まるで真珠のようだった。
美しい涙がなめらかな白い頬をこぼれ落ちてゆく。
それを呆然と見下ろしていると、突然、総司が土方の腕の中で身を捩った。男の腕から離れると、両手で顔をおおってしまう。
「……っ」
そのまま声を殺し肩を震わせて泣く総司の姿に、土方は堪らなくなった。愛しい者が泣いている様に、胸奥が苦しくなる。
土方は少し躊躇ったが、再び手をのばした。そっと細い肩に手をかけ、振り向かせようとする。
だが、総司は「いや」と抗った。
「総司、すまん」
思わず謝った。
「俺が酷い事を言っちまった……おまえの気持ちも考えずに、あんな」
「ごめ…んなさい……っ」
不意に、総司が謝った。それに虚を突かれていると、涙でいっぱいの瞳が彼を見上げた。
震える掠れた声でつづけた。
「こんな事して……ごめんなさい。酷い事をしているってわかっています、あなたの命を奪う事になることも皆」
「総司……」
「でも、これしか出来なかったの。あなたが欲しいから、あなたしかいらないから……ずっと愛していたいから」
「愛することなら、現でも出来るだろう」
「だめ……そんなの出来ません」
頑なな表情で総司は首をふった。
「そんなこと許されないから……だって、あなたは新選組の副長で、私は一番隊組長です。愛しあうことなんて許されるはずがない」
「何故、許されないんだ」
意味がわからず、問いかけた。
だが、そうしながらわかっていた。
総司は醜聞を恐れているのだ。
土方と恋人同士になった時、それが公に晒された時のことを考えているに違いない。
確かに、総司との関係は土方にとって最大の弱みだった。彼の弱点が総司であることが明らかになってしまうのだ。
だが、土方はそれを守りきる自信があった。むろん、誰に何を言われてもいい、指弾されようが非難されようが構わない。どんな矢面にも堂々と立ち、総司を守りぬいてやるつもりだった。
もしも、総司を愛する事が罪になるのなら、その身にどんな罰でも受けただろう。
それ程の覚悟で愛したのだ。
だが、それは土方自身の気持ちだった。総司にそれを強制する事は出来ないのだ。。
もしも暴かれた時、辛いめにあうのは受け身の方であることは、確かだった。現で愛しあう以上、二人とも覚悟を決めなければならないのだ。
むろん、総司が弱いという事ではない。儚げで素直で優しいが、総司の中には凛とした強さがあった。
だが、土方はこれ以上、総司を傷つけたくなかったのだ。彼との恋に泣き、絶望し、夢にまで逃げ込んだ総司だった。そんな傷ついた総司の心をこの手で守ってやりたかった。
否、昔から本当はそう願ってきたはずだったのだ。
何からも──己自身からも守ってやりたいと、思ってきた。
なのに。
「……総司」
押し黙っている若者の躰をそっと抱きしめた。
髪に、耳もとに、頬に、口づけながら囁きかける。
「おまえが言いたいことはわかるよ」
「土方さん……」
「確かに、俺たちの恋は現では許されないだろう」
「──」
びくりと総司の躰が震えた。それを宥めるように背に手をまわし、より強く抱きすくめた。
「だが、俺は……そんな事、構わない。誰に非難されても、俺はおまえを愛しつづける」
「……」
「むろん、それをおまえに強いる気はない。これ以上、俺はおまえを傷つけたくないんだ」
「私は……」
総司は何か言いかけた。だが、結局は口を閉ざし、黙ったまま彼の胸もとに顔をうずめる。
しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと言った。
「土方さんは……私に腹がたつ?」
「……」
「こんな夢の中に閉じ込めた私に、怒っている?」
子どものように訊ねてくる総司に、思わず苦笑した。
怒っていないはずはないのだが、それでも、こんなふうに不安そうに尋ねられたら、応と答えられるはずもない。
「もう怒っていねぇよ」
「うそ」
「嘘じゃねぇさ。ただ……まぁ、困ってはいるな」
「困っているの……ですか」
「あぁ」
土方はくっくっと喉を鳴らし、総司のなめらかな頬に口づけた。
大きな瞳で見上げてくる総司が愛おしい。己の命などくれてやっても構わぬと思ってしまうほどに。
「すげぇ困っている。どうやって、おまえを連れて戻ろうかとそればかり考えているからな」
「……」
男の答えに、総司は長い睫毛を伏せた。きゅっと唇を噛みしめる。
また泣きそうな表情になっていた。だが、ここから彼を逃がすつもりはないようだ。その証に、どんなに土方がそれを望んでも、全く何も変わらない。
ただ念じるだけでよかったのだ。現に戻りたい、と。
そう願うだけで、戻ることが出来た。それは驚くほど簡単な事で、だからこそ、重大な問題を孕んでいたのだ。
総司が一度としてそう願った事がないという事実だった。一度も願った事がないからこそ、現に戻ることがないのだ。
そんなにも、総司にとって現は辛く悲しい場所だったという事であり、それは土方にとって衝撃だった。挙句、そうさせたのが己自身だと知った以上、罪悪感に苛まれずにはいられない。
