驚いて顔をあげた。
 だが、その小さな頭に男の手のひらがあてられ、優しく彼の肩口に押しつけられる。
 低い声が耳元で囁いた。
「……そんな顔をするな」
 優しく、だが、どこか切ない声だった。
「今にも泣き出しそうな、そんな顔は……見たくねぇよ」
「土方、さん……」
「おまえには笑っていて欲しいんだ。幸せそうに笑っているおまえが、俺は好きだ」
「……え」
 どきりと胸が跳ね上がった。
 むろん、期待はするな、自惚れるなと、心の奥で誰かが叫ぶ。
 だが、それでも、総司は聞かずにはいられなかった。
 顔をあげ、大きな瞳で土方を見上げる。そして、訊ねた。
「それは……私のことが好きって、ことですか」
 もしかすると、声が震えたかもしれない。
 現と違うとはいえ、姿形、声も、性格も、名前までも同じ彼なのだ。
 総司にとって、今や見分けなどつかなくなっていた。どちらがどちらなのか、わからなくなってきていたのだ。
 否、そう思いたいだけかもしれなかった。辛い現に存在している彼よりも、この優しい彼を愛した方がずっと救われるのだ。幸せになれるに違いない。
 むろん、彼が受け入れてくれればの話だった。
 もしも拒まれたなら、二重三重の苦しみになってしまう。
 その事をよくよくわかっていながらの問いかけだった。
 だが、土方の答えはあっさりしたものだった。
「当然だろう」
 一瞬、驚いたように目を見開いてから、土方は微かに笑った。
「それ以外の何に聞こえると言うんだ」
「で、でも……」
「あぁ、おまえが心配しているのは、言葉の意味か。俺はおまえを男女の枠なんざ超えて、愛しているよ」
「……」
 総司の目が見開かれた。
 まさか、そこまではっきり断言されるとは思ってもみなかったのだ。
 だが、次の瞬間、視界の中で、土方が驚いた表情になるのを感じた。それを訝しく思う間もなく、ぽろぽろと涙が頬をこぼれ落ちてゆく。
 慌てて手の甲で涙を拭った。
「……私……泣いている?」
「あぁ」
 土方は律儀に答えると、激しい痛みを覚えたように顔を歪めた。きつく唇を引き結び、涙をこぼし続ける総司を見つめている。
 やがて、低い声で言った。
「……すまん、驚かせてしまったようだ」
「え」
「やはり、おまえには到底受け入れがたい事だったか。だが、これだけはわかってくれ。俺はおまえに己の気持ちを押し付けるつもりはない。身勝手な話だと思われるだろうが、ただ告げたかっただけで……」
「ま、待って下さい!」
 慌てて総司は遮った。身を乗り出し、まだ潤んだ瞳で土方を見上げる。
「私、受け入れがたいなんて言ってません。あなたのこと、私も好きなのです。だから、その……押し付けられるとか、そういう事ではなくて」
「……」
 土方が息を飲んだ。驚いた表情で総司を見下ろしている。
 そんな彼の様子に、あらためて自分が口にした事に気づき、かぁっと頬が熱くなるのを覚えた。
 だが、それでもここは告げるべきだった。
 夢の中であれ、異世界であれ、もう現のような事は繰り返したくない。
「あの……まだ逢って間もないのにと思われるかも、しれませんけど。でも、私……あなたのことが好きです」
「それは俺の想いを受け入れてくれると……そうとって構わんのか」
「はい」
 こくりと頷いた総司の身体が、荒々しく引き寄せられた。着物ごしでもわかる逞しい両腕に抱きしめられる。
 耳もとに彼の吐息が、歓喜にみちた声がふれた。
「好きだ、総司……俺は嬉しいよ。まさか、おまえが俺をそういった意味で好いてくれるとは思わなかった」
「私もです。私も……」
 あなたに愛される日がくるなんて思わなかった……そう言いかけた総司は、ふと、ひやりと背中が冷たくなるのを感じた。


