柔らかく手を弄ばれていた。
それに気づき、うすく目を開いた。すると、総司が子供のように無心に自分の手を弄んでいるのが、視界に入ってくる。
朝の乳白色の光に満たされた部屋の中、総司は無邪気に彼の手を弄んでいた。握ったり、指さきに口づけたりしている。
それが楽しそうで幸せそうで、たまらなく可愛かった。まるで、初夜の後の幼妻のようだと思った。自分は所帯を持ったことがないが、婚礼の夜、初めて妻を娶った時、こんな気持ちになるのかもしれない。
今まで他の誰に対しても抱いたことのない気持ちだった。
その理由はわかっている。総司が本気の恋の相手だからだ。長年、それこそ総司が宗次郎と呼ばれていた頃から、愛してきたからこそ、こんなにも幸せなのだ。
甘酸っぱく、どこかくすぐったいような気持ち。
「……おはよう」
声をかけたとたん、総司は目を見開いた。びっくりした顔で彼を見る。
次の瞬間、かぁっと耳朶まで真っ赤になってしまった。恥ずかしそうに長い睫毛を伏せる。
「おはよう…ございます」
本当に、幼妻だ。
いじらしくて可憐でかわいくて。
二度と離したくない。
そんな事を思いながら、土方は総司の頬に口づけた。
「すげぇ可愛いな」
「あ、あの……っ」
総司が潤んだ瞳で彼を見上げた。なめらかな頬が上気し、桜色の唇が甘い果実のようだ。朝からその顔はたまらねぇよなと土方が思っていることなど知らず、訊ねてくる。
「昨日のこと、なんですけど」
「あぁ」
「私、よく覚えてなくて……でも、その、隼人さん……気持ちよかった?」
小さな小さな声で訊ねられた言葉に、土方は思わず頬が緩んでしまった。
自分でも情けないと思うが、可愛くて可愛くてたまらない。俺はとことんこいつに溺れているんだと、自覚した瞬間だった。
その華奢な身体を抱きしめた。耳もとに唇を寄せ、囁きかける。
「もちろん、すげぇ気持ちよかったよ」
「よかった……」
「おまえは? 初めは痛がっていたが、少しは気持ちよくなれただろう?」
「はい」
羞恥に頬を染めながら、総司は頷いた。
それに、ほっとする。あまりにも痛がっていたので、快楽一つあたえてやれなかったのではないかと、心配していたのだ。むろん、怪我はさせていないし、最後の方は甘い声をあげていたので大丈夫だろうと思っていたが。
「なら、またしような?」
そう言うと、総司はびっくりしたように目を見開いた。それから、恥じらいつつもこくりと頷いてくれる。
どこまでも従順で可愛い幼妻だ。
本当は、褥の中でこの可愛い幼妻のような恋人と睦み合っていたかったが、そうはいかない。今朝は斎藤と待ち合わせをしているのだ。
土方は身を起こすと、着替えを始めた。慌てて自分も起き上がろうとする総司を手で抑える。
「今日は休んでいろ。せめて、朝だけはな」
「だって……」
「身体、きついだろうから。やっちまった俺が言うことじゃねぇが、とにかく大人しく休んだ方がいい」
「……はい」
総司は躊躇いがちにだったが、やはり身を起こしてみると辛かったのだろう。おとなしく彼の言葉に従った。
「朝餉は俺が用意するよ。何か買ってくる」
「すみません」
「おまえが謝る事じゃねぇよ」
そう言ってから、土方は部屋を出た。総司がおとなしく寝ているのを確かめてから、戸を開ける。
秋らしい清々しい朝だった。少し歩けば、ある店の角で斎藤が所在なげに佇んでいた。
「待たせたか」
声をかけた土方に、斎藤がふり返った。
「それ程待っていませんよ。総司はどうしています?」
「まだ寝ている」
そう答えてから、土方は切れの長い目をあげた。端正な顔がすっと引き締まる。
冷えた鋭い声音で訊ねた。
「例の方は?」
「色々と画策しているようですが、まだ目立った動きはありません」
