春が再びめぐってくる頃、土方がある提案をした。
「……家を?」
不思議そうに訊ねる総司に、土方は頷いた。
珍しく、屯所の一角だった。廊下で通りすぎようとした総司を引きとめ、傍らの部屋へ連れこんだのだ。
初め、ここで事に及ばれるのかと怯えた総司だったが、それに、土方は苦笑した。
「こんな処で何もしやしねぇよ」
「本当に?」
「あいつも戻ってきている事だしな」
「……」
その言葉に、思わず、男の端正な顔を見上げてしまった。
長州から戻った伊東は、新撰組に帰営していた。そして、伊東が帰営すれば、少なくとも隊の中では総司は彼のものであり、土方は何の手出しもできないのだ。ただ、見ている他なかった。
もっとも、そのために、この提案をしようと思ったのではない。前々から考えていた事だった。
「つまり、休息所ですか?」
固い声で訊ねた総司に、土方は形のよい眉を顰めた。思わず、首をふってしまう。
「違う」
「でも、同じ事でしょう。外に家をもつという事は、そうなのではありませんか」
「おまえと逢うためだ」
「なら、私を囲うため?」
総司の声音が、冷たく嘲るような色をおびた。顎をかるく反らし、冷笑するような表情で男を見ている。
それでも、可憐で愛らしい総司は、薄闇の中でたまらなく魅力的だ。
「つまりは、私を妾扱いしようという事ですか」
くすっと笑った。
「それとも……私は男だから、さしずめ色子?」
「総司」
「図星をさされて、怒りましたか。でも、本当の事でしょう」
そう云い捨てるなり、総司は身をひるがえした。部屋から出ていこうとする。
だが、一瞬遅かった。
男の力強い手がのび、細い手首をつかみ寄せる。無理やり胸もとに抱きよせられ、総司はふり返った。
燃えるような瞳で、土方を睨みつけた。
「いや、離して!」
「離すものか」
押し殺した声で、土方が答えた。
「絶対に離さん。おまえは俺のものだ」
「!」
男の言葉に、総司はかっとなった。怒りのまま、男の頬をひっぱたこうとするが、寸前で手を掴まれた。
それに尚更怒りを覚え、きつい口調で叫んだ。
「あなたのものなんかじゃない! 私は、あなたのものなんかじゃないんだから……っ」
言葉が途切れた。
いきなり土方が総司の項を掴んだかと思うと、噛みつくように口づけてきたのだ。総司の小さな拳が男の肩や胸をめちゃくちゃに叩いたが、それでも、びくともしなかった。より深く唇を重ねられる。
「んっ…ぅ、っ……」
次第に、総司の手から力が抜けた。甘く濃厚な口づけに、身も心もとろけてしまったのだ。
何度も角度をかえて口づけてくる土方に、総司は目を閉じた。思わず縋るように、男の広い背へ手をまわしてしまう。
「……は、ぁ……っ」
気がつけば、畳の上に二人して坐りこみ、抱きあっていた。そのまま、何度も口づけあう。
「……総司、愛している」
おとなしくなった若者の耳元に、土方はそっと囁きかけた。とたん、びくんと細い肩が震えたが、それでも構わず言葉をつづけた。
「愛している。だから……頼む、俺のものではないなどと云わないでくれ」
「……」
「幾ら俺でもな、……応えるんだ」
その言葉に、総司は驚いたように顔をあげた。それを見下ろす土方の表情は真剣だ。深く澄んだ黒い瞳が、総司だけを見つめていた。
それに、息苦しくなる。
どうして?
何故、そんな事を云うの?