 彼は、あの人ではない。


 今、愛を告げてくれた彼は、幼い頃、自分を慈しみ、育ててくれたあの愛しい男ではないのだ。
 容姿も声も性格までも同じであるがために錯覚してしまったが、現の彼は、総司が本当に愛した彼は、今も新選組副長として生きている。
 その彼が総司に愛を告げてくれるなど、何があってもあり得ぬ事だった。


 私が土方さんに愛される日なんて、永遠に来ない……。


「……総司?」
 急に黙りこんでしまった総司を、土方が訝しげに覗きこんだ。それを、おずおずと見上げる。


 艶やかな黒髪に、形のよい眉が男らしい。
 すっと切れの長い目は印象的で、その黒曜石のような瞳に誰もが魅了されるのだ。冷たく整った顔だちながら、笑うと悪戯好きの少年のようになる。
 すらりとした長身も、着物の下に隠されている逞しく引き締まった身体つきも何もかも、すべて愛する男と同じなのに。こんなにも一緒なのに、そこにある魂は違うのだ。
 それどころか、もしもここが総司の夢であるのなら、今自分を抱きしめてくれる土方は、総司自身の願望が形になったものだと言えた。
 そうであるのなら、総司が望むように願うように、振る舞ってくれるのは当然のことなのだ。


 そんな自虐的なことを考えてしまった総司は、思わず首をふった。


 ここが夢なのかどうかはわからない。
 だが、それでも構わなかった。
 今、自分の傍にいてくれるのは、この彼なのだ。優しく愛してくれるのも、ここにいる会津藩藩士の土方だ。
 そして、自分は、この彼を愛したのだ。
 いつの間にか彼に安らぎとぬくもりを求め、恋をしていった。
 彼が幻であれ、自分がつくりだしたものであれ、それでも愛しかった。傍にいたかった。


「土方さん……」
 小さな声で、そっと問いかけた。
 何だ? と優しく促してくれる彼が愛しい。
 総司は少し躊躇ったが、やがて、かすれた声でつづけた。
「愛されたいと願うのは……いけないこと?」
「……」
 土方の目が見開かれた。虚を突かれたような表情で総司を見下ろしたが、すぐさま首をふった。
「いけないはずがねぇだろう。いったい誰がそんな事を言ったんだ」
「だって……私は、一度拒まれているから」
 男の腕の中で、総司は目を伏せた。
「一度拒まれたことがあるのです。ある人に愛されたいと願って……でも、拒まれました」
「……」
「ずっと優しくしてくれた人だったのに、ある日突然、冷たくされて。どうしたらいいのかわからなくて……でも、結局、どうする事も出来なかったのです」
「……」
 総司の言葉に、しばらくの間、土方は無言だった。やがて、低い声で問いかけた。
「それは……先日、言っていた者のことか」
「え」
「春を好んでいた者だ。そいつのことをおまえは好きだと言っていた。それは……今も変わらんのか」
「……あ」
 思わず声をあげた。
 先日、料理屋で話した言葉だった。今も愛していると、告げたのだ。なのに、今、土方を好きだと言うなどといい加減な者だと不快に思われたのかもしれなかった。
 慌てて見上げれば、土方はこちらに冷たい横顔を見せていた。それに胸奥が苦しくなる。
「ごめんなさい。あのひとへの想いは……きっと消え去ることはないはずです。でも、どうにもならない恋なのです。それに、もう二度と会う事もない……」
「……」
「私は……土方さん、あなたと一緒にいたいのです。今、私の傍にいてくれるあなたが好きなのです」
 そう続けざまに告げてから、総司は俯いた。ぎゅっと固く両手を握りしめる。
「不快ですよね。こんな、いい加減な私……愛想がつきたでしょう?」
「……いや」
 短い沈黙の後、低い声が答えた。はっとして見上げれば、土方は片手で黒髪をかきあげる処だった。
「不快には思わない。むろん、嫉妬はするが……それで、俺のおまえへの気持ちが変わることはねぇよ」
 そう言った土方は総司を見下ろした。濡れたような黒い瞳に見つめられ、胸奥がきゅっと切なくなる。
「おまえは俺を好きだと言ってくれた、一緒にいたいと望んでくれた。なら、俺はその言葉だけを信じよう」
「土方…さん……」
「俺はおまえが好きだ。大切に思っているし、愛している。だから……いつか、おまえの中からそいつの存在を消し去ってみせるさ」
 悪戯っぽく笑ってみせた土方に、総司は思わず両手をのばしていた。男の逞しい胸もとに飛び込み、ぎゅっとしがみつく。
 着物ごしに感じるぬくもりに泣きだしたくなった。


