総司にとって、夢のような日々が過ぎていった。
 あんなにも恋い焦がれてきた男と、二人きりで暮らしているのだ。それも、恋人として愛されている。
 夢ではないかと、頬をつねりたくなる程だった。
 土方は、新選組にいた頃が嘘のように優しく快活だった。よく笑うし、総司をからかったり、ふざけたりしている。まるで悪戯っぽい男の子のようだった。
 それが楽しくて愛しくて、たまらない。
 自分にだけ見せてくれる笑顔が、何よりも嬉しかった。
 むろん、わかっているのだ。
 今だけの幸せなのだと。彼が記憶を取り戻してしまえば、二度とそんな笑顔を見せられる事もない。それどころか、もしも今の事が暴かれれば、侮蔑され、土方から冷たい瞳を向けられることはわかりきっていた。
 もしかすると、憎まれるかもしれない。嫌悪されるかもしれない。


(それでもいいと思ってしまう私って、おかしいのかな)


 総司は一人、ほろ苦く笑った。
 無関心であるよりも、ずっといいのだ。隊士の一人としてしか認識されていない事が、どれほど辛かったことか。
 道端に転がっている石に向けるような視線さえ与えられぬのなら、いっそ、憎まれた方がいい。嫌悪され、侮蔑に顔を背けられた方がずっとましだった。
 もともと、総司は愛らしく可憐な容姿とは裏腹に、気性の激しい若者だった。白い花の可愛らしさと共に、迸る青白い焔のような激しさを持ち合わせている。だからこそ、無関心よりも憎悪を望んだ。
 むろん、本当は愛されたい。
 彼に微笑みかけられ、優しく愛されたならと、どれほど願った事だろう。
 だが、それが叶えられぬのなら、いっそ憎まれたいと思ってしまうのが、総司の激しさだった……。













「隼人さん」
 そう、彼の名を呼んだ。
 もう土方さんと言いかけることもない。まだ彼を隼人と呼ぶようになって十日程しかたっていないが、かなり慣れてきていた。
「どうした」
 縁側に坐っていた土方がふり返った。それに、微笑みかける。
「お昼の支度が出来ました」
「あぁ」
 立ち上がり、土方は部屋の中へ入ってきた。その前に膳を並べながら、大きな瞳で見上げる。
「何か考え事でもしていたのですか?」
「なぜだ」
「何度か呼んだのに、気付かなかったから」
「そうだったのか、すまねぇ」
 土方は微かに苦笑した。
「ちょっとぼんやりしていたみたいだ」
「もしかして、あの……」
 ある事に思いあたり、総司は口ごもった。それに土方が訝しげに目をあげる。
 躊躇いはしたが、どうしても不安でたまらなくて、訊ねた。
「隼人さん、何か思い出しかけている…とか」
「……」
 箸をすすめていた土方の手が、一瞬とまった。しばらくしてから、ゆっくりと顔をあげる。
 深く澄んだ黒い瞳が、総司をまっすぐ見た。
「そんなはずあるかよ。思い出していたら、すぐにおまえに話しているさ」
「本当…に? 全然思い出せないの?」
「何だよ」
 土方は悪戯っぽい表情で、総司を覗き込んだ。
「早く思い出せって言わんばかりだな。そんなに思い出して欲しいのかよ?」
「そ、それはそうですよ。だって、隼人さんだって不安だし、大変でしょう? 自分のことがわからないなんて」
「……まぁな」
 頷きはした。だが、土方はそれきり話を打ち切ると、食事に戻ってしまった。
 そっと見やれば、土方は黙々と食事をつづけている。それに、安堵したような、不安なような、不思議な気持ちになった。
 総司もわからないのだ。彼が何を望んでいるのか、このままでいいと考えているのか、それとも早く記憶を取り戻したいと思っているのか。
 もともと新選組にいた時から、彼の考えを掴めたことなど、一度としてなかった。当然の話だ。何しろ、副長、一番隊組長としてしか話した事がないのだから。
 だが、今もそうだった。
 この家で一緒に暮らすようになっても、総司にとって、土方は相変わらず謎の男だったのだ。今の状況をどんなふうに思っているのか、いつまでたっても思い出さない自分に焦る様子もなく、落ち着いている。
 まるで、もう記憶を取り戻しているみたいで……
「……」
 思わず息を呑んだ。


