「……え?」
土方は目を瞬いた。
一瞬、何を云われたのか、わからなかったらしい。あまりにも、総司の言葉が突飛だったためか。
しばらくの間、土方は切れの長い目で、目の前に坐る総司を見つめていた。沈黙が落ちる。
やがて、おそるおそるという感じで、訊ねた。
「……おまえ、今、何と云った?」
「ですから」
総司は大きな瞳で彼を見つめ、はっきりと云いきった。
「取引の条件を云ったのです」
「あぁ」
「あなたとの口づけです、と」
「……ちょっと、待て」
土方は口早に云った。
「それが条件って、いったい何なんだ。嫌がらせか? それとも、何か他に意味があるのか?」
「……」
珍しいことに、土方は動揺しているようだった。こんな彼を見るのは初めてだと、妙に冷静に総司は思った。
だが、一方で、彼の言葉に腹もたててしまう。
嫌がらせだなんて。
私の言葉を、そんなふうにしか取れない程、嫌われているの?
「何の意味もありませんよ、ただの条件です」
淡々とした口調で、総司は云った。
それから、膝をすすめると、彼の端正な顔を見上げた。
本当に、綺麗な顔をした男だなぁと思う。
きりっとした眉も、切れの長い目も、引き締まった唇、頬から顎にかけての鋭い線にいたるまで、何もかもが大人の男特有の色香を感じさせるのだ。
男前という言葉がこれ程似合う男もいないだろう。女たちが嬌声をあげてしなだれかかるのも、当然だった。
彼がその場に現れると、誰もが視線を向けてしまう。人を惹きつける華があるのだ。
「ただの条件……」
「これを呑んで下さるなら、私はあなたとの取引に応じます。副長を支え、右腕となって働きますよ。もちろん、公の場だけ……ですが」
「……」
総司の棘のある言葉に、土方は形のよい眉を顰めた。その黒い瞳に、剣呑な色がうかぶ。
だが、それに構わず、総司は彼の方へ身を寄せた。膝立ちになると、そっと土方の肩に手をおく。
「いいですか? 黙っているなら、承諾だと思いますよ」
「……」
「口づけ、ますね」
「……」
顔を近づけていく総司に、土方が目をほそめた。
だが、その黒い瞳は揺れていた。彼にしては珍しく、様々な感情が見え隠れしている。
もう少しで口づけるという処で、土方が微かに唇を開いた。
「……総司、おまえ……」
言葉が途切れた。
口づけは、一瞬だった。
まるで羽毛がふれたような、柔らかな口づけ。
思わず目を閉じてしまった土方が、再び目を開いた時、総司は身を引いていた。見下ろせば、どこか潤んだような瞳で見上げられる。
「総司」
手をのばしかけたとたん、するりと総司が逃げた。立ち上がり、何も云わないまま部屋を出ていってしまう。
それを、土方は呆然と見送った。
いくら遊び慣れている彼でも、どう対応していいのか、わからなかったのだろう。
一方、局長室から逃げ出した総司は、屯所までも出てから、ようやく我に返った。顔が火照って仕方がなかった。
「……信じられない」
総司は頬を両手でおさえ、呟いた。
私はいったい何をしたの?
あの土方さんに、私は……
唇にふれた感触を思い出した。
目を閉じていた彼のきれいな顔。口づけた一瞬、総司の背にまわされた手。
そのまま抱きしめて欲しいと願った。
なのに、彼のぬくもりを感じたとたん、身を捩るようにして逃げていた。
怖かったのだ。
彼に何を告げられるのか、抱きしめられるどころか、突き放されるのではないかと怯えた。だからこそ、自分から逃げてしまったのだ。
だが、それよりも、自分から持ち出したあの条件自体、信じられなかった。突然、口に出してしまった想い。
いったい、彼はどう思ったのだろう? あんな事を仕事の条件に出す自分を、侮蔑したのではないだろうか。
「……どちらにしろ、嫌われているけど」
総司は長い睫毛を伏せると、唇を噛みしめた。
その後、総司は約束を守った。
助勤筆頭として副長である土方に従い、彼を支えるようになったのだ。総司は、土方があの条件に対して怒り、相変わらず冷たい態度をとり続けるのではないかと不安だったが、それは杞憂だった。
土方は他の者と変わらない態度で、総司に接するようになり、意見が食い違っても以前のように高飛車な態度に出る事はなかった。周囲が驚くほど、二人の関係は良好なものとなったのだ。
ただし、それはあの時、何度も念押しされたように、公の場のみの事であった。それどころか、私的な場所では、あれ以来、言葉もかわした事がない。
そのため、土方が、あの口づけをどう思っているのか、総司にわかるはずもなかった。翌日、逢った時も、土方はまるで何もなかったように、平然としていたのだ。
「取引、だものね」
総司は呟いた。
斉藤に話したように、弱みを握られている訳ではない。だが、それでも、取引は取引だった。
彼に従う代償に、口づけを求めたのだ。
そんな事、斉藤に云えるはずもなかったが、総司は昨日の会話のことで色々と思い出してしまい、気持ちが塞いだ。ため息ばかりついてしまう。
「沖田先生」
何度めかのため息をついた時、後ろから声をかけられた。ふり返ると、伍長の島田が立っている。
「あ……はい」
慌てて身をおこした総司に、島田が云った。
「副長が呼んでおられます」
「え」
思わず固まってしまった。仕事のことだと思うが、いや、そうに決まっているのだが、今の今まで考えていた相手だけに、咄嗟に反応できなかったのだ。
「副長……が?」
「はい。副長室にいらして欲しいとのことです」
「……わかりました。ありがとう」
丁寧に礼を云う総司に、頭を下げてから、島田が歩み去っていった。それを見送り、ぎゅっと手を握りしめる。
仕事のことで何度も言葉をかわしてきた。だが、それは皆、人目がある前だったのだ。副長室に呼ばれたことなど、一度もない。だからこそ、妙に不安だった。
自分は、ちゃんと振る舞えるだろうか?
