春が好きなのか。
 そう問いかけられた。それに頷くと、今度はどうしてと聞かれた。
 問いかけの意味がわからなかった。
 何故そんな事を聞くのかと不思議に思いつつ見上げると、土方は困ったように視線をそらせた。
「……すまん」
 不意に謝られ、目を瞬いた。それに、言葉がつづけられる。
「余計な事を聞いたな。理由など、わからんだろうに」
「いえ、違うのです」
 総司は慌てて身を乗り出した。
「そんな、あなたが謝るような事ではありません。ただ、何と答えたらいいのかわからなくて……」
「……」
「たぶん……ある人が春を好んでいたからかもしれません」
 そう答えてから、総司は慌てて顔をふせた。耳朶が自然と熱くなる。
「その人に初めて逢ったのも春でしたし……」
「……そうか」
 土方は一瞬、黙ってから頷いた。そして、不意に総司の方へ向き直ると、静かな声で問いかける。
「おまえは、その者が好きだったのか」
「え」
 目を見開いた。だが、すぐに微笑んだ。
「えぇ、そうですね。好きでしたよ……いいえ、今も好きです」
「……」
「私は、あの人を愛しています。だから、あの人が好きな春も……好きなのです」
 はっきりと口に出したとたん、胸の奥がすっと軽くなった気がした。
 そうなのだ。
 自分はこの言葉を口にしてみたかったのだ。


 彼を愛している、と。


 告げることはおろか、現では言葉にする事さえ許されぬ恋だった。
 永遠に、己の胸内に秘めていかなければならぬ恋。
 だからこそ、苦しかった、切なかった、悲しかった。
 手の届かぬ彼が愛しくて、気が狂いそうなほど愛しくてたまらなくて。
 その想いの重さ、苦しさゆえに逃げ出したのだ。
 だが、今、ここは現ではなかった。彼を愛していると告げても、誰一人、総司を非難するものはいない。心のおもむくまま自由に振る舞うことが出来るのだ。
 それが総司には嬉しかった。
 そして、今も、熱く静かに燃えつづける恋の焔を大切にしていきたいと思った。たとえ、もう二度と逢えなくても、彼を愛している事に変わりはないのだから。


「……そうか」
 もの想いにふけっていた総司は、土方の低い声に、我に返った。
 慌てて見上げれば、土方は端正な横顔をこちらに見せ、庭を眺めていた。形のよい眉は微かに顰められ、切れの長い目は伏せられている。
 男にしては長い睫毛が翳りを落とし、憂いさえも感じさせた。
 しばらくの間、沈黙が落ちた。胡坐をかいた膝上に頬杖をつき、土方は黙り込んでいる。
 それに総司は気まずい気持ちになった。
 まだ彼とは逢ったばかりなのだ、それ程親しい間柄でもない。
 なのに、自分の恋心を話してしまうなど、彼を戸惑わせてしまったのではないだろうか。はしたないと思われたかもしれなかった。
 慌てて坐り直し、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「?」
 いきなり謝る総司に、土方が訝しげな視線をむけた。
「何だ」
「だから、その……先ほどの事です。私の恋なんて、土方さんには何の関係もないですよね。余計な事を聞かせました、申し訳ありません」
「俺が聞いたんだ」
 ぶっきらぼうな調子で、土方は答えた。片手をあげ、煩わしげに黒髪をかきあげた。
「おまえが謝ることではないだろう。それに……関係がない訳じゃねぇ」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
 微かに肩を竦めてから、立ち上がった。
「……そろそろ行こう」
 低い声で云うと、踵を返した。着流した着物の裾がひるがえる。
 あまりにも突然の幕切れに、戸惑った。彼の動きを、ぼんやりと目で追ってしまう。
 だが、戸口の所で立ち止まり、訝しげにふり返っている土方の姿に、我に返った。慌てて立ち上がる。
 追いついた総司に、土方は優しく微笑みかけてくれた……。












