やっぱり、駄目なんだ。
初めに思ったのは、その言葉だった。
確かに、土方は急用が出来たのだろう。彼が偽りを云うような男でない事も、総司にはよくわかっていた。新選組副長としては様々に策を弄する男だが、一人の男としての本質は誰よりも毅然とし、真摯なのだ。
その彼が云ったのだから、本当に急用が出来たに違いなかった。
だが、それでも、思ってしまう。
やはり、駄目なのだと。
猫耳と尻尾がなければ、契りを結ぶことさえ出来ないのだ。
彼は、耳と尻尾があるからこそ、総司を可愛いと思ってくれた。愛して、抱いてまでしてくれた。でなければ、こんな関係ありえるはずもなかったのだ。
それがたまらなく切なかった。
ぎゅっと唇を噛みしめても、涙がぽろりと零れ落ちてしまう。
有頂天になっていた自分が、莫迦みたいだった。情けなくて切なくて、涙をぽろぽろ零して泣いてしまう。
ひとしきり泣いた総司は、手拭いで顔をぬぐうと、小さく息を吐いた。庭を眺め、呟く。
「……帰ろう」
ここで土方を待つ気には、到底なれなかった。
こんな気持ちのまま土方と逢瀬を重ね、抱かれても、きっと躰も心も彼を拒絶してしまうだろう。そうなれば、土方にも気づかれるに違いない。
挙句、約束を反古にしたことで拗ねているのかと呆れられ、見捨てられてしまうかもしれなかった。
そんな惨めな事にだけはなりたくない。
「……」
総司はもう一度、息を吐くと、立ち上がった。ゆっくりと部屋を出てゆく。
ふり返ることはなかった。
当然ながら、土方は料亭に立ち寄ったようだった。
そのため、屯所に戻ってきたのは夜遅くだ。刻むような彼独特の足音に、総司はふり返った。
静かに書物を置いたところに、障子がスパーンと開いた。思ったとおり、凄い勢いで土方が入ってくる。
その顔を見たとたん、総司は、あ、怒ってると思った。いや、違うかもしれない。確かに怒っているのだが、怒るべきかどうなのか迷っているのだ。
じっと黙ったまま見つめていると、土方がやけに低い声で問いかけた。
「何故、帰った」
「……」
「総司、答えろ。何故、帰ったんだ」
「……」
総司は俯いた。長い睫毛がなめらかな頬に翳りを落とす。
きゅっと唇を噛んでから、小さな声で答えた。
「理由なんて、ありません」
「……理由がない、だと?」
呆れたような彼の声音だった。だが、すぐに怒りがこみあげたのだろう。口調が怒気を帯びた。
「俺は、待っていてくれと云っただろう? 夜に行くと。なのに、何故、おまえは先に帰ったんだ」
「だから、理由なんてありません」
つっけんどんな声音で答えた。
自分でも不思議だった。
どうして、こんな声で、平然と話せるのだろうと思った。
でも、それはきっと、たくさん泣いたからだ。諦めてしまったからだ。
彼とのことを、この恋を。
「ただ、何となく帰ってきてしまったのです」
「何となく……」
思わず呟いてから、土方はふと眉を顰めた。総司の傍に跪き、瞳を覗き込んでくる。
間近で、彼の濡れたような黒い瞳に見つめられ、思わず息をつめた。どきどきしてしまう。
「おまえ……やはり怒っているのか」
「怒っている……?」
「そうだ。俺が約束を反古にしたことだ。あれは本当に悪かったと思っているんだ、埋め合わせを必ずするつもりだし、それに」
「別に」
ゆるゆると総司は首をふった。長い睫毛が瞬く。
「怒っていません。それとこれとは、違う話なんです」
「違うものか。同じ話だろうが、総司、真面目に聞いてくれよ」
土方の声音が切ない色を帯びた。はぐらかすような総司の態度に、戸惑い、苛立ちよりも息苦しさを覚えているのだろう。
それを感じたとたん、総司は、彼に申し訳ないと思った。
勝手に誘った挙句、こんなふうに拗ねて、彼を困らせてしまうなんて……。
