土方が入っていったのは、小さな家だった。
 休息所という言葉から想像される、豪奢さ、華やかさはない。だが、小綺麗に整えられ、とても居心地の良さそうな家だった。
 そして、それは───
「……どうして……?」
 総司はのろのろと両手を口許にもっていった。


 何をどう考えていいのかさえ、わからない。
 あれは、夢であるはずだった。確かに夢だったのだ。
 なら、いったい何故なのか?
 夜ごと見る夢。土方と総司が恋人同士として過す、大切な場所。
 優しい夢の家。
 それが、どうしてここにあるのか。これは夢のつづきなのか。


 呆然としている総司の前で、土方は家の戸口を開けた。物慣れた様子だった。
 誰か中にいるのか、奥から女の声が聞こえてきた。
 若い女の声だ。
「……っ」
 それを聞いた瞬間、総司は身をひるがえしていた。そのまま逃げるように駆け出してゆく。
 いたたまれなかった。その場にいつづける事が、どうしても出来なかったのだ。
 恥ずかしくて情けなくて、辛くて。
 泣き出してしまいそうで……。
「……ぃ、や…っ」
 嗚咽のような声が唇からもれた
 近くの寺の境内に走り込み、大きな樹木の影に身を隠す。そうして、周囲を緑に包まれた状態で、総司はその場に蹲った。
 子どものように両膝を抱え、顔を伏せる。
 あのまま居れば、どうなるかわかっていた。みっともなく叫んでしまいそうだった。


 やめて、やめて、やめて。
 その家は、土方さんと私の場所なのに。
 どうして? 何故、他の人を家に入れたの?


 身勝手な云い草だとわかっていた。
 自分は夢を見ていただけなのだ。夢の中で、あの家に似た場所で、勝手に彼と睦みあっていた。
 ……そう。
 あれは夢だ、現ではない。
 なのに、現の彼が他の人をあの場所で愛したからと、責める資格なんてどこにもないのに。
「……土方…さん……っ」
 総司は彼の名を掠れた声で呼び、きつく目を閉じた。


 このまま夢の中に落ちてしまいたい。
 自分だけを愛してくれるあの優しい彼に、思いきり抱きしめられ、今見た事を否定して貰いたい。
 そして、愛しい彼の腕の中いっそ息絶えてしまえたら、どんなに幸せな事だろう……。



 そう思ってしまった総司は、すぐに激しく首をふった。
 虚しいだけなのだ。
 夢の中でしかありえぬ偽りの幸せに溺れて、いったい何が救われるというのか。今までが間違っていたのだ。夢にすがり、夢の中で彼を好きなようにしてきた罰が、今日あたったのだ。
 あんな夢など見なければ良かった。
 否、もう……見るべきじゃない。


(私は土方さんを愛してる。心から愛してる。だからこそ……、夢に逃げるのも終わりにしなくちゃいけないんだ)


 総司は顔をあげると、きつく唇を噛みしめた。












 部屋へ戻ると、総司は真っ先にあのまじない玉を取り出した。
 しばらくじっと見つめていたが、やがて、庭先へ持ち出した。
「……」
 のろのろと手をあげた。胸奥が苦しくなり、ぎゅっと目を閉じる。
 次の瞬間、まじない玉が指さきから地面へ落ちた。ぱりんっと小さな音をたて、あっけなく砕け散る。
 その瞬間、つきんと胸奥が痛んだ。まるで、自分の幸せを己自身で壊したような気がしたのだ。
「……っ」
 しばらくの間、総司は、云いしれぬ切なさと悲しみを感じながら、その場に立ちつくしていた。壊れた欠片をじっと見下ろしている。
 あまりにも己の思考に沈み込んでいたためだろう。
 何度も、傍らから声をかけられているのにも、気づかなかった。
「おい、総司」
 不意に肩に手をかけられ、びくんっと身を竦ませる。
 息を呑んでふり返れば、酷く強ばった表情の斉藤が、総司を覗き込んでいた。鳶色の瞳が心配そうな光をうかべている。
「どうしたんだ、いったい」
「え、何が……ですか」
「もう四半刻近くもだぞ。おまえ、ずっとここで地面ばかり見ていたんだ」
「……え」
 総司は、ぼんやりとした表情で、斉藤を見つめた。それから、のろのろと地面に視線を戻し、小さく呟いた。
「そうですか……四半刻もたっていたんだ。全然、気づかなかった」
「いったい何を考えていたんだ」
「別に……」
 ゆるく首をふった総司に、斉藤はため息をついた。それから、地面に砕け散っている破片に気がつく。
「何だ、これ……?」
 思わず身をかがめ、拾いあげようとした。そのとたん、切り裂くような声で総司が叫んだ。
「さわらないでッ!」
「!?」
 驚いて見ると、総司は青ざめた顔でその破片を見つめていた。それから、不意にしゃがみこむと、手が傷つくのも構わず、まじない玉の破片を両手ですくいあげてしまう。
「総司、おい……」
「これは私のだから。大切なものだから……っ」
 涙がこぼれそうになった。