また、何かとんでもない事をしでかしてしまわないだろうか?
「……」
不安を感じつつも、行かない訳にはいかなかった。でなければ、言付かった島田に申し訳がたたない。
総司はかるく身なりを整えると、副長室にむかって歩き出した。胸の鼓動がどきどきと鳴っている。指先が冷たくなっているのが、わかった。
副長室の前に来てみると、障子が固くたてられてあった。それに対して、総司は膝をついた。
「……沖田です」
小さな声で云うと、中から「入れ」という声がかかった。
そっと障子を開けてみた総司は、とたん、目を見開いた。中にいたのは、土方だけではなかったのだ。
山崎が何か報告をしている処だったのか、書類を手に坐っている。
「あの……」
思わず躊躇った総司に、土方が視線をむけた。人前でしかありえない、静かな声音で云ってくる。
「あぁ、構わん。山崎君に説明を頼んでいたところだ」
「……」
「どうした、早く入れ」
「はい……」
総司はこくりと頷き、従順に部屋へ入った。少し離れたところに端坐すると、土方が切れの長い目でそれを一瞥した。だが、何も云わぬまま山崎の方を見ると、「それで?」と促す。
山崎は、今、自分が探索している事柄について説明をしていった。それは一番隊組長である総司の仕事にも、関係があるものだった。そのため、時折、土方が総司にも意見を求めてくる。
それに対し、総司は的確に丁寧に答えた。山崎がいる以上、従順な腹心を演じなければならない。
やがて、話が終わると、山崎は一礼し、部屋を出ていった。総司も腰をあげかける。
とたん、声をかけられた。
「……斉藤とは仲が良いのか」
「え?」
突然の言葉に、一瞬、反応ができなかった。
何を云われたのかわからないまま、見返すと、土方は黒い瞳でこちらを見据えていた。だが、見つめ返したとたん、ふっと視線をそらしてしまう。
総司は戸惑いながら、答えた。
「仲は……良いですけど」
「どの程度だ」
「程度と云われても……」
男の言葉の意味がわからないまま、総司は呟いた。それに対し、土方は最近では珍しく不機嫌そうな表情になった。否、私事であれば、こういった表情も総司の前では当然のことなのだが。
形のよい眉を顰め、総司を真っ直ぐ見据えてくる。
「おまえ、噂を知らないのか。それとも、真実だからとぼけているのか」
「噂? 噂って、何です」
「おまえと斉藤が、念兄弟だという噂だ」
「……え?」
総司は目を瞬いた。まさに、晴天の霹靂だったのだ。
頭の中が真っ白になってしまう。
「念兄弟って……え、えぇっ!?」
思わず仰け反ってしまった総司に、土方は少し目を見開いた。その前で、思わず叫んでしまう。
「わ、私と斉藤さんが、念兄弟!? つまり、契っているって事ですかっ?」
「総司、声が大きい」
さすがの土方も慌てたようだった。障子が閉まっているのに、周囲を見回している。
「大声で云う事じゃねぇだろうが」
「だ、だって……」
総司は声をひそめつつ、云った。
「そんな話、聞かされたら、誰だってびっくりしますよ。だいたい、何なんですか、その噂」
「なら、噂は嘘なんだな」
妙に真剣な表情で、土方が訊ねた。それに、こくこく頷く。
「あたり前でしょう? そんな事、ある訳ないじゃないですか!」
「ある訳ないって……事もねぇだろう」
「何、それ」
総司は思わず目をつりあげてしまった。自然と声も上擦る。
「私がそういう事をして、当然って事ですか。斉藤さんと念兄弟になったりするの、ありえると思っていた訳ですか」
「そういう意味で云ったんじゃねぇよ」
「なら、どういう意味です! 土方さんは、私を何だと思っているの? 念兄弟の契りとか、簡単にやっちゃうと思っている訳!?」
「そんな事、思っている訳ねぇだろうが」
「じゃあ、どうしてあんな事を云うのっ」
「……」
とたん、土方は黙り込んでしまった。視線をおとし、唇を噛みしめている。
それにただならぬ様子を感じたが、総司も怒りがおさまっていなかった。そんな軽い存在だと思われていたなんて、腹がたって仕方がなかったのだ。
だいたい、他の男と懇ろになっているのか? なんて、どうして、この人の口から聞かされなければならないのか。
こんな酷い話ってないと思った。
「……」
やがて、土方はため息をついた。片手で髪をかきあげながら、低い声で答える。