「昨日、伊東が総司を訪ねてきた。むろん、俺は顔をあわさぬようにしたが」
「……成程」
斎藤は考えこむような表情になった。少し黙ってから、問いかける。
「どんな会話をしていました」
「私的な事ばかりだったな。別にどうって事もねぇ会話さ」
「……」
どうという会話どころではないだろうと思った。
土方にすれば、伊東は恋敵だ。恋敵が溺愛している若者と親しげに話しているのだ、平気でいられるはずがなかった。
だが、それを口に出すほど、斎藤は愚かではない。
黙っていると、土方がかるく小首をかしげた。
「隊の方は?」
「何とかやっていますよ。けど、あなたの不在は痛いですね。そろそろ帰ってきたらどうですか」
「まぁ、考えておこう」
「土方さん」
斎藤は不意に、きっとした表情になると、彼に向き直った。
「この際だ、言っておきますがね」
「何だ、いきなり」
「こんな状態がいつまでも続くはずがない。このままでは、あなたは全てを失いますよ」
「全てを失う、か」
「そうです。今まで築き上げてきたもの全て、です」
「……」
土方は黙ったまま唇の端をあげてみせた。傍らの壁に凭れかかり、薄く笑っている。
それに、斎藤はかっとなるのを感じた。
「冗談じゃないんですよ」
「あぁ、わかっている。おまえは真面目に話している。だが、生憎、俺は人の指図を一切受けん」
「わかっていますよ。あなたがそういう男だということ。でも」
「わかっているなら、口出しをするな」
冷たく言い捨てると、土方は身を起こした。懐から文を取り出し、それを斎藤に差し出した。
「……これは?」
「近藤さんに渡してくれ」
「中身は聞くなってことですね」
そう言った斎藤に、土方は冷たく笑った。
「聞きたけりゃ、聞いてもいいんだぜ?」
「遠慮しておきます。局長に必ずお渡ししますよ」
斎藤が懐にその文を入れるのを見届けることもなく、土方は踵を返した。総司が待つ家の方へ歩き出してゆく。
それを、きつく唇を噛みしめつつ、斎藤は見送った。
「ほら」
土方は振り返り、その手をさし出した。
それに頬を染めつつ、握りしめる。腰に男の力強い腕がまわされ、ふわりと身体が浮いた。そっと優しく降ろされるが、すぐに肩を抱いて引き寄せてくれる。
周囲の娘たちが羨ましそうに見ているのを感じながら、総司は男に寄りそった。
端正な横顔を見上げ、うっとりと見惚れる。
(土方さんって本当に綺麗……こんな人と一緒にいられるなんて、夢みたい)
秋も深まり、紅葉の季節となっていた。
紅葉狩りに行こうかと土方が言い出し、この清水寺にやってきたのだ。歩いている時、大きな段差があり、それを上がらせるために土方が抱きあげてくれたという訳だった。
清水寺なんて、万一、新選組の者と出逢えば大変だと思ったが、土方が言い出したことに反対できるはずもなかった。第一、反対しても、何故? と聞かれれば、理由を答えられるはずもない。
躊躇いと不安を抱えつつやってきた紅葉狩りだったが、今、総司は美しく鮮やかな紅葉の中、土方と寄りそいながら散策できる幸せを噛みしめていた。
何度、願ったことか。
こんなふうに、彼と一緒に過ごしたいと。
身を寄せあって歩いてみたいと、願っていた。
(また願いが一つ、叶った……)
総司もわかっている。いつまでもこの状況が続くはずもない事を。
いつか、罰は与えられるのだ。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。
ただ、確実に言えることは、今この瞬間は、総司は土方の恋人だった。優しく甘く愛されていた。
それだけでいいと、総司は思うのだ。
叶えられた願いがいつまでも続くことなど、望んではいけない。願ってもいけない。
それよりも、今この瞬間を大切にしたいから。
