慌てて彼の袂を掴んでいた手を離し、立ち上がった。
「私、夕飯の用意をしてきますっ」
「おい、怒ったのかよ」
「知りませんっ」
「可愛いなぁ」
……また、可愛いって言われた。
総司は真っ赤になった顔を隠すように背を向け、大急ぎで土間へ降りた。
信じられない言葉だった。ましてや、相手は土方だ。いくら記憶がないからと言って、こんな事を言ってもらえるなんて考えてもみなかったのだ。
土方にとって、総司はただの一隊士にすぎぬはずだった。美しく艶やかな花に囲まれている彼が、こんな痩せっぽっちの自分に目をとめるはずもない。可愛いなど、言ってもらえるなどありえるはずがなかった。
だが、隼人として今ここにいる彼は違った。明るく笑いながら、可愛いとか、別嬪だとか、楽しげに言ってくれるのだ。
もしかすると、助けてもらったための世辞かもしれなかったが、それでも良かった。彼といて、こんなに嬉しい幸せな気持ちになったことなど、一度もなかったのだから。
むろん、副長として振る舞う土方と対していて、嫌な思いをした訳ではない。
土方は総司に対して冷たくあたる事もなく、ただ淡々と公的な事について述べるばかりだった。恋焦がれている総司にすれば、ほとんど視線も向けられない、他の隊士たち同様の副長としての表情しか見せない彼は、とてもとても遠い存在だ。
だが、今、ここにいる土方は違った。
笑いかけてくれるし、その深く澄んだ黒い瞳でまっすぐ総司を見つめてくれる。
(ずっとずっと、こんな時が続いたらいいのにな)
そんな事を考えながら、総司はせっせと夕飯の用意をした。
出来上がった食事は我ながらなかなかの出来で、総司は安堵しながら膳を運んだ。膳の上に並べられた料理に、土方が嬉しそうに笑う。
「すげぇな。うまそうだ、おまえ、料理が上手いんだな」
「それ程でもないんですけど……どうぞ、召し上がって下さい」
頬を染めつつ言った総司の前で、土方は箸を手にとった。きちんと手をあわせて「いただきます」と言ってから、食事を始める。
すぐに、明るい声で言ってくれた。
「美味いよ。すげぇ美味い」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ。このお浸しも味噌汁も、本当に美味い。いや、全部、どれも美味いよ」
手放しで褒めてくれる土方に、総司は頬が熱くなるのを感じた。
嬉しくて嬉しくてたまらない。
総司は土方と向き合って食事をしながら、色々なことを話した。
話してみてわかったことは、土方が自分のことは全部忘れているが、世の中のことや地理、時代などはほぼ覚えているという事だった。
「俺、たぶん、侍なんだろうな」
食事の後、土方は少し考え込みながら言った。傍らの刀を眺める。
「こんなすげぇ刀持っているんだし、身なりもそうだし」
「でしょうね……」
「どこかの家中なのかな。浪人って感じはしねぇし」
確かに、彼の言うとおりだった。
土方は上質の黒い羽織に袴、小袖という格好に、両刀を差していた。どちらも名のある剣であり、その辺りの浪人風情が持てるものではない。
身なりから言っても、浪人と思えぬことは確かなのだ。
だが、どこかの家中という訳でもないのだが……
「それにさ、言葉からして、たぶん……東の生まれなんだろうな。こっちの言葉とは違うし」
「はぁ、そうですね」
「おまえもだよな。おまえも、東の生まれだろ?」
「えぇ」
こくりと頷いた総司に、土方はあらためて気づいたようだった。
「そう言えば、おまえは? おまえはどこかの家中の者なのか? それとも、浪人?」
「浪人、ですね」
総司はとっさに考えた偽りを口にした。
