……気がつけば、追われていた。
何故、追われているのかさえ、わからぬままに。
「いたぞ! 奴を逃がすな」
男たちが叫んだ。襲い掛かってくる。
無意識のうちに、刀を抜き放ち、対峙していた。キンと鋭い音が鳴り、手元で火花が散る。鍔元で刃を受け、そのまま押し返した。
男がもんどりうって倒れるのを見る間もなく、走りだす。
逃げる他なかった。
理由もわからず殺される訳にはいかないし、何よりも、敵が多すぎる。
身体が喧嘩の要領を心得ているようだった。否、これは喧嘩などではない、斬り合いだ。
それゆえに、傷を負っていた。頭を強打したのか、鈍く痛み、着物の袂は切られ血が滲んでいる。それでも、彼の身体は軽々と動いた。獣のごとく敏捷に塀を乗り越え、飛び降りる。
降り立ったそこは町家のようだった。きれいに整えられた庭に、小綺麗な家屋が建っている。
彼はその家屋の陰に身をひそめた。男たちは彼の存在に気付かず、走り抜けてゆく。
足音と怒号が遠ざかり、ほっと息をついた。
その時だった。
不意に、人の声がした。
「……誰?」
振り返ると、その家人が気づいたのだろう、外に出てきていた。
まだ日が落ちる前だったので、黄昏時の淡い色合いの光に包みこまれるようだ。
一人の若者がそこに佇んでいた。こちらを見て、大きな瞳を見開いている。
それに、唇の端をあげてみせた。
「すまねぇな。怪我を負っているんだ、少し休ませてもらえねぇか」
「え、それはもちろん……」
慌てて家の中へ誘おうとする若者に、首をふった。
「いや、ここでいい。おまえも怪我を負った見知らぬ男など、家にいれたくねぇだろう」
「見知らぬ男……?」
「気味が悪いなら、すぐに去るさ。気にしないでくれ」
立ち上がろうとした彼に、若者は慌てて駆け寄ってきた。細い指さきが腕にふれる。
「待って下さい。気味が悪いなんてこと、ありませんから」
「無理をするな」
「だから、無理とかそういうことじゃなくて、家に入って下さい。手当をします」
「迷惑じゃねぇのか」
「……迷惑だなんて、思うはずありません」
首をふってから、若者は彼を家の中へ誘った。
外から見たとおり、家の中も小奇麗に片付けられていた。一人住まいのようだが、殺風景な感じはしない。花も生けられ、優しい雰囲気だ。
若者は彼を家にあげると、手早く手当をしてくれた。そうしながら、訊ねてくる。
「これは……斬り合いですか? この近くで?」
「あぁ。気がついたら、追われていたんだ。いきなり斬りつけられて、殺されそうになった」
「……」
「言えば、余計に気味悪がられるだろうが、俺は……その、何も覚えていないんだ」
彼の言葉に、若者は鋭く息を呑んだようだった。
驚いた顔で彼を見つめている。その澄んだ瞳を見返しながら、言葉をつづけた。
「さっき、突然、目を覚ましたみたいな感じでさ。いきなり襲われるし、怪我は負っているしで、俺もちょっと混乱しちまっている」
「……本当、なんですか」
「嘘を言っても仕方ねぇだろう」
彼は微かに苦笑した。その表情を若者は食い入るような視線で見つめている。気味が悪いと思っているのか、家にあげた事を後悔しているのかと思った時、ほっと若者が息を吐いた。
しばらく黙ってから、小さな声で言う。
「何もわからないというのは……不安ですね。これから、どうなさるおつもりですか?」
「さぁな」
かるく肩をすくめた。
「なるようになるさとしか、思っていねぇよ」
「そんな呑気な」
「いや、これが性分なのかな。俺、けっこう今の状況を楽しんでいるんだ。不安というより、なんかさ、自由になったなぁって。天涯孤独、真っ白な処から始めるのも面白いんじゃねぇかって、思っちまう」
「……」
若者は微かに目を見開いた。ちょっと悲しげな表情になってから、長い睫毛を伏せる。
「そう……ですか。自由になった、って感じが……」
「? どうかしたのか」
「いえ、何でもありません」
ゆるく首をふってから、若者は澄んだ瞳で彼を見つめた。
愛らしい中にも凛としたものがある表情に、綺麗な若者だとあらためて思う。
さらさらとした絹糸のような髪に、大きな瞳。真っ白な肌に、なめらかな頬、桜色の唇。華奢な身体に清楚な着物を纏っているが、これで娘の格好でもさせたら、それこそ天女のような愛らしさ、可憐さだろう。