ひらひらと舞い落ちる紅葉を、手のひらでそっと包みこむように。
「美しいものだな」
土方が紅葉を見上げなら、言った。片手で総司の細い肩を抱いている。
男の身体のぬくもりを感じながら、頷いた。
「そうですね、本当に綺麗ですね」
「おまえみたいだ」
そう言ってから、土方は、いやと首をふった。
「違うな。おまえは紅葉じゃなく、花だ。綺麗な白い花だな」
「花……ですか」
「そういう感じなんだよ。きれいで優しい小さな花だ」
総司はくすっと笑った。
「そんなの言われたの初めてかも。私、いつも花は花でも、薊みたいだって言われていたから」
「薊? あの葉に棘がある奴か」
「そうです」
こくりと頷いた総司に、土方は眉を顰めた。
「誰だよ、そんな事を言う奴。全然、違うじゃねぇか」
「それは隼人さんが私のことを知らないから」
「……」
「私ね、本当に棘だらけなんですよ。いつも身を固くして棘で相手を傷つけて、自分を守ってきたのです。だから、薊みたいだって言われても、別に平気だった。実際、そうだなぁと思ったし」
「総司……」
「言い訳になるけど、仕方がなかったのです。自分を守るためだった」
「……」
その言葉に、土方は新選組の中での総司を思い出していた。
確かに、総司の言葉どおりだった。
総司は斎藤という友人もいたが、どこか誰にも気を許していない処があった。一番隊の隊士たちと談笑したりするが、さり気なく一線を引いていた。ましてや、彼に対しては副長と幹部としての態度を一切崩そうとしなかった。
明るく可愛らしく笑っているくせに、一切気を許していない。少しでも踏み込もうとした瞬間、手酷く傷つけられてしまう。それが周囲にも伝わっていたため、薊などと言われたのだろう。
だが、土方は、その棘にも構わず、総司の心を開かせた男を知っていた。あの男は、総司を棘の中から救い出し、優しくその心を開かせたのだ。
それは目も眩むような衝撃だった。
長い年月、愛してきたのは自分であるはずなのに。ずっと、あの棘を取り払い、心を開かせ、愛したいと願っていた。愛されたいと思っていた。だが、それは許されなかった。どれほど土方が渇望しても、到底なしえない事だったのだ。
なのに、あの男は目の前で易易とやってのけてみせた。
気も狂いそうなほどの嫉妬と怒りが、土方を襲った。たまらなかった、叫び出したい程だった。
愛しても求めても欲しても、決して得られぬそのすべてが愛おしく、そして、憎かった。
なぜ、俺ではなかったのか。
選ばれたのが、どうして、俺ではなかったのか。
わかっている。
俺は、おまえに手をのばす勇気がなかったのだ。ただ見守るだけの立場に甘んじていた。さんざん女と遊んできたくせに、恋を重ねてきたのに、本当に愛した相手には何一つ告げることが出来なかった。
それがあんな事態を招いたのだ。あの男におまえを奪われてしまったのだ。
だが、俺は今、おまえの傍にいる。恋人として。
それが偽りであっても、おまえが他の男を想っていたとしても、それでも。
今、おまえを抱いているのが俺自身である以上、もう二度と間違わない。二度と離さない。
決して。
「……隼人さん?」
気がつけば、不思議そうに総司が土方を見上げていた。
澄んだ瞳に、どこか不安なげ色が揺れている。
それに微笑みかけた。
「何だ?」
「うん……何か考え事をしているみたいだったから」
「あぁ」
土方は悪戯っぽく笑うと、総司の耳もとに唇を寄せた。甘く掠れた声で囁いてやる。
「おまえとの閨のこと……考えていた」
「!」
一瞬呆気にとられてから、すぐさま、ぽんっと音が出そうなぐらい、総司は真っ赤になった。小さな手で男の胸を叩いてくるが、まったく痛くない。
それが可愛くてたまらなくて、両腕で抱きすくめた。髪にくちづけを落とす。
