好きという気持ちさえ伝えられない。
 ふれることも愛することも許されず、遠くから見つめることしか出来ない。
 そんな恋なんて……切なすぎると思いませんか?






















 総司は静かに目をあげた。
 打ち合わせの場だった。隣に坐っている男から発せられた言葉に、対する反応だった。
 冷たく澄んだ瞳を男に向ける事もなく、訊ねた。
「それは……命令でしょうか」
 総司の問いかけに対する答えは、短いものだった。
「そうだ」
 一言だけ答えると、土方は手元の書類をまとめた。そのまま袴の裾を払い、無言で立ち上がる。
 総司の反応などまるで気にしていない態度だった。
 それも当然のことなのだろう。彼にとって、総司はただの一隊士にすぎぬのだ。
「……」
 総司はきつく唇を噛みしめたまま、遠ざかる男の背を見つめた。
 広い背だった。すらりとした長身に、黒い隊服の小袖と袴を纏っている。
 これ程、黒が似合う男も珍しいだろう。彼が黒を纏うと、その闇の色は艶やかなものへと変化するのだ。
 着物を纏っているその姿は一見すれば細身だった。だが、無駄一つない引き締まった長身は完成された男のものであり、明らかに戦うための鍛えられた躰だ。
 縁側に出たところで近藤に呼び止められ、足をとめた。
 端正な横顔をこちらに見せつつ、親友である近藤と談笑している姿は、冬の光の中、絵のようだった。
 どんなに彼を嫌っている者であっても、土方の姿形の端正さは否定することが出来ないだろう。その身に纏いつかせた、まるで魔力のように人を惹きつける華も。
 艶やかな黒髪に、切れの長い目。男にしては長い睫毛と、黒曜石のように冷たく澄んだ黒い瞳。
 優しげな口許と裏腹の、意思の強さをあらわす頬から顎にかけての鋭い線。
 綺麗に整った顔だちながら、精悍さも持ち合わせていた。大人の男の艶が表情一つにもあるのだ。そのため、京の花街の女たちも彼に嬌声をあげるのだろう。
「……」
 それらの光景を思い出したとたん、総司は激しく顔を背けた。
 胸奥が苦しくなり、息さえ出来なくなったのだ。狂おしいほどの恋しさと嫉妬に、気がおかしくなってしまいそうだ。


 この世の誰よりも愛してほしい人から、この世の誰よりも冷たくされる。
 これ程、辛く切ないことがあるだろうか。


 だが、それは仕方がない事だった。
 土方は他の隊士たちに対しても、同じだったのだ。別に、総司一人に対して冷たい訳ではない。京にのぼってから、土方は変わった。奔放で遊び好きだった男はどこかへ消えてしまい、敵にも味方にも容赦ない冷徹な副長として振る舞うようになったのだ。
 むろん、総司は知っていた。江戸にいた頃も、土方の中にある一種の残酷さ、激しさを理解していたつもりだった。優しいだけの彼を愛した訳ではないのだ。
 だが、それでも、他の隊士と同じように駒同然に扱われれば、切なくなる。悲しくて辛くて、叫び出したくなる。
 片思いである以上、仕方がない事だとわかっていた。
 だが、総司にとって、彼は初恋の相手なのだ。今も恋しくて恋しくてたまらない、最愛の男なのだ。なのに、その彼から冷たくあしらわれ、心傷つかぬはずがない。


(あの人は、私が傷ついても泣いても、何の関心もないだろうけれど……)


 総司はため息をつくと、広間を出た。
 少し前に、土方は近藤とともに局長室へと去ってしまっている。今や、土方が心を許しているのは、近藤のみだと云われていた。自分の恩師にさえ嫉妬してしまいそうな己を恥じる。


(土方さんは、私と何の関係もないのに)