「俺は……おまえと斉藤なら、仕方がないかと思ったんだ」
「……」
総司の目が見開かれた。その前で、土方は言葉をつづけた。
「年頃も同じだし、似合いだし、気もあうだろう。そういう事もありえるかもなと、そう……思っただけだ」
「そう思っただけって……」
ぎゅっと両手を握りしめた。
(何、それ)
総司にすれば、そうとしか云いようがなかった。
まさに、何それ? なのだ。
どうして、よりによって、この男に、そんな事を云われなくちゃいけないのだろう。こっちの気も知らないで(いや、知らなくて当然だが)、斉藤との仲を当然のことのように云ってくるなんて。
総司は泣き出したくなってしまった。昨日の今日で、もう何もかも放り出してしまいたくなる。
「……だったら」
思わず云っていった。
「今後、私が斉藤さんとそういう仲になっても、構わないですよね」
挑戦的な口調で云い放ったとたん、土方が勢いよく顔をあげた。黒い瞳で鋭く見据え、低い張りつめた声音で訊ねてくる。
「やっぱり、そういう関係なのか」
「だから、今は違います。今は違いますけど、この先、斉藤さんとそういう仲になることも……」
「絶対に許さん」
「――」
思いっきり断言した土方に、総司は呆気にとられた。
さっきは仕方がないと云っていたくせに、今度は許さない?
いったい、何を云っている訳!?
「許して頂かなくて結構です」
気が付けば、思いっきり冷たい声で云い返していた。
大きな瞳で彼を見つめ、はっきりと告げる。
「私が誰と契りを結ぼうが、そんな事、土方さんには何の関係もないでしょう?」
「……」
「それとも、何ですか。新選組では、恋愛ごとも、副長であるあなたの許可がいるって事になったのですか」
「……」
土方が気まずげに視線をそらした。それに、総司が追い打ちをかける。
「どうなのです。許可がいる事になったのですか」
「許可はいらねぇが……あまり外聞のいい話ではないだろう」
「外聞、なるほど、体面の問題ですか」
総司は、ふうんと唇を尖らせた。自分でも不思議なぐらい、どんどん攻撃的な気持ちになっていく。
「男が相手だから、駄目って事ですよね。じゃあ、妻を娶るのならどうです。これなら、何の問題もないでしょう」
「……妻を娶るのか」
「だから、今、そうだという事じゃなくて、それなら問題ないですよね? っていう念押しで」
「……」
不意に、土方が無言のまま視線を戻した。切れの長い目がまっすぐ総司を見据えてくる。
その視線の鋭さに息を呑んだ次の瞬間、男の手がのびた。あっと思った時には、手首を掴まれ、土方の膝元に倒れ込んでしまっている。
「ひ、土方さん……っ」
慌てて身を起こそうとした総司を見下ろし、土方は目を細めた。低い声で訊ねてくる。
「……おまえは、俺をからかっているのか」
「え」
「さっきから聞いていれば、何だ。斉藤と契りを結ぶといったと思えば、今度は妻を娶るだと? おまえは、俺の気持ちを弄ぶことが、そんなに楽しいのか、えぇ?」
「弄ぶって……」
総司は口ごもってしまった。確かに、彼の云うとおりかもしれなかった。だが、そんなつもりはなかったのだ。売り言葉に買い言葉になってしまっただけだったのに。
「おまえは、昔からそうだ」
土方はじっと総司を見据えたまま、掠れた声で呟いた。
「気まぐれな言動で、男をふりまわしている。その上、自覚がないのだから、始末におけねぇよ。おまえ、考えてみたことがあるのか? 俺が、おまえからの行為で、どう思ったか……真剣に考えたことがあるのか」
「私の行為って……今の?」
「そうじゃねぇ」
きっぱりと首をふってから、土方は少し躊躇った。だが、云いきる。
「口づけだ」
「……」
総司の目が見開かれた。
あんなの、ただの取引だと思われているとばかり、考えていたのだ。否、遊び慣れた彼にとって、瑣末事にすぎないのだと。だからこそ、もう忘れ去られてしまっていると、そう考えていたのに。
「覚えて……いたの」
そう呟いた総司に、土方の目が見開かれた。瞬間、その端正な顔に怒りが走る。
ぐっと、総司の手首を掴む手に力がこもった。
「覚えていた、だと?」
「……」
「そうか、おまえにとって、あれはその程度のものだったのか。覚えているにも値しない事だったのか」
己の愚かさを嘲るように、土方は喉奥で低く嗤った。