あなたが告げる愛も何もかも、偽りであるはずなのに。
この躯を抱くのも、隊のためであるはずなのに……。
戸惑いを隠しきれず、黙ったまま俯いてしまった。
そんな総司を、土方がそっと抱きすくめた。何度も優しく頬に口づけを落し、真摯な愛の言葉を囁いてくれる。
それを無言で受けながら、総司は長い睫毛を伏せた。何と応えていいかわからず、己の指さきだけを見つめてしまう。
すると、その細い手を土方がとり、甘い口づけの雨を降らせた。
夢中で恋人を愛している男のように。
(何も……わからない)
真実と偽り、表裏。
泉に映る空のように明らかな真実を前に、総司はそっと顔をそむけた。
「副長が休息所をもったらしいな」
前置きでもあったなら、知らぬ顔もできただろう。
だが、その言葉は突然だったため、総司も正直に反応してしまった。びくりと肩を震わせてしまったのだ。
そんな総司に、斉藤は目を瞠った。
「まさか……」
「……」
「おまえの為の場所なのか?」
問いかけに、嘘はつけなかった。
総司はもともと素直でまっすぐな性質であり、友人に嘘をつくなど到底できないのだ。
目を伏せたまま頷くと、斉藤は信じられぬと云いたげな口調で呟いた。
「いったい、いつのまに……」
「……」
「全然気づかなかった。だが、本当なのか?」
「……本当です」
総司は小さな声で答えた。暫し黙ってから、微かに笑った。
「私は、まだその休息所を見てないけれど」
「え?」
「土方さんには家を用意したと云われましたけど、一度も訪れていないのです。何だか、怖くて」
「怖い?」
問いかける斉藤に、総司は目を伏せた。
結局、土方は総司と過すために家を用意した。
東山にある小さな家だと、彼は云っていた。過しやすいよう部屋も整えたし、静かないい場所だと。
何度も誘われたが、総司は応えることができなかった。
……怖かったのだ。
彼ではなく、己自身の心が怖かった。
逢うたびに、心が揺らいでしまう自分が恐ろしい。
総司は、土方があたえてくれるものを──否、彼しかあたえられないものを、知ってしまったのだ。
それは躯の快楽だけではなかった。
深く澄んだ黒い瞳が自分を見つめるたび、やさしい笑顔をむけられるたび、自然と頬が火照った。しなやかな指さきでふれられただけで、躯の奥が熱く痺れた。
抱きしめられれば、このぬくもりを手放したくないと、縋るように願った。
いつまでも、傍にいたいと思ってしまうのだ。
何もかも、彼だけだった。
この世でただ一人、土方だけが総司の中にある熱を呼び覚ます。
それが夢のように心地よく、反面、たまらなく怖かった。今まで知らなかった違う自分を、秘めた言葉も想いも何もかも、無理やり引きずり出されてしまいそうな気がした。
だからこそ、土方の誘いを断ったのだ。
「私は、あの人に何一つ晒したくないから……」
そう呟いた総司に、斉藤は鋭い目をむけた。
その前で、言葉をつづけた。
「あの人が用意した家に行くという事は、あの人の懐へ飛び込むようなものです。土方さんは私に酷くはしない。二人きりになれば、必ず優しくしてくれる……だけど、その優しさが今は怖い。何もかも晒した挙げ句、惨めな自分になってしまいそうなのが怖いのです」
しばらくの間、斉藤は黙っていた。だが、やがて、低い声で問いかける。
「つまり、自分の気持ちを知られたくないという事か」
「……」
応えは返らなかった。だが、そっと顔をそむけた総司の表情を見ればわかる。
斉藤は思わず嘆息した。
土方の気持ちは勿論、総司の気持ちもわかっている。
だが、ここまでほつれてしまった糸をほぐす術は、斉藤にもわからなかった。
そもそも深い関係にまでなった二人が、どうして今尚、気持ちの上ではすれ違い続けているのか理解できないのだ。
「総司」
そっと細い肩に手を置き、覗き込んだ。