「今すぐ食っちまいてぇ……」
思わず言ってしまった土方に、総司はより赤くなってしまった。恥ずかしそうに、潤んだ瞳で睨みつけてくるが、その様さえ可愛く艶っぽい。
獣のような熱い衝動を抑えつつ、土方は総司の細い身体を抱きしめた。
記憶を失っているからこそ、土方が明るく朗らかで奔放なのだと、総司は思い込んでいるようだった。
だが、違うのだ。これが本来の彼なのだ。
新選組の中で冷徹な副長として振舞っている土方は、つくりあげた彼だった。むろん、長年その状況が続いてきたため、どちらが本当の自分なのか、わからなくなりつつある。
だが、この自分の方が、楽であることは確かだった。副長として振舞っている時、正直な話、自室へ戻る頃にはぐったりと疲れてしまっていた。周囲に対して一切気を許さず、何を言われても表情を変えないように己を自制し、己にも他人にも厳しく振る舞っていく。それは彼の中にある一面であることは確かだったが、それでも、つくっている事も事実だったのだ。
だからこそ、記憶を失ってからは、本来の彼が出ていた。
むろん、記憶を取り戻した今も、それを変えるつもりはない。
(変えれば、総司を警戒させてしまうしな)
新選組にいる時のような態度、雰囲気を、少しでも見せれば、すぐさま気づかれてしまうだろう。この愛らしい生き物はとても敏感で、利口なのだ。
夢のような僥倖ゆえに、手にいれることが出来た存在。最愛の恋人。
ここで気を抜く訳にはいかなかった。総司の身も心も、この手中へ完全におさめるまでは、一瞬も気を抜くことが出来ない。
ようやくここまで来たのだ。あとは慎重に引き寄せていくだけだ。もはや彼からは何があっても逃れられぬように、その身も心も溺れこませてしまいたい。
(絶対に……逃がすかよ)
獣が舌なめずりするような感覚で、土方は総司を見下ろした。
せっかく手に入れることが出来たのだ。まさか、総司を恋人にする事が出来るなど、思ってもいなかった。だが、その願いが叶えられたのなら、迷う事など何もない。
総司を騙しているという罪の意識など、欠片もなかった。この愛しい存在が手に入るなら、何を失っても裏切っても構わないのだ。愛しい総司さえ欺くことに、躊躇い一つ覚えなかった。
総司がどんな意図で彼の恋人となったのかはわからない。もしかすると、いずれ伊東に彼の居場所を教え、裏切るつもりなのかもしれなかった。いつ伊東の手の者が襲ってくるか、わからなかった。
だが、それが何だと言うのだろう。今、この瞬間、総司を抱きしめられる喜びに比べれば。
総司が彼を騙し裏切り、死へ追いやろうとしていたとしても、これが彼を陥れる罠であったとしても、それでも構わなかった。もはや何の痛みも覚えない。
もしも伊東の手の者が襲ってくるのなら、逃げるだろう。総司を連れて。
嫌がられても罵られても、連れ去り逃げてやる。
それでいいのだ。
この世のすべてを敵にまわしても、誰よりも愛する総司に憎まれても。
それでも。
「隼人さん、あのね」
不意に、総司が細い身を寄せた。大きな瞳で見上げてくる。
ちょっと躊躇ってから、つま先立ちになった。彼の肩に手をかけて耳元に唇を寄せると、小さな声で囁いてくる。
「私も……だから」
「え?」
「私も、あなたが欲しいです。隼人さんをいつも感じていたいから」
「……」
一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに低く喉奥で笑い、愛しい恋人の身体を引き寄せる。
これが偽りであってもいい。
裏切られても構わない。
何があっても、この想いだけは決して変わらないから。
……愛している。
土方は腕の中の総司を抱きしめた。
そして、固く瞼を閉ざしたのだった。
次でどーんと展開します。