「ごめんなさい」
総司はぺこりと頭を下げた。
「先に帰って申し訳ないと思っています。本当に……ごめんなさい」
「総司……」
しばらくの間、土方は呆然と総司を見下ろしているようだった。どうしたらいいのか、いくら明敏な彼でもわからなくなってしまったらしい。
総司の視界の中で、土方の手が握ったり開かれたりした。こんな時なのに、しなやかな指が綺麗だとつくづく思う。
やがて、不意に、低い声が頭の上から降ってきた。
「……もういい」
素っ気ないほどの声に、総司が顔をあげると、土方は切れの長い目でこちらを見下ろしていた。だが、視線が絡みあったとたん、ふいっと顔をそむけ、部屋を出ていってしまう。
タンッと鋭くたてられた障子を見つめ、総司は唇を噛んだ。
……本当は追いかけたかった。
今ならまだ間に合うはずなのだ。
追いかけて、彼の背中に縋りついて謝れば、優しい彼のことだ、きっと許してくれる。
いつもの笑顔で「仕方ねぇな」と抱きよせてくれることだろう。
でも、どうしてか、躰が動かなかった。彼の足音が気配がどんどん遠ざかってゆくのに、それを追いかけることさえ出来ない。
総司はため息をつくと、両手で膝を抱え込んだ。
そして、その上に顔をふせると、小さく「土方さん」と、愛しい男の名を呼んだ。
「……歳」
傍らから声をかけられ、土方は我に返った。
はっとして見やれば、近藤が呆れ顔で彼を見ている。
「何だ」
「何だではない。それ」
ソレとは何だと思いつつ、近藤が指さしてくるものに視線をおとした。とたん、「あぁ……」とため息をついてしまう。
書類がグシャグシャになってしまっていた。何度も何度も、めくっては閉じるをくり返してしまったからだろう。端がヨレヨレになり、あまつさえ、閉じまで解けてしまっている。
「上の空とは、珍しいな」
にんまり笑ってみせる近藤に、土方は肩をすくめた。
「別に珍しくねぇよ。俺は昔から考え事の多い男さ」
「まぁ、確かに。だが、色恋沙汰で思い悩むなど、初めてのことだろう。やはり、相手が総司となれば特別か」
「そりゃそうだが……って、何で知っているんだよ!?」
思わず叫んでしまった土方の前で、近藤は落ち着いた様子で茶をすすった。
昼下がりの局長室である。
この忙しい最中、たいした用もないのに呼び出した理由はこれか! と、土方は形のよい眉を顰めた。
何しろ、ことは一番弟子総司にかかわってくることなのだ。近藤が無関心でいられるはずがない。
噂には疎そうな、のほほんとした顔つき、態度でいながら、その実、やたら詳しく知りつくしている近藤は、のんびりした口調で云った。
「また、おまえが総司を泣かせたのだろう。今度こそ、ふられたか」
「だから、何で、あんたが俺たちのつきあいを知っているんだ」
「それはまぁ、色々とだ。だが、とにかく、総司を泣かせるのは許さんぞ」
しっかり釘を刺してくる近藤に、土方は肩をすくめた。
「泣きたいのは、こっちだよ」
「三行半でも突き付けられたか」
「そうじゃねぇ」
「なら、何だ」
「だからさ」
追い込まれた土方は、結局、近藤にあらいざらい話してしまった。
と云っても、猫耳や尻尾の事ではない。先日の約束を破ったことに関しての話だけだ。
全部しっかり聞き終わった近藤は、腕を組んだ。そして、おもむろに裁きを下した。
「おまえが悪い」
「……何だよ、それ」
思わず、土方は身をのりだしてしまった。
「俺は謝ったんだぜ? それに、仕事だったんだから、仕方ねぇだろうが」
「それでも、おまえが悪い」
きっぱり断言した近藤は、じいっと土方の顔を眺めた。何だ? と見返す男に、やれやれと首をふる。
「百戦錬磨のおまえも、腕が落ちたなぁ。いや、鈍ったと云うべきか」
「鈍った……」
