「! 隼人さん」
不意に、傍らで、総司がはっと息を呑む気配がした。
驚いて見おろしたとたん、腕を掴まれ強引に後ろへ引っぱられる。
「? どうした、総司」
「こ、こっちに行きましょう」
「え?」
「私、こっちに行きたくなったのです。早く……」
ひどく総司は焦っているようだった。必死になって彼の腕を引っぱり、歩き出してゆく。
それに仕方なくついて歩きながら、土方は問いかけた。
「何かあったのか」
「別に何もありません」
「なら、どうして」
「こっちに行きたくなっただけです」
「総司」
土方は総司の手を掴んで引きとめた。その小さな顔を覗き込み、問いかけようとする。
だが、次の瞬間、息を呑んだ。
総司が縋るような表情で、彼を見上げていたのだ。大きな瞳は切なげに潤み、ふっくらとした桜色の唇は微かに震えている。
まるで、何も聞かないで! と懇願されているようだった。
そのいとけない表情に、もう何も聞けなくなってしまう。
「……わかったよ」
しばらく黙った後、土方は答えた。
「わかった。おまえの言うとおりにする。こっちへ行こう」
「隼人、さん」
総司が長い睫毛を瞬き、俯いた。きゅっと唇を噛みしめているさまが、胸が痛くなるほど愛らしくいじらしい。
こくりと頷いた総司を連れて、先ほどまでとは逆の方向へ歩き出した。だが、総司に気づかれぬよう、後ろへ視線を鋭く走らせる。
(……浪士たち、か?)
揃いの黒い着物を着た男たちが数人、路地を歩いていった。
むろん、こちらには全く気づいていない。だが、周囲の人々は彼らを恐れているようだった。さり気なく避けていることからも明らかだ。
どこかの家中の武家とは思えなかった。身なりや振る舞いから、浪士のような印象を受けたのだ。だが、それとも少し違う気がする。
(あいつらは、何だ)
総司が彼らと会わさぬため、道を変えたことは明らかだった。
今も、総司は土方の隣で俯きがちに歩いている。少しでも早く、その場から離れようとしていた。本当は問いただしたかった。
何故、彼らを避けたのか。
いったい、彼らは総司、もしくは土方にとってどんな存在なのか。
「……」
言い知れぬ焦燥と困惑に、きつく唇を噛んだ。
もしも、土方を何かから遠ざけようとしているのならば、総司は彼の素性を知っていることになるのだ。
総司は何もかも知っていながら、黙っている。
困惑せずにはいられなかった。いったい何故なのか、理由もまったくわからない。
土方の素性を黙っていることで、総司にどんな利があるというのか。手間のかかる男を養うことなど、自ら望むとは到底思えなかった。
素性を知っているのなら知っていると告げ、彼の居場所へ戻せばいいのだ。そうすれば手間もかからないし、面倒事に巻き込まれることもない。
なのに、なぜ、総司は彼に素性を告げないのか。知っているのだと、教えないのか。
(俺の思い過ごしなのか)
見下ろせば、総司は小さな白い顔を俯かせていた。
心もち、そのなめらかな頬は青ざめているように見える。ならば、あれは総司が離れたい、逢いたくないと望んだのか。
その方が筋が通っていた。彼を遠ざけるのではなく、自分自身が遠ざかりたいと願ったことならば、よくわかるのだ。
ただ、土方にとって、総司は他にも謎が多い存在だった。
例えば、京の街を歩いていても、ある方角には決して足を向けようとしないのだ。
総司自身が行きたくないのかと思い、自分だけでも行くと言ったとたん、今にも泣き出しそうな顔をされたことがあった。そのため、強いて行く気にはなれず、やめてしまったのだが。
あの方角にはいったい何があるのか。
他にもある。
総司は一体どうやって日々の糧を得ているのか。あのような家を借りて男を養いながらも暮らしていくには、それ相応の金が必要になってくる。とても総司が言うような、寺小屋程度でどうにかなるものではなかった。
なのに、総司は、贅沢とまではいかないが、相応の暮らしを営んでいるのだ。いったい誰が金をだしているのか。
不審に思っていたところに、あの妾話だったため、つい本気にしてしまった。この小さくて清楚で可愛い総司が、誰か他の男に好き勝手されていると思ったとたん、激しい怒りと嫉妬に襲われたのだ。
土方にとって、総司は自分を助けてくれた恩人だった。
だが、それだけでなく、その素直さや可愛さ、優しさにふれるたび、のめりこむように好きになっていく己を知っている。時々、このまま記憶が戻らず、総司の傍にいられるだけでいいかと思ってしまう事もある程だ。
