「あなたは……」
 先に声を発したのは、総司だった。
 思わず呼びかけてしまったのだ。それは、彼が誰であるか確かめたいという気持ちが強いためでもあった。


 この世界が夢なのか、異世界なのかはわからない。
 彼が土方と名乗っても、他の名を名乗っても、それは変わらないのだ。
 だが、それでも知りたかった、この土方に酷似した男の名を。


 意を決すると、総司は男に歩み寄った。
 大きな瞳でまっすぐ見つめる。
「会津藩の方……ですね?」
「……そうだが」
 男は一瞬、訝しげに眉を顰めた。それに、総司は慌てて言葉をつづけた。
「先日、京へ入って来られた時、行列の中で拝見しました」
「あぁ」
 片手で黒髪をかきあげながら、微かに笑った。その笑顔も土方そのもので、思わず見惚れてしまう。
「確かに覚えがある。行列の側から声をかけて来ただろう」
「えぇ、あの……お名前を」
 総司は胸の鼓動が早くなるのを感じつつ、問いかけた。
「あなたの名は……」
「土方だ。土方歳三だ」
「……っ」
 声さえも出なかった。


 名前さえも同じなのだ。


 総司は、現の土方への絶望的な愛に苦しみ、逃げ出した。
 彼がいない世界なら何処でもよかった、それが夢でも異世界でも。
 だが、一方で、逢いたいと思っていた事は確かなのだ。己の心の奥底にある想いの強さは、わかりきっている事だった。
「……」
 一瞬、瞼を閉ざした。
 それから、総司は目を開くと、まっすぐ彼を見つめた。
「私は沖田です。沖田総司と申します」
 丁寧に頭を下げた総司に、土方は小さく笑った。
「成程……いや、俺は桜の精なのかと思った」
「え……?」
「先ほど、この桜の樹木の下に立っていただろう」
「あ、はい」
 こくりと頷き、総司は桜の樹木をふり返った。ひらひらと桜の花びらが舞い落ちてくる。
 その光景に、男は微かに目を細めた。
「桜の精そのものだ。まるで美しく可憐な桜の化身だな」
「……」
 総司の目が見開かれた。
 こんな女に云うような言葉を、土方から云われた事などなかったのだ。想定外の状況に戸惑ってしまう。
 黙り込んだ総司に気分を害したのだと思ったのだろう、土方は苦笑した。
「すまん、思わず云ってしまった。気を悪くしたのなら、謝る」
「いえ、謝られるような事ではありません。でも、私は……そんな美しくも可憐でもありません。ただの人です」


 それも、とても弱い人間だ。
 絶望的な恋に苦しんだ挙句、自分の人生さえ投げ捨てて逃げてしまうような……。


 きつく唇を噛みしめた総司を、土方は黒い瞳で見つめた。
 しばらく黙ってから、低い声で云った。
「だが、俺にとって、美しいものは美しい。おまえは……桜の精のように綺麗だ」
「土方…さん」
 息を呑んだ。
 まるで、本当の土方に云われたような気がしたのだ。胸奥に素直な喜びがこみあげる。
 だが、一方で、冷めた声が囁くのも聞いた。


 この彼は、おまえが愛した彼ではないのだよ


 ぎゅっと目を閉じてその声を振り切り、総司は土方に歩み寄った。
「ありがとうございます。素直に嬉しいと思います」
「……」
「それから、あの、私のことは総司と呼んで下さいませんか? あ、君づけも必要ありません。私も、あなたのことを土方さんと呼ばせて頂きますので」
「それは構わねぇが……」
「あなたに似た人がいるのです。その人の名も土方というので、つい先日も呼びかけてしまいました」
 実際、そうだった。
 彼と似た男がいるのだ。