 もう、あの夢を見ることは出来ないのだ。
 愛しい彼に逢うことは出来ない。
 偽りだったが、そこには確かな幸せがあった。ささやかな幸せと、想い、互いをいつくしむ恋があったのだ。
 なのに、それを壊してしまったのは、総司自身だった。まじない玉と一緒に失ったものの大きさに、総司は今更ながら気がついた。
 ずっと長い間、秘めてきた恋をも壊してしまったのだ。


 その場にうずくまり、総司は涙をこらえた。きつく唇を噛みしめたため、血の味がひろがる。
 それが嫌で首をふると、後ろから不意に抱きすくめられた。
 斉藤が抱きしめたのだ。
「……たまには、吐き出せよ」
 まるで、斉藤の方が傷ついているような声音だった。微かに震えている気さえする。
「おまえの抱えている辛いこと、悲しいこと、そんな……一人で全部抱えこむな」
「斉藤…さん……」
「オレがいるから。おまえの傍にはオレが……」
 そう云った斉藤の腕の中、総司が小さく俯いた。しばらく涙をこらえて黙り込んでいたが、やがて、涙まじりの声で答える。
「……ありがとう……」
 小さな声でそう答えた総司が、せつないほど愛しくて、斉藤は思わず腕に力をこめてしまった。包みこむように抱きしめる。
 次の瞬間、斉藤は鋭い視線を感じた。顔をあげ、息を呑む。
「──」
 庭をはさんだ渡り廊下に、一人の男が佇んでいた。土方だ。珍しいほど表情を露にし、こちらを睨みすえている。
 端正な顔にあるのは、明らかな殺気だった。怒りと嫉妬の黒い炎が、男を包みこんでいるようだ。
 そのくせ、ぞっとするほど冷たい瞳が、斉藤をまっすぐ見据える。
「……」
 斉藤が挑戦的に見返すと、土方はゆっくりと目を細めた。しばらくの間、二人の男はそのまま対峙していた。息を殺すような緊張感が漂う。
 だが、それも、時にすれば僅かな事だったのだろう。
 総司が僅かに身じろいだ。斉藤の腕から抜け出し、ふり返る。立ち上がり、まだ潤んだ目を手の甲でこすった。
 慌てて立ち上がった斉藤を見上げ、にこりと笑いかけた。むろん、土方にはまるで気づいていない。
「ごめんなさい……でも、ありがとう。斉藤さん」
「……いや」
 答えながら、斉藤は視線をその向こうへやった。
 そこに、男の姿はない。おそらく、総司が立ち上がった時に、去って行ったのだろう。
 思わず肩の力が抜けた斉藤に、総司が不思議そうに小首をかしげた。それに、ゆるく首をふりながら、すれ違い縺れあう恋を思って、ため息をもらした。