そんな事を考えながら眺めていると、若者は澄んだ声で言った。
「でも、どんなに自由でも、名前はあった方がいいですね。あ、申し遅れました、私は沖田総司といいます」
「総司、か。そう呼んでよいだろう?」
「え……えぇ」
戸惑いがちに頷く総司を見ながら、彼は言った。
「確かに、おまえの言うとおり名はあった方がいいな。あぁ、そうだ、おまえがつけてくれよ」
「えっ」
「適当にでいいからさ。どうせ、思い出す迄だし」
「思い出す迄って、そんなすぐに思い出すことが出来る自信あるのですか」
「そんなことわからねぇよ。けど、とりあえず名がないと困るだろう。だから、おまえがつけてくれ」
「どうして、私が」
「つけて欲しいんだよ、なんとなく」
「じゃ、じゃあ……えーと……」
総司は小首をかしげた。しばらく真剣に考え込んでいたが、やがて、「あ」と声をあげると、一つの名を言った。
「隼人っていうのは、どうですか。隼人さん」
「隼人、か。いいじゃねぇか」
彼は頷いた。こちらを見つめる総司の顔を覗き込むと、にっこりと笑いかける。
「俺は隼人、だ。よろしくな、総司?」
「……よ、よろしくお願いします」
なめらかな頬を紅潮させる総司を、彼、隼人は黒い瞳で見つめたのだった。
……びっくりした。
天地がひっくり返るほどの驚きって、あぁいうことを言うのだと思った。
夕方、療養している家で夕飯の支度について考えていると、不意に、庭先で気配がした。襲撃かと警戒しながら外へ出てみれば、一人の男がうずくまっていた。
こちらを振り返った男の顔を見たとたん、心の臓がどきりと音をたてた。
(……土方、さん……!)
新選組副長として名を馳せている彼は、総司の想い人だった。
長年、それこそ宗次郎として初めて逢った頃から、憧れ、恋い焦がれてきたのだ。
だが、その想いが届くことは一切なかった。
土方は他の道場仲間と同じように接してはくれたが、女遊びが激しく、子供、それも同性になど全く興味がないようだった。当然のことなのだ。この時代、いくら恋愛は男女の垣根などないと言っても、普通は男女での恋愛が主流だ。幼い宗次郎の想いになど、彼が気づくはずもなかった。
京にのぼってきてからは、ほとんど言葉を交わすこともなくなった。
二人とも仕事に忙しくなってしまい、公的には副長、一番隊組長として言葉を交わすことは多々あったが、私的な会話など皆無に等しかったのだ。別に仲が悪いという訳ではなかったが、さして仲が良いという訳でもなかった。
その上、土方は京に来てからも花街で遊んでいるらしく、馴染みの女も多いようだった。妻帯されるよりはいいと思いつつも、それでも心が波立たないはずがない。美しく艶やかな女に寄り添われている彼を見るたび、胸を掻き毟りたいほどの嫉妬に身を焦がした。むろん、そんなこと表に出せるはずもない。
彼への片思いに苦しんでいる最中、隊を二分する騒ぎが巻き起こった。
参謀として入隊してきた伊東が、土方と対立したのだ。
これが総司の立場を変えた。当然のことながら、総司は土方の側にたつはずだった。ところが、気がつけば、いつの間にか伊東の一派となってしまっていたのだ。
もともと、そのような政治的なことに疎い総司は、何も考えることなく、ただ伊東という人物の人柄やものの考え方、感じ方に惹かれ、親しくなっていった。伊東もこの年下の若者を穏やかに受け入れてくれた。
あまりの親密ぶりに、隊の中では念兄弟として噂されていることも総司は知っていたが、事実とは違う以上、別にどうでもよかった。
むろん、伊東が総司に対して、どのような感情を持っているかは、未だわからない。伊東自身、色々な面をもつ複雑な性格の男であるため、総司もその考えが掴めぬことが多々あったのだ。
だが、総司にとって、伊東は尊敬すべき慕わしい年上の友だった。それゆえ、総司は伊東の一派とされ、土方と対立する立場になってしまったのだ。困惑し、戸惑ったが、どうしようもなかった。
総司に向けられる土方のまなざしは冷ややかで、弁解する余地など何処にもなかった。沈んだ表情の総司を心配し、伊東は気遣ってくれた。より二人の仲は親密になり、それが土方との距離を広げることに尚更拍車をかけた。
そんな時だった。
土方と伊東の対立が深まっていく中、総司は近藤のすすめで、隊の外に家をもつことになったのだ。他の隊士たちのような妾を置く休息所ではない、療養するための家だ。体調が優れぬ時など、この家で休むことを近藤に勧められた。
