私は、呪文をとなえる。
切ない恋を断ちきるために。
私は、あの人を好きじゃない。
もう好きじゃない。
絶対絶対、好きじゃない。
総司は小さくため息をついた。
見上げれば、小雪が降りそうな曇り空だ。
はぁっと吐いた息は白く、体も冷たくなってしまいそうだった。
だが、それでもここから動けない。動く訳にはいかないのだ。
「……」
総司は寺の門から顔を覗かせると、往来の方を伺った。だが、まだ彼の姿はない。
きっと黒谷での用事が長引いているのだろう。
だから、今日はいいと断ったのに。
そう断った時の不機嫌そうな男の様子を思い出し、総司は桜色の唇を噛んだ。
もう何度めかの逢瀬だった。
まるで、秘密の恋人のように。
新撰組副長である土方と、一番隊組長の総司は、隊の外で落ちあい、逢瀬を重ねているのだ。
様々な料亭や料理茶屋で食事をしたり、綺麗な花を眺めに行ったり、着物を買ってもらったり。
そんな甘い逢瀬を重ねながら、その実、土方と総司は恋人同士ではなかった。
兄弟でも、恋人でも、友人でもない。
その関係を何と云ってよいかわからぬまま、ずっと逢いつづけている。
「おかしいよね、こんなの……」
総司は門の大柱に凭れかかり、きゅっと唇を噛んだ。
曖昧な今の関係に納得できていないくせに、何となく流されるように土方の誘いに応じてしまう自分が、たまらなく嫌だった。己の意志の弱さのためかと思えば、尚更情けなくなる。
いい加減彼を解放してあげるべきだと、わかっていた。
当初、土方も気まぐれに総司を連れ出したに違いないのだ。というか、あまりに萎れている総司を見かねての事だったのだろう。
だが、何度も重ねられるうち、その逢瀬が、土方の重荷になってきている事は明らかだった。今日でも、多忙の合間をぬって無理に時をつくり、総司と逢ってくれるのだ。
土方は、総司と逢うようになってから、全く女遊びをしてしないようだった。それも自分のせいだと思えば、申し訳なくなってしまう。
妻でも妾でも、ましてや恋人でもないのに、いつまでも、こうして彼を束縛しつづける訳にはいかないのだ。
「……土方さん」
男の名を呼ぶと、総司は長い睫毛をそっと瞬かせ、空を見上げた。
事の始まりは、秋だった。
「……え?」
総司は驚いた顔で、男を見返した。
場所は、屯所の大広間。
朝の打ち合わせが終わったばかりの出来事だった。
隣に坐ってあれこれ難しい顔で論じていた土方が、打ち合わせが終わってさっさと去ろうとした総司をつかまえ、こう云ったのだ。
「昼飯でも食いにいかねぇか」
「……」
その言葉に、総司は思わず目の前の男を見つめてしまった。
大きな瞳に見つめられ、土方は心もち狼狽えたように視線をそらしたが、そんな事に総司は全く気づいてなかった。というか、完全に混乱していたのだ。
「……どうして?」
そう訊ねた総司に、土方は少し困ったようだった。彼も妙な事に緊張しているのか、手元の書類を何度も重ねたりばらしたりをくり返しながら、答える。
「どうしてって……昼飯食うのに理由がいるのか」
「それは別にいりませんけど、でも……どうして私と?」
「たまにはいいだろ。不思議じゃねぇと思うが」
「でも、忙しい土方さんが私なんかと食事すること自体、不思議なんですけど。それに、土方さん、いつも一人で部屋で食べる方がいいって……」
「だから、たまには違う気分になる事もあるんだよ! 悪いか」
苛立ったらしく、土方は形のよい眉を顰めた。乱暴に書類を放り出すと、総司の方へ向き直ってくる。
「おまえ、俺と飯食うのがそんなに嫌なのか」
「嫌、じゃありませんけど……」
「けど?」
「揚げ足とらないで下さい。わかりました。昼になったら部屋に行きます」
総司は承諾すると、立ち上がった。足早に広間から出てゆく。
傍に寄ってきた斉藤が訊ねてきた。
「土方さんと何を話していたんだ?」
「……昼ご飯に誘われました」
「土方さんに?」
ちょっと驚いたような斉藤に、総司もこっくり頷いた。
「そうなんですよね、驚くでしょう? 仕事でも女遊びでも忙しい土方さんが、どうして私と食事なんて……」
「理由、わからないのか」
問いかけられ、総司はちょっと言葉を途切らせた。目を伏せる。
「……ちょっとだけ、わかる気もしますけど」
「……」
「でも、気のせいかもしれませんし」
