新しい日々が始まった。
二人はもう他人ではなかった。恋人同士なのだ。
だが、一方で、総司はそれを本当の意味で信じていなかった。愛する男のことさえ、信じていなかったのだ。
確かに愛してる。
彼も、自分を愛してくれる。
それでも、そこに確かさはなかった。仮初めの睦言なのだ。
今の土方は現に生きていなかった。例えて言えば、夢の中にいるようなものなのだ。
土方が総司を選んでくれたのは、仮初めであるがゆえだった。そこが現ではないがゆえだった。
(今、私たちは夢の中にいるも同然だ)
総司は怜悧な若者だった。
だからこそ、冷静に事実を見据えることが出来たのだ。
現であれば、土方が自分を愛してくれることなど、ありえなかった。ましてや、恋を告げ、恋人となることを望むなどあり得なかったのだ。
土方は、新選組副長だった。
昔の江戸の頃の彼とは違うのだ。彼の肩には新選組副長としての重責がかかり、多くの男たちを率い戦い続けている。
味方もいるが、敵はそれ以上の数だった。隊の中にも彼の暗殺を企む者が多々いるに違いない。諸刃の上を渡るような日々を過ごしている土方は、一瞬たりとも息を抜くことさえ許されていなかった。
その彼が、娘ではない、それも隊内の総司に手を出すことなど、ありえるだろうか。もしも心惹かれたとしても、恋人として選ぶなどありえなかった。
彼が思うまま行動するには、あまりにも多くのしがらみに絡みつかれているのだ。
(そもそも、新選組副長として振舞っている土方さんが、私を振り向くなんて、ありえない話だけど)
総司は一人くすりと笑った。
あれほど大輪の花に囲まれている彼が、何の必要があって、こんな自分になど目をとめる必要があるだろう。
今、土方が自分を好いてくれたことも、彼を助けたからだ。彼を助け匿ったからこそ、好きになってくれた。その気持には感謝もあるのだろう。
それに、今の土方は何も持っていない。自分さえ失っている。
(だから、彼は私を好きになってくれた。でなければ、こんな私なんて……彼がふり向くはずもない)
自嘲するように目を伏せた瞬間、不意に後ろから抱きすくめられた。
それに、どきりと心の臓が跳ね上がる。
「ひ……隼人、さん」
声をあげると、柔らかく耳もとに口づけられた。低い声が囁きかける。
「……何を考えていた」
「何を、って」
「ひどく沈んだ顔をしていたぜ? 何か心配事か」
訊ねてくる土方に、首をふってみせた。にこりと笑う。
「そんな心配事なんて、ある訳ないじゃないですか。あなたと一緒にいられて、こんなにも幸せなのに」
「幸せ……ならいいけどな」
吐息をもらした土方に、総司の方が不安になってしまった。慌ててふり返り、彼を見上げる。
「あなたは幸せじゃないのですか? 私と一緒にいて……」
「俺は幸せだ。そうじゃねぇのは、おまえの方だ」
「私……?」
「時々、すげぇ不安そうな瞳をしている。なのに、俺は何もしてやれねぇ。それが、たまらなくなっちまうんだ」
彼の言葉に、どきりとした。
そんなにも自分は不安な顔をしているのだろうか。やはり、彼は彼なのだ。記憶を失っていても、その鋭さは変わらない。
「不安があるとしたら、あなたのことです」
総司は大きな瞳で、彼を見上げた。それに、土方が眉を顰める。
「俺のこと?」
「えぇ。あなたもいつかは記憶を取り戻すでしょう? そうしたら、私のことなんて忘れちゃって、好きになってくれたことも全部なかった事にされるのかなって思ったら……」
「そんな事、あるはずねぇだろう!」
土方の大きな手が総司の背にまわされ、強く引き寄せた。ぎゅっと抱きしめられる。
「俺がおまえのことを忘れるなんて、あるものか。俺は何があっても、おまえの事だけは忘れねぇよ」
「だって……」