 部屋に戻った総司は障子を閉め切り、一人、膝を抱え込んだ。
 広い西本願寺の部屋はしんと静まり返っている。病もちである総司は自ら希望して、離れに等しいこの部屋を貰ったのだ。
 だが、淋しいことは確かだった。それも、こんなふうに愛しい男に冷たくされた後は、尚の事だ。
 最近、総司が土方への恋心で苦しんでいるには、理由があった。
 土方に縁談が持ち上がったのだ。
 良縁だという話だった。佐藤家もとても喜び、強く勧められているらしい。土方自身もまんざらでないようだという話を聞いたとたん、総司は目の前が真っ暗になる気がした。
 いつかは訪れると思っていたことだった。あの土方が誰も娶らぬはずがないのだ。妻帯者になることはもちろん、今まで妾一つ置かぬ方が不思議なほどだったのだ。
 江戸の頃から美しい女には不自由しない彼だった。それが京にのぼったとたん、適当に花街で遊びはするが、さほど女遊びをしなくなった彼に、安堵もしていたのだ。
 だが、妻を娶るぐらいなら、遊んでくれていた方がよかった。
 こんな事を言えた義理ではないが、土方が誰かと固い絆で結ばれる様など見たくなかった。美しい妻に笑いかける彼を想像するだけで、気が狂いそうだった。


(私は……なんて醜いの)


 総司はきつく唇を噛みしめた。
 彼に嫉妬する自分も、冷たくされても愛してしまう自分も、何もかもこの世から消してしまいたくなる。むろん、自害などするつもりもなかったが、それでも、いっそこのまま目覚めなければ良いと、何度夜眠る前に願ったことか。
 生きている喜びなど何もなかった。苦しくて切なくて悲しくて。


 夢の中にずっといられたらいいのに。
 もう二度と、目覚めなければいいのに。


(……土方さん……)


 愛しい男の名を呼ぶと、総司は固く瞼を閉ざした。















 ふっと目が覚めた。
 いつの間に眠ってしまったのか。気が付けば、畳の上に身体を横たえていたのだ。
「……」
 そろりと身を起こした総司は、手の甲で目元を擦った。何か視界がおかしい気がしたのだ。だが、何がおかしいのかわからない。
「気のせいかな」
 そう呟き、立ち上がった。部屋を横切り、障子に手をかけた。幾らも眠っていなかったらしく、外はまだ明るい。
 だが、障子を開いた瞬間、鋭く息を呑んだ。


(な、に……? これ)


 障子の向こうには、西本願寺の冷たい冬の庭が広がっているはずだった。この屯所に来てから見慣れた光景だ。
 だが、そこにあったのは、穏やかな春の庭だった。
 ぐるりと生垣で囲まれた小さな庭に、可愛い色の花がそよ風に揺れている。ぽかぽかとあたたかな陽射しが降り注ぎ、生垣の向こうには小さな家が並んでいた。
 絵に描いたような優しい光景だ。まるで、総司が幼い頃、姉と住んでいた家の庭のように。貧しくても幸せだった、あの頃のように穏やかな光景。
 ふと、錯覚さえ覚えた。
 あの頃のように、生垣の向こうから薬箱を担いだ歳三が覗き込み、声をかけてくれそうな気がしたのだ。
「おいで、宗次郎」
 そう呼びかけながら、悪戯っぽい笑顔で手をさし出してくれた彼。
 思えば、総司が幼かった頃、彼は誰よりも優しく慈しんでくれたのだ。それが、どうしてこんな風になってしまったのか。
 いったい、いつ、二人の道は分かれてしまったのか。
「……」
 総司はゆるく首をふると、縁側から庭へ下り立った。ふり返ってみたが、総司がいたのは小さな家だった。一人住まいにふさわしい小さな家だが、小奇麗で、どこか懐かしい感じがする。
 だが、まったく見覚えがない家である事は確かだった。
 それに、いったいここは何なのか。
 先ほどまで冬だったはずなのに、何故、突然、春になってしまったのか。
 そんな事を考えていた総司は、ある事に気づいた。はっと息を呑んでしまう。
「もしかして、ここは夢の中……?」
 驚くほどはっきりした夢だが、思い当たることはあったのだ。
 うたた寝をする前に願った言葉。
 否、今まで何度も願ってきた。