黙り込んでしまった斉藤に笑いかけ、総司は部屋へ戻った。
途中、秋らしい鱗雲に目をとめ、思わず見上げてしまう。
清々しいほどの青空だった。まさに、秋晴れだ。
それを、総司は少しもの悲しい気持ちとともに見つめた。
試衛館の面々と共に京へのぼって一年半。様々な事があったが、近藤一派が実権を握ったことでようやく落ち着いてきた今日この頃だった。
総司も一番隊隊長という重要な役目を務め、忙しい日々を過ごしている。
土方も副長として、総司以上に多忙な日々を過ごしているようだった。
だが、その一方で、どこにそんな暇があるのか、土方はあちこちの女に手を出しては遊びまくっていた。何しろ、彼はもてる。江戸の頃から、彼の傍にはいつも美しい女の姿があった。
それも彼自身を見れば、致し方ない事だと総司も思う。
(あれじゃ、女の人が放っておくはずがないもんね)
端正な顔だちに、すらりと引き締まった長身。
そして、何よりも、彼には魔力のように女を惹きつける艶があった。どうという事のない仕草であっても、彼の場合は男の色香が仄かに漂う。
たとえば、それは艶やかな黒髪を無造作にかきあげる仕草であったり、ふり向きざま微かに唇の端をあげてみせる笑みだったり。
端正な顔だちに似合わぬ荒っぽい動作、時折見せる悪戯な少年のような笑顔も、女の恋心をたまらなくかきたてるのだ。
しかし、それは、女相手だけではなかった。
土方に憧れ恋しているだろう少年たちは、この隊の中にもいる。
実を云うと、総司も以前はそうだった。少し前まで土方に恋し、恋焦がれていたのだ。
もう、だい好きでだい好きで。
ほんの少しでも彼に逢えた日は幸せだったし、話なんて出来た日は舞い上がりそうなぐらい嬉しかった。
初恋ゆえの、激しく一途な恋。
だが、土方は総司に全く見向きしてくれなかった。確かに、弟分として可愛がってくれはしたが、彼の嗜好に男色は全くなかったのだ。
その証に、土方の女好きは有名だった。いつも美しい女に纏つかれ、自ら手を出すことも多々ある。
女遊びぶりは京に上ってからますます激しくなり、花街のあちこちに馴染みの女がいるという話だった。
土方は女だけが好きなのだ。男になど見向きもしないのだ。
ようやくそれを悟った総司は、彼への想いを潔く断ちきる事にした。
当然ながら、それは容易な事ではなかったが、土方が女と一緒にいるのを見ても、平然としていられる迄にはなれた。時折、胸がちくりと痛んだが、それも少しずつ薄れていった。
そして、総司は、土方への恋を忘れるためにも、別の恋を見つける事にした。それも、今度は男相手などではなく、ごくごく健全にまっとうに、可愛い女の子相手の恋をしようと固く決意したのだ。
だが、それは無理な相談だった。
総司はとても優しく素直で、見た目もそこらの小町娘が及びもつかぬほどの可愛らしさだ。
しみ一つない色白の肌に、華奢な躯つき。つぶらな瞳、桜んぼのような小さな唇。
少し色の華やかな小袖でも纏えば、すれ違う男の十人中十人が皆ふり返ってしまうほどの、可憐で愛らしい若者だった。
また、総司は自覚が全くないが、庇護欲をそそる存在だった。性質的にも素直で愛らしいため、男か、もしくは年上の女に好まれるのだ。
そのため、総司が望んでいるような、同じ年頃の娘との恋などできるはずもなかった。何をどうしても友達までで終ってしまう。
結局、総司と恋仲になったのは、年上の美しい女──島原の天神鹿野だった。
もっとも恋仲と云っても、二人の間にそういった関係は全くなく、総司の相談相手のようなものだった。そして、その鹿野もついこの間、他の男に身請けされてしまったのだ。
さすがに、総司は落ち込んだ。男女の関係など全くなかったが、いつも優しく笑いながら、年上の女の余裕で相談を受けてくれた鹿野は、総司にとって姉のお光のような存在だった。
鹿野には名を伏せながらも、男に恋していた事も明かしていた。そのため、彼女の前なら何を繕うこともなかった。恋仲ではないから尚のこと、姉のように甘え、未だ彼を忘れられない気持ちや、新しい恋を見つけたいという煩悶などを、好きなだけ話すことができた。
だが、その鹿野に、もう聞いて貰えないのだ。
誰にも心を打ち明けられなくなった総司は、落ち込んだ。剣術に打ち込んでも淋しさは紛れず、憂い顔でため息をついてしまう。
