秋の空を、鳥がわたってゆく。
稽古後、井戸端で汗をぬぐっていた総司は、ふと顔をあげた。鳥たちを見上げ、目を細める。
「……いいなぁ」
思わず呟いた総司に、傍にいた斉藤が小首をかしげた。
「いいなって、何が」
「あの鳥ですよ。空を自由に飛びまわって、気持ちよさそう」
「あぁ」
斉藤も空を見上げた。だが、すぐに、訝しげに総司の方を見やる。
「鳥が羨ましいなどと、珍しい事を云うな。おまえ、新選組を離れたいのか」
「まさか」
総司は首をすくめるようにして、小さく笑った。
「ずっと、ここにいたいと思っていますよ。ただ、ちょっと気持ちよさそうだなぁと思っただけです」
「何かあったのか」
思わず声を低めてしまった斉藤に、総司は黙り込んだ。それに、思わず眉を顰める。
実際、昨日の夜あたりから、総司の様子はおかしかったのだ。
夕餉の時も箸を落としたり、茶をこぼしたり、いつも行儀の良い総司からは思いもつかない状態だった。
何か考え事をしているとしか思えず、何か心配ごとがあるのかと聞いたが、総司は笑ってごまかすばかりだったのだ。
そして、そのぼーっとした感じは、今日もおさまっていない。
「昨日も聞いたが、やっぱり、おまえ、変だぞ」
「変、ですか?」
そう訊ね返してから、総司は、はぁっとため息をついた。井戸端のすぐ傍にある縁側に坐り、頬杖をつく。
「やっぱり、変ですよね」
「だから、何で」
「うん……」
ちょっと考えつつ、総司は口ごもった。だが、すぐに顔をあげると、斉藤に云った。
「ごめんなさい、斉藤さん」
「え?」
「土方さんに、斉藤さんと私は念兄弟ですって断言しちゃいました」
「……」
いきなり云われた言葉に、斉藤は一瞬、ぽかんとした。
だが、次の瞬間、思わず仰け反ってしまう。
「えぇっ!?」
「ごめんね、斉藤さん」
「ごめんねって……な、何でそんな事にっ」
「さぁ? 話の成り行きってとこですね」
「話の成り行き……」
呆然と、斉藤は呟いた。
実際、土方の態度に腹をたてたのは事実だった。
いつまでも手を出さず、総司に冷たくあたったりしている彼に苛立ち、ちょっと見せつけてやったりもしたのだ。
だが、実際に、念兄弟としてつきあっているなどと嘘をつくとなると、話は大きく違ってくる。
だいたい、そんな事を云って、後ろから土方にばっさりやられたら、誰がどう責任をとってくれるのだ。
それとも、片恋が偽りでも実ったことに涙して、諦めるべきなのか。
割に合わなさすぎる役回りに、斉藤は目眩さえ覚えた。思わず額に手をあてる。
それに何を思ったのか、総司がにこやかに云った。
「でもね、土方さんって口が堅いから、他には話さないと思うので安心して下さいね」
「そういう問題じゃない」
「え? でも、土方さん、全然気にしてないと思うし、大丈夫ですよ」
「だから、そういう問題じゃなくて……何だって、そんな事を云ったんだ。何か理由があるだろう、理由がっ」
「もちろん、ありますよ、理由」
総司はちょっと瞳の色を翳らせた。長い睫毛を伏せ、きゅっと唇を噛みしめる。
「江戸へ帰りたくないって、云ったんです。それで、何故? と聞かれたから、斉藤さんとの関係を理由にしたんですよ」
「江戸へ?」
訝しげに問いかけてから、斉藤はすぐに気づいた。
近いうちに、近藤が江戸へ戻るという話は聞いている。なら、その時、病になってしまった総司を同行させ、残してくるつもりだったのか。
だが、おかしいなとも思った。
あの土方が、溺愛している総司を手放すなど、到底思えないのだが。
「おまえ、はっきり云われたのか。江戸へ帰れと」
「え……うーんと、違うかな」
総司は小首をかしげた。
「近藤先生と一緒に江戸へ行ってくれと云われたのです。一度、江戸へ戻るのもいいだろうと」
「……」
「でも、それって江戸へ帰れって云ってるのと、同じじゃないですか」
斉藤は思わずため息をつきたくなってしまった。
(土方さんも、微妙な云い方しすぎだろう!)
