気がつけば、柔らかく抱きしめられていた。
 一晩中、ずっとこうして抱きしめられていたのだろう。
 それが信じられないほど嬉しくて、総司は男の胸に頬を寄せた。すると、より深く抱きしめられる。
 男の胸の鼓動を感じながら、昨日のことを思い出した。
 本当に、この人と身体を重ねたのだ。愛されたのだ。
 信じられないぐらいだった。まるで夢のようで……


(……ゆ、め?)


 不意に、どきりとした。目を瞬く。
 幸せに酔いしれるあまり、忘れてしまっていたのだ。
 ここは、夢だった。
 夢の中に、自分たちはいるのだ。どんなに実感があるものであっても、それでも尚、決して現ではありえない。
「……っ」
 胸奥が苦しくなった。総司はのろのろと手をのばし、男の胸もとに縋りついた。
 指さきに感じる彼の着物、聞こえる鼓動、伝わってくるぬくもり。みんな、こんなにもはっきりしているのに、なのに。
 これは全部、夢の中の出来事なのだ。現ではないのだ。
「……総司……?」
 不意に、低い掠れた声が耳もとにふれた。しがみついた事で彼を起こしてしまったのか。
 おずおずと見あげれば、黒い瞳が総司を見下ろしていた。もしかすると、震えていたのかもしれない。
 土方は訝しげに眉を顰めた。
「どうした、怖い夢でも見たのか」
 そう言ってから、己の言葉の矛盾に気づいたのだろう。苦笑した。
「いや、夢など見るはずもないか。ここは夢の中だからな」
「……」
 土方の言葉に、総司はより鋭く胸を突かれた。
 まるで念押しされたような気がしたのだ。これは夢なのだと、現ではないのだと。
 それは今の総司にとって、絶望に近い言葉だった。
 夢だからこそ、愛されたのだ、愛してくれたのだ。
 そう捉えることしか出来なかった。


 現の世界で、土方は新選組の副長であり、総司は一番隊組長だ。
 その二人が睦み合うことなど、許されるはずもなかった。
 確かにずっと愛してきたが、恋してきたが、それでも、総司は彼の妨げになるつもりはなかったのだ。
 新選組副長である土方は刃の上を渡るような日々を送っている。彼にはどんな弱みも醜聞も許されなかった。それは当然、土方自身もよくわかっているはずだった。
 愛していると言ってくれたが、それはあくまで夢の世界でのことなのだ。
 現では、そんなこと許されるはずもないのだから。


 黙り込んでいる総司を、土方は不審に思ったようだった。
 なめらかな頬に手をのばし、しなやかな指さきで撫でてくれる。
「本当にどうしたんだ……もしかして、昨日の事を悔いているのか」
「……いいえ」
 総司は小さく首をふった。男の胸もとに身を寄せながら、答える。
「悔いることなどあるはずがありません。ずっと憧れ、恋してきたあなたに抱いてもらえたのだもの」
「総司」
「私は……このまま死んでもいいぐらい、幸せなのです」
「死んでもいいなんて、言うなよ」
 土方は困ったように苦笑した。
「俺もそりゃすげぇ幸せな気持ちだが、おまえと生きたいと願っているぜ。まぁ、それにはまずこの夢から抜け出さねぇとな」
「えぇ……」
 こくりと頷いた総司を、土方は優しく抱きしめてくれた。それに、きつく唇を噛みしめる。


 髪を撫でてくれる、抱きしめてくれる男が、誰よりも愛しかった。
 だい好きな彼だった。
 ずっとずっと憧れ、恋して。
 なのに、ある日突然、殺されそうになって冷たくされた。
 それでも、切なく泣きながらも見つめ、愛してきたのだ。


(私がどんなにあなたを愛しているか、土方さん、あなたは知らない……)


 この想いの深さを、激しさを。
 そして……


「土方さん」
 総司は綺麗に澄んだ瞳で、男を見上げた。彼の肩に手をかけ、そっと唇を重ねる。
 初めての総司からの口づけに、土方は驚いたように目を見開いた。だが、すぐに嬉しそうに笑ってくれる。
「総司、すげぇ可愛いな」
 甘い声で囁き、口づけてくれた。
「好きだ……愛しているよ」
「私もです」
 総司は想いの丈をこめて、囁いた。男の広い背に手をまわし、抱きつく。
「私も愛しています……土方さん、あなただけを」
 この世の誰よりも、ただ一人。
 あなただけを。


