しばらくの間、呆然としていたかもしれない。
なぜなら、彼がここにいるはずがなかった。それも、会津軍の上士としてなど、あり得るはずがないのだ。
だが、たった今、総司の目の前を通りすぎていこうとする男は、明らかに土方だった。
むろん、こちらに一瞥をむける事もない。
だが、その端正な顔、すらりとした長身、怜悧なまなざし、何もかも見間違うはずがなかった。
「土方さ……」
思わず、口にだしかけた。呼びかけ、手をのばそうとしたのだ。
だが、はっと我に返った。
彼が土方であるはずがないのだ。それに、大名行列の中にある武士に声をかける無礼など、許されるはずもない。
慌てて俯いた総司だったが、ふと、鋭い視線を感じた。顔をあげたとたん、息を呑む。
「!」
男がこちらを見ていたのだ。
ふり返りざま、冷たく澄んだ黒い瞳が総司をとらえた。
だが、それも一瞬のことだった。
見たのかさえわからない。
気が付けば、その広い背は遠くなっていた。たちまち会津軍の中に消え去り、見えなくなってしまう。
それを総司は呆然と見送った。
(あれは、誰だったの……)
家に戻ってからも、頭の中が混乱していた。
どうしても理解できなかったのだ。
ここが総司の夢であるのなら、土方が現れるはずがなかった。なぜなら、総司は彼から逃れるため、この夢の中に逃げ込んだのだ。
愛する男との絶望的な恋に苦しんだ挙句の逃避だった。
そのため、ここはとても穏やかで優しい世界だ。新選組さえ存在しない。
なのに、何故、総司の苦しみの元凶である土方が現れるのか。
一つ考えられるのは、ここが総司の夢ではないという事だった。
やはり、思ったように異世界なのか。
どちらにせよ、あの男は土方と同じ容姿をしていた。もしかすると、名前も同じかもしれない。
だから、思わず呼びかけてしまった総司の声に、反応した可能性があるのだ。
「たとえ、そうだとしても……」
総司はきつく唇を噛みしめた。
この世界で彼と逢わなければいいのだ。
土方らしい男と逢わなければ、何事も起こらない。
それに、会津藩の上士である彼と、寺小屋を営んでいる総司が会う機会などありそうもなかった。
だが、そう考えたとたん、胸の奥がきゅっと締め付けられるように痛んだ。
この世界に存在しないのなら、構わなかった。
忘れたまま生きてゆくことも出来ただろう。
また、たとえ存在していても、江戸と京ならば会うことなど全くありえない。
だが、そうではないのだ。
あの愛しい男がいるのは、自分と同じ京の街。
それで会わずにいようなんて、本当に出来るのだろうか。ましてや、忘れて生きてゆくことなど出来るはずもなかった。
たとえ、一縷の望みがない恋だったとしても、ずっと愛してきた彼なのだ。
この胸奥に切ない恋心を抱きつづけてきたのだ。
現の土方とは違うとわかっていても、逢いたいと思ってしまうことは当然だった。
その証に、先ほども、彼を見た瞬間、胸が弾んだのだ。
驚き呆然となったことも確かだが、その一方で彼に会えた歓喜で体中が震えた。嬉しくて嬉しくてたまらず、だからこそ、思わず声をかけそうになってしまったのだ。
「どうすればいいの……」
総司は縁側の上で、両膝を抱え込んだ。顔を伏せて、ぎゅっと目を閉じる。
柔らかな春の風が総司の黒髪をさらさらと撫でていった。
「……歳」
後ろから声をかけられ、土方は振り返った。
そこに友人の姿を見出し、僅かに目を細める。
歩み寄ってきた近藤は、彼が向かおうとしていた部屋の方へ視線をやった。
「総司の様子はどうだ」
「変わりねぇよ。相変わらず眠ったままだ」
低い声で答える土方を、近藤は心配そうに見た。だが、そのまなざしに気づかぬまま、黒髪を片手でかきあげる。
「いったい何が原因なのか、医者もさっぱりわからんらしい。打つ手がないなんざ、あれでも医者か」
「歳、あまり苛立つな」
宥めるように云った近藤に、土方はきつく唇を噛みしめた。その端正な顔には焦燥の色が濃い。
「おまえも少し休んだ方がいいのではないか」
「別に疲れていねぇよ」
「だが、おまえらしくない。酷く苛立っているだろう」
「苛立って悪いか」
吐き出すような云い方だった。
土方は切れの長い目で近藤を見据え、乱暴な口調で云いきった。
「総司が目覚めねぇんだぞ。死んだように眠っているんだ。この俺が平気でいられると、あんたは本気で思っているのか」