結局の処、土方は総司を江戸に帰す気など毛頭ないのだ。
ただ、病の事もあるから、一度江戸へ気晴らしに戻ったらどうだと、言ってみただけなのだろう。そこに近藤の意向が働いているのは見え見えだし、土方がそれにまったく納得していない事も、わかりきっていた。
あの男が、一瞬たりとも総司を傍から離すはずがないのだ。
それなのに、総司が早とちりした挙句、斉藤との事まで話してしまったのだから、土方の心中はいかばかりか。
(嫉妬と怒りに燃えまくっているだろうけど……誤解をとくべきか、悩むところだよな)
しみじみ考えこんでいた斉藤は、ふと総司の様子に気がついた。
また、ぼーっとしてしまっているのだ。俯き、考え事にふけっている。
「総司?」
呼びかけても、反応はなかった。眠ってはいないのだが、心はここにない。
「おい、総司」
肩を揺さぶってやると、はっと我に返ったようだった。斉藤を見上げ、顔を赤くする。
「あ、ごめんなさいっ」
立ち上がり、総司は首をふった。
「ちょっと考え事をしていて」
「おまえ、オレとの事だけじゃないのか。何か、他に心配ごとがあるんじゃないか?」
「違いますよ。大丈夫、大丈夫です」
総司は小さく笑いながら、手をふってみせた。だが、それが微妙にぎこちない。
斉藤は気にはなったが、それ以上追及することをやめた。
けっこう意地っぱりな総司は、こうなってしまうと、絶対に明かそうとしない処がある。それは、友人である斉藤にさえ、そうだった。
(それで、結局、全部一人で抱えこんじゃうんだよな)
ため息まじりに総司を眺めながら、斉藤は、どうしてやるべきかと考え込んだのだった。
だが、しかし。
実際に、総司から悩みごとの内容を聞いていたなら、斉藤も絶句していた事だろう。
だいたい、総司にしても、とても云えるものではなかった。
(土方さんに口づけられた、なんて)
無意識のうちに、唇に指さきでふれていた。
彼のあの口づけを思い出したとたん、かっと躰中が熱くなる。頬も火照ってしまう。
昨日から何度も何度も思い出しては、羞恥と戸惑いに、いろいろと取り乱してしまっているのだ。
どうして、土方があんな事を云い出したのか、まったくわからなかった。
だからこそ、初めは、ぽかんとしていたのだ。
「……くち…づけ?」
呆然としたまま聞き返した総司に、土方は苦笑をうかべた。
子どもを眺める大人のような笑みだった。
「聞き返す程のことか」
「え、だって……」
「おまえもやった事だろう。同じ事を条件にしようと云っているんだ。ただし」
男は、すっと目を細めた。
「俺とおまえの条件の違いは、回数だ。一度ではない」
「一度じゃないって、じゃあ、何度……」
「さぁ、何度にしようか」
土方は頬杖をつき、くすっと笑った。どこか意地悪い、面白がっているような声音だ。
それに、戸惑いつつ見上げたとたん、言葉がつづけられた。
「そうだな、上限はなしにしよう。俺が望んだ時、おまえに口づける。おまえは黙ってそれを受け入れろ」
「土方…さん」
「その条件を呑めば、江戸へ帰さずにいてやるぜ?」
「……」
総司は黙り込んでしまった。
男の意図がまったく掴めないのだ。
あれ程、美しい女を周囲に纏いつかせている土方だ、相手に不足しているはずもなかった。
なのに、どうして、自分なのか。
それともこれはあれか、前の事に対する意趣返しなのか。
本気で口づけなどするつもりはなく、ただ、江戸へ帰さぬための口実に、殊更、あの「口づけ」と持ち出しているのか。
ならば、答える他なかった。
江戸ヘは帰りたくないのだ。どんな事をしても、京に残りたい。
彼の傍にいつづけたいのだから。
「……わかりました」
小さな声で、総司は答えた。膝上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
「あなたからの条件を呑みます。好きに、して下さい」
「……」
土方は無言のまま、眉を顰めた。条件を受け入れたというのに、ひどく不機嫌そうな表情になっている。
それに、総司は戸惑った。思わず呼びかけてしまう。
「土方さん……?」
「――」
だが、それに、土方は冷たい目をむけた。暗い笑みを口元にうかべる。
「そこまでして、斉藤の傍にいたいか」
「え……」
「嫌な男に口づけられても、それでも斉藤の傍にいたいと云うのか。それとも、何か? こんなもの、たいした事じゃねぇのかよ」