「おまえの言いたい事はわかる。だが、この気持だけは忘れない」
「気持ち?」
訊ねる総司に、土方は言葉をつづけた。
「俺がおまえを好きだ、愛しているという気持ちだ。それだけは決して忘れない、俺の中に残り続ける」
「……」
「おまえ自身をたとえ忘れてしまっても、俺は、総司……おまえをずっと愛しつづけるんだ」
泣きたくなった。
声をあげて泣き出してしまいそうだった。
それは、何よりも欲しい言葉だった。
そして。
誰よりも総司自身が求めていた言葉。
永遠なんて信じていない。ましてや、自分は不治の病の身であり、こんな殺伐とした世の中、いつ果てるともしれぬ身だ。
だからこそ、心を求めたかった。心の永遠を信じたかったのだ。
「……信じて、いいの?」
総司は小さな声で訊ねた。
「あなたの言葉、信じてもいい? 私を忘れても、愛してるって気持ちは忘れないって」
「あぁ」
土方は総司の頬を両手のひらで包みこんだ。その濡れたような黒い瞳で見つめてくる。
形のよい唇が囁いた。
「愛してる……この想いは、永遠だ」
「……っ」
総司の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
もう何も望まないと思った。これ以上の幸せはなかった。
いつまでも泣きつづける総司を、土方は優しく抱きしめてくれた。その髪に頬に、花びらのような口づけがあたえられる。
だが、だからこそ、気づかなかったのだ。
総司を抱きしめる土方の瞳が、酷く怜悧な光をうかべていたことに……。
「……隼人さん?」
不意に、総司は自分が一人であることに気づいた。
土間で洗いものをしていたのだが、後ろにある部屋で土方は書をめくっているはずだった。なのに、声をかけようとして振り返ったとたん、息を呑んだ。
そこには誰もいなかったのだ。
「……」
ぞくりとする冷たさが背筋を走った。反射的に土間から走り出て、庭を見回してしまう。
どこにも、彼の姿はなかった。
それを知ったとたん、がくりと膝が折れた。呆然と、その場に坐り込んでしまう。
(全部、思い出してしまったの……?)
いつかは来ると思っていた日だった。
それがまさか、こんなにも早く訪れるとは思っていなかったが。
総司は俯き、ぎゅっと唇を噛みしめた。
その瞬間だった。
「……総司?」
突然、上から降ってきた声に、弾かれたように顔をあげた。
「ひ……隼人、さん」
そこに立っていたのは、土方だった。呆れたような表情でこちらを見下ろしている。
「何をしているんだ、こんな処に坐り込んで」
土方は手をのばし、総司の躰を引き起こしてくれた。だが、それに構わず、総司は彼の胸もとに飛び込んだ。その広い背に両手をまわし、しがみつく。
むしゃぶりつくような総司の激しさに、土方が戸惑っているのはわかったが、どうにも止めることが出来なかった。
「出ていってしまったのかと……もう帰ってこないんだって、思って……っ」
「総司」
土方は優しく総司の華奢な躰を抱きしめてくれた。そっと髪を撫でられる。
「そんなことあるはずねぇだろう? 俺は、ほら、おまえの傍にいる」
「……うん」
「おまえを置いて勝手に出ていくなんざ、しねぇよ」
そう言ってから、土方は片手に持っていたものを、総司の前にさし出してくれた。それに、目を見開く。
彼がさし出したものは、花束だった。愛らしい乳白色の花だ。
「きれい……」
思わずそう呟いた総司に、土方は微笑んだ。
「すげぇ綺麗だろう? さっき、そこに花売りがいてさ、買ったんだ」
「え、でも、お金」
「ごめん、今まで言わなかったが、少しは俺も懐に金を持っていた」
「あ……それは、そうですよね」
総司はこくりと頷いた。
考えてみれば、当然のことなのだ。土方は新選組副長であり、それなりの扶持を貰っていた。まったく一文無しで出かけるはずがなかった。