いったい、俺は何をしてきたのかと、己を幾度も責めたのだ。
だからこそ、総司に強いることが出来なかった。どうしても強く出ることが出来ない。
どんなに苛立っても、結局は総司の思うままにさせてしまうだろう事は、よくよくわかっていた。己の命などくれてやっても構わぬのだ。
土方が現に戻りたいと願うのは、総司を死なせたくないが為だった。今度こそ、総司を幸せにしてやりたかったのだ。
すべて、総司のためなのだ。
(だが、諦めるしかないか……)
土方は目を伏せ、総司の髪をそっと撫でた。
このまま、総司の夢の中に閉じ込められ、やがては死んでいく。それを総司が心から望んでいるのなら、いっそ叶えてやりたかった。
ここは二人だけの桃源郷だ。夢の世界だ。
愛することも、抱きあうことも、何もかもが優しく許される。
罪も罰も存在しないこの穏やかな世界で、静かに愛しあってゆけばいい。
いつまでも、永遠に。
総司を抱きしめ、土方は瞼を閉じた。
腕の中の恋人が、かなしいほど愛しかった……。
幸せになりたいと願うことが罪なのだろうか。
否、罪ではないはずだった。
だが、一方で、己が犯した罪もよくよくわかっていたのだ。
「……私は最低だ」
総司は掠れた声で呟き、両手で顔をおおった。
以前、来たことがある小料理屋だった。
土方が初めて連れてきてくれた場所だ。庭を眺めながら、様々なことを話した思い出の場所。
考えてみれば、あの頃も、土方は現の彼そのものだったのだ。何もかもわかった上で、総司に優しく笑いかけてくれていた
(……土方さん……)
今日はこの小料理屋で落ち合うことになっていた。
文が来て誘われたのだ。
総司が訪れてみると、土方はまだ来ていなかったが、話は通してあったため前と同じ奥の部屋へ通された。離れのような部屋であるため、表の喧噪はまったく届いてこない。
総司はあの日と同じように縁側に座り、庭を眺めていた。
柔らかな春の陽だまりが身体を包み込む。とても良い天気だった。そう言えば、この世界に来てから雨が降ったこともない。
それは総司が望んでいないからなのか。
だが、夢の中でも己の思うままになる事もあれば、全く思い通りにならぬ事もあった。確かに、普通の夢であってもそうなのだ。何もかも自分の思い通りになる訳ではない。
だが、強く願うことは、ほとんど叶えられるようだった。
愛する男の命を奪うことさえも。
土方は相変わらず現へ戻るための手段を探しているようだった。
むろん、彼の真意はわからない。総司の元へ来ない時、いったい何をしているのか。会津の本陣にいる事は確かなのだが、それでも、総司は土方に何も訊ねようとは思わなかった。
夢の中にとどめ、逃がさないように閉じ込めて。
それだけでも、あの挟持の高い男の気持ちをどれ程傷つけたか。その上、束縛したり詮索することなど出来なかった。
むしろ、土方が激昂しない方がおかしいのだ。
江戸にいた頃から、挟持の高い男だった。質素な着物を纏い、遊びまわり奔放に振る舞っていても、彼にはどこか凛としたものがあった。何者にも汚されぬ誇り高さ故に、総司は彼を愛したと言えるだろう。
その挟持の高い彼が、こんな夢の中に閉じ込められて黙っている事自体がおかしかった。
納得したとは到底思えないのだ。
あの日、黙りこんでしまった総司に、土方も何も言わなかった。無言のまま抱きしめてくれていたのだ。だが、それでも、土方が納得できるはずもなかった。
土方にとって、最も大切なものは己の夢だった。新選組だった。
ここで己が死ねば新選組が瓦解することは、よくわかっているのだ。なのに、こんな身勝手な若者一人のために、すべてを失うなど堪えられるはずもなかった。
もしかすると、今は愛するどころか、本気で殺してやりたいと思うほど憎まれているかもしれない。
否、本当に愛してくれていたのか、それさえもわからないのだ。
ここは現ではないのだから。
どんな事も許される、夢の中だから。
(ここは夢。だからこそ、あなたは私を愛した……)
……そう。
夢の中だからこそ、愛されたのだ。
「……」
総司は涙に潤んだ瞳で、空を見上げた。青く澄んだ空が広がっている。
むろん、そんなふうに思いたくなかった。
土方が告げてくれたとおり、ずっと昔から愛されていたと信じたかった。
だが、どうしても心から信じることが出来ないのだ。
自分にそれだけの魅力があると思えない事も理由の一つだったが、それ以上に、ずっと長い間、土方に無視され冷たく拒絶されてきた過去が尾を引いていた。
可愛がられ、甘やかされ、愛されていると信じていたあの頃。なのに、突然、手のひらを返したように冷たく突き放されたのだ。
愛していた故の行為だったと聞かされた今でも、あの時の傷は癒えていない。幼かったからこそ、きつかったのだ。彼がつけた傷は今なお、血を流し続けている。
そのため、どうしても、彼を信じることができなかった。否、信じることが怖いのだ。
もしも、また冷たくされたら?
