記憶が戻ったのは、つい先日のことだった。
 総司の恋人になってから、数日たったある夜。
 夜中に目が覚めた。
 ひどく喉が乾いてしまい、傍で眠る総司を起こさぬように褥から抜け出した。まだ契りは交わしていないが、一つの褥で共に眠るようになっていたのだ。


(けっこう苦行だよな)


 すやすやと子どものように眠る総司の愛らしい寝顔に、苦笑した。


 記憶さえない自分を、恋人として受け入れてくれた総司に感謝はしているが、今ひとつ恋人という言葉の意味を理解しているのか、わからない処があったのだ。
 何しろ、二人はまだ接吻さえしていない、清らかな仲だ。
 だが、無理やり奪おうとは思わない。こんな自分を傍においてくれるだけでも有り難いのに、その上、好きになった自分を受け入れてくれたのだ。
 これ以上、自分から強く求める訳にはいかなかった。少しずつ二人の仲を深めていければいいと、思っている。


 そんな事を考えながら、土方は土間に降りた。
 水瓶の蓋をあけ、柄杓で水をすくう。飲んでから、ふと月の光が射し込んでいることに気づいた。ふらりと庭へ出てみる。
「……綺麗だな」
 秋の月だった。
 朧げに浮かんだ月が美しく、儚い。
 それに目を細めた瞬間、ある声が響いた。


『綺麗、ですね』


 澄んだ声だった。
 振り返れば、渡り廊下に一人の若者が佇んでいた。だが、その声は自分に向けられたものではない。傍らの別の男に向けられたものだった。
 若者は男を見上げ、にこりと微笑んでみせた。
 花のような、愛らしい笑顔。
 心許した者にだけ見せるその笑顔に、息苦しいほど胸が痛くなった。それと同時に、どす黒い程の怒りと嫉妬がこみあげる。
 二人はまるで自分に気づいていないようだった。否、気づくはずもないのだ。
 廊下の陰にいる男になど気づくはずもない。
 愛しあう至福の恋人たちには、互いしか見えていないのだから。
 立ち尽くす彼に気づくことなく、二人は幸せそうに身を寄せ、歩み去っていった。男の手が若者の細い肩を抱き、若者も従順に身をあずけている。何か甘えた声で囁き、笑う気配がした。
 それらすべてが、土方を地獄に突き落とした。


 わかっている。
 己には嫉妬する資格もないことなど。
 さして親しくもない総司が恋人と睦み合おうと、何をしようと、彼には関係のない事なのだ。長い年月、それこそ初めて逢った時から愛してきた、深く深く溺れこむように愛してきた彼の想いなど、一顧だにされないのだ。
 だが、それでも苦しかった。辛かった。気が狂いそうだった。


 あれは俺のものだ。
 誰もさわるな、ふれるな。
 俺だけのものだ、総司……!


 どれ程の名誉、地位、金を手にいれても。
 美しい女に囲まれ、すべてを手にいれても、それでも尚、土方が本当に心底欲した唯一つのものは、決して手に入らなかった。
 その事実ゆえの絶望は彼を呑み込んだ。
 しかし、土方は決してそれを表に出そうとしなかった。今までと同じように、己の気持ちも想いも何もかも奥底に封じ込め、生きてきたのだ。
 むろん、それは辛く苦しい日々だった。いくら冷徹に振舞っていても、恋となれば、やはり彼も若い男だ。仕事のように割り切る事など、出来なかった。
 だからこそ、総司が隊を離れた時、土方は安堵の吐息をもらした。これ以上、あの男と寄りそう様など見たくなかったのだ。
 だが、日々が過ぎると、すぐさま堪らなくなった。逢いたくて仕方がなくなってしまったのだ。


(まるで花魁に入れ込む男のようだ……)