「もとは白河藩士でしたが、ゆえあって浪人となりました。今は近くの家で寺小屋を開いたりして生計をたてています」
「そうなのか」
土方は何の疑いもなく、信じたようだった。そのあたりも、新選組副長だった彼とは違う。
むろん、それは当然のことだった。新選組副長の日々は、諸刃の上を渡るような緊張を強いられるものだ。その土方が誰の言うことも無条件に信じていれば、命を奪われてしまう可能性さえあった。
食事を終えた二人は後片付けをし、風呂に入った。
小さいながらも風呂がこの家にはあるのだ。そのことに、土方は少し驚いたようだった。銭湯にいく事が普通であり、よほどの家でないかぎり風呂などないものだからだ。
だが、この家は近藤が総司のために設えさせたもので、気楽に養生できるようにと風呂も用意されてあった。
総司は慌てて弁明した。
「この家は借り家で……知り合いのものなので、とても安く借りることが出来ているのです」
「なるほど。けど、助かるよ」
土方は笑い、さっさと風呂に入っていった。先に風呂をすまさせてもらった総司はそれを見送り、着替えを探す。総司のものでは小さいだろうが、少し大きめの着物を取り出した。
風呂から出てきた土方はそれに袖を通したが、小さく苦笑した。
「やっぱり、小せぇな」
「ごめんなさい」
「え、おまえが謝る事じゃねぇだろう? おまえの着物、貸してもらっているんだから。文句言った俺の方が悪いのさ」
土方は敷いた布団の上に胡座をかいた。幸いにして、客が来た時のためにと布団は二組あったので、問題はない。
まだ少し濡れている髪を手ぬぐいで拭いながら、土方が言った。
「明日の朝、出ていくよ。迷惑かけたな」
「え」
総司は目を見開いてしまった。固まり、呆然と彼を見上げる。
その表情に、土方は困った顔になった。
「そんな顔するなよ。出ていきづらくなるだろ」
「じゃ、じゃあ、出て行かないで下さい。行きづらいなら、出て行かなければいい」
「そうは言っても、ずっとここに住まわせてもらう訳にはいかねぇしさ」
「いいのです。私、一人住まいだし、別に何の迷惑もかかりません」
「何でまた、俺みたいなのを引き止めるんだろうな。そんなに、おまえ、淋しいのか?」
「……」
男の言葉に、総司は息を呑んだ。
淋しい?
そうなのかも、しれなかった。
喧騒と息づまるような対立、煩わしさから逃げて、この家で療養を始めたはずだった。
なのに、思うのは彼のことばかりだったのだ。
どんなに冷たくされてもいい、一隊士としてしか見られなくてもいい。それでも彼に逢いたかった。彼に逢えない淋しさに、泣き出しそうだったのだ。
「……」
黙りこんでしまった総司に、土方はいらぬことを言ったと思ったようだった。眉を顰める。
「すまねぇ。余計な事を言っちまったようだな」
「いえ、違うのです。ただ、本当の私の気持ちがわかった気がして……それで」
「本当の気持ちって……おまえ、淋しいのか」
もう一度同じ言葉を問いかけられ、総司は俯いた。だが、こくりと小さく頷く。
すると、土方はしばらく黙っていたが、やがて、ため息をついた。
「ったく……仕方ねぇな」
「え」
「当分ここにいるよ、おまえのお言葉に甘えさせてもらうさ」
「本当ですか?」
弾んだ声で訊ねる総司に、土方は苦笑した。
「そんな雨に打たれる花みたいな、いじらしくて可憐な様を見せられて出ていけるかよ」
「か、可憐って……」
「おまえ、すげぇ可愛いし、別嬪だし、可憐でいじらしい花みたいだよ」
男の言葉に、総司は頬をかぁっと染めた。耳朶まで赤くなってしまう。
そんな総司に、土方は目を細めた。
