伊東の動きは、目立ったものとなっていた。
 何度も篠原達と打ち合わせを重ね、隊から脱しようとしている。鉄の規則にふれぬよう、分離という形で。
 だが、言葉をかえようとも、隊を割る事に変わりはなかった。そして、それを土方が許すはずがない事も。
 心血を注ぎ、新撰組をここまで大きくしたのは、局長の近藤ではない。副長である土方なのだ。
 その彼が、伊東の行動を許すはずがなかった。
 それを痛いほど理解しながら、総司は苦しんだ。恩義ある伊東を裏切ることはできない。だが、愛する土方を傷つける事もできなかった。
 初めは復讐のためと近づいたはずが、総司にとって、今や土方はこの世の誰よりも愛しい男となっていた。
 否、昔からそうだった。
 切り捨てられた事にあれ程、絶望したのも、愛しているが故だった。
 むろん、今の感情は、単純なものではない。愛と憎しみが混じり合った、息づまるような激しい想いだった。
 そして、その最愛の男が偽りであったとしても、愛していると囁きかけ抱いてくれた。その事だけで、総司は死んでもいいと思うほどの幸福を味わったのだ。
 だからこそ、彼を傷つけるなど。






「……出来ません」
 数日後、総司は云った。
 南禅寺の境内だった。白い雪がつもる中、二人は散策に出たのだ。屯所を出る際、土方の視線を感じたが、決してふり返らなかった。
 今は辛くとも、きちんと伊東に話をしなければならないのだ。
 総司は両手を握りしめ、つづけた。
「土方さんを傷つけるなんて……どうしても出来ないのです」
「何故。きみが望んだ事でしょう」
「確かに、望みました。あの人に復讐したいと思いました。でも……」
 口ごもり、総司は俯いてしまった。切なげに桜色の唇を噛んでいるその顔は、いじらしいほど愛らしい。
 その様子を、伊東は鳶色の瞳で見つめた。
「自分の気持ちに……気づいてしまった?」
 静かな声で問いかけられ、総司は、はっとして顔をあげた。
 それに、伊東は微かに笑った。目を伏せると、ゆっくりと歩き出してゆく。
 慌てて総司はそれを追ったが、伊東はふり返ろうとしなかった。まっすぐ前だけを見据えて歩いてゆく。
 それに、総司は不安になった。彼が怒ったと思ったのだ。
「伊東先生?」
「……」
「伊東先生……お願いです、話を聞いて下さい」
 総司の言葉に、伊東は口許を引き締めた。何も云わぬまま歩をとめ、ようやくふり向いてくれる。
 その事に安堵した総司は、とたん、伊東の冷たい声音に目を瞠った。
「きみは、私が何を想っていたか、知らない。……いや、知ろうともしない」
「え……」
「復讐のためとはいえ、きみが彼に身をまかせた事を知った時、私が嫉妬しないと思いましたか? 何も想わないと考えていたのなら間違いだ。私も男です。怒りもするし、嫉妬もする。とくに、きみのような若者相手ならばね」
「私のような……」
「きみは、己自身を知らなすぎる」
 嘆息し、伊東は手をのばした。そっと冷えた指さきで、総司の白い頬にふれた。
「私は……きみを愛している」
「──」
 総司の目が大きく見開かれた。
 それに、伊東は微かに笑った。
「知らなかったとは、云わせませんよ。きみも気づいていたはずだ……きみは誰よりも綺麗だ。外見だけではない、その心が美しく澄んでいるのです。素直でまっすぐで、燃え上がる焔のような激しさももっている。きみのような若者は、誰もが愛さずにはいられない」
「そんな、私は……」
 つまらない子どもですと云いかけた総司に、伊東は首をふった。
「だから、きみは己を知らないと云うのです。自分がどれ程、魅力的かわかっていない」
「……」
「私はきみを愛しています。だが、これ以上の枷を、きみに嵌めたくなかった。土方君の枷に囚われ苦しんでいるきみに、二重の枷など……酷すぎると思ったのです」
「枷?」
 驚いたように目を瞠った総司が、だが、すぐ、伊東の言葉の意味を理解した。





