総司は戸惑わずにいられなかった。


 覚えているに値しないなんて。
 そんなふうに思っているのは、彼の方だとばかり思い込んでいたのに。
 なのに、彼は覚えていてくれたの? あの口づけを、気にしていてくれていたの……?
 あんな一瞬、ただの子どもの莫迦な行動を、この人は……


「……ごめん、なさい」
 総司は小さな声で云った。とたん、土方の躰が強張る。それを感じ、慌てて言葉を紡いだ。
「私、一日だって忘れた事なんてありませんでした。忘れられるはずがありません。でも」
「……」
「土方さんにとって、嫌な事だろうと思っていたから。覚えている価値がないと思っているのは、あなたの方だろうと信じていたから」
「何故、そんなふうに思った」
 低い声で問いかけられ、はっと顔をあげた。
 黒い瞳がまっすぐ総司を見つめていた。逃げを許さないだろう男の態度に、総司は息を呑んだ。
「私は……」
 ぎゅっと手を握りしめた。
「私は、子供だから」
「……」
「あなたに逆らってばかりの莫迦な子どもだから。こんな子どもがした言動なんて、遊び慣れたあなたが忘れ去っていて当然だと思ったのです。それに……」
 口ごもった総司に、土方は促した。
「それに? 何だ」
「取引……だったし」
「――」
 土方の目が細められた。じっと押し黙ってしまった男と、何とか距離をとろうとしながら、総司はまた慌てて言葉をつづけた。
「だ、だって、実際そうだったでしょう? あの時、私も取引の条件にって云ったし、事実、私はちゃんと約束を守りましたし」
「確かにな」
「だから、その、取引成立で終わったと思ったのです。その方がいいと思ったから」
「取引だけで、あんな事をしたのか」
「そう、です」
 総司は顔をそむけ、答えた。
「他に、何か理由があると思うのですか?」
「……」
「それより、手、いい加減離して下さい」
 土方が口角をあげた。
「離せば、また逃げるだろう」
「逃げません。それに、だいたい何ですか、またって」
「あの時だ。俺に口づけした後、逃げ出しただろうが」
「あれは……っ」
 いたたまれなかったから。彼がどんな表情をしているのか、確かめるのが怖かったから。
 何か冷たい言葉でも突き付けられるのではと、怯えていたから。
 たくさんの想いが総司の中で渦巻いた。だが、そのどれも口にだせぬまま、俯く。
「あれは……話が終わったと思ったから、です。逃げた訳じゃありません」
「物も云いようだな」
「何? その嫌味な云い方」
 勝気な総司は、思わず彼を睨みつけた。なめらかな頬を紅潮させ、大きな瞳で見据える。
 すると、土方が息を呑むのを感じた。それを訝しく思いつつも、総司は身を捩るようにして、躰を起こした。するりと手も離される。
 総司はすぐさま立ち上がり、部屋の出入り口近くに下がった。その動きはまるで小動物が、獰猛な獣から距離を置こうとするようだった。
「……」
 素早い総司の動きを、土方は無言のまま目で追っている。
 総司はきつく唇を噛みしめてから、掠れた声で云った。
「もう、お話は終わりですか。だったら、退室したいのですが」
「……」
「副長」
「……わかった」
 土方は嘆息し、片手で黒髪をかきあげた。視線をそらしながら、冷たい声音で答える。
「話は終わりだ。出ていっていい」
「……」
 総司は一礼すると、部屋から出た。障子を閉めて足早に歩きながら、鼓動の激しい胸もとをおさえる。


(何だったの、今のはいったい)


 今頃になって、どうして、急に言及されたのか。その理由さえも、わからなかった。
 ただ、わかっているのは、彼があれを覚えていたこと。忘れてなどいなかったこと。それだけで……
「……それだけでいいよ」
 総司は自分の部屋に駆け込むと、ぎゅっと目を閉じた。
「覚えていてくれて……それだけで、幸せだから」


 小さな小さな幸せを。
 手のひらの中に、そっと握りしめていなければ、生きてゆく事なんて出来ないから。
 あの人を恋しいと、愛していると、一縷の望みもない恋に狂おしく泣きながら、見つめてゆくのは辛すぎるから。
 ほんの小さなことでも、どんな些細なことでも、あの人の笑顔も、声も、話したことも、手のひらの熱さも、みんな、大切な宝物としていきたい。