そんな総司に、周囲は、そこまで鹿野を恋しく思っていたのかと同情し、腫れ物をさわるように接した。近藤も「あまり気を落とすな」と声をかけてくれた程だ。
見当違いの同情だったが、否定しようとは思わなかった。面倒で、その気にもなれなかった。
そうして鬱々と過していた総司に、今日、土方が声をかけてきたのだ。
「土方さんと食事……」
総司はため息をつき、柱に凭れかかった。
今日の昼の予定を思ったとたん、たまらなく不安になってしまったのだ。
まだ、自分は彼のことが忘れられないのだ。しかも、今は鹿野という相談相手を失っているため、どうしても隙が出来ている。何かの拍子に、ぽろりと気持ちがこぼれてしまわないか、不安だった。
それに、もうあまり構って欲しくなかった。
どんなに好きでも恋しても、絶対にふり返ってくれない男なのだ。望みもない恋なら、諦めてしまった方がいい。
そう決心している処へ、中途半端な優しさを見せられるのは、ある意味、酷だった。土方は、落ち込んでいる総司を慰めようと声をかけてくれたのだろうが、追い討ちをかけるようなものだ。
「どうして今頃なの? もっと前だったら、喜べたのに……」
きっと、以前なら、大喜びしただろう。
土方からの誘いに舞い上がり、朝から夢心地だったに違いない。
無邪気に恋していた頃が、懐かしい程だった。
だが、女遊びの激しい彼に絶望し、諦めようと思いきった今では、嬉しいとは到底思えない。
嬉しいどころか、憂鬱だ。
「……やっぱり、断ってしまおうかな」
そう呟いたとたん、すぐ傍で声がした。
「何を断るんだ」
「えっ」
驚いてふり返った総司は、目を見開いた。
「土方さんっ!?」
そこには、いつのまに来たのか、不機嫌そうな土方が立っていた。形のよい眉を顰め、こちらをじっと見据えている。
総司は思わず後ずさってしまった。
「い、いつからそこに?」
「ついさっきだ。で、何を断るって?」
「え……あの……」
総司は周囲を見回し、必死になって頭を働かせた。それから、苦し紛れの答を返す。
「け、稽古ですっ」
「稽古」
「そう、はい、稽古です。稽古つけるの約束したんですけど、断ろうかなと」
そう云ったとたん、土方は不意に表情をあらためた。心配そうな顔つきになり、覗き込んでくる。
「おまえ、体の調子が悪いのか?」
「え」
「顔が赤いし、それで、稽古を休みたいと……」
「あ、え……違いますよ」
「ふうん」
まだ疑わしげだったが、土方は不意に踵を返した。そのまま歩いてから、総司の方をふり返る。
「昼飯、行くんだろ?」
「え、えぇっ、もうですか」
「早めに行った方がいいだろうが」
「並ばなきゃいけない処なのですか」
思わずそう訊ねてしまった総司に、土方は呆れたように眺めた。それから、肩をすくめる。
「そんな処、行くか」
「ですよね……でも、おいしいもの食べられるかなってちょっと期待してたのに」
「だから」
土方は何か云いかけ、もういいとばかりに首をふった。後はついて来るのが当然と、さっさと背をむけ歩き出してしまう。
それを、総司は大きな瞳で見つめた。
すらりとした長身に、黒い小袖と袴を纏っている。癇性なほど詰められた襟元、黒髪、刀を差した腰。
秋の陽光の中、すっと伸びた背が美しかった。
思わず見惚れてしまうほどに。
(……どうしよう)
気持ちの整理がつかぬまま、総司は唇を噛んだ。
そして、目を伏せると、彼の後を追った。
食事は意外と楽しかった。
驚いた事に、土方が総司を連れていったのは、料亭だった。それも個室だ。
慣れない贅沢な雰囲気に、当初、総司はますます緊張した。
まるで借りてきた猫のように固まっていたが、それに、土方は穏やかな声音で話しかけてくれた。あれこれと総司の好みそうな料理をすすめ、気持ちをほぐしてくれる。
次第に総司もくつろぎ、食べ始めた。どれもこれもおいしくて、ついつい箸が進んでしまう。
そんな総司を、土方は酒を口に含みながら、楽しそうに眺めていた。時折、手をのばして取り分けたり、魚をほぐしたりしてくれる。
それがまた押しつけがましくない行為で、こういう処が女の人にもてる所以だろうなぁと、つい思ってしまった。
「……」
そっと目をあげてみれば、土方も箸を口に運ぶ処だった。男にしては長い睫毛が伏せられている。箸をもつ指さきが、とても綺麗だった。