 まさに、枷なのだ。
 幼い頃から、彼を愛していた。だが、それは初恋という甘やかな憧れに過ぎなかったのだ。
 それが、激しく狂おしい愛へと転じたのは、まさに、土方に切り捨てられた瞬間だった。
 彼を憎み、恨んで。
 だが、その一方で、彼のことばかりを考えている己に気づいていた。憎くて、殺したいほど憎くて、そのくせ、誰よりも愛しい男。
 気が狂ってしまいそうな程、彼の事ばかりを考えた。憎んで、恨んで、愛して。
 何をしても、伊東の元で笑顔を取り戻しても、それでも尚、瞼を閉じた総司の目の裏にうかぶのは、土方の顔だった。それも、幼い頃の優しい笑顔ではない。
 きつく鋭い瞳でこちらを見据えていた、あの別れの時の彼だったのだ。
 どうしてだろう、と、あの時から思っていた。
 ぞっとする程、冷ややかな口調。酷薄な笑み。刺すようなまなざし。
 だが、そのくせ、彼の声音には切ないほどの何かがあった。胸を苦しくさせる、何かがあったのだ。
 だからこそ、総司は彼を忘れる事ができなかった。心の底から憎みながらも、彼の事ばかりを思いつづけたのだ。
 まさに、枷だった。
 土方が総司に嵌めた、永遠の枷なのだ。





「枷は……まだ外れていません」
 呟くように云った総司に、伊東は視線をむけた。
 それを感じながら、言葉をつづけた。
「むしろ、以前より固く、強い枷に……私は囚われてしまった」
「……」
「だから、もう……駄目なのです。逃げる事ができない」
「なら、きみは」
 伊東は静かな声で訊ねた。
「その枷から、逃れたいのですか」
「え……」
 驚いたように、総司が顔をあげた。まるで幼い子どものごとく、目を瞠っている。
 そのあどけないと云ってもよい表情を見つめつつ、伊東は繰り返した。
「きみは、その枷から逃れたい? 彼の枷から逃れる事を、本当に望んでいるのですか……?」
「……」
 総司の唇が震えた。
 何も云うことができず、ただ、その場に立ちつくした。


 土方さんの枷。
 あの、憎くて愛しい男の枷から。
 私は……本当に、逃れたいのだろうか──?


 答えを出せない総司の肩に、ひらひらと雪が舞い落ちた。













 冷たい冬の朝、総司は真っ直ぐ前だけを見据えていた。
 廊下を歩いてゆけば、他の隊士たちが皆、驚いたようにふり返る。だが、それに斟酌する余裕もなく、総司は副長室の前まで行くと、跪いた。
「……副長、宜しいでしょうか」
 声をかけると、中から応えが返った。入れという事だと解し、からりと障子を開ける。
 中に入れば、土方はこちらに背をむけ、文机にむかっていた。常と変わらぬ様子で、仕事をつづけている。
 彼にとって今回の事など、瑣末事にすぎぬのだ。否、都合がいいと思っているのか。
 思わず、きつく唇を噛みしめた。
「……」
 黙ったまま静かに障子を閉め、総司は彼の傍へと歩み寄った。そっと腰を下ろすと、男の端正な横顔を見上げる。
「……お願いがあります」
 いきなり切り出した総司に、土方は何も云わなかった。無言のまま、筆を走らせている。
 それに少し怯んだが、言葉をつづけた。
「伊東先生たちの事です」
「……」
 それでも押し黙ったままの男に、総司は膝上に置いた両手を握りしめた。



 伊東甲子太郎を初めとする数名が、島原の角屋で居続けをしたのは、正月の事だった。
 あれから二日、彼らはまだ帰営していない。むろん、隊の許可を得たものでもなく、完全な規則違反だった。
 その数名の中には、斉藤、永倉も入っている。



「穏便に済ませて頂けないでしょうか」
 総司は静かな声で云った。
「伊東先生は勿論、斉藤さんも永倉さんも、隊の大幹部です。それを容易に処罰など……」
「大幹部だからこその責任も、立場もあるのではないか」
 いきなり発せられた鋭い言葉に、総司は目を瞠った。
 見上げれば、土方は切れの長い目でこちらをまっすぐ見据えていた。その双眸に冴えた光をうかべ、言葉をつづけた。
「大幹部だからこそ、だ。それなりの責任というものがあるだろう」
「でも」
「己の立場が、何をしても許されると思い上がるのなら、参謀だ組長だなどと云う資格はない。ただの自惚れだ」
「……っ」
 思わず息を呑んだ。
 自惚れ、思い上がり。
 それは、あの時も云われた言葉だった。
 何をしても許されると、おまえは思い上がっているのか──と。
「……」
 堪らず目を伏せてしまった総司に、土方は冷ややかな口調で云った。
「おまえも、自分の言動に注意しろ。おまえ自身も一番隊組長という大幹部だ。軽率な行動は慎め」
「それは……警告ですか」
「忠告だ」
「なら、土方さんとの逢い引きは、軽率な行動じゃないのですか!」
 思わず叫んでしまった総司に、土方は一瞬、目を見開いた。だが、すぐ苦々しげな表情になると、顔をそむける。
「そう思うのならば、もう応じなければいい」
「土方さんが云ったのです。軽率な行動を慎めと」
「俺は、別におまえとの逢瀬を、軽率な行動だなどと思っていない。だが、おまえがそう思うのなら、やめても構わん」
「なら、もう二度とあの家には行きません。あなたとはもう逢わない……!」
 そう云ってから、総司はすぐに後悔した。
 彼の黒い瞳に、ひどく傷ついたような色を見つけてしまったのだ。それを見たとたん、酷い罪悪感と痛みが総司を襲った。
 辛くて、苦しくて、たまらなくなる。
 何もかもいやになって、叫びだしたくなった。