 仕事をあらかた片付けると、土方は再び総司の部屋へ向かった。
 今度は近藤に呼び留められる事もなく、部屋へ辿りつく。中で看病をしていた一番隊の桜井が顔をあげた。
「副長」
「ご苦労」
 慌てて一礼する桜井に頷き、腰を下ろした。切れの長い目を総司に向けながら、低い声で問いかけた。
「変わりはないか」
「はい……」
「おまえも仕事があるだろう、後は俺がやる」
「え」
 桜井は驚いたようだった。だが、すぐに黙ったまま頭を下げると、静かに部屋を出てゆく。
 それを見送ることなく、土方は枕もとの急須を手にとった。湯呑みに水を注ぎ、それを口に含む。


 もう半日だった。
 総司は何も口にすることなく、眠り続けているのだ。
 このまま放っておけば、死んでしまうに違いなかった。
 水で生き延びられるとは思わない。
 だが、あたえるべきである事はわかりきっていた。


 土方は総司の顔に手をつくと、身をかがめた。
 顔を近づけ、そっと唇を重ねる。
 初めての口づけだった。
 柔らかな唇に、思わず深く貪りそうになる己を抑えこんだ。これは看護のためだと云いきかせつつ、水を口移しに与える。
 眠っていても反応するのか、総司の喉がこくりと鳴った。水を飲んだのだ。
 それに安堵しつつ、何度もその行為をくり返した。
 やがて、総司の唇がしっとりと濡れてから、土方はゆっくりと目を細めた。
「……総司」
 おそらく、この口づけの事を知れば、総司は嫌悪の表情になるだろう。
 いくら看護のためと云っても、男に口づけられるのだ。潔癖な総司が受け入れられるはずもない事だった。
 だが、皮肉な事に、今の総司ならば何一つ非難もしないのだ。いや、出来ない。眠りつづける総司は、まるで男に儚く手折られるままの可憐な花のようだ。


 初めて出会った時、本当に小さな花のようだと思った。
 こちらをじっと見つめる綺麗でつぶらな瞳に、すべすべのなめらかな頬。
 歳三さんと呼んでくれる、蕾のような可愛い唇。
 手をひいてやれば、とけそうなほど小さな儚さに、どきりとした。
 胸奥に今まで感じたこともない、庇護欲が生まれたのだ。どんな美しい女にも感じたことのないものだった。
 それに、当然ながら土方は初め戸惑った。自分の中に沸き起こった見知らぬ感情に困惑し、目をそらそうとしたのだ。
 だが、不思議なことに、宗次郎と会う機会は増えていった。
 その都度、宗次郎は愛らしい笑顔で駆け寄ってきてくれる。思わず手をさしのべずにはいられなかった。
 抱きあげ、そのぬくもりを感じることで、自分が宗次郎をどれだけ愛しく思っているか、実感したのだ。


 あの頃、宗次郎は、彼にとって、世界中の何よりも大切な宝物だった。


 宗次郎が傍にいてくれるだけで、幸せになれた。
 周囲が呆気にとられているのはわかっていたが、それでも、宗次郎の元へ通った。その度に宗次郎が好みそうな玩具や花、菓子などを持っていった。
 まるで、花街の女に入れ込み溺れた男のようだと苦笑したが、彼にとって宗次郎は初めて愛した存在だったのだ。宗次郎の笑顔を見るだけで、どんなにささくれだっていた気持ちも和らいだ。
 しかし、それも、あの事が起こるまでの事だった……。


(あのことを、総司は思い出したのだろうか……)


 土方は僅かに目を伏せた。
 あの出来事が原因で二人の道が分かたれたことは確かだが、以降、総司が言及したことは一切なかった。
 ただ、あの事があった翌日から、宗次郎は彼から離れ、土方も愛しい少年を手放す決意を固めたのだ。
 身を切るような思いだったが、己自身理解することの出来ぬ感情のために、彼に怯える宗次郎の姿を見ると、決意せざるを得なかった。
 これ以上、宗次郎に嫌われたくなかった。
 己の情愛を突き進めるよりも、遠くからであっても見守ることを選んだのだ。
 それは今も後悔していないはずだった。あれだけ悩みぬいた末に出した結論だったのだ。
 だが、今、こうして目覚めてくれない総司を見ていると、たまらぬ気持ちになった。
 これで本当に良かったのかと問いかけてしまう気弱な自分を感じるのだ。