「思ってはいないが……」
「なら、口出しをするのはやめてくれ」
云うなり、土方は背を向けた。きつい表情で総司の部屋へと向かっていく。
その広い背を見送り、近藤は深々とため息をついた。
最近では珍しいほど感情を表にした友が、心配でならなかったのだ。
あれ程大切に思っているのなら、何故もっと早く動かなかったのかと、今更云っても仕方がない事をつい考えてしまう。
土方が総司から離れたのは、総司が十三の年を数えた頃からだった。
少しずつ距離を置くようになり、いつのまにか、二人の間は他の者たちとのつきあいと変わらぬようになってしまったのだ。
つまり、ただの道場仲間に過ぎない位置にまで、土方は己自身の立ち位置を故意に引き戻した。
それまでは兄弟同然の仲だっただけに、当初、周囲は驚き訝しく思ったが、やがて、その状況にも慣れた。何よりも、土方自身が少しずつ変わっていったのだ。
江戸から京にのぼってからは、尚の事だった。
土方は、総司を他の隊士たち同然に扱った。別に冷たく接する訳ではないが、私的に声をかけることもなかったのだ。
だが、近藤は知っていた。その陰で、土方が様々に総司を守るための手段をこうじていたことを。
土方はいつも遠くから、総司を見守りつづけていた。その傍から不快なものを排除し、健やかに幸せであることだけを願って、その翼で包みこむように守りつづけたのだ。
――己自身からさえも。
気が狂いそうなほど総司を愛していた。
その清らかで愛らしい躰を獣のように欲してしまう、男の情欲も自覚していた。
だからこそ、土方は距離を置いたのだ。己を制御するために、総司を傷つけぬために。
己の男の欲などで穢していい存在だとは思わなかった。
清らかな花のように愛らしい総司。
この世の何よりも綺麗な存在。その存在をこの手で守りぬきたかった。
なのに……。
「……総司」
部屋に入った土方は、眠りつづける総司の側に腰を下ろした。
褥に横たわる総司は玲瓏とした美しい少女のようだ。なめらかな頬に長い睫毛が翳を落とすさまは、息を呑むほどの艶やかさだった。
だが、それは生をともなわぬ美しさだった。
土方は手をのばし、そっと総司の手をとりあげた。握りしめ、己の頬に押しあてる。
「すまない……」
低い声が、男の唇からもれた。
「おまえを守ってやれなくて……本当にすまない。こんな事になるなんて、病からも何からも守ってやりたかったのに。おまえだけは幸せにしてやりたかったのに」
白い手は冷たく、男の手のひらの中でとけてしまいそうなほど儚く、小さかった。
その細い指さきに唇を押しあてた。
「許してくれ、総司……っ」
声が掠れた。
その姿は、彼を知る者が見れば目を疑ってしまうほど、弱々しかった。
黒い瞳が不安と悲哀に揺れた。きつく唇を噛みしめ、まるで縋りつくように総司の手を握りしめる。
総司が目覚めない原因について、医師から一つの仮説を示唆されていた。
総司自身の意思によるものではないかと。現から逃げるため、自ら意識を閉ざした可能性があるという話だった。
その話に、土方は衝撃を受けた。
何も知らなかったのだ、気づかなかったのだ。
確かに、京にのぼってから、総司から明るさ、無邪気さが失われたことは知っていた。
最近、笑顔を見た記憶さえなかった。
だが、それでも、まさかそこまで追い詰められているとは、考えてもみなかったのだ。
幸せであれ、と願っていた。
この世の誰よりも、幸せにしてやりたかったのだ。
なのに、自ら意識を閉ざすほど苦しみ、悩んでいた総司に、気づいてやる事もできなかったなど、己で己を殴りつけてやりたい程だった。
どうして、その苦しみに気づいてやれなかったのか。
総司が何に苦しんでいたかは、わからない。
仕事は辛く大変だっただろうが、一番隊の隊士たちの尊敬を勝ち得ていた。労咳に冒されている事は確かだが、最近は発作も収まっているようだった。斉藤という友人もいる。
ならば、考えられるのは、色恋沙汰だった。
現から逃げ出したくなるほど、愛した相手がいたのか。
おそらく、それは報われぬ恋だったのだろう。
だからこそ、総司は逃避したのだ。
(相手は……誰だ)
総司の周囲に女の姿はなかった。
悪い女などに傷つけられる事がないよう、注意深く見守っていたのだ。島原での宴の時も、なるべく総司を早めに屯所へ帰すよう斉藤などを使って仕向けた。