 好きなのに。
 愛しているのに。
 どうして、こんなに傷つけてしまうの?
 優しくしたいのに、笑顔だけを見せたいのに。
 もしかすると、永遠に、この人を裏切る事になるかもしれないのに。
 どうして……?


「おい、総司」
 気がつけば、土方が気遣わしげな表情で覗き込んでいた。
 口調も、いつもの二人きりの時の柔らかなものになっている。
 それに驚いて見上げた総司の視界が、ぼやけた。
「え……?」
 涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。真珠のような涙が目にあふれ、頬をつたい落ちてゆく。
 それに、土方がひどく辛そうな表情になった。思わずとも云うように手をのばし、総司の躯を抱き寄せる。
「……泣くな」
「……土方…さん……っ」
「おまえが泣くと辛い。どうすればいいのか、わからなくなる」
「ふっ…く、ぅ……っ」
「総司……頼むから、泣かないでくれ」
 男に優しく懇願されればされる程、涙がこぼれた。
 彼を困らせたくないのに、困らせてしまう。
 不思議な話だった。
 わざと彼を傷つけようとしていた時は、それが叶わなかったのに、傷つけたくない愛したいと思っている今は、こんなにも簡単に傷つけてしまう。
「ごめん…なさい……」
 思わずそう謝った総司の髪を、土方は優しく撫でてくれた。涙をぬぐうように、火照った頬に唇を押しあてる。
「謝る事じゃない」
「でも……酷い事を云いました」
「俺は怒ってない」
「本当の事ではないのです。あなたに逢わないなんて、そんなの……」
 絶対にいや。
 どうか、あなたの傍にいさせて。
 そうつづけた総司に、土方は目を見開いた。ぱっと嬉しそうな笑顔になる。
 それを見たとたん、自分の云った言葉に羞恥がこみあげた。思わず俯いてしまったが、その躯が引寄せられる。
 あっと思った時には、男の膝上に抱きあげられていた。
「ひ、土方さん」
「総司」
 土方はその華奢な躯を膝上に抱きながら、囁きかけた。
「傍にいさせてくれなど、俺の台詞だ。俺こそ……おまえに傍にいて欲しい」
「土方さん……」
「いつまでも、俺の傍にいてくれ」
 そう告げた土方の腕の中で、総司は小さく息を呑んだ。


 いつまでも。
 その言葉の意味を、思ったのだ。
 伊東との確執がある中で、総司の立場が微妙なものであるのは、以前から周知の事だった。
 だが、伊東が隊を分離しようとしている今、曖昧なままではいられない。意志をはっきり決めなければならない時期にきていた。
 だからこそ、総司は悩み、苦しんでいたのだ。
 恩義ある伊東を裏切りたくない。だが、愛する土方を傷つけたくない。
 復讐のために近づいた自分が何を……と思いはするが、今、その行為を総司は深く後悔していた。隊に戻った時、あのまま他人行儀のままの関係を続けていれば、こんなにも苦しむことはなかったのだ。
 否、それとも、彼をずっと愛していた自分に気づき、やはり同じ想いに苦しんだのだろうか──?


 不意に沈んだ様子で俯いてしまった総司に、土方は眉を顰めた。
 己の言葉が、間違った形で受け取られてしまったのではないかと、不安になる。
「総司」
 その愛らしい顔を覗き込み、訊ねた。
「気に障ったのか? 怒っているのか……?」
「違います」
「なら」
「私……わからないのです」
 思わず手をのばし、男の袂をぎゅっと握りしめた。その自分の指さきを見つめながら、言葉をつづける。
「あなたの傍にいたいというのは本当だけど……でも」
「でも?」
「伊東先生の事を思うと……」
 そう云った総司に、土方は押し黙った。
 確かに、今、総司は己の腕の中にいてくれる。だが、実際、隊の中にある時、そのほとんどを、総司は伊東の傍で過しているのだ。
 その上、初めにかえってみれば、総司は何のために彼のもとへ来たのか。伊東の処罰を減免するよう求めての事だった。