じっと見つめる視線に気づいたのか、土方は顔をあげた。
「……」
しばらくの間、二人は見つめあってしまった。
何故だか、視線をそらせない。そらさなきゃと思うのだが、何だかそれも不自然な気がして、総司は固まった。そのまま見つめ返す。
だが、そうして見つめあううちに、ふわふわした心地になるのを感じた。
自分をまっすぐ見つめてくる黒い瞳があまりに綺麗で、思わずどきどきしてしまう。
でも、当たり前の事なのだ。
忘れた、諦めたと思っていても、やっぱり、彼は好きな人だったのだから。
落ち込んでいる自分を慰めるためとわかっていても、こんなふうに連れ出され、見つめられたら頬が上気してしまう。
熱っぽい瞳で見つめられて、何だか……
「あ、あのっ」
突然、大きな声を出した総司に、土方はびくっと肩を震わせた。一瞬、目を見開いてから、態勢をたて直して訊ねてくる。
「……何だ」
「ここって、綺麗な処ですね。土方さんもよく女の人と来たりするんですか」
「……」
総司は、云ってから、しまったと思った。
これじゃ妬いているみたいじゃない。
ど、どうしよう……っ。
内心慌てている総司の前で、土方はしばらくの間無言だった。だが、ゆっくりと茶碗を手にとりながら、答えた。
「……いや」
ゆるく首をふる。
「ここに来たのは初めてだ」
「初めて」
「そう、おまえと来た今日が初めてだ」
「……」
今度は総司が黙り込む番だった。
何だか、とんでもなく意味深な答えに聞こえてしまったのだ。それとも、それは気のせいなのだろうか。
おずおずと見上げたとたん、どきりとした。
土方はこちらをじっと見つめていたのだ。熱っぽく濡れたような黒い瞳に気づいた瞬間、かぁぁっと頬が上気する。
「……っ」
慌てて俯き、総司は食事をつづけた。だが、もう彼の熱い視線を感じるばかりで、何を食べているのかさえわからなかった。
その後出された果物の味は、尚のことわからなかった。
何しろ、土方自身が手をのばし、その果物の皮をむいてさし出してくれたのだ。
彼のしなやかな指さきを濡らした果物の蜜は、とても甘かった……。
その日を切っ掛けにして、土方は幾度も総司を誘うようになった。
食事に、外出に、果ては出張にまで。
いや、最後の出張は仕事がらみだが、別に総司を同行しなくてもいいはずなのに、強引に連れていった。
むろん、総司も初めは断った。遠慮がちに、
「私などついていっても、邪魔になるだけですよ」
そう云って身をひこうとしたのだ。
だが、土方は全く頓着しなかった。
「大坂でおまえに見せたい場所があるんだ。綺麗だし、きっと気にいると思うぞ」
綺麗に澄んだ黒い瞳で見つめられ、そう囁かれれば、もう断ることなどできなかった。そうして、総司は彼の出張にまでついてゆくはめになったのだ。
とても楽しい、夢のような一時だった。
さすが遊びつくしている男だ。土方が連れていってくれる店は、どれも総司の好みにあっていた。いいものを見せてやると連れていかれた場所も、びっくりするぐらい総司の心にかなっている。
そこは、美しい庭園だったり、賑やかなお祭りだったり、可愛らしい小物を並べた店だったり。
また、夜の祇園に二人して出かけ、楽しく遊んだ事もあった。
土方は芸妓とここへ泊まるつもりなのかと思っていたが、一通り遊び終えると、総司を連れて屯所にあっさり帰った。
そして、何故だか、あぁいう遊びもたまには面白いだろうが、一人でとか俺以外の男とは絶対に行くなよと釘を刺された。
その妙に真剣な様子に、思わずこくりと頷いてしまったのだが───
「土方さんって、本当にわからない」
総司は窓枠に手をかけて凭れかかりながら、ぼんやり呟いた。
窓の下を川が流れてゆく。
今日も、この料亭で土方と待ち合わせだった。
黒谷からの帰りに寄ると云っていた土方を、総司は先程から待っている。先にこの部屋へあがり時を過ごしているが、これではまるで恋仲の二人が密会するようだと思った。
きっと、土方は会津藩や近藤からの誘いを断り、ここへ来るのだろう。夕闇の中、急いでやってくる彼が目にうかぶようだった。
美しい女達を侍らせての宴を断って。
「……」
総司は細い眉を顰め、きゅっと唇を噛んだ。
恋バナです。
可愛くて甘いお話をめざして、もちろんハッピーエンド。
ラストまでおつきあい下さいませね♪