偽りだと言われたら?
使いやすい駒として必要であるからこそ、連れ戻すために嘘をついたのだと冷笑されたら?
今度こそ、この胸は張り裂けてしまうだろう。堪えられないに違いない。
怖いのだ、彼に愛されていなかったと知ることが。すべてが偽りだったと言われることが。
……土方の立場を思ってなど、嘘だった。
二人の仲が醜聞になっても、そのために二人窮地に立たされても指弾されても、本当は構わない。彼に愛してもらえるなら、彼を愛することが出来るなら、怖いものなど何もなかった。
だが、もしも……その愛が偽りだったなら? 夢から覚めたとたん、突き放されたら?
そう思うと、身内が震えるほど恐ろしかった。
誰に何を言われても構わない、どんな事をされても傷つかない。
だが、土方からの傷だけは別なのだ。彼にだけは、もう二度と冷たくされたくない。
あんな想いは二度としたくない。
(……土方さん……)
総司はきつく目を閉じた。
その時だった。
きな臭い匂いに、はっと我に返った。慌てて立ち上がりふり向けば、遠く悲鳴が聞こえてくる。
「火事……?」
庭の方をふり返ってみたが、そこは高い塀に囲まれている。また、その高い塀の向こうには紅蓮の炎が見えた。どうやら、この小料理屋が火元ではなく、町の何処かから火の手があがったようだった。
「……っ」
総司は唇を噛みしめると、母屋の方へ戻り始めた。そこから逃げるしかないのだ。
不思議なことに、叫び声や怒号が遠く聞こえるのに、誰の姿もなかった。やはり、これは夢だからなのか。ならば、死ぬ訳がないと思いつつ、もしかしたらと考えた。
(このまま逃げられなかったら、現の私も……?)
(私も……死ぬ……?)
気がつけば、足がとまっていた。
小さく、そっと微笑んだ。
その方がいい……と、心底思ったのだ。
いっそ、その方が良い。救われる。
自分が死んでしまえば、土方はきっと現の世界へ戻ることが出来るだろう。こんな自分から解放され、また力強く生きてゆくことが出来る。
己の身勝手さゆえに、愛しているがために、この夢の中に閉じ込めてしまったが、それでも、彼の命を奪うことはどうしても出来なかった。
最後の最後で、その手を離そうと決めていたのだ。
もしかすると、この火事はそんな総司の想い故に起こったのかもしれなかった。ならば、その運命を受け入れた方がよいのだ。
総司は火が迫る中、佇み、静かに瞼を閉じた。
……彼だけを愛している。
ずっとずっと見つめ、愛してきた。
冷たくされても、二度と話しかけても笑いかけてももらえなくなっても。
それでも、好きだった。
哀しいくらい、愛していたのだ。
この世でただ一人、彼だけを……。
「──総司ッ!」
不意に、男の鋭い声が想いを引き裂いた。
総司は驚き、目を見開いた。白い煙の向こうから男の声が聞こえたかと思うと、突然、土方が目の前に現れたのだ。
呆然と見上げる総司に、土方は走り寄った。手をのばし、腕を掴んでくる。
「何を突っ立っているんだ。早く逃げろ」
「土方さん」
乱暴に引きずっていこうとする土方に、総司は反射的に抗った。身を捩り、彼の手から逃れる。
土方はふり返り、眉を顰めた。
「総司、何をしている」
「逃げません」
「……」
「私は逃げません。あなただけ、逃げて下さい」
「馬鹿野郎! 何を言ってやがる」
土方はもう一度総司の腕をつかみ、荒々しく揺さぶった。
「莫迦なことを言うんじゃねぇよ。おまえは、こんな所で死にたいのか」
「えぇ、そうです」
総司は静かに答え、澄んだ瞳で愛する男を見上げた。
その決意にみちた表情に、土方は息を呑んだ。