(伊東のために、総司は俺のもとへ……)


 とたん、胸奥に錐がねじ込まれるような痛みを覚えた。
 総司の心にあるのは、伊東なのだ。たとえ、この躯を手にいれても尚、総司は伊東を尊敬し、想いつづけている。だからこそ、総司も伊東のためにここへ来て、こうして懇願したのだ。
 恋人に他の男、それも恋敵のとりなしを頼むなど、どれほど残酷な事かもわからぬままに。
 幾つもの夜を共に過した。
 だが、いつも、総司は誰を想っていたのだろう。
 土方に抱かれながら、その心は伊東を想って泣いていたのだろうか──?


 そこまで考えたとたん、土方は微かな苦笑をうかべた。
 責める資格がどこにある。
 半ば騙すようにして、総司を抱いた自分なのだ。愚かな男なのだ。
 そんな自分が、総司の想いが己にないからと責める資格など、どこにも……。


「……土方…さん?」
 不安げに、総司が大きな瞳で彼を見上げてきた。
 それを見つめながら、土方は思っていた。
 近いうちに訪れるだろう、別れを。
 そして、再び、愛しいものを自ら切り捨てねばならない定めを。












 伊東たちは、謹慎処分となった。
 それは常から考えれば、非常に軽い処分だったが、総司はどこか複雑な気持ちだった。
 むろん、伊東が軽い処分となった事は嬉しい。だが、一方で、それが自分が土方に懇願した故だとすれば、彼の気持ちがわからず戸惑うばかりだった。
 本当の恋人であるのなら、その願いも叶えられることがあるだろう。だが、自分たちは恋人同士ではないのだ。
 彼が自分を愛していることなど、全くありえない。
 土方という男は隊の行く末だけを見据え、まっすぐ歩みつづけていた。そのためには、友人も、幼い頃から兄弟同然に育った総司も、容赦なく切り捨ててきた男なのだ。
 その彼が情に流されるなどありえず、ましてや、総司に心惹かれるなど考える事さえできぬ話だった。その証に、土方は云ったのだ。
 彼が総司を抱いたのは、伊東に奪われぬためだと。
 愛されていると思いこみ、この身を捧げた瞬間、愛などないと告げられたあの絶望は今も忘れていない。土方を慕っているからこそ、身も世もなく愛してしまっているからこそ、辛くてたまらぬ記憶だった。
 そして、今も、彼の考えは変わらぬのだろう。時折、総司を抱いているのは、伊東の元へ行かせぬための方策だ。
 でなければ、あれほど美しい女に纏りつかれている土方が、総司のような若者など抱くはずもなかった。その手の事で彼が不自由しているはずがないのだ。
 だが、だからこそ、総司は戸惑ってしまう。
 今回の処分が、総司の懇願故であるのなら、土方の思惑がわからなかった。恩を売るつもりでいるのか。総司の心を少しでも己へ引寄せるためなのか。


(そんなの、今更必要もないのに……)


 総司は廊下の端で、ぎゅっと唇を噛みしめた。
 伊東が謹慎処分となっているため、一人きりだった。斉藤といてもいいのだが、土方との事を思うと、何となく憚られる。
 総司は自室に戻りかけたが、不意に「あ」と目を見開いた。廊下の向こう側から、土方が歩いてきたのだ。
「……」
 やり過そうと周囲をみまわしたが、避ける術はない。その上、だった。
 冷気の中にいた為か、突然、慣れた感触が胸もとから喉へ這い上がってきたのだ。
「!」
 慌てて、総司は片手で口をおおった。


(こんな、土方さんの前で……っ)


 必死になってやり過そうとするが、膝に力が入らない。たまらず坐り込んでしまった総司に、土方も驚いたようだった。
「総司!?」
 駆け寄ってくると、その躯を抱きおこそうとする。だが、それに総司は身を捩り、彼の手から逃れようとした。


 何とかして隠し通したい。
 せめて、人前だけでは。


 総司は土方の躯を突き放し、傍の小部屋へよろめきつつ入った。後ろ手に障子を閉めようとするが、土方が強引に入ってくる。
「! だ、め……土方さ……っ」
 口を開いたのが最後だった。
 たてつづけに激しい咳がおこり、そのまま、真っ赤な血が勢いよく吐き出された。
 畳の上へ膝を折る総司の目に、まるで大輪の花びらのような鮮血が映った……。