「土方さん……好き」
 そっと、己の秘めた想いを口にして、総司は祈るように目を閉じた。












「斉藤さん! 斉藤さんは、私と念兄弟だって噂がたっているの、知っていました?」
 昼下がりに、総司の声が響いた。
 構えも躊躇いもない、とにかく単刀直入な質問だ。
 それに、稽古を終えて井戸端で躰を拭いていた斉藤は、呆然としてふり返った。
「……は?」
「だから」
 総司は息を吸い込んだ。
「私と、斉藤さんが念兄弟だって噂……」
「何だそれ!?」
 途中で遮り、斉藤は思いっきり叫んだ。
 やはり、聞いていなかったらしい。えてして、噂というものは、最後の最後にしか、本人の耳に入らないものなのだ。
「オ、オレとおまえが……っ、って、えっ、えぇっ?」
「びっくりでしょ。でも、やっぱり斉藤さんも知らなかったんだ」
「知っていたら、云っているよ!」
「ですよね」
 納得したように総司は頷いたが、斉藤の方はとても納得するところではない。まだその顔には、動揺の色が残っている。
 斉藤は周囲を見回し、総司の腕を掴んだ。強引に物陰へ引っ張っていき、慌ただしく訊ねる。
「いったい、何でそんな噂がたったんだ」
「知りませんよ。斉藤さんの日頃の行いが悪いせいじゃないですか」
「それなら、おまえも同じだろうが。噂の的の片割れなんだぞ」
「まぁ、確かに」
 あっけんからんとしている総司を、斉藤は疑わしげに眺めた。
 年齢より幼く見えるが、これでも、総司はもう二十歳を過ぎている。そのくせ、男女のことなど、色事にはとんと疎かった。その総司が、念兄弟という意味を本当に理解しているのだろうかと思ったのだ。
「おまえ、噂の意味……わかっているのか?」
「わかっていますよ。私と斉藤さんが契りを結んでいるって事でしょ」
「ち、契りっ……」
 思わず絶句してしまった斉藤の前で、総司は桜色の唇をきゅっと尖らせた。
「誰もかれも子ども扱いして。先日、ちょうど原田さんに聞いたところだから、色々とわかっています」
「色々って、何を」
「色々って……色々ですよ」
 ぽっと白い頬を染めて答える総司の様子に、原田さん、何を教えたんだと思ったが、そこは斉藤も怖いので追及しないでおいた。だが、まだ聞いておきたい事がある。
「総司」
「はい?」
「一つ聞きたいんだが、その噂、誰に聞いた」
「え」
 総司は目を瞬いた。斉藤を見上げる。
「誰に聞いたって……あぁ、土方さんですよ」
「……嘘だろ」
 くらりと目眩を覚えた気がする。いや、錯覚ではなく、事実だろう。
 思わず傍の壁に手をついてしまった斉藤を、総司は不思議そうに覗き込んだ。
「斉藤さん? どうしたのです。気分でも悪いのですか?」
 無邪気な声を聞きながら、斉藤は思った。


 平気でいられるこいつの神経が信じられない!


 斉藤が見るかぎり、どう見ても、土方は総司を溺愛していた。
 彼自身は己の情愛を抑え込み、気づかれていないと思っているようだが、同じく総司を愛している斉藤から見れば、一目瞭然だ。
 総司を見つめる男の瞳は、情愛にあふれ、熱っぽさを湛えている。昔からのことだった。それこそ、斉藤が二人に逢った頃から、土方は総司を掌中の珠のように愛していたのだ。
 もっとも、さんざん遊んできたくせに、本気の恋となると別なのか。とんでもなく不器用になってしまった土方が総司に冷たくあたっていた事も確かだ。誰よりも優しくしてやりたいくせに、逆の行動をとってしまう己に歯噛みしたい程の苛立ちを覚えていることも。
 それ故、尚のこと、抑え込まれた情愛は、彼の胸奥で激しく燃えているに違いなかった。
 なのに。


(オレとの噂を総司に教えたって……嘘だろ)


 そう思う一方で、あの時の視線も納得だと思った。
 宴の席で感じた鋭い視線。あれは確かに土方のものだったし、噂を聞いていたからこそ、殺気だったまなざしを向けてきたのだろう。
 だが、まったくの偽りなのだ。それは、斉藤にとって総司は片恋の相手だったが、もちろん、相思相愛になれたらいいなと思う事もあったが、それとこれとは別だ。身に覚えのないことで、土方に殺意を抱かれる謂れもない。
「理不尽だろうが……」
 思わず呟いてしまった斉藤に、総司が小首をかしげた。
「斉藤さん?」
 そう呼びかけてくる総司は、本当に可愛い。細い肩にさらりとかかる柔らかな髪、こちらを見つめている大きな瞳。なめらかな頬、ふっくらした桜色の唇。
 小町娘も裸足で逃げ出す可愛さ、可憐さだった。
 ましてや、自覚がないところがとことん怖い。総司にとって、自分の可愛さも無自覚だし、ましてや、土方からの熱愛も想像すらつかない出来事なのだ。
「……おまえ」
 斉藤は、その顔を見つめつつ、訊ねた。
「土方さんに、その噂を教えられたってのは本当なのか」
「えぇ」
「それで?」
「え?」
「だから、それで、おまえ、どう答えたんだ。何て云ったんだ」
「えぇっと……」
 総司はちょっと考えるように、唇を噛んだ。それから、口早に答える。
「もちろん、違いますって答えましたよ」
「本当か」
「疑っているんですか。私、嘘なんてつきませんよ」
「わかった」
 斉藤は頷きかけて、ふと気がついた。総司が妙にそわそわしているのだ。
 やばい予感が背中を這い上がってくる。
「まさか、おまえ……余計なこと云ってないよな?」
「余計なことって?」
 総司が目を見開いた。その表情が思いっきり怪しい。
「言葉どおり、余計なことだ。そんな事ないって否定した後、おまえが云ったことだ」
「あ、えっと……」
 口ごもり、微妙に視線をそらした。
「云ったことって……あれ、かな」
「あれ?」
「だから、その、斉藤さんと契りを結んでも構わないですよねって……云っちゃったんですけど」
「――」
 斉藤は絶句してしまった。
 まさか、そんな危険な台詞を、総司が土方の前で吐くなど思ってもみなかったのだ。