 今も、現で戦いつづけているだろう人。
 総司が心から恋した、最愛の男。


「……そうか」
 土方は総司の言葉に納得してくれたようだった。かるく肩をすくめる。
「この顔も名も、よくあるという訳だな」
「そういう事ではないと思いますが」
「まぁ、いい。それで? これから、俺と総司は友人になるのか」
「友人……」
 不思議な言葉だと思った。
 彼と自分の関係を、いったい何と云えばいいのだろう。
 現にいた時も、総司にとって、土方は決して友人ではなかった。幼い頃から、憧れ、恋い焦がれつづけた最愛の男なのだ。
 喜びも悲しみも何もかも、彼から始まり、彼へと帰した。


 総司にとって、彼は世界そのものだった……。


 だが、この世界では違うのだ。
 現とここは異なるはずだった。ならば、二人も違う関係を結ぶことが出来るだろう。
「そう…ですね。私の友人になって頂けるなら、嬉しいです」
「俺も歓迎だ」
 くすっと笑った。
 切れの長い目が総司をちらりと眺めやった。
「俺のような年上の男でよければ、だが」
「構いません。もともと、私は江戸の頃から、年上の人とのつきあいが多かったので」
 そう云ってから、総司は慌ててつけ加えた。
「私、もとは東の方の出なのです。それで」
「俺もそうだ」
「もしかして、ずっと江戸詰めだったのですか」
「まぁ……そんな処だな」
 土方は視線を落としながら、答えた。
「だから、言葉遣いが江戸の言葉なのですね」
「あぁ、自慢じゃねぇが、会津の言葉は喋れん」
「そうなのですか」
 頷いてから、総司は自分のことを話した。
「私はこの近くで寺小屋を営んでいます。子どもに習字などを教えて生計をたてているのです」
「穏やかな暮らしだな」
「あの……今から、私の家にいらっしゃいませんか?」
 思い切って、総司は誘ってみた。
 不思議なものだった。
 現では話しかけることさえ出来なかったのに、この世界では、こんなふうに誘う事さえ出来てしまうのだから。
 土方は少し驚いたようだった。かるく目を見開き、総司を見下ろしてくる。
 しばらく黙った後、低い声で問いかけた。
「構わんのか」
「もちろんです。お茶ぐらいなら出すことが出来ますよ」
「茶で十分だ。俺も昼間から酒を飲んだりしねぇよ」
 この世界の土方も、現の彼と同じで己に厳しい性質であるようだった。もともと、土方は酔った者に侮蔑のまなざしを向ける事が多かったのだ。
 それを思い出しながら、総司は土方を導くように歩き出した。彼も素直に隣へと並び、歩んでゆく。
 誰よりも愛しい、だが、己が愛した男とは違う存在を感じながら、総司は微かに目を伏せた。












