「っ、…ぁ…っ」
 もはや言葉にならなかった。
 激しく咳き込むたびに、口をおさえる指の間から血があふれる。
 その手が不意にとられた。手拭いが押しあてられ、男の胸もとに引き寄せられる。
 総司は目を見開いた。


(土方さんが、汚れる……!)


 必死になって土方を突き放そうとした。
 だが、男の腕の力は強靱だ。包みこむように抱きすくめられ、頭を胸もとに押しつけられた。
 何度も何度も、大きな掌が背を撫でさすってくれる。
「……大丈夫だ」
 低い声が囁いた。
「俺が傍にいる……心配するな、大丈夫だ」
「……っ」
 彼の言葉に、総司は躯の力がすべてぬけるような、安堵感を覚えた。胸の奥がふわっと熱くなる。
 怖くて怖くて、いつも一人で震えながら見つめていた血。
 なのに、今、傍にいると云ってくれた彼の存在が、たまらなく嬉しかった。心強かった。


(何を失っても……この人さえいてくれればいい)


 そんな思いさえ抱いて、総司はおずおずと土方の背に両手をまわした。子どものように縋りつく。
 まだ咳はつづいていたが、もう血はおさまっていた。だが、唇も顎も着物も血まみれで、凄まじい姿だ。その血が労咳故であると知れたなら、誰もが顔を背け、忌み嫌うだろう。
 だが、土方は全く躊躇わなかった。総司の心に寄りそい、総司を落ち着ける事だけを考えているようだった。
 そんな彼のぬくもりに包まれ、総司は安堵の息をもらした。