「おまえ、総司が何故、わざわざ昼間にと云ったのか、その理由を考えなかったのか?」
「いや、たまには気分を換えてだろうと思っただけで……」
「聞かずにか。おまえ、あの初心で恥ずかしがり屋の総司だぞ。その総司がわざわざ昼間に茶屋へ誘ってくるんだ。それ相当の理由と覚悟があると思って、当然だろうが」
「……」
土方の目が見開かれた。呆気にとられた表情で、恋愛感情について、びっくりするぐらい微に入り細に入り語る近藤を眺める。
「昼間でないと駄目だったのだ。おまえが云ったように夜では駄目で、だからこそ、帰ってしまったんだろう。それを破った挙句、責めたてるなど、たらし返上だ」
「いや、それは返上しても構わねぇが、しかし……総司は何で昼間でなきゃ駄目だったんだ?」
「知らん」
あっさり云いきった近藤は、ちょっと人の悪い笑みをうかべた。普通なら狐に見えるところだが、近藤の場合は、狸に見える。
「それは、おまえが考えることだろう」
「近藤さん……」
思わず、土方は眇めた目で近藤を眺めてしまった。
まさかとは思うが、何だか、この友人はすべてを知り尽くしているような気がしてしまったのだ。
総司の耳や尻尾の事はもちろん、二人の色恋沙汰の詳細に至るまで。
ぞわぞわと悪寒が走る想像にため息をつきたくなりつつ、土方は云った。
「とにかく、わかった。もう一度話し合ってみるよ」
「それがいい。くれぐれも、暴走せんようにな」
「暴走って……あんた、俺を何だと思っているんだ」
ぶつぶつ呟きながら、土方は部屋を出ていった。おそらく、まっすぐ総司のところへ向かい、聞き出すつもりなのだろう。
だが、そうは上手く行かないのが恋の道なのだ。
「……近藤先生」
土方が去った後、隣室への襖が開いた。可愛い顔がのぞく。
不安そうに周囲をきょろきょろと見回す様子に、近藤は思わず小さく笑った。
「大丈夫だ、歳はもういないぞ」
「い、いえ、別に土方さんがどうって事じゃなくて……」
もごもごと口ごもったのは、総司だった。
土方は全く気付いていなかったが、隣室で彼らの会話をすべて聞いていたのだ。
「総司はどう思った」
問いかけられ、総司はびくりと肩を震わせた。大きな瞳で、近藤を見上げる。
「どう思ったって……」
「歳の気持ちが知りたくて、おれの処に来たのだろう。まぁ、しかし、何だな」
不意に、近藤は破顔した。
「歳も案外、不器用な男だ。あれ程好いているおまえの気持ちを、全く察してやれんとは。それ故、おまえの誘いを断るなどという失策をやらかしたのだろう」
「で、でも」
総司は身を乗り出した。なめらかな白い頬が紅潮している。
「一生懸命謝ってくれたのです。私の我儘で呼び出されたのに、それが駄目になったからって、仕事だから仕方ないのに、土方さんは謝ってくれて夜も約束どおりちゃんと行ってくれて……!」
懸命に彼のために熱弁をふるっていた総司は、近藤の笑みをふくんだ表情に気づき、はっと我に返った。耳朶まで真っ赤になりながら、俯く。
それを眺めながら、近藤はしみじみと呟いた。
「おまえは本当に歳が好きなのだなぁ」
「……」
ますます総司は真っ赤になった。
恥ずかしそうに長い睫毛を伏せている様は、そこらの花魁も顔負けの色っぽさだ。これでは、確かにあの歳でも溺愛して当然だろうと思いつつ、近藤は言葉をつづけた。
「それだけ好きなら、好きと云えばいいではないか。約束破られた事が辛い、今度こそ守ってほしいとまた誘えばいい」
「そんな」
総司は俯いたまま、ふるふると首をふった。
「そんな……事できません。あの人を誘うなんて、そんな」
「一度出来たことだろうが」
「あれは意味がよくわかっていなかったからです。でも、わかった上で誘うなんて……」
「総司」