「ふれたらとけて消えてしまいそうな儚さをもっているくせに、どこか凛としていて……俺の好みそのものだな」
「嘘」
とたんに、総司は顔をあげ、反論した。強く強く言い切ってしまう。
「私があなたの好みだなんて、そんなことあり得ませんよ」
「は? 何で、そんなことわかるんだ」
「そ、それは、えーと、たぶんそうだろうなって感じがして。ひ…隼人さんって、色香があって華やかな女の人が似合いそうだし」
「あぁ、俺、そういうの苦手」
即座に、土方が手をふった。それに目を瞬く。
「苦手って、え?」
「だから、そういう派手で色気のある女とか、そういうの苦手だな。俺は、小さくて可愛くて頼りなげで、けど、どこか芯の強い、そういう小鳥みたいな、仔猫みたいなのが好きなんだ」
「……」
信じられない思いで、総司は、まじまじと土方を見てしまった。
記憶を失うと、恋愛対象に対する好みまで変わってしまうのだろうか。
何しろ、江戸にいる頃も京に来てからも、土方の周囲にいたのは皆、艶やかで美しく華やかな女ばかりだった。大輪の花のような女性ばかりを相手にしていたのだ。
なのに、仔猫や小鳥みたいなのが好きと言われても、信じられる訳がない。
「ふうん……変わっていますね」
思わず言ってしまった総司に、土方は小首をかしげた。
「そうか。よくいると思うけどな、俺みたいな好みの奴」
「さぁ……私はわかりません」
「じゃあ、そういうおまえは? おまえはどんな奴が好きなんだ?」
「私ですか?」
いきなり話題を自分にふられ、総司は戸惑ってしまった。どうしようと、あたふたしてしまう。
「わ、私のことはいいじゃないですか。そんな、好みとか、全然ありませんし」
「……」
「とりあえず、寝ましょう。おやすみなさい」
「……おやすみ」
総司の慌てようを訝しく思っただろうが、土方はおとなしく寝床に入ってくれた。活動的な様子を見せていたが、やはり疲れていたのだろう。すぐさま寝入ってしまったようだ。
だが、総司はなかなか眠ることが出来なかった。
何しろ、隣に最愛の男がいるのだ。
ずっとずっと、子供の頃から憧れ、恋い焦がれてきた男が。
好みというのなら、土方のすべてが、総司の好みそのものだった。
その冷たく澄んだ黒い瞳や形の良い唇、鋭く引き締まった頬から顎にかけての線。しなやかな指さきに、すらりとした長身も。
きれいに筋肉のついた身体は完成された大人の男そのもので、まるで美しい獣のようだ。
性格も全部、総司の好みだった。確かに身勝手で冷たいところもあるが、意外と情に脆く優しくて、悪戯な少年のような煌めきも持っている。
端正な顔だちの男なら幾らでもいるだろうが、彼の場合、その燃え上がる焔のような激しさが華となり、人の心を惹きつけてしまうのだ。
だからこそ、よくわかっていた。土方のような極上の男が自分に目をとめてくれる事など、万に一つもありえないのだと。彼が最後に選ぶのは、家柄も良く美しく聡明な女性なのだろう。
(可愛いとか、そういうの……今だけだから。うぬぼれちゃ駄目だから)
総司は布団の中で何度も、そう自分に言い聞かせたのだった。
二人の生活が始まった。
記憶のない隼人としている土方と、浪人と偽っている総司の生活だ。
どこかで綻びが出そうな気もしていたが、意外と上手くいっていた。
ただし、隼人、否、土方は、総司の警戒心のなさに少し戸惑っていた。むろん、受け入れてくれたことは有り難いし、感謝もしている。
だが、この乱れきった世の中、こんな簡単に、見知らぬ男、それも記憶がなく追われて怪我までしている男を、家へあげてしまって住まわせてしまっていいのだろうか。
(俺がすげぇ悪党だったりしたら、どうするつもりなんだ?)