 その夜、夢は見なかった。
 やはりというべきなのか、夢の中に、彼は現われなかったのだ。
 それどころか、夢らしい夢さえ見なかった。何とか眠りはしたのだが、夢を見る事もなく朝を迎えてしまった総司は、半ば泣き出したくなっていた。
 むろん、わかっている。自分が決めた事なのだ、自分がやってしまった事なのだ。
 だが、それでも、失ったものの大きさに、あらためて気づかされた。ここしばらくの間に、夢の中での世界は、宝物のような存在になっていたのだ。
 大切な大切な、宝物。
 なのに、壊してしまったのは───
「……私だよね……私が悪いんだ」
 しばらくの間、布団の中でぼうっとしていた総司は、やがて、のろのろと身を起した。布団をたたみ、着替えを始める。
 小袖と袴をつけた処で、こちらへと近づいてくる足音に気がついた。酷く急いでいるようで、荒い。
 何か事でもあったのだろうかと、ぼんやり考えていた総司は、突然、ばんっと音をたてて開かれた障子に驚いた。
「!?」
 ふり返った総司は、そこに立つ男の姿に大きく目を見開いた。
 それは、土方だったのだ。
 早朝だというのに、着流し姿で腰には両刀を差している。
 だが、いったい何なのか。どうして、ここへ来たのか。
 土方が総司の部屋を訪れるなど、京に来てから初めての事だった。悲しい事に、二人はそんな親しい間柄ではなかったのだ。
 訳がわからず立ちつくす総司に、土方は無言のまま部屋を横切ってきた。鋭い瞳で総司をみおろすと、手をのばしてくる。
 びくりと身をすくめたとたん、乱暴に手首をつかまれた。
「……え? えっ……」
 強引に引きずられ、総司はたたらを踏んだ。
 よろけた処を抱きとめられたが、男のぬくもりに身を震わせ、慌てて後ずさってしまう。
 その行動に土方が眉を顰めた事に気づかぬまま、総司はどきどきする胸をおさえ、訊ねた。
「あのっ、どうしたのですか?」
「ついて来い」
「え、どこへ。土方さ……」
「いいから、黙ってついて来い」
「……」
 怒気のこもった声音に、息を呑んだ。
 おそるおそる見上げれば、土方は昏い光を湛えた瞳でこちらを見下ろしていた。眉は顰められ、唇も固く引き結ばれている。
 怒っているのだが、どこか傷ついてもいるような表情だ。
 それに総司はもう何も云えなくなってしまい、俯いた。何故、土方が怒っているのかわからないが、従う他なく頷く。
 玄関へ向う道すがら、厳しい表情の土方と悄然と俯いた総司の様子に、すれ違った隊士たちは慌てて道をあけた。たまたま原田が通りかかり、宥めるように「土方さん」と声をかけたが、全く無視だ。
 屯所から出ると、土方は総司を連れたまま歩き出した。
 だが、総司の躯を気づかっているのか、歩む速さは常より緩やかだった。時折、総司の様子を確かめている。
 それに、彼が心底怒っている訳ではないと知り、少しほっとしたが、相変わらず怒りの理由はわからなかった。
 ひたすら彼に従い歩いていると、不意に訊ねられた。
「……好きなのか」
「え?」
 意味がわからず、総司は顔をあげた。すると、土方はそんな総司にちらりと一瞥をくれてから、低い声でつづけた。
「斉藤が……好きなのか」
「……斉藤、さん?」
 総司は不思議そうに問い返した。小首をかしげる。
「えぇ。大切な友人なので、好きですけど……」
「そうではない。別の意味でだ」
「別の意味って……」
「男として、の話だ」
「……」
 そこまで云われれば、さすがにわかった。
 土方は、男女の恋愛のような気持ちを、斉藤に対して抱いているのかと訊ねているのだ。
 土方から、そんな問いをされると思っていなかったので、総司は驚いた。呆気にとられるが、すぐさま理解する。
 昨日、庭で斉藤に抱きしめられている処を、隊士たちにでも見られたのだろう。それで噂になり、隊内の乱れになるからと、副長として注意するため連れ出したに違いない。
 総司は一人納得すると、きっぱりした声で云った。
「いいえ、違います」
「……」
「斉藤さんは大切な友人です。そんなふうに思った事はありません」
「……なら」
 土方は形のよい眉を顰めた。苦渋の色がその黒い瞳にうかぶ。
「なら、どうして昨夜……」
「え?」
「……」
 それきり土方は黙り込んでしまった。
 だが、何かを堪えているらしく、片手がきつく握りしめられている事に気づいた。爪が食いこんでいる事にも気づいてないようで、それが酷く痛々しい。
 夢の中なら、すぐさま手をとるのにと思った。その手を両手で包みこみ、開かせ、傷ついた掌に口づけるのに。
 なのに、現の世界では、こうして見つめている事しか出来ないのだ……。
 しばらくの間、二人は黙ったまま歩きつづけた。それぞれの思惑に囚われたまま、京の町を歩いてゆく。
 だが、幾つめかの角を曲がった時だった。ふと顔をあげて周囲の光景を見回した総司は、はっと息を呑んだ。