 いっそ、このまま目が覚めなければいい……


 それが叶えられたというのだろうか。
 なら、自分は永遠にこの夢の中に留まりつづけるのか。
 不思議と、総司は怖いとも不安だとも思わなかった。焦りもまったくなかった。
 この夢の中に留まりつづけるという事自体が、すとんと自分の中に受け入れられるのを感じたのだ。おそらく、それは自分自身が望んだことゆえだろう。
「……」
 総司は青空の下、両手をのばした。あの屯所にいた頃は、こうして手を伸ばすことさえ出来なかった気がする。いつもいつも息をつめるようにして、生きていたのだ。
 愛する男の存在を感じながら、そして、悲しく切なく見つめながら。
 絶望的な恋に溺れていた。
「土方さん……」
 そっと、彼の名を口にした。
 それだけで胸奥にわきおこる激しい恋慕は、真実だ。
 だが、現から逃げ出したいと思ったことも、また事実だった。土方が他の誰かと幸せになる様など、見たくなかったのだ。彼も、その相手さえも殺してしまいそうな自分の激しさ、狂気じみた愛が恐ろしかった。
 総司は縁側に戻ると、そこに腰かけた。
 そして、青空を見上げた。
 春の空は、総司の悲しみも苦しみも何もかも、優しく包み込んでくれる気がした……。













「……何だと?」
 土方はふり返り、眉を顰めた。
 副長室だった。いつもどおり公務をとっていたのだ。
 そこに駆けこんできたのが斉藤だった。いつも冷静で飄々とした彼だが、その時はまるで違っていた。
「総司の様子がおかしいのです」
 入ってきたとたん、いきなり云ってきた斉藤に、土方は目を細めた。
「様子がおかしいとは、いったいどういう意味だ。発作でも起こしたのか」
「そうじゃない。そうではなくて……目を覚まさないのです。さっき部屋に行ってみたら、畳の上に倒れていて、何度揺り起こしても目覚めなくて」
「目を覚まさんなんて事があるか」
「けど、実際そうなのです。あれではまるで……死んでいるようだ」
「――」
 斉藤の言葉に、土方は唇を固く引き結んだ。
 一瞬だけ考えたが、すぐさま立ち上がった。部屋を横切り、出ていく。
 足早に総司の部屋へ向かう副長の姿に、すれ違う隊士たちは慌てて道をあけた。むろん、それらの存在は土方の目に入っていない。
 総司の部屋に入ってみると、斉藤の言葉どおりだった。畳の上に総司が身を横たえている。ぴくりとも動かぬその姿は、まるで死んでいるようだった。
 青ざめた小さな顔に、背中がぞっと寒くなる。
「総司!」
 慌てて跪き、両腕で抱き起した。激しく揺さぶってみたが、まったく反応は返らない。
 長い睫毛は閉じられ、なめらかな頬に昏い翳りを落としていた。微かに開かれた唇からは息がもれ、生きている証はあった。
 だが、反応がないのだ。
 仮死状態であるかのようだった。否、実際そうなのかもしれない。
「斉藤、今すぐ医者を呼べ……!」
 土方は総司を抱えたまま、後ろの斉藤に鋭く命じた。取り乱した声音が彼の中にある感情を露わにしていたが、今はそんな事に構っていられない。
 大切な総司のことなのだ、取り繕う気もなかった。
 斉藤は頷くと、素早く部屋を出ていった。慌ただしい足音が遠ざかっていく。
 それを聞きながら、土方は己が纏っていた羽織を脱いだ。畳の上に広げ、総司の躰を包みこむようにして横たわらせる。
 このままでは身体が冷えてしまうと思ったのだ。
 身をかがめ、なめらかな頬を両手で包み込んだ。冷たい頬に、唇を噛みしめる。
「……総司……っ」
 男の激情を感じさせる声が、空気にとけた。