 よりによって、あの男の前でそんな事を云うなど!
 あの、総司を溺愛しまくっている男の前で!


「……おまえ、よく無事に出てこられたな」
 思わずしみじみと呟いてしまった斉藤に、総司はつんと唇を尖らせた。
「久しぶりに口喧嘩になりましたよ。さんざん嫌味を云われたし」
「口喧嘩や嫌味ですんで良かったじゃないか」
「それ以外なら、何があるというのです」
「い、いや……その……」
 斉藤はもごもごと口ごもってしまった。
 あの総司を溺愛している男のことだ。そんな言葉を目前で吐かれたら、それこそ逆上して、総司を手込めにしそうな気がしていたのだが、意外と理性が固かったらしい。
「とにかく、だ」
 こほんと咳払いしてから、云った。
「二度と頼むから、そういう事は云わないでくれ。とくに、土方さんの前では厳禁だ」
「頼まれなくても、こんな事云いませんよ。でも」
 総司はちょっと不安そうに、斉藤を見あげた。愛らしい上目遣いの表情に、胸がどきりとする。
「斉藤さん……怒っています? 私となんて、嫌だった?」
「まさか!」
 思いっきり断言してしまってから、あ、しまったと思ったが、正直な話、嫌ではまったくないのだ。
「総司と噂たっているって聞いて、焦ったけど……オレは、別に」
「よかった」
 総司はにこにこ笑いながら、言葉をつづけた。
「斉藤さんとおつきあいするのは、難しいけれど、友人なのに、嫌って云われるのも切ないですし」
「……わかるよ」
「ありがとう、斉藤さん。これからも、よろしくお願いしますね」
 無邪気に云ってくる総司に、ため息をつきたくなる。だが、総司は斉藤の気持ちなど全く知らないのだ。知らない以上、友人だと断定するのも当然で。


(複雑だよな、オレも)


 にこにこ笑う総司に手をひっぱられ、斉藤は物陰から歩み出た。
 とたん、背中に鋭いものが突き刺さるのを感じ、息を呑んだ。いや、物ではない。矢でも小柄でもない。殺気じみた視線だ。
 あの時に感じたものと酷似した……
「――」
 おそるおそるふり返ってみれば、土方が縁側に立ってこちらを睨みすえていた。切れの長い目の眦がつりあがり、気のせいでなく、きっぱり殺気を感じさせる。実際、小柄が背中に突き立てられなかったのが、不思議なほどだ。
 だが、それを見たとたん、斉藤の胸にむらむらと怒りがこみあげた。


 好きで好きで仕方がないくせに、冷たくあたったりして、総司の心を遠ざけてきたのはあの人自身の所業じゃないか。
 誰のせいでもない、己自身のせいで、総司をものに出来ないでいるのだ。
 なのに、同じく片恋の斉藤が総司と仲良くしているからといって、どうして、怒られなければならないのか。
 斉藤だって、初めて逢った頃から、総司が好きだったのだ。
 堂々と好きだとあらわして、何が悪い!


 斉藤はくるりと背をむけると、突然、手をのばした。総司の細い肩を抱いてやる。
 驚いたように総司が、斉藤を見上げた。
「斉藤さん?」
「何でもない。それより、総司」
 斉藤はにこやかに笑いかけた。
「おまえが好きそうな菓子がある店を見つけたんだ。これから、覗きに行ってみないか」
「え、お菓子ですか?」
 たちまち、総司の声が弾んだ。総司は可愛いもの綺麗なものも好きだが、お菓子もだい好きなのだ。
 嬉しそうに、斉藤へ身を寄せてくる。
「行きます行きます! 連れていって下さい」
「じゃあ、行こう」
 斉藤は総司を連れて、さっさと歩き出した。後ろからは、相変わらず鋭い視線が突き刺さってくる。だが、しかし。


(いつまでも手を出さないあんたが悪いんだ、土方さん)


 そんな捨て台詞を心の中で吐き、斉藤は総司の肩をより強く抱き寄せたのだった。

















次でどーんと展開します。