 そんな事を思いつつ、総司が療養している家へ向かった。何度か外から眺め、総司が休んでいるさまを見守っていたのだ。
 あの日も、総司の家へ向かう途中だった。突然、浪士たちに襲われ、頭を強打したのだ。それ故か、記憶が消えてしまった。
 総司の家へ向かったのは全くの偶然だが、もしかすると、無意識のうちにだったのかもしれない。
 そして。


『……誰?』


 あの瞬間、恋に落ちた。












「……当たり前だよな」
 ほろ苦く笑った。
 あれ程恋し、惚れぬいてきた相手なのだ。逢った瞬間、恋に落ちてしまうなど、当然のことだった。
「……」
 土方はもう一度、月を見上げた。
 当たり前のことだが、記憶があってもなくても、月は変わらずそこにある。そして、美しい。
 まるで、あの儚くも美しい若者のように。


 なぜ、総司が己を偽っているのか、隊へ報せようとしないのか、何もわからなかった。
 何か思惑があるのか。
 ならば、その思惑が知りたかった。
 その思惑が、より一層、彼を傷つけ苦しめるものであっても。


 ゆっくりと家に戻ると、土方は土間から上へ上がった。総司はまったく気づかなかったらしく、ぐっすりと眠っている。
 そのあどけなく愛らしい寝顔を見下ろし、土方は目を細めた。


 総司が彼を偽るならば、己も総司を騙しつづけてやる。
 どこまでいくのかわからないが、それでも、とことんまで総司の偽りにつきあってやろうと思った。
 愛する若者のためならば、この恋のためならば、仕事も己も何もかも捨てて構わない。
 そんな事を言えば、他人は呆れ非難するだろうが、どうでもよかった。
 己は己なのだ。
 己自身が決めた道ならば、それが例え破滅へ続いているものであっても、悔いはなかった。


「……愛してる」
 土方は総司の傍に跪くと、そっと低い声で囁きかけた。身をかがめ、ゆるく細い躰を抱きすくめる。
 それを感じたのか、総司が微かに身じろいだ。夢見ているのか、小さな笑みをうかべる。
「総司……」
 腕の中にあるぬくもりが、この世の何よりも愛しかった。












 日々は静かに過ぎていった。
 あんな事を口にしたくせに、土方は全く手を出してこなかった。
 それが物足りないのか、どうなのか、総司にしてもわからなくなってしまう。
 むろん、土方のことを愛している。愛する男と契りを結ぶことは、至福だった。
 だが、一方で不安になってしまうのだ。同性である以上、娘のように彼を喜ばせることが出来る自信がない。ましてや、何も知らない自分なのだ。


(こんな痩せっぽっちの私なんて、抱いてもつまらないだろうし……)


 総司は桶の水面に映った自分を眺め、ため息をついた。
 それから立ち上がり、桶を運ぼうとする。だが、傍らから手がのび、それを取り上げた。
「隼人さん」
「重いだろう、俺が持って行くよ」
 土方は軽々と桶を持ち、家の方へ歩いてゆく。それを慌てて追いながら、総司は訊ねた。
「外へ出ていたのですか? 家にいると思っていたのに」
「あぁ、少しな。何か用事だったのか」
「何もありません、けど……」
 総司はきゅっと唇を噛んでしまった。


 あれこれ詮索するのもいけない気がするが、不安でたまらないのだ。
 最近、こんな事が多くなっていた。
 ほんの一時だが、ふらりと土方が姿を消すことがあるのだ。
 それも、総司が気づかぬうちにだった。


