり返ることなく歩み去っていった
 それを、総司も追うことができなかった。
 今朝の談合で、伊東は藤堂を連れていったに違いなかった。斉藤の名もあげたに違いない。それは、近藤や土方たちにとって、打撃に他ならなかっただろう。
 そこに、話があると云った総司だ。伊東についてゆくという話に決まっていた。だからこそ、土方は、聞くまでもないと切り捨てたのだ。
 そう受け取られて、当然だと思った。
 もはや、悩み迷う段階ではない。総司はいつのまにか、伊東派の者として、この争いの中に組み込まれてしまっていた。
 総司自身の意志など無関係の処で、その立場は定められていたのだ。
「……総司」
 そっと、肩に手が置かれた。慰めるでもなく、励ますでもない。
 ただ、一人ではないことを知らせるような……。
「伊東先生……」
 総司は、抱き寄せてくれる男の腕の中へ、身をまかせた。
 そして。
 いつも見守ってくれる伊東のぬくもりを感じながら、抗いようのない定めにきつく目を閉じた。












 苦しくないはずがなかった。
 痛みを覚えぬはずがなかった。
 こんなにも愛しているものを、自ら手放すのだ。それも、あの時とは違う。
 他の男のものになるとわかっていて尚、手放さなければならない事実に、土方はきつく唇を噛みしめた。
「……畜生っ」
 自室の文机の前。
 組んだ両手の中に顔をうずめ、低く罵った。大声をあげる事はできない。副長たる彼が取り乱している様など、他者に見せられるはずもなかった。
 土方は文机に肘をつき、項垂れた。きつく目を閉じる。
 だが、そうしたとたん、目の裏に、今朝の総司の表情が蘇った。伊東に寄りそいつつ、彼を見たとたん、怯えたような目になった総司の……


(憎まれて、嫌われて……当然か)


 彼自身の身勝手な衝動と汚い欲望のため、京を追われたのだ。挙げ句、伊東に助けられて京に戻ったとたん、半ば騙されるように彼に抱かれた。
 どれ程の屈辱だったか、辛さだったか。
 あんなにも潔癖で初な総司が、男に抱かれたのだ。その躯に男を教えられたのだ。
 いっそ死にたいほどの屈辱だった事だろう。
 それでも、総司は彼の傍にいてくれた。彼が用意した家も訪れ、おとなしく抱かれてくれたのだ。
 だが、それは総司の愛情が彼にあるからではない。
 ただ、優しいからだ。幼い頃から、総司は確かに我侭で気が強く、好き嫌いの激しい少年だったが、一方でこちらがたまらなくなる程の優しさをもっていた。それは今も変わらない。
 だからこそ、総司は迷っているのだ。
 伊東と土方、どちらの手をとるべきなのか、悩み苦しんでいる。本来なら、敬愛している伊東の手を躊躇いなくとるはずなのに、彼に抱かれたから故なのか、土方の気持ちも考えているようだった。
 本当に、総司は優しい。
 だが、だからこそ、土方は決意した。
 その手を離してやるべきだと。こちらから切り捨てるべきだ。
 そう、思ったのだ。
 総司の考えは間違っていた。距離を置こうとしたのではなく、土方自身が総司を手放すつもりだったのだ。
 あれだけの事をした挙げ句、今更行かせないと云えるはずがなかった。あまりにも身勝手すぎるだろう。
 だが、決意とは裏腹に、いざ伊東と寄りそう総司を見るのは、生身を引き裂かれるような苦痛だった。
 近いうち、訪れるだろう光景。
 目の前で、総司が伊東と共にこの隊を出ていってしまったなら、その場で気が狂ってしまうと思った。
 自分でも、何をするかわからない。
 あの時と同じ、己自身でも空恐ろしくなるほど狂気じみた執着に、思わず身震いした。
 どうして、こんなにも囚われてしまうのか。
 総司だけ、なのだ。
 あの愛しい若者だけが、自分の心を狂わせる。
「……総司……っ」
 その名を呼び、土方は固く瞼を閉ざした。












 冬から春へと。
 季節がうつり変わろうとする中で、隊内の空気はいよいよ張り詰めていった。
 様々な憶測と噂が飛び交い、隊士たちは皆、落ち着かぬ様子だった。
 そんな中で、総司はもっとも曖昧な立場にある者だったが、常に毅然と顔をあげていた。俯く理由など何処にもないと思っていたのだ。
 もっとも、ただ一人の男の前では、俯かざるをえない罪悪感があったが……。
「おまえの迷いもわかるよ」
 自室を訪れた斉藤は、静かな声で云った。
 それに、総司がはっとして顔をあげる。
「斉藤、さん?」
「いや、オレのことじゃない。オレはもう心が決まっているから……けど、おまえはそうじゃないのだろう?」
「……」
 黙ったまま、総司は俯いてしまった。
 総司自身はまだ何も決めていないし、伊東も言及はしていない。だが、周囲がもはや決めつけてしまっていた。
 隊分離の時、総司は伊東についてゆくものと思われている。
「オレは……知っていたんだ」
 不意に、斉藤が云った。小首をかしげる総司を鳶色の瞳で見つめ、どこか苦しげな声音でつづける。
「土方さんがおまえを追い出した時……おまえの病も、土方さん自身の気持ちも、皆、わかっていた」
「──」
 総司の目が大きく見開かれた。呆然とした様子で、斉藤を見ている。
 それに、斉藤はすまなさそうに頭を下げた。
「知っていて何も出来なかったオレを、許してくれ」
「斉藤……さん」
「あんなやり方は幾らなんでも酷いと思った。だが、土方さんがおまえの気持ちを知らない以上、仕方のない事だった。あの時、むしろ、オレが互いが思い合ってる事を云えばよかったのかもしれない。だが、オレはおまえが……総司が好きだった」
 低い声で云われた言葉に、総司は息を呑んだ。だが、すぐさま狼狽えたように視線をさまよわせ、耳朶まで赤くなってしまう。
「さ、斉藤さん」
「すまない、今頃。だが、オレは二人を結びつけられるほど出来た男じゃなかった。だから、ただ黙って、おまえを見送ったんだ」
「……」
「京へ戻ってきてからも、云うべきかと迷った。だが、土方さんはおまえが去ってから何を考えているのか、さっぱりわからなくなった。おまえが戻ってきても態度を変えないあの人に、もう気持ちは醒めたのかとさえ思ったんだ。おまえの方は変わってしまっていたし、オレはどうすべきかわからず……いや、これも云い訳だな。何もしてやれなくて、本当にすまない……」
「斉藤さん、いいのです」
 思わず、総司は、頭を垂れる斉藤の手を握りしめていた。
 すれ違いがあったのかもしれない。色々なことがあったかもしれない。
 だが、今、こんなにも胸を痛めてくれている友人の存在が、嬉しかった。心から嬉しい、有り難いと思えた。
「もう……いいのです。全部、終った事なのだから。それに、斉藤さんが謝る事じゃない。皆、土方さんや私自身が選びとってきた道なのです。誰が悪い訳じゃないけど、こんなふうになってしまったのだから……もう……」
 声がとぎれた。涙があふれたのだ。