「いっそ、土方さんに全部話した方がいいんじゃないのか。正直に、自分の気持ちを打ち明けたらどうだ」
「そんな事……」
苦々しく、総司は笑った。
「できるはずがない」
「どうして」
「じゃあ、あの人に何を云えと? 憎んでいること、殺してやりたいと思ったこと。復讐するために近づいた事……そんなことを話して、いったいどうなるのです」
「それは……」
「私は……復讐のために、土方さんに近づいたのだから」
自分に云い聞かせるように、総司は呟いた。ぎゅっと両手を爪が食いこむほど握りしめる。
きれいに澄んだ瞳が宙を見据えた。
「あの人からすべてを奪う事が、私の……」
「──」
一瞬、斉藤は大きく息を呑んだ。
凜とした美しさをもつ若者が、冷たい焔を放ったように見えたのだ。
だが、それは一瞬の事だった。
再び、総司はいつもの静かで柔らかな表情にもどると、すっと踵を返した。そのまま立ち去ってゆこうとする。
「総司」
思わず、その細い背に呼びかけた。だが、何と言葉をつづけてよいかわからない。
歩み去ってゆく総司を見送り、斉藤は唇を噛みしめた。
数日後、総司は己の部屋で俯いていた。
視線の先には、一通の文が広げられてある。
土方からの誘いだった。あの家に──休息所に今夜来てくれないかと、そう書いてあるのだ。
「……」
総司は膝上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
どうすればいいのか、わからない。
彼が怖いのか、自分が怖いのか。
答えがわかっているようでわからない、そんな己自身の気持ちに、揺れるばかりだった。
(私は……これから、どうすればいいの?)
復讐だと思っていた。
自分を絶望の淵に叩き込んだ彼を憎み、同じ苦しみを味あわせてやろうと思った。土方からすべてを奪い、地獄へ突き落としてやろうと決意していたのだ。
そのために、土方に近づいた。思うさま彼の気持ちをふり回し、惨めなぐらい引きずり回してやろうと思っていた。
だが、結果、傷ついたのは総司の方だった。翻弄されたのは、総司の方だったのだ。
こんな事、初めからわかっていたはずだった。あれ程、魅力的な彼なのだ。さんざん遊んできた男に、初な総司がかなうはずもない。
今も、怖いぐらい惹かれている自分に、気づいている。
ずっと、土方のことばかり考えてしまっていた。それが憎しみであれ、何であれ。
これ以上、近づきたくないのだ。
「……っ」
総司は文を見つめ、きつく唇を噛みしめた。
逢いたい。
でも、逢うのが怖い。
(土方さん……)
二つの相反する心を抱えこんだまま、総司は固く目を閉じた。
きんと鋭い音が鳴った。
刃があわさった瞬間、火花が散る。
それを感じながら、一気に横へすり抜けた。振り払った腕に手応えを感じる。
「……総司!」
背中に飛んだ声へ、総司はふり返った。
東山の家へ向う最中だった。
まだ躊躇いがちにだったが、結局、総司はその家へ向ったのだ。
書かれた場所を確かめながら、道を辿ってゆく。割合、落ち着いた佇まいの家ばかりが並ぶ一角だった。
だが、その先で、聞き慣れた物音を耳にしたのだ。思わず息を呑んだ。
荒い息づかいに、怒号。刀の鳴る音。
明らかに斬り合いだった。
「!」
気が付けば、走りだしていた。そうして角を曲がったとたん、目を見開いた。
「土方さん……!」
思わず叫んだ総司の声は、土方の耳に届いたか。
多勢である浪士たちに、彼一人なのだ。さすがの彼も、ふり返る余裕はないようだった。
それを見た瞬間、躯中の血が逆流する気がした。
あの人が危ない。
土方さんの身に危険が迫っている。
気がつけば、刀を抜きはなっていた。そのまま、男たちにむかって跳躍する。
ざっと刀が宙を斬り、血が飛び散った。それを見る事もなく地へ飛び降り、横凪ぎに払う。