確かに、屯所は騒がしく休んでいることも難しかった。それに、総司も隊の喧騒から離れて静かに一人でいたいと願った。もともと賑やかなことが好きな総司だが、それでも、己を取り巻く状況に少し疲れているのかもしれなかった。
そして、ここ数日、家で療養していたのだが、そこへ飛び込んできたのが土方だったのだ。
驚く総司の前で、土方は明るく笑ってみせた。
まるで、悪戯がみつかった少年のような笑顔だった。
江戸にいた頃でさえ見たことがない、彼の快活な笑顔に、どぎまぎした。
戸惑う総司の前で、土方は意味がわからない言葉を告げた。
見知らぬ男、気味が悪いなど。
理解ができなかったが、とにかく怪我をした彼を放っておく訳にはいかなかった。家にあげて手当をすると、彼はより驚くようなことを言った。
何も覚えていないのだという。
信じられない話だった。自分を騙そうとしているのかとさえ、思った。
だが、土方の表情自体が違ったし、口調も何もかもが違った。明るく朗らかな笑顔、ちょっと投げやりな口調、乱暴な言葉づかい。どれも、見たことのない彼の顔だった。
京にのぼってから、土方はいつも冷徹な副長として振舞っていた。冷たく澄んだ瞳で刺すような一瞥を向け、低い静かな声音で命じてくる。寡黙で表情も冷たく、情など容赦なく切り捨てた。刃を思わせる酷薄な雰囲気を常に漂わせていたのだ。
だが、今、ここにいる彼はまるで違う。
悪戯っぽく笑い、よく喋るし、楽しげにこちらを見つめてくるのだ。
(本当に、この人、土方さん……?)
そう思ってしまう程だった。
顔だけそっくりの別人ではないかと、まじまじと見てしまったが、やはり、彼は土方自身なのだろう。その証に、彼の手首には小さなほくろがあった。同じ位置にあることを、総司はちゃんと知っているのだ。
名をつけてくれと言われた時は困惑してしまったが、すぐに思いついた。
隼人、だ。
土方家の当主が名乗るものだった。これで記憶が戻るかもしれないと思ったが、彼は何も気づいていないようだった。それどころか、「よろしくな」とこちらを覗き込んで、にっこり笑いかけてきたのだ。
その笑顔ときたら、誰もが恋におちてしまうぐらい、魅力的だった。
少し乱れた黒髪が額にかかり、濡れたような黒い瞳がきらきらと光っている。明るくやわらかな笑みをうかべた形のよい唇。うっとりと見惚れてしまうぐらい、格好いい、きれいな笑顔だ。
思わず頬が火照った。
胸がどきどきした。
こんな彼を、こんな状況を、ずっとずっと望んできたのかもしれなかった。
(まるで、私の願いを神様が叶えてくれたみたい……)
夢心地になっていると、不意に、土方が言った。
「じゃあ、そろそろ出ていかせてもらうよ」
「えっ?」
思わず声をあげてしまった。それに、土方がびっくりしたようにこちらを見る。
「何だ、どうした」
「え、だって、手当おわったところですし、それに、あのっ」
総司は一生懸命頭を働かせ、考えた。
「外にはまだ、あなたを襲ってきた人がいるかもしれないじゃないですか。また怪我をするかも」
「……それもそうだな」
「そ、それに、あなた、自分のことも何もわからないのでしょう? なのに、どうやって暮らしていくのですか? 今夜、泊まるところもないのでしょう? だったら、ここに泊まればいいじゃないですか」
矢継ぎ早に告げる総司に、土方は眉を顰めた。
「泊まればって、おまえ、警戒心がねぇのかよ」
「ありますよ! でも、あなたは大丈夫だって思うから、ちゃんとした人だと思うから、泊まって下さいって言っているのです」
「ちゃんとした人って、何だよそれ」
土方は面白そうに声をたてて笑った。それに、ちょっとほっとする。
総司は無意識のうちに手をのばし、土方の着物の袂を掴んでいた。
「今、ご飯の用意をしますから、だから、ここにいて下さいね。勝手に出ていったりしないって約束して下さい」
「なんかさ」
土方は髪を片手でかきあげた。
「俺、すげぇ引き止められているよな。気にいられたってこと?」
「き、気にいられって……」
「まぁ、俺も、おまえみたいな別嬪の可愛い子に気にいられて、悪い気はしねぇけど」
くっくっと喉を鳴らして笑う土方に、総司はかぁっと頬が熱くなるのを感じた。