 ……狂おしいほどに。












 その日、土方は総司を家に送り届けながら、言った。
「先に、俺だけ戻るよ」
「え?」
 総司は目を瞬いた。
 一瞬、何のことを言われたのかわからなかったのだ。不思議そうに彼を見上げると、苦笑された。
「現のことだ」
「あ……」
「少しここに居すぎたからな、先に俺だけ一度戻る。その後、もう一度ここへ来るから、今度こそ一緒に帰ろう」
 優しく微笑みながら言ってくれる土方に、目を伏せた。少し黙ってから、こくりと頷く。
 土方は総司の細い躰を抱きしめた。
「大丈夫だ……総司、不安がるな」
「土方さん」
「俺がいる。これからは俺がおまえの傍にいて、ずっと守ってやる」
「……はい」
 声が震えた。
 だが、それに土方は気付かなかったようだった。頬に口づけを落とすと、踵を返し、歩み去ってゆく。
 それを見送り、総司は唇を噛みしめた。ゆっくりと家の中に入り、後ろ手に障子をしめきった。


 あと少しの事なのだ。
 これで、ここが本当に自分の夢の中のことなのかが、わかるだろう。
 否、むろん、今でもわかっていた。土方自身が説明してくれたことで、ここが自分の夢なのだと知ったのだ。
 だが、それでも、もしかしたらという思いがどこかにある。
 夢であって欲しいのかさえ、何もわからなかった。
 ただ、確かなことは、あの彼が総司の愛した土方自身だったことだ。
 それだけは深く感じ取っていた。
 ずっとずっと愛してきた彼なのだ。
 その彼を、今、自分は……


 きつく瞼を閉ざした。息をつめ、祈るように何かを口にする。
 何度も何度も、くり返した。
 しばらくの間は、何事も起こらなかった。
 外はいつものように静かな春の日だ。時折、鳥のさえずりが聞こえる。
 いや、違う。
 あれは何だろう。人の足音……? それも酷く急いている。
 荒々しく木戸が開かれ、誰かが庭に入ってくる気配がした。
 障子が開かれた瞬間、振り返った。
「……総司!」
 そこにいたのは、先ほど現へ戻ったはずの土方だった。
「……」
 総司は大きな瞳で見上げた。
 その表情を見た瞬間、理解してしまったのだろう。
 愕然とした表情になると、大股に部屋を横切った。手を伸ばし、総司の肩を掴む。
「総司! おまえ……っ」
「何ですか」
 自分でも驚くほど冷静な声だった。静かに男を見つめる。
 土方は鋭く息を呑んだ。信じられないものでも見るように、その愛らしい顔を見下ろした。
 やがて、掠れた声で問いかけた。
「……やはりそうなのか、おまえがやった事なのか」
 総司は小首をかしげた。
「何を……?」
「現に……戻れない。戻ることが出来なくなった……それは、総司、おまえの仕業なのだろう」
「そうですよ」
 あっけない程、まるでとても簡単で当然な事のように総司は答えた。小さく、だが、花のように甘く微笑んだ。
「私があなたを閉じ込めました。私の……夢の中に」
「──」
 その答えに、土方の目が大きく見開かれた。もしやと思っていても、はっきり告げられた事が衝撃だったのだろう。
「おまえ……!」
「だって、あなたは私を愛してくれているのでしょう?」
 両手をのばすと、男の頬にふれた。背伸びをし、今朝のように自ら口づける。
 だが、今朝と違い、土方は強張った表情で総司を見つめるだけだった。焦りと怒りをうかべた黒い瞳が意図を探るように見つめる。
 それに、くすくす笑った。
「私も土方さんを愛しています。いいじゃないですか、現になんか帰れなくても……ずっと私の夢の中にいればいい」
「……っ」
「土方さん、あなたが悪いんですよ」
 不意に、総司が言った。訝しげに眉を顰める土方に、可愛らしく小首をかしげてみせる。
「私なんかに優しくするから、愛したりするから……だから、こんな事になるのです」
「……」
「あのまま放っておいてくれたら良かったのに。放っておけば、そのうち私は死んだはずです。なのに、あなたは私の夢の中に入って……そして、真実を話してしまった。私を愛してしまった。それが間違いだったのです」
「……それのどこが間違いなんだ」
 低い、感情を押し殺した声で土方は言った。
「おまえを愛したことが間違いであるはずがないだろう。俺はずっとおまえを愛していた、狂いそうなぐらい愛していた。なのに、それがどうして間違いになる」
「私の中にある闇を呼び起こしたから」
 歌うように、総司は答えた。その答えに、土方は僅かに目を細めた。黙ったまま、じっと総司を見つめている。
 そんな彼の前で、ゆっくりと言葉をつづけた。
「あなたは、私の中にある闇を呼び起こしてしまったのです。あなたを独り占めしたい、誰にも渡したくない。ずっと……愛していたい、愛されたい。そう願ってしまう闇を」
「闇ではないだろう、誰かを愛するなら当然の想いだ」
「なら、あなたはこの状況を受け入れられる?」
 総司は無邪気に訊ねた。
「二度と現に戻ることが出来ない。あなたは私の夢の中にずっと居続けるのです。そして、そのうち、あなたも私も……死んでしまう」
「……」
 しばらくの間、土方は押し黙っていた。無言のまま、総司を見つめている。
 やがて、低い声でゆっくりと問いかけた。
「総司、おまえは」
「……」
「おまえは俺と心中することを望んでいるのか」
 答えは返らなかった。
 総司は何も答えなかった。ただ、静かに微笑むと、もう一度、男にくちづける。
「……」
 一瞬だけ、彼の瞳を覗きこむようにしてから、くるりと背を向けた。朝の支度でもするつもりなのか、土間へと降りていってしまう。
 その細い背を、土方は鋭い瞳で見据えた。爪が食い込むほど強く両手を握りしめる。
 どうすることもできない焦燥感に、きつく唇を噛みしめた。