 もう……大丈夫。
 この人は、ずっと傍にいてくれるから。
 私の傍に……いつまでも。


 すうっと意識が遠ざかった。
 慣れた感触に、目を閉じる。
「……総司……っ」
 その頬に唇が押しあてられたのを感じたのは、闇に落ちる寸前の事だった。












「総司が倒れたと聞いたが」
 医者を呼びにやり、あらかた手当が済んだ頃、近藤が黒谷から帰ってきた。
 廊下で土方と顔をあわせたとたん、息せき切った様子で訊ねてくる。それに、土方は頷いた。
 幸い、周囲に人気はない。
「俺の前で発作を起し……血を吐いた」
 絞りだすような声で応えた土方に、近藤は呻いた。厳つい顔に苦渋の色がうかぶ。
「それで、医者は」
「とりあえず安静にと。血を吐いた事で体力を消耗しているからな」
「それはそうだろうが……しかし」
 近藤は嘆息し、己の盟友を見上げた。
「歳、おまえが無理をさせたのではないか」
「……」
「おまえが休息所をもった時、それで総司も少しは療養できると思ったのだ。ここでは到底休めぬからな。だが」
「つまりは」
 土方は片頬を歪め、低く嗤った。
「あいつを抱くために家を構えたのなら、意味がなかったと云いたいのか」
「歳」
「どのみち、あの家にはもう行かせない。これ以上、無理強いする気にはなれんからな」
「無理強い……したのか」
「あるいは、な」
 彼にしては珍しく曖昧な応えを返した土方を、近藤は気遣わしげな表情で眺めた。
 それに、土方は端正な顔に何の表情もうかべぬまま、庭の方を眺めやっている。
 否、違う。
 その視線の先にあるのは、総司の部屋だ。
 黒い瞳にある、憎しみとも愛しさとも断じられぬ色合いに、近藤は口を閉ざした。黙ったまま彼の肩をかるく叩くと、その場を去ってゆく。
 今更、自分が何を云っても仕方がないと思ったのだ。
 複雑に絡み合った二人の関係に介入するのなら、あの時にこそすべき事だったのだから。
「……」
 遠ざかる近藤の背を見送ってから、土方も踵を返した。足早に総司の部屋へむかってゆく。
 部屋の前まで着くと、ちょうど小姓が出てきた処だった。彼を見ると、慌てて一礼する。
「総司は」
「今、気がつかれました」
「そうか」
 土方は頷き、部屋の中へ入った。後ろ手に障子を閉める。
 布団の上に横たわっていた総司が、ゆっくりと彼の方へ視線をやった。かるく目を瞠ってから、微かに笑う。
 その笑みがひどく儚げに見えて、土方は心の臓を跳ね上がらせた。だが、己の動揺を感じさせぬよう、つとめて表情を消す。
「……気分はどうだ」
 枕元に腰をおろし、静かな声で訊ねた土方に、総司はこくりと頷いた。
「もう大丈夫です。面倒をおかけしました」
「面倒などではない」
「ですが……」
 そう云いかけてから、総司は大きな瞳でじっと土方を見上げた。しばらくの間、重い沈黙がおちる。
 ゆっくりと視線をそらした。
「土方さんは……」
 桜色の唇が、動いた。
「私の病のこと……知っていた?」
「……あぁ」
 一呼吸置いてから答えた土方に、総司は切ない表情で瞼を閉ざした。
 追いつめられた小動物のような様が痛ましく、土方は思わずその手をとった。
「総司、俺は何も責めるつもりはない。病をおして、おまえは今まで戦ってきたんだ。誰にも後ろ指一つささせるものか」
「ありがとう、土方さん」
 そう答えた総司だったが、どこか上の空だった。別の事を考えているようなのだ。
 訝しく思って眉を顰めた土方の手から、総司がそっと手を抜いた。布団の中へもぐりこませながら、小さな声で訊ねた。
「それは……いつから?」
「え?」
「私の病の事を知っていたのは、いつから?」
「……」
 思わず押し黙ってしまった土方に、総司は目を開いた。長い睫毛を瞬かせ、驚くほど綺麗に澄んだ瞳で、じっと彼を見上げてくる。
 それを、しばらくの間、土方は無言のまま見つめ返していた。だが、やがて膝上に置いた拳を固めると、低い声で答えた。
「おまえを江戸へ帰した時……からだ」
「……」
「芹沢の事の後、おまえ、医者へ行っただろう。それを俺は偶然知ったんだ」
「聞いたのですか。私が労咳にかかっているという事を」
「あぁ」
 土方は頷いた。なるべく落ち着いた声で、つづける。
「医者から、まだかかり初め故、今、療養すれば収まるやもしれぬという事も聞いた。京にいれば、休まる暇もない。それで……」
「だから、私を江戸へ帰した」
 引き継ぐように言葉を口にしてから、総司はくすっと笑った。
「療養させるために江戸へ帰そうとしても、私が納得するはずないから……だから、あんな切り捨て方をしたのですか。土方さんが憎まれ役になって、無理やりでも私を帰すために」
「……」
「ごめん…なさい」
 総司はのろのろと両手で顔をおった。細い肩が震える事で、泣いているのがわかった。
「私のためだという事も知らず、あなたを勝手に恨んで……さぞ子どもだと、呆れていたでしょう?」
「総司、俺は」
「あなたが私を切り捨てて当然なのです。病もちの……それも労咳だなんて、隊においておきたいはずもないのだから。なのに、あなたは私を療養させるために、あんな……」
「違うんだ、総司」
 不意に、土方が遮った。叫ぶような声音だった。
 それに驚いて見上げると、彼は苦痛を堪えるように眉を顰め、きつく奥歯を食いしばっていた。膝上に置いた拳が僅かに震えている。
 総司は目を瞠った。
「……土方さん……?」
「おまえが謝る事などない。俺は……もっと別の理由で、おまえを遠ざけたんだ。江戸へ帰したんだ」
「別の理由……?」
 問いかけた総司の前で、しばらくの間、土方は押し黙っていた。だが、やがて、低い声でぽつりと云った。
「……俺は、おまえが欲しかった」
「え……?」
 総司は目を瞬いた。その綺麗な顔から視線をそらし、土方は言葉をつづけた。
「おまえが愛しくてたまらなかった。あのままでは、何一つ疑わぬ初なおまえを手込めにしてしまいそうで、恐ろしかったんだ」
「……う、そ」
 鋭く息を呑んだ。信じられぬものを見るような表情で、男を見つめる。
 それに、土方は苦々しく笑ってみせた。
「さすがに信じられねぇか。だが、本当のことだ。俺はおまえを愛するあまり、おまえのすべてが欲しくて欲しくて……気が狂いそうだった。夢の中で、俺はおまえを何度も犯した……」
「土方…さん……」
「俺は己が恐ろしかった。このままではおまえを壊してしまう、穢してしまうと思った。江戸から京へのぼり、その思いはより強くなった。おまえ、あの頃、見知らぬ土地が不安だった故か、俺にまとわりついてばかりいただろう?」
「え、あ……はい」
「あれが追い討ちをかけた。何も疑わず、無邪気にじゃれてくるおまえの笑顔を、見ることさえ……辛かった。頭がおかしくなりそうだった。だから、病の事を知った時、いっそ自ら手放そうと思ったんだ。危険な俺の傍に、大切なおまえを置いておく訳にはいかない。一刻も早く、手放すべきだとそう思って……なのに……っ」
 土方は、不意に拳で畳を殴りつけた。
「結局、俺はおまえを抱いた。おまえを己の欲望のまま好きにし、病であるおまえの躯をより弱らせたんだ」
「……」
「おまえを傷つけ苦しめ、挙げ句、めちゃくちゃにして……俺は……っ」
 言葉を途切らせた土方は、きつく唇を噛みしめた。
 それに、総司は何も云うことができなかった。息をつめたまま、彼だけを見つめている。
 やがて、土方は僅かに吐息をもらした。ほろ苦い笑みを口許にうかべたまま、黒い瞳で総司を見つめた。
「これで、わかっただろう。俺が……どんな男か」
「……」
「情けなくなるぐらい、愚かな男だ」
 一瞬黙ってから、土方は手をのばした。
「その愚かな俺が……今更、こんな事を云う資格はないとわかっている。だが、総司……」
 土方は、総司の頬にふれ、そっと、指の背をなめらかな頬にすべらせる。
 愛おしげに目を細め、呟いた。
「あの時、おまえを手放すのではなかったと……心からそう思っている」
 それだけ告げると、土方は静かに立ち上がった。そのまま総司をふり返る事なく、部屋を出ていってしまう。
 総司は呆然としたままそれを見送っていたが、障子が閉められるのを見て、半ば身を起そうとした。だが、到底力が入らず、布団に突っ伏してしまう。
 唇がわなないた。
「そんな……事って……」
 布団を握りしめる指が震えた。