不意に、近藤は声をあらためた。はっとして顔をあげると、近藤は真剣な表情で総司を見ていた。
静かな口調で云われる。
「そんな風に後ずさってばかりいると、一番大切なものを失ってしまうぞ。たまには、自分から行動を起こして、歳に真っ直ぐ気持ちをぶつけてみたらどうだ。自分の中にある本音を、全部ぶつけてしまえ。羞恥や躊躇いのために、おまえはせっかく叶った恋を失うつもりなのか」
「近藤先生……」
総司の目が見開かれた。それに、近藤は穏やかに頷きながら、言葉をつづけた。
「歳を信じろ。そして、自分の強さも信じろ」
「信じる……」
彼と、己の強さを。
総司は近藤の言葉を噛みしめながら、両手をきつく握りしめた。
もう一度だけ誘ってみようと思った。
土方もあんなに悩んでくれているのだ。それも、自分のことで。なのに、自分ばかりが逃げているなんて、許されない気がした。
総司は屯所の中をうろうろ歩きまわり、土方を探した。
だが、西本願寺の屯所はとにかく広い。逢いたくない時は逢ってしまっていたのに、逢いたいと思った時にはなかなか逢えないものなのだ。
このだだっ広さが憎らしいと思いつつ、総司はあちこちの部屋を覗いて歩いた。
「総司、どうした」
広間の中を覗き込むと、そこにいた斉藤が訊ねてきた。それに、素直に答える。
「土方さんを探しているんです」
「ふうん……公用で?」
「いえ、私事です。土方さんを誘いたくて」
「……ふうん」
斉藤が暗い声で相槌をうったが、それに総司は気づきもしなかった。きょろきょろと広間の中を見回している、
大勢の隊士たちがいたが、その中に、土方の姿はないようだった。がっかりして去ろうとした総司を、斉藤が呼びとめた。
「最近、上手くいっているのか?」
「え」
総司は、ちょっと目を見開いた。
「うまくって、土方さんと?」
それ以外何かあるのか! と突っ込みたい気持ちをおさえ、斉藤は頷いた。
もっとも、二人が上手くいく事など全くもって望んでいない。さっさとあんな男とは別れちゃえと思っているぐらいだ。
「うーん、どうでしょう」
小首をかしげた。
「今、仲たがいしている最中ですけど。この間、喧嘩しちゃいましたし」
「喧嘩したのか!」
思わず声が弾んだ。
それを訝しげに見やりながら、総司はつづけた。
「えぇ、でも、私から謝って仲直りするつもりです。でないと、淋しいし」
「……」
「だから、探しているんですけど……いないなぁ。他の場所を探しますね」
愛らしい笑顔をむけてから、総司はぱたぱたと走り去っていった。それを見送り、斉藤は深々とため息をついたが、これまた総司の知るところではない。
「あのね、もう一度誘ってもいいですか?」
そう云われた瞬間、土方の目が見開かれた。
だが、すぐに慌てたように口元を片手でおおうと、目を伏せてしまう。それに、総司は不安になってしまった。
怒ったのかと思ったのだ。今更、何だと云われるのかと、緊張した。
だが、それは杞憂だった。しばらくすると、土方は顔をあげ、切れの長い目で総司を見つめた。
そして、低い声で答えたのだ。
「わかった」
ただ、それだけだった。それきり、くるりと背を向け、框から降りて草履に足を突っ込むと、さっさと出ていってしまう。
遠ざかる男の広い背をぼうっと見送っていた総司は、ほうっと小さく息を吐いた。返事がもらえるまで、ずっと呼吸をとめていたのだ。
(……よかった)
とりあえず承知してもらえたのだ。
具体的に、どこでいつなど決めてはいないが、返事を貰えただけで総司は安堵した。近藤の云うとおり、勇気を出してよかったとしみじみ思う。
総司は土方が帰ってきたら、あらためて話そうと思いつつ、弾むような足取りで歩き出していった。
この後起こる騒動など、知らないままに……。
次で最終話です。ちょっと長めになります。