秋の昼下がりだった。
朝から文机に向っていた土方は、ふと視線をあげた。僅かに眉を顰め、ふり返る。
だが、そこに誰がいるはずもなかった。
求める者ならば、尚のこと。
「……」
土方は微かに唇を歪めると、再び書類へ視線をおとした。筆をとり、さらさらと書きたしてゆく。
その時、廊下に人の気配がたち、やがて声がかけられた。
「副長、宜しいでしょうか」
三番隊隊長斉藤一の声だ。
ふり返った土方の端正な顔には、何の表情もなかった。冷えたまなざしだけが冴え冴えとしている。
「巡察の報告です」
若くして、今や隊随一の使い手である斉藤は、滑るように部屋へ入ってきた。要領よく纏められた報告に、土方は頷いた。
用件のみを告げて立ち上がりかけた斉藤は、ふと気づいたように彼を見た。
僅かに躊躇ってから、話しかける。
「そう云えば、明日、局長が帰営されるそうですね」
「あぁ、江戸から新入り隊士たちを連れてな」
「そうですか。池田屋騒動の後、隊士達の数が足りなくなりましたし……」
意味ありげに言葉を切った斉藤を、切れの長い目が見据えた。
「何が云いたい」
「いえ、伊東という人物が入ってくると聞きまして……道場の者を引き連れての入隊らしいですね」
「らしいな」
土方の答えは素っ気なかった。だが、それを酷く不快に思っているのは、事実なのだ。
江戸から来た近藤の文で初めてその事を知った時、嫌な予感が頭をよぎった。
下手をすれば、こいつは隊を割る事になる───。
むろん、それをここで斉藤相手に云えるはずもなかったが。
「……」
黙然と腕を組む土方を見てから、斉藤は今度こそ立ち上がった。だが、今度は、土方の方が声をかけた。
「道場の方はどうだ。師範代筆頭として、うまくやっているか」
「まぁ、何とかですね」
斉藤はふり返らぬまま、答えた。その横顔はどこかきつく引き締まっている。
「本当は、筆頭など……柄じゃないのですが」
「だが、おまえしかおらん」
「そうですか?」
斉藤の声が何かを孕んだ。
「オレよりもっと相応しい者を切り捨てたのは、誰でしたか」
「……」
土方の目が僅かに細められた。
だが、やがて──目を伏せると、薄く嗤った。
「……この俺だな」
「……」
「と云えば、おまえは満足するのか」
「……」
一瞬、斉藤は部屋の中を激しくふり返った。燃えるような怒りを湛えた目で、土方をまっすぐ睨みすえる。
それに、土方は表情ひとつ変えなかった。何一つ揺るがぬ静かな表情で、斉藤を見返している。
「──」
とたん、斉藤の中の気が削がれた。何を云っても無駄だと知ったのだ。
今更、云ってどうなるのか。
あの時、行動をおこさなかった己を悔いても……。
斉藤はふり切るように顔を背けた。そのまま、彼にしては荒々しい足取りで歩み去ってゆく。
廊下を去る足音を聞きながら、土方はしばらくの間、黙然と腕組みしていた。だが、ふとまた誘われるように顔をあげ、庭先の方を見やる。
白い木蓮のような光が庭に射し込んでいた。
秋特有の青空。
柔らかく冷たい光。
その中に、再び、明るく澄んだ笑い声を聞いた気がしたのだ。
『──土方さん』
気が狂いそうなほど求めつづけながら、もう二度と聞くはずもない、かの者の……
「……未練がましい話だ」
苦々しく呟いた土方は、瞼を静かに閉ざした。
沖田総司が新撰組を去ったのは、一年前の事だった。
芹沢の死後すぐの出来事だ。
当時、助勤筆頭として活躍していた総司の脱退には、様々な憶測がなされた。むろん、総司が望んでの事ではない。
副長である土方自身が自ら手を下し、総司を切り捨てたのだ。