 消し去ることなんて、出来るはずがなかった。
 名前も容姿も性格までも同じ彼が、自分の恋人として愛してくれているのだ。
 重ねずにいられないし、思い出さずいられるはずがない。
 だが、それでも、彼の言葉どおりになればいいと思った。
 現の彼も何もかも忘れ去り、この優しい世界でずっと生きてゆきたい。


 黙ったまま目を閉じる総司を、土方は優しく抱きすくめてくれた。髪に頬を擦り寄せられる。
 そして。
 なめらかな低い声が、耳もとで柔らかく囁いたのだった。
「愛しているよ、総司……おまえだけを愛してる」
 まるで。
 優しい夢へと誘う呪文のように。












 障子を開いた近藤は、そこにいる男の姿に驚いたようだった。
 一瞬、目を見開いてから、部屋に入ってくる。
「歳」
 静かに声をかけると、土方はゆっくりと顔をあげた。
「……あぁ、近藤さんか」
「こんな処で何をしている。看病でもしていると言うのか」
「そうだな」
 くすっと笑った土方を訝しげに眺めながら、近藤は腰をおろした。今も眠りつづける総司を見下ろす。
「何も変わらんのか」
「まったくだ。相変わらず身動き一つしねぇよ」
 淡々とした口調で答える土方に、近藤はしばらくの間、何も言わなかった。
 だが、やがて、躊躇いがちにだったが、呼びかけた。
「歳」
「何だ」
「おまえは……例のことが原因だとは思わんのか」
「例のこと?」
 訝しげに近藤を見やる。
「何のことだ」
「だから……おまえが、江戸のいた頃、総司に……いや、宗次郎にしたことだ」
「まさか」
 即座に否定した。
「あんな昔のことが今頃、何の関係があると言うんだ。まぁ、斉藤にも言われたがな」
「斉藤に?」
「あぁ。俺が切り捨てたことを責めていた。それが原因ではないかと言われたよ」
「いや、おれが言っているのは、違う」
 ゆるく近藤は首をふった。
「もっと……大元のことだ。おまえが宗次郎にした事、あれを……総司は思い出したのではないか」
「……」
 土方の眉が顰められた。それに、近藤は言葉をつづけた。
「何かの切っ掛けで思い出し、その衝撃で目覚めなくなったと、そう考えられないか。宗次郎はおまえを慕っていた、好いていた。だが、おまえはあの時、宗次郎を……」
「近藤さん」
 不意に、低い声が遮った。
 はっとして近藤は視線をやったが、土方はこちらを見ていなかった。切れの長い目は総司の寝顔に向けられ、端正な横顔には何の感情もない。
「もしも、あんたの言葉通りだとしても」
 形のよい唇が、微かな笑みをうかべた。
「それで、こんな事態になるとは到底考えられねぇよ。総司にとって、今の俺はただの副長だ。私的には何の関わりあいもねぇし、言葉を交わすことさえ稀な状態だ。そんな状態で今更思い出したところで、総司は昔の事として片付けるだろう」
「おれはそうは思わん」
 近藤はきっぱりと言った。
「総司がおまえをただの副長として考えているはずがない。歳、おまえ自身もそうだろう。おまえも……総司がただの一番隊組長であるのなら、今、こんな所にいるはずもない」
「……」
 黙ったまま、土方は唇を噛みしめた。無言で視線を落としている。
 その表情に、近藤はため息をついた。
「歳、おまえはまるで自覚がないのだな。総司は決しておまえを副長としてのみ見ている訳ではないぞ。あの事があってからもずっと、総司はおまえを好いて……」
「そんな事ある訳ねぇよ」
 荒々しい口調で、土方は乱暴に吐き捨てた。怜悧な光を宿した黒い瞳が、近藤をまっすぐ見据える。
「あの時、宗次郎は俺に怯えていた。俺をまるで見知らぬ男のような目で見て、怯えて、逃げ出しさえしたんだ。あぁ、わかっているさ。俺が悪い、俺があんな事をしちまったからだ。けど、その宗次郎が俺を好いてくれているなんざ、ある訳ないだろう。俺は二度とあいつに近づくまいと誓った。遠くから見守ることで、俺自身を抑えてきたんだ。なのに、その俺が原因だと言うのか。俺が総司をこんなにしちまったと……っ」
「歳……」
 珍しく激した土方に、近藤は目を見開いた。
 だが、それだけ、土方にとって総司は大切な存在だという事なのだろう。だからこそ、こうして気持ちが揺さぶられ、総司に事があると、常の彼らしくもなく取り乱してしまうのだ。
 土方にとって、総司は特別だった。
 宗次郎と呼ばれていた少年である頃から、自らの手で育て慈しみ、愛してきたのだ。
「……っ」
 片手で顔をおおってしまった土方に、近藤は口元を引き締めた。
 そして、静かに友の肩に手を置くと、何も言わずそこに居続けていてやったのだった。













