「え?」
 翌日訪ねてきた土方の誘いに、総司は驚いた。
 珍しく土方は騎乗姿で現れたのだ。ひらりと敏捷な動きで飛び降り、庭先の樹木の枝に手綱を投げる。
 その流れるような仕草に思わず見とれてしまった。
 まるで一幅の絵のようだと思ったのだ。
 馬に乗るためか、土方は黒い着物に袴姿だった。着流している姿も粋で良いが、袴姿もよく似合う。


 現でも、総司は、黒谷屋敷へ出かけていく土方の正装姿に、よく見惚れたものだった。
 もともと土方は端正な顔だちと、引き締まり均整のとれた長身をもっている。容姿端麗と言ってもよい姿なのだが、江戸の頃はやはり質素な着物姿が多かった。
 だが、新選組副長となり、その地位に応じた装いをするようになって、彼の中に元来あった男の艶に磨きがかかったのだ。
 一見すれば細身に見えてしまうほど、着痩せする身体つきだ。
 だが、鍛えぬかれた身体は無駄なく引き締まり、しなやかな美しい肉食獣のようだった。艶やかな黒髪や黒い瞳に、白い襟元と黒の羽根二重がよく映えた。
 正装姿の彼は、うっとりするほどの端麗さで総司の心を強く惹きつけたものだった。


 土方は敏捷な足取りで庭に入ってくると、総司に微笑みかけた。
「たまには遠乗りでもしねぇか」
「え?」
 総司は目を瞬いた。
 馬で遠出など、まったく考えてもみなかったのだ。
 呆気にとられていると、土方は優しい声で言った。
「綺麗な花が咲く寺を知っているのだが、少し遠くてな。泊まりがけで行った方がいいかと思っている」
「泊まり……ですか」
 思わず戸惑う総司に、かるく喉を鳴らした。
「そんな警戒しなくても、いきなり襲い掛かったりしねぇよ」
「な、何もそんな……っ」
 頬が熱くなった。
 確かに、土方と総司は恋人になったが、まだ契りは交わしていない。くちづけだけの関係なのだ。しかも、そのくちづけも記憶で断ち切られていた。
「……」
 総司はゆるく首をふり、その考えを押しやった。大きな瞳で土方を見上げる。
「じゃあ、支度をしてきますから、ちょっとだけ待っていて下さいね」
「あぁ」
 頷いた土方を庭に残し、総司は急いで家へ入った。手早く荷物を取り出して纏めると、彼の元に戻る。
 土方は掛けていた手綱を外すと、鐙に足をかけた。ひらりと敏捷な動きで飛び乗り、総司を見下ろした。「ほら」と手をさし出してくる男に、目を瞬く。
「え、私……前に乗るのですか」
「あたり前だろう」
「でも、それじゃ……」
 まるで娘のようだと思ったが、彼の後ろに乗ることも恥ずかしいかもしれないと思った。
 何しろ彼に後ろから抱きつく他ないのだ。
 それに、考えてみれば、子供の頃、土方に馬に乗せてもらった事があるのだ。その時も、男の逞しい両腕に抱え込まれるようにして、前に座らされていた。あの時のぬくもりと幸せな気持は今でも強く覚えている。
 総司は歩みより、躊躇いがちに手をさし出した。土方が軽く身をかがめ、その腕で総司の腰を救い上げるように抱く。
 ふわりと身体が浮いたと思った次の瞬間には、馬の鞍上に乗せられていた。
「しっかり掴まっていろよ」
 そう言うと、土方は手綱を慣れた手つきで捌いた。ゆっくりと馬を走らせてゆく。
 しっかり掴まっていろと言った割には、それほど早い走らせ方ではなかった。やはり腕に抱いている総司を気遣っているのだろう。
 だが、当然、歩くよりはずっと早い。
 色々な事を考えているうちに、馬は京の街を抜けて郊外に出た。春らしく鮮やかな新緑に色どられた山々が美しく、思わず見とれてしまう。道端に咲いている花も愛らしかった。
 この世界に来てからこんなにも遠くに来たのは、初めてのことだった。
 否、現でもなかったことだ。総司の世界は京の町中だけに限られ、そこは苦しみと切なさと絶望だけに満たされていた。
「……」
 黙りこんでしまった総司を、土方は訝しく思ったようだった。眉を顰め、覗きこんでくる。
「どうした」
「何でもありません」
「それが何でもないって顔か。さっきまではしゃいでいたのに、今は憂い顔だ。何かあったのか」
「何もないのです。ただ……色々と考えただけです」
 そう言った総司に、土方は僅かに目を伏せた。手綱を握ったまま、そっと背中から抱きしめられる。
「おまえは考えすぎるのかもしれねぇな」
「え?」
「今のことだけを考えろよ。この美しい春を、俺との遠乗りだけのことを考えていればいい。他のことは忘れちまえ」
「忘れる、ことなんて……」
 出来るはずがなかった。
 だが、一方で彼の言葉どおりだとも思うのだ。