 まさかとは思うが、彼はもう記憶を取り戻しているのではないだろうか。
 ここにいるのは、記憶のない隼人という男ではなく、あの新選組副長である彼なのか。
 土方自身、なのか。
 頭が切れ明敏で、冷徹な男。誇り高く己にも他にも厳しい、果断な気質。
 燃え上がる焔のような激しさをもった。
 彼、なのだろうか……?


 総司は、彼に気づかれぬようにしながら、土方の様子を伺った。
 以前とまったく変わらないように見える。相変わらず、明るく笑うし、すぐ総司にふざけたり冗談を言って笑わせたりする、陽気で快活な彼だ。とろけそうなぐらい甘くて優しい恋人だ。
 思い出しているなど、ありえる話ではなかった。
 あの土方が、こんな状況に甘んじるはずがないのだ。総司の裏切りを知れば、すぐさま怒り侮蔑し、容赦なく切り捨てるだろう。
 振り返りもせず、この家を出ていくに違いなかった。
 今、ここにいて一緒に食事をしてくれるなど、ありえるはずがない……。


 色々と考えていたためか、食事もあまり進まなかった。
 そんな総司に、土方が心配そうな視線を向けてくる。
「大丈夫か、身体の調子が悪いのか」
「ちょっと食欲がないだけです。大丈夫」
「ならいいが」
 土方は眉を顰めつつ、総司の手から膳を取り上げた。
「とりあえず、俺が片付けるから、おまえは休んでいろ」
「え、そんなこと……」
「いいから、ほら、休んでいろって」
 さっさと二人分の膳を土方は片付けてしまった。土間に降り、洗い始める。
 総司は何度も自分がやると言ったが、土方はまったく意に介していないようだった。ごく当然のように片付けてしまう。
 その広い背に、総司は安堵を覚えた。


 こんなにも優しい彼が、記憶を取り戻しているはずがないのだ。
 すべてを思い出した土方が、総司に優しくしてくれるはずがないのだから。


 片付けを終えると、土方は総司と一緒に縁側に腰を下ろした。秋の空だが、今日はとてもあたたかく風も柔らかい。
 それを感じながら、総司は心地よげに目を閉じた。土方がその肩を抱き寄せてくれる。彼のぬくもりが気持ちよかった。この腕の中こそが、自分の居場所だと思ってしまう。
 だが、不意に総司はびくりと肩を跳ね上がらせた。
「!」
 目を開いた総司に、土方も驚いたようだった。
「どうした」
 訝しげに覗きこんでくる彼に構わず、総司は視線を走らせた。誰かがこちらを見ていたのだ。
 明らかに、自分たちを見ていた。すっと、一つの影が角へ消えるのを見た気がした。
「……」
 言い知れぬ不安がこみあげた。きつく唇を噛みしめる。
 総司は立ち上がると、両刀を手にとった。驚く土方にここへいてくれるように頼み、下駄に足を突っ込む。
 だが、歩き出そうとした瞬間、腕を掴まれた。 
「どこへ行くんだ」
 土方は眉を顰めていた。切れの長い目が鋭く総司を見据えている。
 どこか、切なげなものさえ感じさせる表情だった。
 それに総司は答えた。
「少し出てきます。用事を思い出したのです」
「なら、俺も行く」
「いいえ、隼人さんはここにて下さい。お願いだから」
 総司の声音に、土方は唇を噛んだ。しばらく黙っていたが、やがて、不承不承手を離した。
 微かに、ほろ苦く笑う。
「……わかったよ。おまえの願い、聞かねぇ訳にはいかないからな」
「ありがとう、隼人さん。すぐに戻ってくるから」
 そう言ってから、総司は足早に庭を出た。自分の背を土方が見送っているのはわかっていたが、ふり返らなかった。