もっとも、それは、ほんの時たまのことだった。
土方の中の何かがそれを否定するのだ。安穏と過ごす日々を、彼の中にある激しさが熱が、堪えられぬと叫んだ。
もともと矜持の高い男だ。野望もある。だからこそ、新選組副長となり、大勢の荒れくれ者の男たちを率い、戦い抜いてきたのだ。
その彼が、今の穏やかな日々に浸り続けることなど出来るはずもなかった。
たとえ記憶を失くしていても、彼の中にある芯の部分は全く変わらない。
そのことは、傍にある総司もよくわかっていることだった。
(こんな日々がいつまでも続くはずがない)
それは、ある日、形となって現れた。
「──総司」
外からかけられた声に、目を見開いた。
傍らで書をめくっていた土方は、訝しげに振り返った。
「客のようだぞ」
「え、えぇ」
こくりと頷いた総司は慌てて立ち上がった。だが、すぐに土方に対して頼み込んだ。
「あの、すみませんけど、隼人さん、この部屋から出ないでもらえませんか? それから、声も出さないで欲しいのです」
「あぁ」
怒るかと思ったが、土方はあっさり頷いた。苦笑してみせる。
「俺みたいなのを家に置いていると知られるのは、やばいものな。いいぜ、おまえの言いつけに従う」
「本当に……ごめんなさい」
心から申し訳なく思いながら、総司は土方がいる部屋の襖を固く閉めきった。そのまま足早に土間へ降りて、戸を開ける。
「斎藤さん」
思ったとおり、そこには斎藤が立っていた。
少し目のつりあがった印象の、だが、なかなか顔だちの整った若者だ。新選組三番隊組長であり、その剣の腕は総司と並び称されている。
総司の数少ない友人の一人だった。
「ちゃんと療養しているか?」
そう訊ねられ、総司はこくりと頷いた。
「休めていますよ」
「なら、良かったよ。あぁ、これは局長から言付かったものだから」
斎藤が手渡してきたのは、当座の生活費だった。近藤のことだ、多めに包んだのだろう。ずしりと重さが手にかかった。
「こんなに……」
「近藤さんも心配なのさ。早くおまえに戻ってきて欲しいという気持ちもあるだろうし」
「私なんか、役にたちませんよ」
「いや、今、色々とあってさ。近藤さんも大変なんだ」
「色々……?」
「……実は」
一瞬、斎藤は躊躇った。だが、これ程の重大事を一番隊組長である大幹部の総司が知らないということは、まずいと思ったのだろう。
意を決し、告げた。
「副長が行方知れずになった」
「……」
「五日前から、行方がわからないんだ。あちこちに探索の手が離れているが、まったく手がかりが掴めない」
「……」
「むろん、あの人のことだ、脱退など考えられないし、浪士たちの襲撃にあったとしか考えられないんだよな……総司?」
黙り込んでいる総司を気遣ったのだろう。
斎藤が慌てて、明るさを装った声でつづけた。
「いや、きっと無事だから。あの人のことだ、すぐ戻ってくるさ」
「……斎藤さん」
小さな声で呼んだきり、総司は唇を噛みしめた。そのまま黙り込んでいたが、やがて、ぽつりと言った。
「斎藤さんは、私の気持ち……知っているのですか」
「たぶん」
斎藤は頷いた。
「たぶん、知っていると思う。おまえがどんな気持ちで、あの人を見ていたか」
「どうして」
「オレもおまえを見ていたから」
そう言った斎藤に、総司は驚いたようだった。それに言葉をつづけた。
「言っておくけど、オレはおまえに気持ちを無理強いするつもりないから。おまえ、今それどころじゃないだろうし」
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。それより、おまえはまず身体を大事にしろよ。早く戻ってきてくれるのを、皆が待っているからさ」
「ありがとう、斎藤さん」
にこりと笑った総司を、斎藤は眩しそうに見つめた。それから、背を向けると歩み去ってゆく。
それを見送り、戸を閉めながら総司は吐息をもらした。
土方が行方不明になってから、五日。
騒ぎになるのは当然のことだった。
何しろ、新選組は、副長である土方が支えているようなものなのだ。
局長は彼の友であり、総司の師でもある近藤だが、それは外向きのことだ。内向きはすべて土方が統括し、隊を引き締めていた。そのため、鬼だと憎まれ指弾の的とされていたが、土方は冷徹な副長として振る舞い続けていたのだ。
その土方が行方をくらましている今、近藤が心配する事は当然であり、隊が混乱することも明らかだった。