「ありがとう、隼人さん」
にこりと笑った総司に、土方は安堵したような表情になった。
「よかった、やっと笑ってくれたな」
「え?」
「最近、おまえ、憂い顔ばかりだったからさ。すげぇ心配していたんだ」
「あ……ごめんなさい」
「別に謝る事ねぇけど、俺の恋人になったのが嫌なのかなとか、その、契りのことを心配しているのかなとか、色々考えていた訳だ」
「ちぎり……?」
思ってもいなかった事を言われ、総司は目を瞬いた。だが、次の瞬間、男の言葉の意味を理解する。
かぁぁっと耳朶まで真っ赤になり、叫んだ。
「そ、そ、そんなこと心配した事ありませんっ」
「あぁ、そうなのか」
頷いた土方は、にやりと唇の端をあげてみせた。軽く身をかがめ、総司の顔を覗きこむ。
「なら……今夜にでも、遠慮無く頂いちまっていい?」
そう訊ねかけてくる土方は、もうおかしくなりそうなぐらい格好良くて魅力的で。
濡れたような黒い瞳に、悪戯っぽい笑みをうかべた唇、少し甘く掠れた声。その男らしく精悍で、甘い表情に、くらくらした。
思わず、こくりと頷いてしまいそうになる。
だが、慌てて必死になって防戦した。
「絶対絶対駄目ですから!」
「何で。俺とおまえは恋人同士なんだろう? 契りをかわして当然だと思うけどな」
「ま、まだ早いです」
「早い?」
聞き返した土方に、総司は真っ赤に頬を紅潮させたまま俯いてしまった。小さな声で言う。
「その……接吻もまだなのに、そんな」
「あぁ、成程」
土方は頷いた。そして、総司の顎に手をかけて仰向かせると、目を丸くしている若者の桜色の唇に、ちゅっと素早く接吻した。
「!」
呆然となる総司に、にっこりと綺麗な顔で笑いかける。
「これでしっかり接吻もしたし、次は契りだな」
「な…ななんですか、それっ」
「不満か? なら、もっと濃厚なのをしてやるぜ?」
そう言って抱き寄せてくる土方の手から逃れ、総司は大急ぎで家の中に逃げ込んだ。
何しろ、一連の出来事は庭先だったのだ。
人気は全くなかったが、誰に見られるとも知れないあんな場所で、あんな事をしてしまう彼が信じられない。
土間をあがった処で坐り込んでいる総司に、追ってきた土方が訊ねた。
「どうした、体調でも悪いのか」
「……どうしたも何も、あんな処で接吻するなんて信じられないっ」
「なら、家の中なら良かった訳か」
「そういう事じゃなくて、もう……知りませんっ」
ぷいと顔を背けた総司に、土方がくっくっと喉を鳴らして笑った。不意に、後ろから抱きすくめられる。その胸のあたたかさ、力強い腕に、どきりとした。
「すげぇ可愛いな」
耳朶を甘噛みするようにして囁かれ、頬が紅潮する。
黙ったまま俯いていると、土方が柔らかくあちこちに口づけを落としながら、言った。
「なぁ、総司」
「はい」
「前から聞こうと思っていたんだが、おまえ、俺のこと……好いているのか」
「え?」
きょとんとしてしまった。言われている意味がわからなかったのだ。
「好いているって、あなたのことを?」
「あぁ」
「それは……当然だと思いますけど。私、あなたの恋人だし」
「だが、その……こんな事を言うのも情けねぇ話だが、俺は、おまえから聞いた覚えがないんだ」
「……」
黙りこんでしまった。
確かに、彼の言葉どおりだった。よくよく考えてみれば、流れるように彼の恋人になったのだ。
好きという言葉は言ったが、あれも一度きりだったような気がする。
「えっと、その」
総司はごそごそと身動きして、土方の方へ向き直った。その端正な顔を見上げる。
そして、真剣な顔で告げた。
「あらためて、ですけど。私、あなたのことが好きです。愛しています」
「総司」
「でなきゃ、恋人になろうなんて思いませんよ」