 どうしてだろう、と思った。
 何故、こんなふうになってしまったのか。
 誰が悪いわけでもないのに。私も、土方さんも、幸せになりたかったはずなのに。
「……っ」
 総司は両手で顔をおおうと、声を殺し、泣いた。


 あの頃が懐かしい。
 切ないぐらい、昔に戻りたかった。
 何の不安も恐れもなく、ただ一途に、彼を愛していられた幼い頃。
 あんなにも幸せだったのに。
 ずっとずっと、この幸せがつづいてゆくと、何の疑いも抱いてなかったのに……。


「ごめん、なさい」
 しばらくして、総司は顔をあげた。手の甲で涙をぬぐい、何とか笑ってみせる。
「みっともない事みせちゃいました」
「いや、いいんだ」
「斉藤さんは伊東先生についてゆくのでしょう? もし、私が同行したら……これからも一緒ですね」
「あぁ」
 頷いた斉藤に、総司は潤んだ瞳で微笑みかけた。
「斉藤さんは大切な友人です。今までも、これからも……ずっと」
 その言葉に、斉藤は何も云わぬまま、小さく頷いてみせた。それから、不意に堪えきれなくなったように顔を背け、立ち上がった。足早に部屋を出ていってしまう。
 それをぼんやり見送っていた総司は、ふとある事を思いだした。
「……副長室に行かなくちゃ」
 隊務の上での事だった。少し気まずいが、自分が行かなければ拗れてしまう事なのだ。
 総司は自室を出ると、近くの井戸端でばしゃばしゃと顔を洗った。泣いていた事を知られたくなかったのだ。


 今更、なのだ。
 あれだけ振り回して、さんざん傷つけて。その挙げ句、彼が手放そうとしている今になって泣くなど、情けない事この上なかった。
 最近の彼の態度からすれば、どう考えても、そうなのだ。彼は自分を手放そうとしている。
 もう飽きたのか。
 それとも、もともとあの告白は偽りだったのか。
 それさえも、わからなかったけれど……。


 総司は様々な思いをふり切るように頭をふると、縁側にあがった。副長室へむかう。
 ふと見やった庭に、白い雪が降り積もっていた。とたん、何故か、あの家の事を思いだした。


(あの人と二人で見た竹林にも……雪が積もっているのかな)


 そんな事を思いながら辿りついた副長室は、白い障子が固くたてられてあった。
 それが冷ややかに拒絶しているようで、かるく息を呑む。だが、すぐに総司は跪くと、静かな声で呼びかけた。
「……副長、沖田です。宜しいでしょうか」
 応えはなかった。留守なのかと思いながら、そっと障子を開く。
 とたん、目を見開いた。
「!」
 するりと中へ入って障子を閉めたが、まだ胸の鼓動がどきどきしている。
 総司は声を発さぬよう口を両手でおおいながら、そろそろと歩み寄った。


(……土方さん……)


 彼は眠っていた。
 連日の激務による疲労のためか。
 文机の前で、土方は眠りこんでいた。仰向けで横たわり、かるく片膝だけをたてている。黒紬の小袖に袴という端然とした姿ながら、そうして自堕落に横たわる様は妙に男の色香を感じさせた。
 男にしては長い睫毛が頬に翳りをおとし、僅かに開かれた唇から寝息がもれる。
 袷から覗く鎖骨が男っぽさを感じさせて、総司は頬を火照らせた。
 畳に投げ出された手は僅かに開かれ、しなやかな指さきがとても綺麗だ。
「……」
 そっと傍らに跪き、男の端正な顔を覗き込んだ。


 きれいな顔だと思った。
 そして、誰よりも好きだと。
 本当に、だい好きなのだ。好きで好きで、たまらないのだ。
 選ぶも何もありえない。
 こんなにも好きな彼と引き離されたら、自分はきっと死んでしまうだろう。
 この世の誰よりも、愛おしい彼───


 おずおずと身をかがめた。さらりと総司の髪が彼の頬にふれる。
 そうして、一瞬だけ唇をあわせた。
 ふれるだけの、甘い口づけ。
 総司は身を起すと、ぱっと頬を赤らめた。慌てて腰を浮かせ、そのまま部屋を出ていこうとする。
 その瞬間、だった。
「!」
 不意に、総司の手首がきつく掴まれた。