無我夢中だった。彼を助けなければ、守らなければ。それしか、もう考えなかった。
土方を襲っていた男たちは、総司の加勢にあっという間に浮き足だった。たちまち斬り伏せられ、残った者たちも潮を引くように逃げ去ってゆく。
それを見送る事なく、総司は刀をおさめた。まだ息づかいがおさまらない。
胸を片手でおさえ、目を閉じた。すると、土方が駆け寄り、総司の肩を抱くようにして覗き込んできた。
「大丈夫か」
「……えぇ」
「苦しいのか、水を汲んでこようか」
「大丈夫…です。少し疲れただけだから」
「青い顔をして何を云っている。とりあえず、家へ行こう。すぐそこだ」
「でも」
「こんな時に、躊躇っている場合じゃねぇだろう」
そう云うなり、土方は身をかがめ、総司の膝裏と腰に両手をまわした。あっと思った時には、軽々と抱きあげられてしまっている。
総司は驚き、暴れた。
「いやっ……下ろして!」
「大人しくしろ」
「だ、だって……こんな、恥ずかし……」
「誰も見ていねぇよ。少しだけ我慢しろ」
土方は総司を抱いたまま坂を上った。彼の言葉どおり、坂をのぼったすぐそこに、その家はあった。
こぢんまりとしているが、あたたかなぬくもりを感じさせる。小さな庭もあり、花々が咲いていた。
総司は土方の腕に抱かれたまま、周囲を見回した。萩の垣根があり、その向こうに竹林が広がっている。
「……何だか、優しい感じの家ですね」
「気にいったか?」
「えぇ……」
こくりと頷いた総司に、安堵したように微笑み、土方は家の中へ入った。框をあがり、畳の上に総司の躯を降ろす。
小さな家だが、小綺麗に整えられ、白く貼られた障子が眩しかった。畳も青青とし、清々しい匂いがする。
畳の上に降ろされた総司はほっと安堵したようだったが、不意に、「あっ」と声をあげた。
それに驚いて見下ろせば、大きな瞳が彼を見つめている。
「何だ」
「土方さん、腕」
「え?」
「腕、怪我しています」
「……あぁ」
見れば、確かに着物の袂がざっくりと斬られていた。怪我もしているらしく、血が滲んでいる。
「こんなものかすり傷だよ」
「でも、手当しないと」
そう云った総司は、慌てて懐から手拭いを取り出した。土方の着物の袂をめくりあげた瞬間、ちょっと手をとめたが、すぐさま土間に降りて手拭いを濡らしてくる。
彼のもとに戻り、水で絞ってきた手拭いを傷口に押しあてた。
甲斐甲斐しく手当してくれる総司を見下ろし、土方は目を細めた。
深い関係になったと云っても、総司がこうして自ら彼にふれてくる事など、全くなかった。性的な意味合いのない場合でも、近寄る事さえしなかったのだ。
だが、今は、何故か、総司が心から寄りそってくれている気がした。とても近く感じられたのだ。
土方はしばらく黙っていたが、やがて、低い声で問いかけた。
「……何故、来たんだ」
「え?」
不思議そうに見上げた総司に、ゆっくりとくり返した。
「どうして、ここに来た。あんなに嫌がっていたのに」
「あなたが文で誘ってくれましたし……それに、嫌がっていません」
「嫌がっていない?」
「えぇ」
こくりと総司は頷いた。そして、目を伏せると、小さな声でつづける。
「ただ……待っていただけです」
「待つとは、何を」
「自分の気持ちが定まるのを、待っていました」
「それで、定まったのか」
「……いいえ」
大人びた笑みをうかべ、ゆっくりと首をふった。
「定まるはずがないのです。私自身、わかっていないのですから……この気持ちがどこへ向うのか、わからない」
「それは、俺も同じだ」
「え?」
「俺も……わからねぇ」
「……」
男の言葉に、驚いた総司は思わず顔をあげた。とたん、どきりとする。
濡れたような黒い瞳が、じっとこちらを見つめていた。激しいほどの情愛を湛えたまなざしだ。
(土方さん……)
息をつめたまま、総司は土方を見つめ返した。