 どうして、この春を楽しんではいけないのだろう。
 今、ここにある幸せだけを見つめていた方が、ずっといいに決まっているのだ。
 現のことなど考えても、今更どうすることも出来ないのだから。
 時は戻せないし、彼と再びやり直せるはずもない。例え、もし今、現に戻ることが出来たとしても、何一つ変わらないのだ。また、あの冷たく辛い日々が続いてゆくだけの事だった。
 否、それどころか、今の自分は彼に殺されかけた事までも思い出してしまった。それ程までに憎まれていたのかという絶望が、胸の内を覆っている。
 以前よりもっと辛い気持ちに苛まれることは確かだった。
 ならば、この世界にいる方がずっと幸せなのだ。


「……そう、ですね」
 総司は小さく頷いた。そっと彼の逞しい胸もとへ凭れかかる。
「この春のことだけを考えていた方がいいですね」
「……」
「その方がずっと幸せだし、とても楽です」
「あぁ、春だけでなく、俺との遠乗りのこともな」
 くすっと悪戯っぽく笑いながら答える土方に、総司は思わず笑ってしまった。それに、土方がぱっと嬉しそうな表情になる。
「すげぇ可愛いな」
 手綱を握ったまま、ぎゅっと後ろから抱きしめられた。
「おまえの笑顔も、鈴を転がすみたいな笑い声も、すげぇ可愛いよ。俺はおまえが本当に好きだ」
「土方さん……」
「そろそろ目的の寺だ。あの寺の花がとても美しいと聞いて、おまえを連れてきたいと思ったんだ」
 土方がさし示した寺は、とても小さなひっそりとしたものだった。
 だが、とても小奇麗に整えられ、きちんと人の手も入っているようだ。
 馬を停めると、土方は先にひらりと飛び降りた。先程も思ったが、本当に少年のように敏捷な動きだ。ぼんやり見とれていると、土方は笑顔で「ほら」と両手をさしのべてきた。
「お、降りられますよ」
「無理するな。それに、俺が自分の手で下ろしてやりたいのさ」
「……」
 総司は熱くなる頬を感じながら、土方の手に身をゆだねた。柔らかく優しく抱き降ろされる。
 馬の手綱をしっかりと樹木の枝に結びつけると、土方は総司を連れて寺に入った。
 他に人気は全くない。人が住んでいる寺ではなく、通いで手入れをしているようだった。
 だが、とても柔らかで美しい花がたくさん咲いている。
「綺麗……」
 思わず呟いた総司に、土方は微笑んだ。そっと総司の肩を抱き、花の中を歩いてゆく。
 二人は時折言葉をかわしながら、ゆっくりと寺の中を散策した。
 寺の本堂自体は小さいが、意外と境内は広くつくられている。
 その中で一箇所、白い花がこぼれるように咲いている場所があった。
 総司は思わず手をさしのべ、そっとふれた。
「これは……」
「雪柳だな」
 傍らから、土方が静かに答えた。総司と同じように手をのばし、しなやかな指さきで白い花にふれる。
「雪のように真っ白な花だろう」
「えぇ」
 こくりと頷いた総司に、土方は言葉をつづけた。
「おまえは……これが昔から好きだった」
「え……?」
 総司は目を瞬いた。何を言われたのか、意味がわからなかったのだ。
 ぼんやりとした表情で、彼を見上げる。
 そんな総司の前で、土方は目を伏せ、微かに笑った。
「昔、この花の枝が欲しいとせがまれた事があったな」
「……」
「俺が取ってきてやると、おまえは花のような笑顔で、歳三さん、ありがとうと言ったんだ」
「……っ」
 総司の目が大きく見開かれた。
 思わず、後ずさってしまう。少しでも彼から離れることが出来るように。
 震える唇が、「まさか」という言葉を形どった。信じられない、信じたくないという表情で、彼を見つめる。
「……」
 土方はゆっくりと向き直った。切れの長い目がまっすぐ総司を見つめる。
 彼の冷たく澄んだ黒い瞳を見た瞬間、総司は何もかもわかった気がした。
 すべての真実が明るみに引きずり出され、晒される様をまざまざと目のあたりにしたのだ。
「!」
 反射的に身をひるがえそうとした。
 だが、それは許されなかった。素早く男の手がのび、その腕を掴んで引き寄せたのだ。
 華奢な身体つきである総司は、まるで娘のように男の逞しい腕に抱きすくめられた。どんなにもがいても、逃げることなど出来ない。
「いや……っ!」
「総司」
 突然の出来事に怯え、混乱しきっている総司に対し、土方は落ち着き払っていた。喉奥で低く嗤うと、桜貝のような耳元に唇を近づける。
「……そんなに俺が嫌か」
「は、なして……っ」
「俺があの新選組副長である土方歳三だとわかったとたん、逃げ出そうとするのか。それ程、俺は見るのも穢らわしい疎ましい存在なのか」
 男の声音は低く、そして凄みを帯びていた。
 どこか哀切さえ感じさせる響きがあったが、混乱した総司にはわかるはずもない。
 必死に男の肩や胸に両手を突っぱね、逃れようとした。
 だが、その細い身体はより強く男の両腕に抱きしめられてしまう。
「離さない、逃がさねぇよ……総司」
「いや……いやぁ」
「夢の中へ逃げこんでも、無駄なことだ。俺は決しておまえを逃さない」
「どう、して……っ」
 総司の目が見開かれた。
 何もかも、理解できなかった。
 男の言葉も、どうして今、ここに彼がいるのかさえも。
 暗い闇が総司を襲った。ふっと意識が途切れてゆく。
 夢から醒めるのかと思った。彼はそれを望んで、連れ戻すためにやってきたのか。