 新選組において、総司の最もたる友人は斉藤だった。
 三番隊組長という大幹部であり、年が近い事もあって、二人は親しくしているようだった。その斉藤は総司が目覚めぬようになってから、固い表情で日々を過ごしていた。
 そんな斉藤が副長室を訪れてきたのは、その日の昼下がりだった。
「副長、よろしいでしょうか」
 問いかける斉藤に、土方は、何を云われるかわかっているとばかりの表情で、ふり返った。視線で後ろの障子を閉めろと命じる。
 それに従った斉藤は端坐すると、いきなり切り出した。
「この先、総司をどうするつもりなのですか」
「どうするとは」
「あのまま眠り続けていれば、いずれ、死んでしまいますよ。それでも、構わないのですか」
「構わんはずがねぇだろう」
 土方は嘆息し、手にしていた筆を投げ出した。
「しかし、医師も匙を投げちまっているんだ。どうしようもねぇよ」
「なら、このまま手を拱いていると?」
「そうは云っていない。が、術が見つからん」
「それは、原因を理解していないからではありませんか?」
 斉藤の言葉に、土方は切れの長い目をあげた。冷たく澄んだ黒い瞳が、まっすぐに見つめる。
「どういう意味だ」
「言葉どおりです。あなたは、総司が目覚めない本当の理由をわかっていない。いや、わかりたくないのです」
「まるで、俺の心が読めるような言い草だな」
「ですが、そうじゃないのですか」
 鋭く問いかけてくる斉藤に、土方は僅かに苦笑した。文机に寄りかかり、頬杖をつく。
 男にしては長い睫毛が伏せられた。
「そうだな……わかりたくねぇのかもしれんな。だが」
「……」
「斉藤、おまえはわかるのか? 総司の気持ちが理解できるのか」
「オレは……」
 斉藤は一瞬、唇を噛んだ。
「総司をずっと見てきました。もちろん、あいつの気持ちはオレにも理解できません。でも、これだけは云える。総司は目覚めたくないから、目覚めないのです。それは、この現を拒絶したからこそです」
「……」
「総司は……ずっと苦しんでいた」
 声が震えた。
 斉藤もまた、救えなかった自分を責め続けているのだ。
「苦しみ、悩みつづけていた。どうする事もできない悩みを抱えていたのです。だからこそ、あぁして己自身の中へ逃避してしまったんだ」
「己自身の中へ逃避か……」
 低い声で呟き、土方は目を細めた。
「だが、それは総司自身の問題だろう。俺たちがどうこう出来る事ではない」
「ならば、このまま放っておくのですか。あなたはそれでもいいのですか」
「……堂々巡りだな」
 冷ややかな表情で肩をすくめる土方を、斉藤はきつい目で睨みすえた。躊躇ったが、どうしても云ってしまう。
「オレは、あなたが原因だと思っていますよ」
「俺が?」
 微かに眉を顰めた。不快そうに斉藤を眺めた。
「何故、俺なんだ。俺が総司に何をした」
「何も」
 短い応えだった。
 だが、斉藤はすぐさま言葉をつづけた。
「あなたは何もしていない。けれど、それこそが原因ではないのですか。あなたが総司を手放し、見向きもしなくなった。その事で総司が傷つかなかったと思うのですか」
「……随分昔の話だ」
 一瞬、端正な顔に痛みを覚えたような表情がうかんだ。
 だが、それを斉藤に見せることはない。文机に向き直りつつ、答えた。
「あの事で今頃、総司が現から逃げ出すような事になるはずがねぇよ。俺の事なんざより、今に原因を求めるべきだろう」
「今、ですか。でも、あなたは今も総司に冷たく接しているでしょう。立派な原因じゃないですか」
「おまえはあくまで、俺が原因だと云いたい訳か」
「それ以外、考えられないからです」
「根拠は」
「わかりません」
 斉藤の言葉に、土方は喉奥で低く嗤った。背を向けたまま、肩をすくめる。
「話にならねぇな」
「そうですね、オレ自身、わかっています」
「なら、俺につっかかるな。これ以上の口出しは不快だ」
「……わかりました」
 斉藤も引き際を心得ている。
 土方は冷徹で厳しい男だが、理不尽な事で怒るような事はない。常に感情を表わさず冷静だった。
 その彼が不快だと云う以上、我慢も限界に来ているのだろう。
 それに、最後の一言が、斉藤に確信を与えていた。


(この人は、総司のことを自分の問題として考えている)


 今、彼は図らずも口にしたのだ。
 口出し、と。それはとりもなおさず、土方が総司の問題を己自身と同一に考えている証だった。自分たちの事に口出しをするなという事なのだ。
 土方が総司に対して抱いている想いの一端を、垣間見たような気がした。もっとも、その深さや激しさまでは、わかる術もないが。
 黙ったまま立ち上がった斉藤は、障子を閉める一瞬、ふり返った。
 彼の目に映った男の背は、この世のすべてを拒絶しているように見えた……。