そう聞いてやりたい衝動にかられたが、あどけない笑顔を見ていると、なんだか大人げない気がして黙ってしまう。
総司はいつも元気で明るく、可愛いかった。くるくるとよく働くし、気がきくし、朗らかだ。一緒にいて居心地が良かったし、総司自身にも言ったとおり自分の好みそのものだった。
同性の方が好みなのかとも思ったが、それとも違うようだった。外で美しい女を見かければ、なかなかいいなと思うし、情欲を感じることもある。男に対してそんな気持ちは一切抱いたことがなかった。
だが、総司は違うのだ。
総司だけは無条件に可愛い、好きだと思ってしまう。
男だとか女だとか、そういうものを超えたどこかで惹かれるものを感じていた。
可愛くてたまらない、心の底から守ってやりたいと思う。出来ることなら、この手のひらで包み込んで、幸せだけを感じさせてやりたかった。
(まるで、俺がここに総司を囲っているみたいな気分だな)
本来は逆なのだ。土方が総司の世話になっている状態だった。
もちろん、土方も総司がする家事を手伝うし、色々と出来る限り行っていたが、それでも、総司が生計をたてていることは明らかだった。それに忸怩たる思いもあったが、今はどうしようもない。記憶が全くない状態では稼ぐあてなどあるはずもなかったし、下手に動けば、またあの男たちに襲われる危険もあった。
それでも、土方はそこにとどまり続ける気はなかった。自ら打開していかなければ、事は動かないとよくわかっていたのだ。
「俺、そろそろ外へ出てみるよ」
そう言った時、総司はきょとんと小首をかしげた。
「外って……今も出ていると思いますが」
「そうでなくてさ、俺自身のことを探りたいんだ。もっと京を歩いてみたら、色々とわかるかもしれねぇし」
「……」
とたん、総司が黙りこんでしまった。ひどく衝撃を受けた様子で、きつく唇を噛みしめている。
土方は眉を顰めた。
「? 何かやばいって思うことがあるのか? そりゃ、あの連中にまた襲われるかもしれねぇが、俺だってある程度腕があるみたいだし、それに」
「私がついていっては駄目ですか」
いきなり、総司が強い口調で言った。身を乗り出し、懇願してくる。
「隼人さんが己を探すために出る時、私も一緒についていきたいのです。私も、その、腕に少しは自信がありますから、もしもの時は加勢出来ますし」
「へぇ」
土方は目を見開いた。
「おまえ、腕に自信があるのか。けど、そうだな……おまえなら、鋭い太刀筋だろうな」
「え、どうして、そう思うのですか?」
「何となくだよ。見た目は可愛い花みたいだけど、どこか凛とした処があるだろ。俺、前から、おまえってかなり腕のある剣客じゃねぇかって思っていたんだ」
「……」
総司は土方を見つめたまま、息を呑んでしまった。
(この人は、やっぱり土方さんなんだ……)
記憶を失っていても、その本質は全く変わらない。
まっすぐ真実へ切り込む鋭さも、人を見抜く目も、新選組副長である彼そのままだった。可愛いと笑いかけながら、それなりの剣客ではないかと思っていたなど、考えてもみないことだった。
これでは早晩のうちに、土方は記憶を取り戻さなくても、自分自身を探り当ててしまう気がした。それがひどく怖くて、切ない。
もちろん、総司もわかっていた。
これはいけない事なのだ。
新選組にとって、土方は大事な存在だった。彼がいるからこそ、新選組は存在していると言ってもよい。
その土方が行方不明になっている今、新選組でどんな騒動が持ち上がっているか。あちこちに探索の手が放たれている事だろう。
なのに、その新選組の一番隊組長である自分が、土方をここに隠しているのだ。他の誰の目にもふれさせぬように閉じ込めている。
自分の恋心のために。
事が暴かれれば、どれほどの非難、指弾を受けることか。それでも、総司は止めようとは思わなかった。土方のことを隊に知らせようとは思わなかったのだ。
ただ、願った。
少しでも長く、この幸せが続けばいいと。
この人の傍に一日でも長く、存在していたいと。
(恋って、本当に身勝手だ)
黙りこんでしまった総司に対して、土方は戸惑ったようだった。
「何か、俺、間違っちまったか? まずいことを言っちまったのか?」
「い、いいえ」
総司は慌てて首をふった。
「何でもありません。それよりも、私、ついていっていいですか? 土方さんの外出に」
「あぁ、もちろんだ」
土方は頷いた。