 夢の中でも時は過ぎていく。
 それが現と同じように流れるのかはわからなかったが、総司には穏やかな日々が過ぎていた。
 夢であっても、ここには沢山の住人がいた。どうやら京であることは確かなのだが、総司がいた現と違い、なごやかな街だった。斬りあいがある事もないし、浪士たちが暴れている所に遭遇したこともない。
 やはり、夢は総司の願いのままになるのか。
 そして、また明らかな違いがあった。この世界に、新選組は存在していなかったのだ。幕府もあるし、京の町並みや住まう人たちの気質も変わらない。
 だが、新選組という存在自体がなかった。


(なら、私たちは江戸にいるのだろうか)


 むろん、これが自分の夢であるのならだった。
 もしかすると、死後の世界かもしれないし、いつか物語で聞いた異なる世界かもしれないのだ。
 だが、どちらでもよかった。
 あの苦しく切ない現でないのならば、何でも構わないのだ。それ程までに総司は追い詰められていた。
 総司は寺小屋を営むことで、生計をたてていた。
 自分から行ったのではない。もともとこの世界でそう決められていたようで、総司が家にいると大勢の子供たちが当然のようにやって来たのだ。
 むろん、子供好きの総司だ、寺小屋の仕事はとても楽しく充実していた。
 子どもたちを教え、子どもたちと一緒に笑う。
 そんな時、ふと思った。


 私は笑うことが出来たのだ――と。


 笑うことなど、もう絶えて久しい行為だった。
 最後に笑ったのは、いつだったのか。
 彼への恋心を自覚した時から始まった絶望と悲しみは、総司から笑顔も幸せも奪い去ってしまったのだ。こんなにも恋が苦しいものならば、いっそ愛さなければよかったと思った。
 だが、自分でどうする事もできない激情なのだ。抑えようとしても、あふれ出てくる彼への想いは、とめる事など出来るはずもなかった。
「……」
 寺小屋の仕事を終えた総司は、買い物をするために家を出た。京の町をゆっくりと歩いてゆく。
 のどかで優しい春の光景だった。
 だが、いつもと何かが違う。人々が妙にざわめいているのだ。
 それを聞くこともなく聞いていた総司は、息を呑んだ。
「え……?」
 耳に入ってきたのは、新しく京都守護職になった会津中将率いる会津軍が入京してくるという事だった。
 ならば、ここは自分たちがいる現より、少し時が遡った世界なのか。
 それとも、まったく違う世界なのか。
 わからぬまま、総司は道の傍に寄った。まもなく会津軍がここを通るため、道を空けるように命じられたのだ。人々はざわざわしながら、見物のため道端にいる。
 見上げれば、青い空が美しかった。
 春特有の柔らかな色合いだ。
 それを感じながら、総司は目を細めた。
 やがて、会津軍が続々と入京してきた。皆、凛々しく武具に身を固めている。徒歩の者がほとんどだが、中には騎乗している武士もいた。
 それらをぼんやり眺めていた総司は、突然、はっと息を呑んだ。信じられぬ想いで、目を見開く。
 会津軍の先頭に近いあたりだった。
 ゆったりと馬をうたせてくる一人の武士が目についたのだ。


 馬に乗っていてもわかる、鍛えられた逞しい身体つきだった。黒い武具を身につけている。
 艶やかに結い上げられた黒髪に、切れの長い目。まっすぐ前だけを見据えた黒曜石のような瞳、引き締まった口許。
 冷たいほど綺麗に整った顔だちだった。だが、弱々しい処など微塵もない。
 果断で容赦ない気質をあらわす、精悍な男らしい彼の姿に、京の娘たちが嬌声をあげているのを感じた。
 だが、総司は呆然と見つめる他なかった。
 何故ならば、それは。
 たった今、総司の前を会津軍の武士として悠然と馬をうたせ、通り過ぎていく男は―――


(……土方…さん……!)


 青い空がより深くなった気がした。