 総司は土方とよく逢うようになった。
 会津藩の仕事も忙しいはずなのに、土方はこの新しく出来た年下の友人を本当に大切にしてくれたのだ。
 まるで、幼い頃にかえったようだった。
 あの頃も、こうして優しく笑いかけてくれたのだ。宗次郎と呼んでくれた、なめらかで低い声を今でもよく覚えている。
「土方さん」
 例の神社で待ち合わせることが多かった。そのまま総司の家へ行く事もあるし、また、街の中を散策することもある。
 だが、今日は違うようだった。鳥居をくぐって入ってきた土方は、悪戯っぽい笑顔で云ったのだ。
「たまにはご馳走してやるよ」
「え」
 総司は驚いて、目を見開いた。
「土方さん、京に来たばかりなのに、もうお店知っているんですか」
「この間、朋輩と一緒に行ったのさ。そいつが遊び上手で、色々な店を知っているって訳だ」
「遊び上手なのは、土方さんもでしょう?」
 思わず云ってしまってから、総司は慌てて口を閉ざした。
 この彼ではないのだ。現の土方は確かに、遊び上手で島原でも祇園でもたいそうな人気だったが、そのために総司は嫉妬に苦しんだが、この土方が同じであるとは限らない。
「俺が?」
 案の定、土方は軽く首をかしげた。
「そうだな……上手いかどうかは別として、あまり好きではないな」
「好きではない?」
「あぁ。面倒だし、何で金払って女の機嫌をとらなきゃならねぇんだって思うよ。接待も鬱陶しくてな」
「そうなんですか」
「あんな場所で好きでもねぇ酒を飲んでいるぐらいなら、俺は、おまえとこうしている方がずっといい」
 いきなり、綺麗な笑顔で覗き込まれた。突然の事に、総司は狼狽えてしまう。
「わ、私なんかといても、退屈だと思いますけど」
「退屈なものか。すげぇ楽しいぜ」
「なら、よかったです。私も……その、土方さんといると楽しいから」
 ぽっとなめらかな頬を染めて答える総司は、花のように可憐だった。いじらしく愛らしい。
 それをどう思っているのか、土方は僅かに目を細めた。
 だが、その表情は優しく、親しげなものだ。現の彼のように冷たくされる事もないため、総司も肩の力を抜いていられる。
 土方が連れていってくれたのは、京の河原町の方にある小さな料理屋だった。小奇麗な奥の部屋に通され、こんな所に来たことがない総司は少し戸惑った。
 身を竦ませていると、土方が訝しげに見やった。
「どうした」
「いえ、あの……こういう処、馴れていなくて」
「あまり気にいらなかったか」
 気遣うように訊ねる土方に、慌てて首をふった。
「そうではありません。ただ、どうしたらいいのか、わからないのです」
「寛げばいいのさ。ここは上手い料理を食わせてくれる店だ」
 事もなげに答えた土方だったが、やはり気を使ってくれたのだろう。
 料理が運ばれると、後は自分たちでやるからと仲居を下げてくれた。そして、色々と京で体験したこと、藩での出来事などを面白おかしく話してくれる。
 そのため、総司も次第に気持ちがほぐれていった。食事が終わると、土方は総司を縁側に誘った。庭に面したそこには明るい春の光が降り注ぎ、とてもあたたかい。
 総司は土方の隣に坐り、うっとりと春の庭に見惚れた。柔らかな色合いの花が咲き、新緑に映えてとても綺麗だ。
 ぼんやり見つめていると、土方が静かな声で訊ねた。
「おまえ、春は好きか」
「え」
 突然の問いかけに、総司は夢から覚めたような表情で振り向いた。それに、もう一度問いかけられる。
「春が好きなのか」
「もちろんですよ」
 総司は微笑んだ。
「春が嫌いな人なんて、いるんですか? 私は季節の中で春が一番好きです」
「どうして」
「どうしてって……」
 言葉に詰まった。
 花が好きだからとか、青空が綺麗だからとか、たくさんの理由があった。
 だが、総司はよくわかっていたのだ。
 自分が春が一番好きだと言う理由を。


 それは、彼だった。


 土方と初めて逢ったのも春であり、そしてまた、土方が好きだと云っていた季節でもあった。だからこそ、春が何よりも好きなのだ。
 だが、それをこの彼に告げる訳にはいかなかった。
「……」
 総司は問いかけの意味がわからぬまま、大きな瞳で男を見つめた。