(この道は……!)



 昨日、辿った道なのだ。
 土方の後を追い、あの家へ辿りついてしまった道。なら、彼はこれから自分をその休息所へ連れてゆこうとしているのか。そこで話をする気なのか。
 そう思った瞬間、総司は逃げ帰りたくなった。身をひるがえし、その場から一散に走り出したくなったのだ。
「……っ」
 自然と足が遅くなった。どうしよう、どうすればいいのかと思い悩むうちに、総司の様子に土方が気づいた。訝しげに眉を顰め、ふり向いてくる。
「どうした」
「……い、いえ」
「躯の調子が悪いのか」
「……」
 黙ったまま俯く総司に、そうなのだと受け取ったのだろう。土方が云った。
「あと少しで俺の家に着く。そこで休めばいい」
「……っ」
 やはり、そうなのだ。彼は自分をあの家へ連れてゆくつもりなのだ。
 彼が他の誰かと愛しあい睦みあっている、あの家へ。
 錐で貫かれたような痛みが胸奥に走った。涙がこぼれそうになる。必死にこらえて唇を噛みしめれば、口の中に血の味が広がった。
「……」
 俯いている総司に、土方は手をのばした。往来の真ん中であるにもかかわらず、その細い肩を抱いてくる。
 驚いて見上げた総司に、低い声で云った。
「躯が辛ければ、俺に寄りかかればいい。あと少し辛抱してくれ」
「……」
 そうではないのだ。あと少しの辛抱だなんて。


 あの家へ行きたくないだけ。
 他の誰かを愛し、他の誰かに微笑いかけるあなたの姿を、見たくないのです。
 どうか、私の恋をこれ以上殺さないで……。


 青ざめた顔で黙り込んでしまった総司に、土方は困惑したようだった。形のよい眉を顰めている。
 だが、やがて意を決し、総司の肩を抱く手に力をこめた。総司を強引に歩かせ、休息所へとむかってゆく。
「……っ」
 総司は激しく喘いだ。
 いやだと、全身が悲鳴をあげていた。躯中が震え出すのを感じる。
 だが、もうどうする事もできなかった。とうとう休息所へ辿りつき、門をくぐってしまう。 
 総司の肩を抱いたまま、土方はもう片方の手で引き戸を開いた。
 とたん、総司が叫んだ。
「……いや!」
 突然の拒絶に、土方も驚いた。大きく目を見開き、総司をふり返る。
 だが、総司にはそれを見る余裕もなかった。
 いけないとわかっていた。この人の前では、甘えも弱さも許されない。
 いつもの自分でいなければと、強く思った。そうあろうとした。だが、どうしても出来なかったのだ。


 もう夢見ることさえできない。
 愛されることもない。
 でも、愚かな私の手の中に残った、最後の宝物。
 だから、お願い。
 あの夢の思い出だけは、私から奪わないで。


「いや、い、ゃ……ここは嫌……」
「総司? どうし……」
「入りたくないのです。お願い、許して……ッ」
 抱きしめようとする男の腕の中、総司は懸命に身をよじった。頬が青ざめ、唇が震えている。
 だが、それが限界だった。
 家の中から、誰かが出てくる様子がしたのだ。女の声がする。
 土方が愛している女だ。
 次の瞬間、張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。まっ暗な闇が、総司をさらう。
 声にならぬ悲鳴をあげ、その場に崩れ落ちた。
「!? 総司……ッ!」
 抱きとめてくれる土方の腕の中、総司は気を失ったのだった……。