 むろん、わかっている。
 己が犯した罪は決して許されぬものだ。あの時、宗次郎が耐え切れず記憶を手放したのも、当然のことだった。
 しかし、あの時、宗次郎が離れるのを良いことに、自分も逃げたのではないのか。宗次郎からも、己自身の想いからも。
 恋は決して美しいだけのものではない。
 嫉妬し、憎み、激しい情欲さえ抱いてしまう。
 独占欲と執着に彩られた、凶暴な愛。
 それが恐ろしかったのではないか。


 今まで、誰も愛したことがなかった。
 それ故、愛がもつ恐ろしさも知らずにいた土方は、あの時、初めて己の中にある残酷な獣に直面することになったのだ。牙をたて、あの愛らしい少年を貪りつくそうとする衝動に。
 それがたまらなく恐ろしかった。
 宗次郎の瞳に映る己が、欲望に歪んだ見難い男となるのが堪えがたかったのだ。
 総司のためと云いながら、その実、自分のためだった。己自身の中にある獣が牙を剥くのを恐れ、逃げたのだ。
 あの時、もしも宗次郎に真摯に向き合っていたならば、犯した罪業を悔い、己が抱える情欲も愛も何もかもすべて曝け出していたならば、こんな事にはならなかったのだろうか。


「……今更、後悔しても仕方ねぇよな」
 土方は吐息をもらし、髪を片手でかきあげた。
 今は、過去を悔いている場合ではないのだ。何とかして、総司を目覚めさせなければならなかった。総司が眠りから覚めてくれなければ、謝ることも告白することも出来ぬのだから。
 そう考えてから、ふと苦笑した。


 今更、愛を告げるつもりなのか。
 好きだ、愛していると告げて、総司を己のものにするのか。
 たとえ、総司が彼を拒んだとしても……。


 何もかもわからなかった。この先も、彼自身の気持ちも。
 ただ一つ確かなのは、このまま総司を失いたくないという事だった。この世から総司が消えてしまうなど、土方に耐えられるはずもなかった。総司がいない世界など、色がないようなものだ。
「総司……」
 そっと頬にふれてから、土方はきつく唇を噛みしめた。












「ここ、かな……?」
 総司は小首をかしげた。
 大きな寺の前だ。いわゆる、黒谷屋敷だった。
 だが、どこか総司の記憶とは違っている。
 もしも、これが総司の夢であるのなら、あまり来た事がないためという事になるし、異世界であるのならやはり違った感じになるだろう。
 会津藩が本陣を置いている場所だと聞いていた。では、何故、総司がそこを訪れることになったかと言えば、結局の処、土方のためだった。
 ぱたりと土方の訪れが途絶えてしまったのだ。それが総司には不安でたまらなかった。
 もしかして、病にでもなったのかと考えもしたのだ。怪我をしたのかもしれないし、それに、あまり考えたくない事だが、単に土方が総司に飽きてしまったという事も考えられる。
 だが、どのみち逢ってみなければ、わからぬことだった。
 現の世界で、昔、総司は土方が離れていった時、戸惑いながらもそれを受け入れた。理解できぬ己自身の怯えもあったが、それでも、あんなに優しかった男に背を向けられたのに、理由を聞くことも追いかけることも全くしなかったのだ。
 それを、総司はずっと悔いていた。
 どうして、あの時、話をしなかったのだろう、何故、私を避けるのですか? と聞くべきだったと。
 だからこそ、ここでは逃げたくなかった。
 もしも土方が総司に飽きてしまったのなら、それは仕方がない事なのだ。きっぱり諦め、またひとりの穏やかな日々に戻るだけのことだと己に言い聞かせ、黒谷屋敷まで辿り着いた。
 だが、今、総司は戸惑い、黒谷屋敷を眺めていた。
 そう簡単に入れるような雰囲気ではないのだ。
 考えてみれば当然のことだった。
 会津藩と言えば最強の軍力を誇る藩だ。その会津藩の本陣が入りやすいはずがなかった。