そう知らされると、隊の者は一斉に口を閉ざした。身内同然である総司さえ容赦なく切り捨てる土方の冷徹さに、誰もが戦慄したのだ。
誅殺された事が明らかな芹沢に近づきすぎたのか。
総司自身が試衛館一派を裏切ったのか。
どのような理由にしろ、半ば追放されたも同然だった。
土方は、助勤筆頭であり師範代筆頭でもあった総司から全ての地位を奪い、挙げ句、谷の息子を近藤の養子とさせた。一番弟子であるが故に総司が継ぐものとされていた暗黙の了解を、土方は真っ向から否定したのだ。
近藤や他の幹部は猛反対したが、有無も云わせず押し切った。むろん、総司に抗う術など全くなかった。
総司が江戸へと去ったのは、昨年の秋も深まる頃だった。
一番隊士の者や、試衛館の面々は皆別れを惜しんだが、土方は姿も見せなかった。それを咎めた原田に、「俺など総司も目障りだろう」と、嘲ってみせたのだ。
公私共に居場所を失った総司は、京を去る他なかった。
絶望だけを道づれにして。
土方は煙管に火をつけると、ふうっと吐き出した。
細く煙がたちのぼってゆく。
それを見るともなしに見るうちに、最後に逢った時の総司が思い出された。
今までとは違う、まるで別の男でも見るようなまなざしだった。
小さな青ざめた顔の中、冷たく燃えていた瞳。
あれは紛れもなく、憎しみの瞳だった。
容赦なく何もかも奪い去り、己を絶望の淵へと追いたてた男にむけられた憎悪。
そんな目で見られた事は一度としてなかった。初めてのまなざしだ。
本当なら、痛みを感じただろう。愛しい者から向けられる憎悪のまなざしに、心を抉られただろう。
だが、不思議と痛みは感じなかった。そればかりか、奇妙な愉悦さえ覚えたのだ。
総司の心には、今、自分しかない……。
憎しみであれ何であれ、総司の心を己に向けたかった。
むろん、愛情であるのなら尚のこといい。
だが、この気まぐれな猫のようである少年は、土方の気持ちを翻弄するばかりで、まったく応えてくれなかった。手をのばせば身をひるがえし、爪でひっかかれ、それに諦めて背をむけたとたん、後ろからじゃれるように飛びついてくる。
気まぐれで可愛くて、生意気で。
まさに、猫だった。
だが、そんな少年を、土方はもう長い間、愛してきたのだ。初めて逢った十才の時から弟のように可愛がり、やがて、深い愛情を抱くようになった。
一縷の望みもないとわかっていながら。
生意気で無邪気で、初々しくて、激しくて。
まるで万華鏡のように、様々な面を見せる総司は、少し異常なほど潔癖だった。男女の仲にさえ嫌悪を覚えるらしく、土方が女遊びをして帰ってくると、「女の人の匂いがする」といやがって、一日近づかぬほどだった。
そんな総司が、男の愛情など受け入れられるはずもない。
そうわかっていたからこそ、土方は己の感情を押し殺した。総司への想いを己の奥深くに封じ込め、ただ、優しくものわかりのいい兄であろうと心がけたのだ。
だが、それも、もはや無駄な事だった。
「土方さん……!」
あの時。
殺意にも似た感情を剥き出しにした総司を、土方は冷ややかに一瞥した。
己自身でもわかっていたが、ひどく酷薄な表情だった。それに、総司が息を呑んだのがわかる。
刺すようなまなざしに、その細い躯を震わせたのも。
だが、土方は手を緩めるつもりなかった。己の胸奥に深い楔を打ち込みつつ、総司を徹底的に追いつめたのだ。
「まだ何か用か。おまえと話す事など、もうないはずだが」
「……っ」
総司は一瞬きつく唇を噛みしめてから、掠れた声で訊ねた。
「いったい……何故」
「……」
「どうして、こんなにも私を追いつめるのです」
膝上においた両手を握りしめた。
「私からすべてを奪って……そんなにも、私が憎いですか。邪魔ですか」