 総司を愛していた。
 幼い頃からずっと愛してきたし、狂おしいほどの想いで見つめてきたのだ。だからこそ、あの時、縊り殺そうとした。他の男に奪われるぐらいなら、この手で殺めてしまいたかったのだ。
 だが、結局は出来なかった。愛しい少年を失うという恐怖に、絶望に耐え切れず、最後の最後で力が抜けた。
 むろん、あれで良かったのだ。
 もしもあの時、総司を殺していたのなら、こうして今、愛しあう恋人になどなれていなかった……。


 そんな事を考えながら視線をあげると、総司がふり返るところだった。彼を見つけたとたん、愛らしい笑顔で駆け寄ってくる。
 純粋で無邪気で、あどけない。
 まるで子どもの頃に戻ったような笑顔だった。
「……総司」
 低い声で呼んだ土方に、総司は足をとめた。不思議そうに小首をかしげる。
 黙ったまま見つめていると、小さく笑った。
「どうしたのですか? 難しい顔をして」
「難しい顔にもなるだろう」
 土方は深く嘆息した。懐手しながら、総司を見下ろす。
「いつまで、俺をここに閉じ込めておくつもりだ」
「勿論、いつまでもですよ」
「総司」
「いつまでも私とあなたは、ここで幸せに暮らしていくのです。それは……現で死んだら、この夢からも去らなければなりませんけど」
「つまり」
 土方は目を細めた。
「死ぬまで閉じ込める……という事か」
「……」
 総司は大きな瞳で彼を見上げ、微笑んだ。白い花のような愛らしい笑顔だ。
 だが、その瞳はどこか感情を読ませない。
 思わず手をのばし、その細い手首を掴んだ。
「総司、おまえは」
「……」
「おまえは、これで本当にいいのか? こんな事がおまえの望んだことなのか」
 心から問いかけたつもりだった。
 だが、総司は何も答えず、ただ彼を見上げているだけだ。
 そんな総司の様子に、激しい苛立ちを覚えた。あしらわれている気がしたのだ。何を言っても無駄だと思った。
 土方は短く舌打ちすると、突き放すように総司の手首を離した。何とかして現へ帰る手段を探そうと、踵を返し、歩き出す。
 その背に、総司の声が飛んだ。
「無駄ですよ」
 ふり返ると、総司は綺麗に澄んだ瞳で彼を見つめていた。二人の視線がからみあう。
「どんなに探しても……見つからない。あなたは私の夢の中から、決して逃れられない」
「……っ」
 ぎりっと奥歯を噛みしめた。
 激しい感情がこみあげたのだ。堪えようとしたが、どうしても抑えることが出来ない。
 それは怒りではなかった。総司に閉じ込められた時から、ずっと胸にあった想いだったのだ。
 土方は総司の元に戻ると、その細い身体を己の胸もとに引き込んだ。きつく狂おしく抱きしめる。
「おまえは……俺を憎んでいるのか」
 目を閉じ、髪に頬をすり寄せた。
「殺そうとした挙句、おまえを冷たく突き放した。挙句、ずっと無視し続けた俺を……おまえは本当は憎んでいるんじゃないのか」
「……土方、さ……」
「おまえは俺を憎んでいるからこそ、この夢の中に閉じ込めた。ずっと閉じ込め続ければ、俺はいずれ死ぬだろう。その事で復讐をしようと……」
「そんな事あるはずない!」
 切り裂くような声だった。
 驚き、見下ろすと、総司が激情に瞳を燃え上がらせていた。なめらかな頬も紅潮し、桜色の唇がわなないた。
「私があなたを憎むなんて、そんな事あるはずないでしょう? 私はあなたしか欲しくないの、好きじゃないの! 土方さんは、わ、私がどんなにあなたを愛しているか、知らないから……そんな……っ」
 ようやく見ることができた、総司の心だった。
 その想いだった。
 総司の瞳に大粒の涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちた。