私は何を求めているのだろう。
 翌日、総司は寺小屋の後片付けをしながら、考え込んでいた。


 あの辛い現から逃げ出すために、ここへ来たはずだった。気が狂いそうほど愛しい男から逃れるために。
 なのに、ここで再び、彼の映し身のような男と出会い、好きになって、恋人となった。
 だが、それは総司が本当に求めていた事なのだろうか。
 もちろん、わかっている。ここは現とは違うのだ。
 新しい関係を築き上げ、暮らしていくことは総司にとって幸せであるはずだった。
 あんな辛くて切ない現で泣きつづけるより、余程よい。
 その証に、この世界に来てから、総司はずいぶん穏やかに過ごせるようになっていた。
 土方の映し身としか思えぬ彼と出会い、親しくなったことは、その穏やかな幸せをより深めた。
 なのに、どうして、こんなにも不安なのか。揺れてしまうのか。


「私は……我儘なのかな」


 どうしても思ってしまうのだ。
 彼は、あの人ではない、身代わりにしているだけなのだと。
 それは彼に対しても酷い仕打ちだった。
 土方は忘れるまで待つと言ってくれたが、そんな事あるはずがないのだ。
 この胸奥にある彼への想いが消えることは、永遠にありえない。
 それがよくわかっているくせに、土方の傍にいたいと望んでしまう自分はなんて身勝手なのか。


 ため息をついた総司は、庭先で鳴った音に顔をあげた。振り返ると、木戸を開けて土方が入ってくる処だった。
 視線があうと、優しく微笑みかけてくれる。それに胸が詰まった。
 現では決してあたえられない笑顔に、彼が彼でないことを思い知らされた気がしたのだ。そうである事は当然であるのに。
「近くまで来たので、寄らせてもらった」
 そう言って縁側に腰掛ける土方に、総司は慌ててお茶の用意をした。運んでゆくと、土方は少し眩しそうな表情で空を見上げていた。
 優しく穏やかに晴れ渡った青空だ。淡い青の色合いがとても綺麗だった。
「土方さん?」
 傍に総司が寄っても視線を移さない彼に不審を覚え、そっと呼びかけた。何かあったのかと思ったのだ。
 だが、それに土方は「……あぁ」と夢から醒めたように答えると、切れの長い目を総司にむけた。風が乱してゆく黒髪を片手でかきあげる。
「いい天気だなと思ったんだ」
「そう、ですね」
「空がとても綺麗でやさしいな。本当に……癒される気がするよ」
 彼の言葉どおりだった。
 この世界はどこまでも優しく、穏やかだ。包み込むような心地よさに、総司も癒やされていた。
 同じ思いでいると告げてくれた土方が愛しくて、総司はより身を寄せた。
 少しでも身体を近づけることで、心を近づけたいと願ったのだ。むろん、現では決して叶わぬことだった。心どころか、身体さえも近づくことは許されなかったのだ。
 身を寄せた総司に、土方も気づいてくれたようだった。小さく笑うと、肩を抱きよせる。
 男のぬくもりに陶然となった。彼とは違うとわかっていても、それでも、彼のぬくもりに、匂いに、ふれる髪や指さきに、うっとりと目を閉じてしまう。
 土方がくすっと笑った。驚いて目をあげると、悪戯っぽい表情で覗きこまれる。
「そんな顔をするなよ、煽られちまうだろうが」
「煽られる……?」
「この前話したことだよ。実感がなくても、俺はおまえの恋人だ。色々したくなっちまって当然だろう?」
「あ……」
 総司は頬を染めた。
 だが、すぐに気持ちを決めると、細い指さきで男の胸もとを掴んだ。大きな瞳で見上げる。
「して……下さい」
「え?」
「だから、その色々……して」
 小さな声だったが、それは男の耳に届いたようだった。一瞬、目を見開く。
 だが、不意に、すっと目を細めた。端正な顔だちに酷く怜悧な表情がうかべられる。
「……」
 男の表情に、総司は微かに息を呑んだ。
 怜悧なまなざしが、現の彼と重なったのだ。思わず身をひいてしまったのかもしれない。
 己の腕の中の恋人が怯えるさまを感じとったのだろう、土方は僅かに眉を顰めた。そして、一瞬だけ目を伏せると、柔らかく微笑いかけた。
「そんな怖がらなくても、いきなり襲い掛かったりしねぇよ」
「こ、怖がってなんか……」
「口づけても……いいか?」
 直接的な問いかけに、総司は目を見開いた。ぱっと頬を熱くすると、大急ぎで頷く。
 彼の気が変わらぬうちにと思ったのだ。
 目を閉じると、頬を男の大きな手のひらで包みこまれた。初めは優しく、そっと重ねられる。一瞬、びくりと総司の身体が震えたが、それを宥めるように土方は手のひらで背中を撫でた。
「……好きだ、愛してる」
 甘く艶のある声が耳もとに囁きかける。
 そのまま深く唇を重ねられた。初な総司にするには少し濃厚すぎるほどの激しい口づけだ。
 だが、それに総司は抗わなかった。
 否、抗うどころではなかったのだ。


(……な、に……? 私……)


 身体が震えた。
 目の前にいる男が、自分を抱きしめてくれる男が、怖くて怖くてたまらなくなる。
 彼から与えられる口づけは、総司の奥にある何かを無理やり引きずりだそうとしていた。それは黒くて重く、苦しいものだった。総司がずっと目を背け、己の心の奥深くに隠しつづけてきたものだ。
「……っ」
 思わず身をよじった。とたん、彼の腕から解放される。
 震えながら見あげれば、土方は暗い情念を湛えた瞳で、総司を見つめていた。熱っぽく、だが、どこか狂おしいまでの激しさを感じさせる瞳。
 それを、いつかどこかで見たことがあった。


(私は……この瞳を見た。あれは……)


 総司はのろのろと両手で唇を覆った。
 思い出したくない何かが、心の奥底から突き上げてくる。
 否、もうわかっているのだ。あれがいつの事だったか、どこでの出来事だったか。
 自分が、彼にされた何もかもを───


(……土方…さん……!)


 次の瞬間、総司は気を失った。
 抱きとめる男の腕の中で……。












 宗次郎が十三の年を数えた頃だった。
 その話は突然、持ち上がったのだ。
 宗次郎を養子にと、ある武士が申し出てきた。身分も申し分がなく、ゆくゆくは己の跡継ぎとして家を継がせたいという言葉に、周囲は喜んだ。近藤などは、これで宗次郎の身がたつと喜び、早く養子縁組をするよう勧める程だった。
 むろん、歳三も祝福してくれた。彼特有の笑顔で、いい話じゃねぇかと言ってくれたのだ。
 だが、宗次郎自身は迷っていた。
 確かにいい話だという事はわかるが、どうしても気持ちが動かなかった。その理由もわかっていた。
 理由はただひとつ、歳三だった。
 ずっと憧れてきた兄代わりの彼から離れるのが、辛かったのだ。宗次郎の中に小さな恋心が芽生えはじめた頃だった。好きという気持ちさえわからぬまま、ただ初めての恋に夢中になっていたのだ。
 そんな時に突然起こった話。どうしても、それを受けることが出来ず、結局、宗次郎はその話を断った。
 道場の裏手で歳三と逢った時、問いかけられた。何故、断ったのかと。
 曖昧に誤魔化そうとしたが、それで納得してくれる相手ではなかった。
「いったい何故なんだ」
 歳三は形のよい眉を顰め、問いかけた。
「何が気にいらなくて、あんないい話を断っちまったんだ?」
「理由……なんてありません」
「嘘つけ、そんな事があるものか。何か理由があるのだろう、もし気にいらねぇ事があるなら俺がかけあってやってもいいんだぜ」
「……そんなに」
 彼が憎らしくなった。
 そんなにも自分を追い出したいのかと思ってしまったのだ。
 あの武士の養子になってしまえば、二度と会えないかもしれない。なのに、彼はそれでも構わないのだろうか。
 否、そうなのだろう。
 歳三にとって宗次郎はただの弟代わりにすぎなかった。手放したくないなどと思ってくれるはずがない。
 だが、宗次郎は違うのだ。
 歳三が好きで好きでたまらないのだ。
 一瞬でも引き離されることが辛いぐらい、一瞬でも長く彼の傍にいたいと願ってしまうほどに。
 なのに、そんな気持ちも知らないで、彼は平気で言うのだ。
 残酷な言葉を。
「……っ」
 宗次郎は桜色の唇を噛みしめると、大きな瞳で歳三を見上げた。
 そして、はっきりとした声で言った。
「私、好きな人がいるのです」
 少し声が震えた。
「その人と離れるのが嫌で、それで、養子になりたくなかったのです」
「……好きな奴?」
 歳三の目が見開かれた。呆気にとられた顔になり、それから、小さく笑った。
「あぁ、お菜津のことか」
 お菜津とは道場の近所に住んでいる娘だった。娘と言ってもまだ十三だ。宗次郎の遊び友達のようなものだった。
 そのお菜津のことが好きだと言っている、可愛らしい恋心だと思ったのだろう。歳三の苦笑にはそんな色合いがあるのを見てとった瞬間、宗次郎の頭の奥がかっと熱くなった。


 何も知らないくせに。
 私がどんなにあなたを好きか、愛しているか。
 全部、何も知らないくせに……!


「お菜津ちゃんではありません」
 きっぱりと言い切り、宗次郎は言葉をつづけた。
「相手は、男の人ですから」
「……」
 今度こそ、歳三は驚いたようだった。驚愕の表情で宗次郎を見下ろしている。
 それに恥ずかしくなり、視線をそらした。
 しばらくの間、歳三は黙りこんでいた。
 だが、やがて、聞き出さなければと思ったのだろう、低い声で問いかけた。
「男……だって? それは本当なのか」
「はい……」
「まさか、おまえが。いや、子供のおまえがそんな事あるはずねぇだろう」
「どうして?」
 宗次郎は顔をあげた。
「私だってもう十三ですよ! 男の人を好きになる事だって、あり得るでしょう? 念兄弟になったら、くちづけも契りをかわすことも……っ」
 途中で言葉が途切れた。
 歳三の顔色が変わったのを見たのだ。
 否、端正な顔から拭いさられたように表情が消えた。
 夕暮れ時の茜の日差しの中、端正な顔はぞっとするほど美しく見えた。
 切れの長い目が細められ、黒い瞳はまるで獣のような獰猛な光を宿していた。やがて、形のよい唇から、掠れた低い声がもれた。
「くちづけも、契りも……?」
「……」
「なら、おまえはその男のものになっちまったのか」
「……あ」
 今更、違うなどと言える状況ではなかった。喉奥がからからに乾く。
 黙ったまま見上げる宗次郎に、ゆっくりと歳三が手をのばした。あっと思った時には、項を掴まれていた。そのまま引き寄せられ、くちづけられる。
「!」
 宗次郎は目を見開いた。
 信じられなかったのだ。歳三に今、くちづけられていた。
 むろん、初めてのくちづけだった。
 だが、初な宗次郎を斟酌することなく、歳三は貪るように深く唇を重ねた。舌が歯茎をなめまわし、腫れぼったくなるまでくちづけられる。
 濃厚で激しいくちづけに、宗次郎は怯えた。怖くてたまらず、思わず両手で男の肩を押し返そうとする。
 だが、完成された男の身体に、小柄で華奢な少年の身体だ、叶うはずもなかった。びくともせず、男の蹂躙を受けるばかりだ。
「……やっ、ぃ…や……っ」
 それでも抗った。くちづけの合間に首をふり、必死になって歳三から逃れようとする。
 だが、それがいけなかったのだろう。
 宗次郎の抵抗は、歳三の激昂を誘った。
「畜生……っ」
 低い声で呻くと、歳三は再び唇を重ねた。
 そして、項を掴んでいた手をすべらせ、宗次郎の細い首を掴んだのだ。ぐっと喉が鳴った。
 少しずつ力がこめられてくる。宗次郎は息ができず、狂ったようにもがいた。
 だが、それさえも力を失ってゆく。