「おまえは、本当に子どもだな」
ふっと微かに嗤った。
「憎いとか邪魔だとか、そんな下らねぇ理由だと思っているのか」
「……」
「至極当然の事だろう」
土方は冷徹な声音で云い放った。
「おまえは芹沢に近づきすぎた。それ故、あの夜の企てにも加わらなかったのだ」
「それは……っ」
「命令違反をした隊士など、切り捨てられて当然だ。せめて切腹にならずに済んだ事を、感謝しろ」
そう云って踵を返そうとした土方に、総司は鋭く叫んだ。
「私は、私にだって、感情がある……!」
土方の冷たく澄んだ瞳が、総司を眺めた。その端正な顔には何の表情もうかんでいない。
それに、総司は懸命に言葉をつづけた。
「あなたは、私が芹沢先生に近づきすぎたと云った。でも、隊士だからと云って、私の気持ちまで、あなたに指図される謂れはないはずです。私が隊内の誰と親しくなろうと、それは私自身の自由ではないのですか」
「……」
「それに、その親しい芹沢先生を正々堂々とならともかく、あんな酷い姑息なやり方で……そんな事到底納得できるはずもないでしょう。私にだって感情があります。私は、あなたの指図のまま動く駒なんかじゃ……!」
「それこそ思い上がりだ」
ふっと、土方が唇を歪めた。
「ただの駒の分際で、何を云いやがる」
「──」
男の言葉に、総司は大きく目を見開いた。信じられぬという顔で、彼を見上げている。
そんな若者の前で、土方は冷ややかに嗤ってみせた。
「いくら試衛館出身であっても、隊士は隊士だ。駒扱いされて当然だろう」
「土方…さん……」
「命令違反するような駒など、信用できるか。使えるものか」
「……」
「不要な駒は捨てる。それが当然の事だ」
男の冷笑が、嘲りの色をおびた。
「それとも何か? おまえは自分が特別扱いされると思っていたのか。どんな事をしても許されると、隊においてもらえると、思い上がっていたのか」
「……っ」
総司は両手をぎゅっと握りしめた。唇が震える。
何も云い返せないのだろう。実際、そう思っていたのだから。
だが、それは当然の事だった。
総司は、近藤の愛弟子であり、そして、土方にも弟同然に可愛がられ、あまつさえ、彼自身の手で育てられてきたのだ。他とは違うと思って当然のことだった。
だが、それを今、きっぱり否定されたのだ。
「……」
黙り込んでしまった総司を一瞥もせぬまま、土方は踵を返した。着流した小袖の裾をひるがえすようにして、部屋を出てゆく。
背後は静まり返っていた。追ってくる事もない。
そして、それきりだった。
翌日、総司は京を発ったのだ……。
土方は紫煙を吐き出し、目を閉じた。
立ち去る彼の背を、総司がどんな表情で見送っていたかは知らない。
おそらく、憎しみにみちた表情だったのだろう。
芹沢の死の際、総司はその企てに加わる事を拒絶した。それを、土方は徹底的に責め立てたのだ。
芹沢一派を誅して、ようやく新撰組は新たな一歩を踏み出したばかりだった。異分子は素早く取り除くべきだった。それが例え、幼い頃から、弟同然に育ててきた総司であっても。
命令違反をした隊士に、助勤筆頭という地位など与えておけるはずもない。
そう云いたて、土方は近藤の猛反対を押し切り、総司を新撰組から追い出したのだ。
その判断を今も後悔はしていなかった。
総司はこの隊から出し、江戸へ帰してよかったのだ。
誰のためにも──否。
誰よりも、総司自身のために。
そう心の奥底で納得しようとしていた。自分に何度も云い聞かせた。
だが、ならば、時折、幻のように追ってしまう感情は何なのか。
いったい、自分は何を求めているのか。
「……」