 土方が後を追ってはこないかと不安に思いはした。
 だが、大丈夫であるようだった。
 自分も新選組一番隊組長であり、それなりに腕のある剣士だ。人の気配ぐらい読むことが出来た。
 かなり家から離れた処で、相手に追いついた。
「斎藤さん」
 声をかけると、男はふり返った。彼にしては奇妙なぐらい、無表情だ。
 総司は肩で息をしながら、しばらくの間、斎藤を見上げていた。大きな瞳がきらきらと光り、頬が紅潮しているさまは、ぞっとするぐらい美しい。
 愛する男との暮らしを守るため、総司は必死なのだ。
 それがわかるからこそ、斎藤は胸が痛かった。
 ぽつりと問いかけた。
「……オレを斬りに来たか」
 斎藤の言葉に、総司は目を見開いた。微かに唇が震える。
 それを眺めながら、斎藤は笑った。
「土方さんといる処を見られたんだ、当然だよな。おまえにとって、オレは口を封じなければならない存在だ」
「私は斎藤さんを斬ろうなんて、思っていません。ただ、話がしたくて」
「どんな?」
 斎藤は首をかしげてみせた。
「見逃してくれと? 土方さんをあんな所に閉じ込め、隊を混乱に陥れていることを見逃してくれと言うのか?」
「!」
 総司が鋭く息を呑んだ。
 いやな事を言っている、本当に損な役回りだと感じながら、斎藤は鋭く言葉を続けた。
「おまえは土方さんも新選組も陥れようとしている。あの人から全てを奪おうとしているんだ。このままじゃ、土方さんがつくりあげてきた全てが壊れる。それでもいいのか」
「……」
「おまえだってわかっているだろう? 土方さんは、隊にとって大事な人だ。決して失えない人なんだ」
「わかっています、そんな事……!」
 不意に、総司が叫んだ。
「あの人がどんなに大事な人か、どんな立場にあるか、全部わかっている。だって、私もあの人をずっと支えてきたんだもの。愛されないのなら、せめて役に立ちたい、あの人を少しでも支えたいと願って、懸命に頑張ってきた。でも、突然だったんです。土方さんが私のもとへ来てくれた。私を恋人として愛してくれた」
 ぽろぽろと涙がこぼれた。それを拭いもせぬまま、総司は俯いた。
 小さな声で囁くように言う。
「どんなに嬉しかったか、わかりますか? どんなに幸せだったか……まるで夢みたいだと思った。もう死んだっていいと思ったぐらい」
「……」
「確かに、わかっています。あの人が隊にとって大事な人だって、でも、私にとっても大事な人なんです。私の命よりも何よりも、だから……っ」
「だから返さないのか。あのまま、土方さんを閉じ込めておくのか。全てを奪い去って、騙して」
 きつい斎藤の言葉に、何も言い返すことが出来なかった。下を向いたまま、ぎゅっと両手を握りしめている。
 しばらく黙った後、斎藤は静かな声で言った。
「総司、一つ聞きたい。おまえは、それで幸せなのか。あの人のすべてを奪って……それで満足したのか」
「……っ」
 涙に濡れた目を見開いている総司は、まるで幼い子のようだ。それをいたましく感じながら、斎藤は言葉をつづけた。
「オレだって、おまえの幸せを願っているよ。恋い焦がれてきた男と一緒になれた方がいいに決っている。だが、今のおまえは幸せそうじゃない。幸せだと、自分に言い聞かせているみたいだ」
「言い聞かせている……」
「おまえ、本当は不安と罪の意識でつぶされそうになっているのだろう。そうじゃないのか」
「……斎藤…さん」
 深く俯いてしまった。


 確かに、斎藤の言葉どおりだった。
 土方と一緒にいることを幸せだと感じながら、終わりまでの日々を指折り数えている。
 いつ破滅が訪れるか、いつ暴かれるか。
 不安でたまらなくて怖くて、夜も眠れない時があるほどだった。
 先程もそうだ。そんな気持ちでいるため、土方のほんの少しの気配、言葉に、敏感に反応してしまう。つい不安になってしまう。
 自分は、土方から与えられる刃が怖いのだ。
 愛しているからこそ、彼からの刃に、心底傷ついてしまう。
 侮蔑する表情、冷たく刺すようなまなざしを与えられることを、恐れている……。