(歳三さんに……私、殺されるんだ……)


 視界が霞んだ。
 こちらを暗い情念を湛えた瞳で見つめている彼。
 愛しい、誰よりも優しかったはずの……


(歳三、さん……)


 そこで宗次郎の意識は途切れた。












 その時の記憶は、総司の中から消し去られた。
 あまりにも残酷で辛い記憶故に、己の中から消し去ってしまったのだ。
 だが、何故か歳三への恐れ、怯えだけが残ってしまい、近寄ることを怖いと感じるようになった。手のひらを返したように近寄らなくなった宗次郎に、歳三は何も言わなかった。
 当然だ、彼こそが、最も、その理由をわかっていたのだから。
 彼は宗次郎を殺そうとしたのだ。その手で縊り殺そうとした。
 何が理由だったのかは、今もわからない。
 だが、総司にとって、彼の中で宗次郎はそんな簡単に殺してしまえるような存在だったということが、衝撃だった。
 まさか、今こんなふうに記憶を取り戻すなど、思いがけなかった。土方とのくちづけが引き金になった事は確かだ。
 彼自身はまさかそんな事になるとは、思ってもみなかったのだろうが。


「……大丈夫か」
 目を覚ますと、傍らに土方がいてくれた。
 気を失っていたのは、ほんの少しの間だったのか。周囲の光景は何も変わっていなかった。
 土方はゆるく両腕で総司を抱くようにしていた。総司の頭を己の胸もとに凭せかけ、楽なようにしてくれていたのだ。
「あ……」
 微かに喘ぎ、身を起こそうとした。とたん、土方が微かに眉を顰めた。
「無理をするな。茶でも飲むか」
「はい……」
 こくりと頷くと、湯のみが口元にさしつけられた。先ほど、自分が入れた茶を口にする。
 その事で少し落ち着くことが出来た気がした。自分を抱いてくれている男を、そっと見上げる。
 土方はまだ心配そうな表情で、総司を見下ろしていた。黒い瞳が気遣わしげに揺れている。
「顔色が悪いな。身体の調子が悪いんじゃねぇのか」
「……」
「それとも……俺のせいか。俺があんなくちづけをしたから……」
 悔恨の表情になった土方に、胸奥が鋭く痛んだ。


 この人は何も悪くないのに。
 ただ、くちづけてくれただけなのに。


 総司は首をふり、両手をのばした。土方の頬にふれると、彼の目が見開かれる。
「違うの……そんな事じゃありません」
「なら……」
「くちづけは嬉しかったのです。とても嬉しかった……ただ、急に目眩がしただけなのです。ごめんなさい」
 そう謝った総司に、土方は逆に申し訳なく思ったようだった。優しく胸もとに抱きすくめてくれる。
「すまん……」
 低い声が耳もとにふれた。さらりと彼の艶やかな黒髪が頬にふれる。
「おまえに無理をさせてしまった……本当にすまない」
「そんな……謝らないで下さい。あなたに謝られたら、この先、何もねだれなくなってしまいます」
 花のように微笑う総司を、土方は眩しそうに見つめた。そして、「そうだな」と笑い返してくれる。
 その笑顔を見上げながら、総司は思った。


 この人には何の関係もないのだ。
 自分を殺そうとしたのは、現の彼なのだから。
 今、こうして私を抱きしめてくれる人は、あの土方さんじゃない……。


 だが、一方で奇妙な違和感もあった。
 気を失う直前、自分を見つめていた黒い瞳。
 暗い情念を湛えた瞳は、まさに、あの瞬間、宗次郎を殺そうとした男の瞳だった。
 その同じ瞳で、土方は見つめていたのだ。己の腕の中で、気を失う総司を。
 静かに、無言のまま。


(……土方さん……)


 現か、夢か。
 どちらの男を呼んだかわからぬまま、総司は固く瞼を閉ざした。