その答えは己自身が一番よく知っていると、土方は思った。
その日の昼過ぎ、近藤たちが帰営した。
江戸へ隊士達の募集にむかっていた近藤が、ようやく戻ってきたのだ。
久々の局長の帰営に、新撰組は沸き立った。隊士たちは皆、門前に出て出迎える。
むろん、土方も出た。
近藤の迎えもそうだったが、文で知らされた伊東一派の入隊も気がかりだったのだ。
「……」
視線をあげた土方の前に、近藤が足早に歩みよってきた。よく日焼けした厳つい顔をさすがに綻ばせている。
「歳、今帰ったぞ」
「あぁ、道中何事もなく良かった」
「そうだな……まぁ、確かにそうなのだが」
妙に言葉を濁す近藤に、土方は眉を顰めた。
盟友である近藤はもともと木訥で寡黙な性質だが、彼の言葉は常に明確だった。曖昧な云い方はしない方なのだ。
「近藤さん?」
訝しげに問いかけると、近藤は僅かに嘆息した。ゆるく首をふり、答える。
「すまん。だが、おれは初めから反対だったのだ……それをわかってくれ」
「何の事だ」
「それは……」
近藤が云いかけた時だった。
その隣に、一人の男が並んだ。穏やかな声をかけてくる。
「失礼。私から申し上げた方が良いようだ」
「……貴殿は」
「お初にお目にかかる。伊東甲子太郎と申します」
洗練された仕草で一礼する男に、土方は唇を固く引き結んだ。
穏やかで理知的な印象をあたえる男だった。
秀麗と云ってもよい容姿からはとても想像できぬが、剣術でも一流の使い手だと聞いている。
人をそらさぬ柔らかな笑みは、惹きつける力をもっていた。
冷たく澄んだ鳶色の瞳が、印象的だ。
「私は、副長の土方です」
低い声で挨拶を返した土方に、伊東は笑みをうかべた。
「きみの事は、近藤先生からよく聞いてます。……他の者からも」
「他の者?」
「えぇ。この度、江戸から連れて来たのは道場の者と我が弟ですが、それ以外にも親しい友人を同行させて頂きました。とくにお願いした処、近藤先生も快くご承知下さいましたので」
「……」
訝しげな土方の前で、伊東は己の後ろをふり返った。
大勢いる新入り隊士たちの中へ、声をかける。
「こちらへ」
彼らの話を聞いていたのか、一人の若者が歩み出た。
白藍色の小袖と濃紺の袴を華奢な身に纏った、美しくも瑞々しい若者だった。
凜とした清らかな姿は、まるで咲きこぼれる白い木蓮のようだ。
だが、その一方で、前髪の下で伏せられた長い睫毛に、ぞくりとするような色香を感じさせた。
誰もがふり返らずにはいられない。
人を惹きつけ虜にし、狂わせる。そんな何かをもった……
「!」
目を凝らした土方は、次の瞬間、はっと息を呑んだ。
呼吸さえ忘れた表情で、その若者を見つめる。
彼の隣にいた斉藤も、鋭く息を呑む気配がした。
(……まさか……)
呆然と立ちつくす土方の前で、若者はゆっくりと顔をあげた。
きれいに澄んだ瞳が、男を見つめる。
少年ではない、だが、大人になりきれない初々しさが残る頬は白く、なめらかだった。
花のような笑顔が、美しい。
ふっくらした桜色の唇が、甘く笑んだ。
そして。
「……土方さん」
きれいな声だった。
甘く澄んだ声。
子どもの頃から、何度も何度も。
よく聞き慣れてきた、それは───
「……総…司……」
呻くようにその名を呼んだ土方の前で、総司は艶然と微笑んだ。
先日ぶろぐにも書かせて頂きましたが、池田屋事件当時、総司は新撰組にいません。そういうの苦手かもと思われた方は、このお話、避けてやって下さいませね。土沖お遊び妄想だもん、いいよ〜と思われた方は、Welcome! 尚、読まれてからの苦情は受けられませんので、よろしくお願い申し上げますね。