「……わかりました」
 長い沈黙の後、総司は呟くように言った。
 目を伏せたまま、繰り返す。
「もう全部、終わりにします。私のこの手で……幕を引きます」
「総司……」
「みんな斎藤さんの言うとおりです。斎藤さんの言葉どおり、私、自分に言い聞かせていたのかもしれない。これでいいんだって」
 くすっと笑った。
「でも、やっぱり……疲れてしまいました。伊東先生のこともあるし、このまま隠し通してどうするのか、自分自身でもわからなかった」
「……」
「いい潮時ですよね、これで私も楽になれる。土方さんには全部、話します。私から、それで」
「……その必要はねぇよ」
 突然、後ろから響いた低い声に、身体が凍りついた。
 目を見開いたまま、立ち尽くす。
 男はゆっくりと歩み寄ってきたようだった。だが、身を固くする総司に声をかけることもなく、その傍を通り過ぎる。
 斎藤の前で立ち止まり対峙すると、薄く笑ってみせた。黒い瞳が底光りしている。
「言ったはずだ、俺は。口出しするなと」
「そうですね、けど、オレは口出ししていませんよ」
「これのどこが違う」
「オレは、総司に対して意見しただけです。オレにとって、総司は大切な存在ですから」
「ものは言いようだな」
 肩をすくめつつ、土方は吐き捨てるように呟いた。
 その二人の会話に、総司は身体が震えるのを感じた。次第に、状況が呑み込めてきたのだ。
「……まさか」
 掠れた声がもれた。
「二人とも、全部……知っていたのですか。土方さんも記憶が……」
「……」
 呆然とする総司の前で、土方がゆっくりとふり返った。こちらを見つめ、目を細める。
 端正な顔にある表情は、酷く冷ややかだった。まさに、新選組副長の表情だ。
 それを見た瞬間、総司はすべてを悟った。
「私だけ、だったの? 私だけ……何も知らなかったの?」
 声が上擦った。
「二人とも全部わかっていて、それで、私が一人勝手に落ち込んだりしているの見て、笑っていたの? 馬鹿だ、子供だと、嘲っていたのですか?」
「総司」
 土方が眉を顰めた。こちらへ一歩踏み出し、手をのばそうとする。だが、それより早く、総司は後ずさっていた。
 まだ涙に濡れた瞳のまま、激しく男を睨みつけた。
「近寄らないで! これ以上、私にふれないで」
「……」
「あなたは、私みたいな子供には何をしてもいいと、踏みにじっても構わないと思っているかもしれない。でも、私にだって誇りがある! 人としての感情があるのです……っ」
 そう叫ぶなり、総司は彼らに背を向けた。家へと駆け出していく。
 ぽろぽろと涙がこぼれた。


 自分でもわかっていた。罰があたったのだと。
 己のことだけを考えて、己の幸せだけを求めた罰があたったのだと。
 だが、あまりにも酷すぎた。ずっと不安に思っていたのに、罪の意識に苛まれていたのに。
 なのに、土方はとうの昔に記憶を取り戻していたのだ。そして、斎藤と会い、連絡をとっていたのだ。
 何も知らなかったのは、自分だけ。
 馬鹿みたいに喜んだり悩んだりしていた自分だけ、だった。


 家に入ると、戸を固く閉めきった。
 だが、荒い足音が迫ったと思った次の瞬間、乱暴に開けられる。
「!」
 土方が追ってきたのだ。彼は強引に家の中へ入り込むと、後手に戸を閉めた。
 黒い瞳は熱っぽく、その唇は固く引き結ばれている。
 一歩歩み出ると、低い声で呼びかけた。
「総司」
 それに無言のまま、総司は大きな瞳で真っ直ぐ見返した。