(……土方…さん……)


 誰よりも愛しい男の名を呼んだ次の瞬間、総司は気を失った。












 ……彼は、これを夢だと言った。
 もしもそうであるのなら、こんなにも実感できる夢があるのだろうか。
 髪に頬に。
 彼のしなやかな指さきがふれるのを感じた。
 まるで、先ほど雪柳の白い花びらにふれていた時のようだ。


 ゆっくり目を開くと、端正な男の顔が視界に入った。
 つややかに結い上げあげられた黒髪。切れの長い目に、黒い瞳。形のよい唇。
 だが、その唇が告げたのだ。
 現と夢の境を超えて。
「……」
 土方は視線があったとたん、ほっとしたような表情になった。
「よかった……気がついたか」
「……」
 総司は何も答えられなかった。黙ったまま、土方を見つめている。
 いつの間に運ばれたのか、そこはあの寺ではなかった。見たこともない部屋の中に寝かされている。どうやらそこは宿屋のようだった。
 むろん、未だ夢の中にいることは確かだ。自分が目覚めるとしたら、屯所の部屋以外にないのだから。
 訝しげな表情になったのだろう、土方がすぐに説明をしてくれた。
「幸い、あの近くに宿を見つけたのさ。離れしか空いていなかったので、ここに運んだのだが」
「そう……ですか」
 こくりと頷いた総司は身を起こしかけた。すると、土方が傍らに寄りそい、手を背にそえてくれる。


 現の時とはまるで違う優しさに、先ほどの事が幻だった気がした。
 ここにいるのは、新選組のことも二人の確執も何もかも知らない会津藩士の彼なのだと、信じてしまいそうで……