(ならば、相手は男なのか)
思い浮かんだ考えに、愕然となった。
だが、十分ありえる話だった。この時代、衆道は別に疎まれるようなものではない。
だが、それでも衝撃だった。
その幸せだけを願って手放した存在なのだ。己の男の欲で穢したくなかったゆえの行為だった。なのに、その総司が他の男に抱かれるなど、到底堪えられる事ではなかった。
可愛い娘を妻に娶り、幸せになってくれるのなら、よかった。むろん、胸を引き裂かれるような苦しみと嫉妬を覚えただろうが、祝福してやる覚悟があった。
それが正しい形だと理解していたからだ。
だが、総司が他の男のものになるのなら、話は別だった。
そんな事、許せるはずがないのだ。他の男に奪われるぐらいなら、この手で彼のものにしていた。激しく狂おしい情愛のまま、突き進んでいただろう。
総司が目覚めないという苦しみに、誰が相手かを疑いつつ嫉妬しなければならない苦悩が加わったのだ。これ程までに総司に恋されている男が、気も狂いそうなほど妬ましかった。
もしも今、相手を知ったなら、この手で殺めてしまっただろう。それだけは確かだった。
「俺も狂っているな」
苦笑まじりに呟いた。
見下ろせば、総司は眠りつづけている。その綺麗な顔が、誰よりも愛しかった。
昔は、何の躊躇いもなくふれる事が出来たし、抱きあげることさえ出来た存在だった。
歳三さんと呼んで甘えてくれる少年が、たまらなく可愛かったのだ。
だが、己が抱える総司への激しい情愛に気づいたその瞬間から、彼の想いは苦痛にみちた葛藤へと変化した。
本当は他の誰がふれても、話しかけても許せず嫉妬してしまうのに、自ら身を切るようにして離れた。手に入らなければ殺めたいと願ってしまう程、狂暴な愛が恐ろしかった。
なのに、その挙句がこの結果なのだ。
こんな事になるのなら、いっそ強引にでも奪っていればよかったと悔やんでも遅かった。
「総司……」
愛しい若者の名を呼ぶと、土方は静かに瞼を閉ざした。
この世界に来てから、総司は気にいりの場所を見つけていた。
それは、小さな神社だった。
神主も住んでいないらしく、小さな祠と鳥居しかない神社だ。ほとんど訪れる人もいない。
だが、そこには大きな桜の樹木があった。樹齢何年なのか、とても大きな桜樹だった。
その桜が、満開の春を迎えていた。
春の霞みがかった青い空に、美しい桜の色が映える。その柔らかで優しい光景が、何よりも好きだった。
総司は暇を見つけては、その神社に通った。桜樹木の下に佇み、見上げた。
美しい桜樹木の下に佇む玲瓏とした若者の姿は、まるで桜の精のようだったが、むろん、総司自身はまったく気づいていない。
その日も、総司は桜の樹木の下に佇んだ。うっとりと見上げる。
時折、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらに手をのばし、受けとめた。嬉しそうに微笑む。
この世界は本当に穏やかだった。争いごとなど全くなく、優しい京の春の中にだけ微睡んでいられるのだ。
ここには、尊王攘夷も倒幕もなかった。血で血をあらう争いもない。
もしかすると、総司は、土方との恋愛だけでなく、戦ってゆく事自体に疲れきっていたのかもしれなかった。誰に頼ることもなく、ただ一人戦いつづけることに。
むろん、それが甘えだとわかっている。
だが、それでも、もしも土方が以前のように弟として可愛がってくれていたら、少しは違っていたと思うのだ。
恋人として愛してほしいなどと、おこがましい望みは抱かない。
ただ私は、あの人に微笑いかけてほしかっただけなのに……。
総司は桜の花びらを見つめ、微かに吐息をもらした。
その時だった。
背後に聞こえた足音に、肩を震わせた。
誰かがこの神社に立ち寄ったのだ、珍しいことだった。塀際にも見える満開の桜に誘われたか。
そんな事を考えながらふり返った総司は、次の瞬間、大きく目を見開いていた。
(……土方、さん……!)
そこに佇んでいたのは、土方だった。
仕立てのよい黒の着物を、すらりとした長身に着流している。太い帯に刀を斜めざしにした様がひどく粋だった。
黒い編み笠をかぶっていたのが、今、ゆっくりと顎紐をほどき、外した。艶やかな黒髪が風にふわりと揺れ、切れの長い目がまっすぐ総司を見つめる。
桜樹木の下、ようやく逢えた恋人たちのように、二人は見つめあった。