 本当に愛されているなど、思ってもみなかった。
 まして、あの時から愛されていたなどと、信じられない話だった。だが、それが真実なのだ。
 彼は自分を愛してくれていた。それこそ、気も狂いそうなほど。
 深く、己のすべてで愛してくれていたのだ。
 だが、ならば、自分が今までしてきた事はいったい何だったのか。
 彼は自分を愛してくれていたのに、あんな酷い仕打ちをしたのだ。
 あの人の心を弄び、伊東先生との仲を見せつけた。顔を背ける彼にまた追い討ちをかけ、さんざん冷たく嘲笑した。躯を重ねても尚、心を開かず、何度も傷つけた。
 それでも、彼は傷ついてないと思っていた。心がそこにないのだから、何の痛手も受けるはずはないのだと。
 だが、それは誤りだったのだ。
 彼が語った言葉は、すべて真実だった。ずっと昔から、愛してきてくれたのだ。
 傷つけることを恐れるあまり、自分を遠ざけるほどに。
 なのに。


 思わず瞼を閉ざした。
 あの人は、どんなに傷ついていただろう。どんな辛かっただろう。
 己の罪深さを思うと、叫びだしそうになった。自分で自分を消し去ってやりたい程だ。
 謝る事などないと云われたが、千回謝っても足りない。だが、どうやって償えばいいのかさえ、今となってはわからなかった。


(私は…なんて事をしたの。愛してくれた人に、なんて酷い……)