土方を騙してここに閉じ込めつづけるということは、彼自身が心血を注ぎ創りあげた隊を、壊そうとしているも同然なのだ。
総司は鋭く胸が痛んだ。
(私はなんて身勝手なの……)
己の恋のために、彼の何もかもを奪おうとしている。
それが罪であることを知っているくせに、多くの人を嘆かせることを知りながら、それでも。
彼の傍にいたいと願ってしまう自分は……
「……総司」
不意に、低い声で呼ばれ、はっと我に返った。
見れば襖が開かれ、そこに土方が佇んでいる。鋭い瞳で総司を見つめていた。
それに息を呑んでしまう。
「あ……」
「今の話は何だ」
鞭うつような声音で問われ、びくりと躰が竦んだ。
冷徹な副長として振舞っていた土方そのものの、口調だった。張りのある低い声。鋭くこちらを見据えている瞳。微かに顰められた眉に、固く引き結ばれた形のよい唇。
記憶を失ってから見せてくれていた、甘く明るい彼とはまるで別人だ。一瞬、記憶が戻ったのかとさえ、思った。
だが、彼がつづけた言葉に、すぐさまそれが違うことを知らされた。
「あの人とは、誰のことだ。おまえはそいつのことを、想っているのか」
「……っ」
何と答えればいいのか、迷った。
だが、まずは確かめておきたいと、訊ねる。
「隼人さん、話を聞いて……いたのですか?」
「悪いと思ったが」
とたん、気まずそうな表情になり、土方が答えた。
「後ろの方だけだがな。つい聞いちまったんだよ」
「後ろの方……」
「おまえの気持ちがどうのという声が聞こえてさ、つまり、その」
土方は目を伏せた。
「俺は、おまえの事が気になって仕方ねぇんだ。正直な話、惚れていると思う」
「えっ」
「そんな驚く事ねぇだろ?」
「驚きますよ」
「いやか?」
「それは違いますけど、でも」
口ごもる総司に、土方が顔をあげた。その濡れたような黒い瞳で、まっすぐ見つめてくる。
「俺はおまえが好きだ、惚れている。だから、つい話を聞いちまったんだよ」
「隼人さん……」
「なぁ、教えてくれ。おまえは好きな奴がいるのか。そいつのことを話していたのか」
「違いますよ」
ゆるく首をふった。ちょっと黙ってから、微笑んでみせる。
「好きな人のことじゃなくて、その、親しくしている人のことなのです。それに、私には好きな人なんて……」
いない、と言いたかった。
この世の中で愛している人など、いないのだと。
だが、どうしても言うことが出来なかった。
たとえ、その場限りの偽りであっても、こんな罪を重ねていても、愛する人がいないと告げることは出来なかったのだ。
そのまま俯いてしまった総司に、土方は眉を顰めた。歩みよってくると、その細い肩に手をかける。
柔らかく抱き寄せながら、囁いた。
「すまない」
「……どうして、隼人さんが謝るの」
「俺が余計な事を聞いちまったからだ。おまえが誰を想おうが勝手なのにな。おまえを俺が好きになった途端、独占したいと思っちまった。身勝手な話さ」
苦々しく呟く土方の腕の中で、総司はゆるく首をふった。
「身勝手なんかじゃない……誰だって、そう思うでしょう? 恋をしたら、独り占めしたいって」
「総司……」
「いいのです。私、あなたになら……隼人さん、あなたになら独り占めされてしまいたい」
「……」
土方の目が見開かれた。信じられぬことを聞いたように、総司を見つめている。
それに、微かに笑ってみせた。
「そんな驚かないで。あなたが望んだことじゃなかったの? それとも……私のうぬぼれですか」
「自惚れのはずがねぇだろう。けど、本当にいいのか」
「はい……」
「総司」
土方は総司の細い躰を抱きすくめた。その柔らかな髪に頬を擦りつけ、目を閉じる。
「好きだ……初めて逢った時から、好きだった」
「隼人さん」
「何も持っていない、己自身さえ覚えていないこんな俺なのに……おまえを欲してもいいのか。傍にいてくれと、願っても構わねぇのか」
「私の方こそ……」
総司は、細い指さきで彼の頬にふれた。大きな瞳で、その端正な顔を見つめる。
「傍にいて欲しいと、願っています。あなたがずっと傍にいてくたら……と」
「総司……」
「私は、あなたが好きだから。傍にいて欲しいから」
こんなにも、私はあなたを愛してる。
偽り騙し、裏切って。
その罪の重さに震えながら、それでも。
あなたを欲してしまう。
狂うぐらい愛してしまう。
(恋する事こそが、罪なの……?)
抱きしめる土方の腕の中で、総司は唇を噛んだ。
そして。
想いを振り払うように、愛しい男の背に手をまわし、目を閉じたのだった。