しっかりと念押しするように言った総司に、土方がちょっと眉を顰めた。その不満げな様子に、唇を尖らせてしまう。
「何です、その顔」
「いや、何となくさ。雰囲気も何もねぇなぁと思っちまったんだ」
「雰囲気って……」
「想いを告げられたのに、すげぇあっさりしているというか、まるで仕事の報告みたいな感じが」
「文句の多い人ですねぇ。なら、前言撤回しましょうか」
ぷんっと頬をふくらませた総司に、土方は慌てて手をふった。
「それはやめてくれ。というか、おまえ、本当に俺のことが好きなのか?」
「だから、言っているでしょう? 好きです、愛していますって」
「ふうん……」
「ちょっと、何です、それ。ふうんって。人が一世一代の告白をしたのに」
「とてもそうは思え……」
「何ですって?」
「いや、何でもない」
土方は首をふってから、微かに苦笑した。「まぁ、いいか」と呟くと、総司の小さな頭を手のひらで包みこむようにして、己の肩に引き寄せる。
恋人の華奢な躰を、ゆるく両腕で抱きすくめながら、目を閉じた。
先に気づいたのは、斎藤の方だった。
垣根越しに、部屋で書をめくっている土方に気づいたのだ。
唖然とした顔の斎藤に、土方は目をあげた。こちらは何の驚きもなく、平然とした様子で身を起こすと、物音をたてないようにするりと縁側から降り立ってくる。
外へ出てから、無言で顎をしゃくった。土間で片付け物をしている総司に、気づかれたくなかったのだ。
家から少し離れた処に行ってから、斎藤はそれでも低めた声で詰め寄った。
「いったい、何をしているのです。土方さん」
「記憶をなくした」
「は?」
「実際は少し前に全て思い出したが、総司には未だ、記憶がないという事にしてある」
「……オレにはもう何がなんだか、さっぱりわかりませんよ」
斎藤にすれば、その場にへたりこんで頭を抱え込みたい心境だった。
まさか、ここで逢うなんて思ってもいない男だったのだ。
今、この男を探して隊中大騒ぎになっているのに、当の本人はこんな処でのんびりと暮らしている。信じられない話だった。
きっと顔をあげた。
「とにかく、今までの事は屯所に帰ってから聞きます。今すぐ帰営して下さい」
ごくごく当然の事を言ったつもりだった。だが、土方の答えはにべもなかった。
「駄目だ」
「はぁ?」
「まだ当分、ここにいるつもりだ。総司が何故、俺をここに置いているのか偽っているのか、わからんが、それでも……しばらくは様子を見たい」
「様子を見たいって、じゃあ、隊の方はどうするのです」
「近藤さんには宜しく伝えておいてくれ」
そう言って着物の裾をひるがえし、踵を返す土方に、唖然とした。ここで戻られたら困ると、慌ててその袂を掴む。
「冗談じゃないですよ。近藤さんにも、いったい何と言えばいいのです」
「見たこと、聞いたこと、全部伝えればいい。後は近藤さんが判断するだろう。おまえには迷惑はかけん」
「十分、迷惑かけられているんですけどっ」
思わず叫びそうになった斎藤に、土方は眉を顰めた。静かにしろという仕草で、唇に指をあてる。そうして、ひどく魅力的な悪戯っぽい笑みをうかべた。
男が見ても、ぞくぞくするぐらい格好よい笑顔だ。
「俺とおまえの誼だろう? 見逃してくれよ」
「み、見逃すって」
「まぁ、それ相応の礼はするさ」
そう言うと、土方は、通りかかった花売りに声をかけた。総司が好みそうな白い花を買っている。
そして、それを腕いっぱいに抱えると、さっさと歩み去っていってしまった。
斎藤は呆然と見送った。
結局の処、なんだかんだいって、全部押し付けられた気がするのだが。
いや、気のせいではないような……。
「もう、どうしろって言うんだよ……」
力なく呟いた斎藤の声が、その場にぽつりと響いた。