「どうした、また心配になっちまっているのか?」
 気がつけば、土方が小さく笑いながら覗き込んでいた。桶を置いてから、頬を指さきで突っついてくる。
「それとも怒っているのか。ふくれっ面も可愛いけどな」
「お、怒ってなんか」
「なら、笑ってくれよ。その方がもっと可愛い」
「楽しくないのに、笑えません」
「へぇ。俺と一緒にいても、楽しくねぇのか?」
 ちょっと意地悪な表情で訊ねてくる土方に、本当に頬をふくらませてしまった。
「楽しくないはずないでしょう」
「なら、笑えるだろ」
「もうっ、知りませんっ」
 この人に口で勝てるはずがないのだ。
 そう思いながら、総司は桶の水を水瓶に注いだ。
 その時だった。外で人の気配がした。
「あの、隼人さん」
 振り返れば、彼も気づいていたのだろう。視線を外へ向けていたが、すぐに総司へ戻し、微かに唇の端をあげてみせた。
「……わかっている。中へ入っているよ」
「ごめんなさい」
「当然だ。俺みたいな身元のわからねぇ男、何を言われるかわからねぇものな」
 そう言うと、すぐさま土方は家の奥へと入っていった。しっかりと襖も閉めきる。
 それを確かめてから、総司は家の戸を開けた。
 だが、庭の方を覗いてみたとたん、はっと息を呑んだ。
「伊東…先生……」
 そこにいたのは、新選組参謀の伊東だった。
 秀麗な顔に穏やかな笑みをうかべている。慌てて頭を下げた。
「お久しぶりです、伊東先生」
「近くにまで来たものですから、寄ってみました」
 柔らかな声音で答える伊東をその場に立たせておく訳にもいかず、総司は家の中へ招き入れた。
 立ち寄っただけだからと、伊東は框に腰を下ろすにとどめた。それに、ひそかに安堵する。
「どうです、身体の調子は」
「かなり良いです。発作も起きていませんし」
「そうですか」
 伊東は頷き、しばらくの間、黙っていた。やがて、静かな声で言った。
「今日、私はきみに詫びたくてここに来ました」
「伊東先生……?」
「きみがここで療養する事にした理由を、聞き出そうとは思いません。きみ自身、わからないでしょうし。ただ……」
 目を伏せた。
「あまりにも事が複雑になりすぎました。きみの心を受けとめるつもりが、逆にきみを追い詰める事になってしまった。それをとても申し訳なく思っているのです」
「そんな……違います、伊東先生」
 思わず、総司は首をふった。
「伊東先生が謝られる事じゃないのです。私が弱かったから、堪える事が出来なかったから、ここに逃げたのです。全部、私自身のことです。伊東先生は……とても良くして下さいました。伊東先生がいて下さったおかげで、どれだけ私が救われたことか」
「私は、何も出来ませんでしたよ。それどころか、しがらみの中へ巻き込んでしまった」
「自ら望んだことです。私はそれを悔いていません」
「総司、きみは」
 伊東は微笑んだ。手をのばし、そっと総司の頬にふれる。
「きみは自分を弱いと言ったが、私は、きみほど強い人はいないと思いますよ。一見すれば儚げなのに、奥に誰にも負けぬほどの芯の強さを秘めている」
「伊東先生……」
「きみがここで身体も心も癒やし、また戻ってきてくれることを願っています」
 そう言うと、伊東は立ち上がった。見送ろうとする総司を断り、家を出てゆく。
 総司は戸口に佇んだまま、それを見送った。伊東の姿が視界から消えた後、ゆっくりと家の中へ戻る。
 奥への襖は閉じられたままだった。それに少し不安になる。
 また、いなくなってしまったのかと、思ったのだ。
 だが、そうであれば、探さなければならなかった。伊東に彼の姿を見られることは、とてもまずいのだ。
 しかし、それは杞憂に終わった。
「……隼人さん」
 襖を開いてみると、土方は部屋の中にいた。
 柱を背にして坐り、片膝を抱え込んでいる。僅かに目を伏せ、何事か考え込んでいるようだった。
 襖を開いた総司に気づき、ゆっくりと目をあげる。
 その様に思わず息を呑んだ。
「!」
 ひどく冷たい酷薄な表情だったのだ。底光りする瞳が、総司を鋭く見据えてくる。
 まるで、心の奥底まで射抜くように。
 だが、それは一瞬のことだった。
「……客人は帰ったのか?」
 何事もなかったように、土方は訊ねた。その声も表情も、先ほどの視線の鋭さが嘘のように柔らかだ。
 立ち上がり、軽く伸びをする彼を見つめながら、総司は頷いた。
「えぇ……」
「そうか」
「あ、あの」
 総司は訊ねようとした。
 今の会話、聞いていましたかと。