 総司は己の寝着の袂を掴み、口許に押しあてた。低い啜り泣きがもれる。
 彼に愛されていたという事実は、甘い歓びよりも深い悔恨を、総司にもたらした……。












 土方は総司を遠ざけるようになった。
 隊務での態度は今までどおりだったが、二人きりの時をもつ事を一切やめてしまったのだ。あの家に誘われる事もなくなり、廊下で行き会っても他人行儀にすれ違ってゆくばかりだった。
 そんな彼の態度に初めは戸惑った総司も、その真意を曖昧にだが感じとりつつあった。
 土方は、総司と距離を置くつもりなのだ。そうして、総司自身に選ばせるつもりでいるに違いなかった。
 愚かな男だと自嘲していた彼が、今更、総司に何事も強制することはできない。だからこそ、こうして距離を置き、総司の意志にまかせることにしたのだろう。
 それは、総司により辛い思いをさせるだけの事だったのだが……。
 一方で、伊東は静かに促した。
「私と共に行きますか……?」
 深く澄んだ鳶色の瞳で見つめられ、総司は息をつめた。
 伊東が真剣であり、また、怖いほど自分を求めている事も感じた。公私ともに伊東のものである事を、彼は欲しているのだ。
「きみの復讐は終った。ならば、私と共に来るべきなのではありませんか。これ以上、きみがここにいる理由はない」
「理由……」
「そう、理由です」
 伊東は静かに頷いた。それに、総司はきつく唇を噛みしめた。
 広間の一角だった。
 部屋に面した縁側には、冬には珍しい程のあたたかな光が射し込んでいた。その縁側に座した伊東の傍に、総司も端座している。
 二人は西本願寺の庭を眺めつつ、会話をかわしていた。周囲に人気はない。
 それでも、自室でも料亭でもなく、こうした公の場で話してきた伊東の大胆さに、総司は分離が近いことを予感した。
「伊東先生は……私を求めて下さるのですか」
 そう訊ねた総司に、伊東は微かに笑った。
「むろんです。心から、きみを求めていますよ」
「なら、私が裏切れば……どうなさるのです」
「殺めるかもしれませんね」
「え」
 思わず息を呑んだ総司に、伊東はくっと喉を鳴らした。
「その顔、本当に驚いたようですね」
「冗談……ですか」
「いや、本気ですよ。私は本気できみが欲しいと思っている。だからこそ、裏切りは許すことができないのです」
「……」
「それは、土方君も同じだと思いますが」
「……そんな」
 総司はゆるく首をふった。
 あの告白をされて、彼の抱えていたものを知って。
 だが、今なお、総司はどこか信じきれぬものがあった。あまりに長い間、彼に何の関心もむけられていないと思いこんできたため、愛されているという事がどうしても実感できないのだ。
「あの人に限って、そんな事はありません……」
「そうでしょうか」
 伊東はくすっと笑ってから、ふと視線を渡り廊下の方へやった。微かに低く嗤うと、総司の肩を抱きよせる。
 公の場では珍しい伊東の行動に、総司は目を瞠った。
「伊東、先生……?」
 あどけない子どものような表情で、彼の名を呼ぶ総司がいじらしい。それは、見るものが見れば、心を許しきった表情であり、目の前の男に身も心も委ねた者の行動だった。
 半ば伊東の膝上に抱かれるような恰好になり、総司はなめらかな頬を紅潮させた。羞じらいの表情で、かるく身を捩るが、伊東はより強く抱き寄せてくる。
 その強引さを珍しいと思いながら、総司は男の胸もとに頭を凭せかけた。とたん、大きく目を見開いた。
「!」
 総司たちがいる縁側と反対側。
 庭を挟んだ向こうにある廊下に、一人の男が佇んでいたのだ。
 黒い隊服を身に纏った、長身の男。
 それは、土方、だった───。
「……っ」
 身を起す事もできず、総司は思わず伊東の腕に縋った。怯えきった表情で、土方を見つめてしまう。
 それに、土方は一瞬、苦しげに顔を歪めた。だが、すぐさま顔を背けると、踵を返した。足早に立ち去ってゆく男の背に、激しい怒りと嫉妬、苦痛を感じる。
 怒りを覚えて当然だと思った。
 いくら最近距離を置いているとはいえ、他の男と寄りそう恋人など、誰が見たいものか。


 でも。
 ならば、怒ってくれればいいのに。
 叫んで怒って。
 おまえは俺のものだと。
 そう、奪いとってくれたなら─── 


 思わず、総司は身を起しかけた。叫びそうになる。
 待って、と追いかけたかった。
 愛しい彼を追いかけ、その広い背に縋り、違うのだと泣いて釈明したいと願った。
 だが、今、伊東の腕から抜け出し、土方を追うという事は、何を意味しているのか。それがわからぬ程、総司は愚かな若者ではなかった。
「……」
 黙ったまま顔を伏せてしまった総司を、伊東は柔らかく抱きすくめた。その秀麗な顔には、微かな苦笑がうかべられている。
 すべてを諦めてしまったような。
 もはや手放したものを懐かしむような。
 そんな男の表情に、総司が気づくことはなかった……。