「……今にも消えてしまいそうだな」
 低い声で、土方が呟いた。
 それに、はっと我に返り、彼を見上げた。
 視線がからみあうと、土方は唇の片端だけをあげて皮肉げに笑った。その冷たい笑いに、あぁ、ここにいるのはやはり彼なのだと思い知らされる。
 呆然と見ていると、土方は肩をすくめた。
「どうした、まだ信じられねぇか。俺が新選組の土方だということが」
「信じるとか信じないとかじゃなくて……」
 総司は視線を落とし、ぎゅっと褥を握りしめた。
「どうして、あなたがここにいるのか、わからないのです。いったい、いつから入れ替わっていたのか……」
「入れ替わってなんかいねぇよ」
 肩をすくめ、あっさりと答えた。
「俺は初めから、俺だったのさ。会津藩士としておまえの前に現れた時からな」
「え……」
 総司の目が見開かれた。桜色の唇がわななく。
 脳裏を、あの時の会津軍の入京の光景、ゆったりと馬に跨っていた男の姿がよぎった。あの桜の花びらが散る中で見た光景は、今も総司の胸に焼き付いている。
 だが、ならば、あの時から、彼は「彼」だったというのか。
 戸惑う自分に対し、土方はわかっていながら会津藩士として振る舞っていたのか。
「そん、な……」
 ゆるゆると首をふった。
「私を……騙しのですか」
「……騙した、か」
 一瞬、形のよい眉が顰められた。彼を怒らせてしまったかと身をすくめたが、土方は小さく苦笑しただけだった。
 髪を片手で煩わしげにかきあげながら、呟く。
「まぁ、確かに騙したと言われれば、反論できねぇな。俺はおまえをずっと欺いてきたし、嘘もついてきた」
「で、でも」
 総司はある事に気付き、慌てて身を乗り出した。
「そんな事あるはずないでしょう? 毎日、あなたは私のもとへ来てくれたし、長い時を一緒に過ごしてもくれました。あんなに仕事で忙しいあなたが、そんな時をとれるはずがない。新選組副長の多忙さは私もわかっているのです」
「時の流れが違うのさ」
 土方は黒い瞳で総司を見つめ、答えた。
「現の時の流れに比べ、この夢の中は異常なほど早いんだ。つまり、現の半刻が二日程度になっている。おまえが倒れてからも、現では二日も過ぎていない事になるんだ」
「二日……」
 総司は呆然と目を見開いた。ここではもう桜が散ってしまっているので、一月以上もの時が流れている事になる。だが、そうして時の流れが違うからこそ、土方は毎日のように訪れてくる事が出来たのだろう。
「初めはそれがわからなくてな。仕事の合間におまえの部屋を訪れては、夢の中へ入っていたのだが、少し時をあけたとたん、おまえに不安がられてしまった」
「あ」
 以前、急に訪れてくれなくなった男に不安を覚え、会津藩本陣を訪れた時のことだ。
 あの時、確かに彼はこう言っていた。
 「まさか、そんなに時が経っているとは思わなかった」と。
 ならば、土方はずっと彼自身だったのだ。むしろ、今まで疑問に思ってきたこと全てが符に落ちた気がした。好きにならずにいられないのも当然なのだ。
 何故なら、この人はずっと憧れ、愛しつづけてきた人なのだから。
「……」
 総司はきつく唇を噛みしめ、土方を見上げた。それから、静かな声で問いかける。
「副長は……私を連れ戻しに来たのですか」
「……」
 役職で冷たく呼びかける総司の姿に、土方は眉を顰めた。だが、押し黙ったまま総司を切れの長い目で見つめている。
 その男にむかって、言葉をつづけた。
「私が一番隊組長として役に立つから、まだまだ使える駒だから、連れ戻しに来た。そうではないのですか」
「……そうだな」
 土方はゆっくりと低い声で答えた。
「確かに、俺はおまえを連れ戻しに来た。このままでは死んじまうからな」
「じゃあ……」
「だが、その理由は違う。おまえが一番隊組長だとか、役に立つとか、そんなことは何も関係ねぇんだ」
「……」
 意味がわからぬという表情で、総司は土方を見上げた。それに、土方は手をのばすと、なめらかな頬を手のひらで包み込んだ。
 そして、静かな声で答えたのだった。
「俺はおまえを愛している。だから……迎えに来たんだ」
















次、お褥シーンがあるので、苦手な方はご注意下さいね。