 恋人になってから、土方は頻繁に訪れてくるようになった。
 毎日のように訪れてきては、総司に笑いかけ、話したりどこかへ連れていったりしてくれる。
 だが、総司はそこに一つの壁を感じていた。土方は全く手を出そうとしなかったのだ。抱擁はあったが、それだけなのだ。
 口づけさえ交わしていない自分たちは、本当に恋人と言えるのだろうか。そんな事さえ考えてしまった総司は、とうとうある日、訪ねてきた土方に尋ねた。
「……私に興味はありませんか」
「は?」
 一瞬、土方は何を言われたか、わからぬようだった。意味がわからぬという表情で、総司を見下ろしてくる。
 それに、幾らなんでも言葉足らずだったことに気付き、慌てて続けた。
「私に……その、ふれたり、口づけたり……そういう事はしたくないのかな、と思って……」
 頬が熱くなる。
 だが、その総司に、土方は微かに眉を顰めた。黙ったまま、じっと総司を見つめている。
 それに酷く居心地が悪くなってしまった。はしたない事を口にすると思われたのではないかと、逆に頬が青ざめてしまう。
 おそらく泣きそうな顔をしていたのだろう。その様子に、土方も気づいたようだった。
「すまん」
 慌てて手をのばし、総司の肩にふれた。
「俺は……その不器用な男だ。おまえにそんな事をしてよいのか、わからず悩んでいた」
「悩んでいた……?」
「あぁ」
 頷いてから、言葉を選びつつ続けた。
「ふれてよいのか、俺みたいな男が許されるのか、わからなかったんだ」
「許されるなんて」
 総司は目を見開いた。
 それでは、まるで罪人のようではないかと思ったのだ。
 現の彼は新選組副長であり、今、ここにいる彼は会津藩士だ。
 どちらにせよ、人から後ろ指さされるような立場になかった。なのに、何故、彼が自分をそんなふうに評するのか、まったくわからなかった。
「私にふれることなんて……当然じゃありませんか。だって、あなたは私の……恋人なんですから」
 最後の言葉は、さすがに気恥ずかしく、小さくなった。
 だが、そんな総司に、土方は気づかぬようだった。どこか遠い目をしながら、まるで他人ごとのように呟く。
「そうだな……俺は、おまえの恋人なんだな」
「土方さん」
「いや、すまん。まるで実感がわかねぇんだ」
 困ったように目を伏せる土方を、責める気にはなれなかった。
 実感がわかないのは総司も同じだったのだ。
 あれほど愛した男の映し身のような彼。
 その彼の恋人になれたはずなのに、どこか実感がない。むろん、彼に好意を抱いていることは確かだった。彼の傍にいたいと願ったことも。
 だが、何か幻のような、つかみ所のない相手と恋愛をしているような気がしてならないのだ。
「……」
 押し黙ってしまった土方を前に、総司は唇を噛みしめた。