 この部屋にいたのなら、ある程度は聞こえていただろう。
 だが、記憶のない彼には意味のない会話ばかりだった。
 なのに、自分は何を問いかけようとしているのか。


「先ほどの人ですけど……私の友人なのです」
「……」
 黙ったまま見つめる土方の前で、総司は言った。奇妙なぐらい、言い訳するような口調になってしまったが、どうすることも出来なかった。
「年長の友人で、とても優しくて……私のことをいつも気遣って下さる人だから、それで、ここにも訪ねてきて下さったのです」
「……そうか」
「私、隼人さんに黙っていた事があります」
 総司は顔をあげ、大きな瞳で土方を見つめた。それに、土方が微かに眉を顰める。
「黙っていた事?」
「あの、私、労咳なのです。人にうつる病で、なのに、隼人さんを引きとめたりして……」
「何だ、そんな事か」
 たいした事ではないと言いたげな彼の口調に、驚いた。目を見開いていると、くすっと笑われる。
「そんな事、とっくの昔に知っていたぜ? おまえ、時折、咳をしていたし、ちょっと血を吐いた事もあっただろう。だから、わかっていた」
「知っていて、それで」
「あぁ。それでも、おまえに惚れていたからな。まぁ、俺にうつるかよって思っている処もあるが」
「うつるかよって、うつる病なんですよ」
「だから? 俺に出ていけって言うのか?」
 不意に剣呑な色を帯びた声音に、息を呑んだ。慌てて首をふる。
「そんな事、言っていません。私はあなたに傍にいて欲しいから。でも、あなたが嫌じゃないかと」
「嫌なはずがねぇだろう。俺は、おまえが男でも女でも、病もちでもなんでもいいんだよ。俺は、今、ここにいるおまえを好きになったんだからな」
「隼人、さん」
「あぁ、またそんな泣きそうな顔をするなよ。言っただろう? 笑った方が可愛いって」
 土方は手をのばし、柔らかく総司の身体を抱きよせてくれた。胸もとに優しく抱きすくめられる。
 それに、総司はうっとりと身をまかせた。思わず甘えるように言ってしまう。
「私のこと……本当に好き? 愛してくれている……?」
「当たり前だ。何度も言っただろう、愛していると」
「私を忘れても、その気持だけは残る……ですか?」
 どこか哀しげに呟いた総司に、土方が身を起こした。その小さな顔を手のひらで包みこみ、覗きこむ。瞳をあわせ、低い声で訊ねかけた。
「……信じられねぇか?」
「だって……」
「総司。おまえが信じられないのもわかる。だが、俺はおまえへの気持ちを決して忘れない、失わない。これだけは真実なんだ」
「気持ち……なんですよ。そんなの、自分でどうにかなるものじゃない」
「なら、こうしよう」
 耳もとに、そっと口づけられた。男の吐息が甘やかだ。
「俺がもしもおまえを忘れてしまったら、おまえが俺に逢いに来てくれ。そして、俺の名を呼んでくれねぇか」
「隼人さんと……ですか?」
「あぁ。おまえが今、俺を呼んでくれている名を、俺にあたえてくれ」
「それで……私のことを思い出してくれるの?」
「あぁ。切っ掛けっていうものも、必要だろう?」
 悪戯っぽく笑ってみせる男を、総司は見つめた。


 むろん、信じた訳ではない。
 名を呼んだぐらいで、彼の気持ちが戻るなどありえないのだ。
 だが、一方で、信じたかった。
 仮初めの恋であっても、今、この時だけは幸せでありたかったのだ。


(……土方さん……)


 現では決して呼ぶことが出来ない愛しい男の名を、心の中で呼んで。
 総司は、そっと目を閉じたのだった。 


















次、お褥シーンがありますので、苦手な方はスルーしてやって下さいね。