(どうしよう……諦めた方がいいのかもしれない)


 そんな事を考えながら、背を向けかけた。
 その時だった。
「……総司!」
 突然、後ろからかけられた声に驚いた。慌ててふり返ってみれば、土方が走りよってくる処だった。
 優しい笑顔で話しかけてくる。
「今、おまえの所に行こうとしていたんだ」
「そうだったんですか」
「どうした、こんな処まで来るなんて……何かあったのか」
 訝しげに眉を顰める彼に、俯いた。
「いえ、その……最近、あまり来て下さらないから、病でも得られたのかと」
「……そんなに日が空いていたのか」
「えぇ、もう十日以上になります」
 こくりと頷いてから、慌てて首をふった。
「あ、でも、そんな……私の勝手ですから、気にしないで下さい」
「すまん」
 土方は申し訳なさそうな表情で云った。
「そんなに日が経っているとは思わなかった。以後、気をつけよう」
「どこかに行っていたのですか?」
「……まぁ、そんな処だ」
 曖昧に笑うと、土方は総司を促すように歩き出した。それに慌ててついてゆく。
 確かに、黒谷屋敷の前でいつまでも話し込んでいるなど、あまり良い事ではなかった。ひと目にもついてしまうだろう。
 少し離れたところまで来ると、土方は足を緩めた。ふと気づいたようにふり返り、眉を顰める。
「すまん、急ぎすぎたか」
「いえ、大丈夫です」
 首をふった総司を、気遣わしげなまなざしが向けられた。
「だが、顔色が悪い。俺が急がせたせいで辛くなったか……少し休もう」
 茶屋がすぐ近くになかったため、土方は総司を神社へと導いてくれた。木陰になっている石段に腰を下ろす。
 それに従いながら、総司は優しい人だと思った。


 現の彼も冷たく見えて、その実、とても優しいのだ。
 もっとも最近ではそんな優しさなど感じることもなかったが……。


「まだ辛いか」
 心配そうに訊ねてくる土方に、総司は首をふった。
「大丈夫です。でも、土方さんって、本当に優しい人なんですね」
「優しくなんかねぇよ」
 土方は一瞬驚いた顔をしてから、照れたように視線をそらした。それに思わず微笑んでしまう。
 現の彼ではないとわかっていても、やはり好意をもってしまうのだ。焦がれるほど愛した男そのものの姿なのだから。
「優しいですよ、今も私のことをこんなに気遣ってくれて……誰にでもそうなんですか?」
「誰にでもって訳じゃねぇな」
 膝上に頬杖をつき、小さく苦笑した。
「こう見えても、俺はかなり好き嫌いが激しいんだ」
「そうですよね」
 こくりと頷いてから、はっと気付き、慌てて言い足した。
「あの、そんな感じに見えるってことです」
 だが、総司の焦りに、土方は全く気づいていないようだった。神社の境内を眺めながら、言葉をつづける。
「好き嫌いが激しいくせに、肝心な処で素直になれなくてな。なかなか好いた奴に優しくしてやる事が出来ない」
「……好きな人がいるのですか」
 思わず胸奥が痛くなった。
 現の彼ではないのに、だが、それでも今、目の前にいる男が他の誰かを愛していることに堪らない嫉妬を覚えたのだ。むろん、己の愚かさに気付き、奥歯をきつく噛み締めたが。


(私は……なんて愚かなの)


 再びくり返そうとしているのか。
 現であんなにも苦しい恋をして、とうとう逃げ出してしまったのに。なのに、また、ここで同じことを繰り返すつもりなのだろうか。
 この土方とは、友人でいたいと望んでいるはずなのに。
 きつく唇を噛みしめた総司の肩が、不意に、柔らかく抱きよせられた。