「……」
こちらを見下ろす土方の目は、ひどく剣呑なものだった。冷たい酷薄なものさえ感じさせる。
暗い怒りさえ伝わってくる彼の激情に、総司は戸惑った。いったい何が彼を怒らせたのか、わからないのだ。口づけという条件を云い出したのは、土方であるはずなのに。
「……」
押し黙ってしまった総司を、土方は切れの長い目で見据えた。しばらく沈黙が落ちたが、やがて、ちっと短く舌打ちが響く。
はっとして顔をあげると、土方が立ち上がるところだった。部屋を出ていこうとしているのだ。
それに、総司は思わず腰を浮かした。
「ま、待って下さい」
「……」
ふり返った男の冷たいまなざしに、胸を突かれたが、それでも必死に云いつのった。
「私との約束は? 条件を呑んだら、本当に江戸へ帰さないでくれるのですか?」
「……」
「それとも、やはり、あれは偽り? 私をからかっただけの……」
言葉が途切れた。
不意に腕を掴まれたかと思うと、そのまま乱暴に引き寄せられたのだ。
「!」
気がついた時には、男の腕に抱きすくめられていた。見上げると、端正な顔が間近にあり、かっと頬が熱くなる。
だが、見惚れている暇などなかった。ぼうっとしている間に、土方は総司の細い顎を掴むと、そのまま唇を重ねてきたのだ。
甘い濃厚な口づけ。
それは、総司が彼にしたような子ども騙しのものではなかった。遊び慣れている女相手でも蕩けてしまいそうな、深く甘い口づけだ。
「……んっ…ぅ、ん……」
総司は思わず男の着物に縋りついた。そうしてないと、立っていられなかった。
だが、その小柄な躰は男の逞しい腕に、しっかりと抱きかかえられていた。すくいあげるようにして抱きかかえ、土方はより深く唇を重ねてくる。舌を舐め、吸い、また絡めて。
唇がはれぼったくなるまで口づけられ、総司は陶然となった。どんどん躰中が熱くなり、力が入らなくなってゆく。
「ぁ…ぁ、ん……っ、ん」
時折、首筋や胸もとにも口づけられた。それが酷く官能的で、躰中が震えてしまう。
腕の力を緩められたとたん、総司はくたくたと坐りこんでしまった。膝に全く力が入らなかったのだ。
呆然と坐り込んでいる総司を、土方はしばらく見下ろしているようだった。やがて、黙ったまま背をむけると、部屋を出ていってしまう。
「……」
遠ざかる足音を聞きながら、総司は両手で唇をおおった……。
あれから土方と顔をあわせていなかった。
顔をあわせても、自分がどう行動するのか、予測がつかない。顔を真っ赤にして叫んで、逃げ出してしまいそうだった。
彼と口づけたのだ。それも、前みたいな軽いものではない。
まるで大人の恋人同士がするような、体の芯までとろかす濃厚な口づけ。
(あの人、いつもあんな口づけしているの……?)
思わず考えてしまった。
そうであれば、もてて当然と云わざるを得ない。その気がなくても、あんな口づけをされたら、誰だって虜になってしまうだろう。
しかも、土方は、誰もがふり返るほどの極上の男なのだ。独特の華を纏いつかせた男。
江戸にいた頃から女に不自由していなかったが、京にのぼってからは、尚の事だ。武家姿があれ程似合う男も珍しいだろう。
そんな彼が色街などに行けば、女が群がってきて当然だった。
何度も、総司はそれらの光景を遠目に眺めてきたのだ。嫉妬と切なさに胸を痛くしながら。
「私に嫉妬する資格なんて、ないけど……」
恋人でも何でもないのだ。それどころか、はっきり嫌われている。最近、公の場で大人の対応をするようになったが、それでも、仲が悪い事は確かだった。
いわゆる、犬猿の仲なのだ。
なのに。
「どうして、あんな事をするの……?」
何もかもわからない事ばかりだった。
確かに、取引の条件に口づけを持ち出したのは、自分だ。
だが、まさか、一年以上時を過ぎてから、土方が持ち掛けてくるとは思っていなかったのだ。
彼の意図が全くわからなかった。
同性、それも労咳もちの自分に口づけるなんて、嫌悪こそすれ、望むことなどありえないはずなのに。
「……」
総司は庭へ下りると、庭の池の傍に寄った。両膝をつき、そっと覗き込んでみる。
風もなく静かな水面に、一人の若者の姿が映っていた。どう見ても、男をその気にさえるとは思えない。娘でもない。
「いったい、どうしてなのかな……」
そう呟いた時だった。
凛とした低い声が、それに答えたのだ。
「何が、だ」
「!」
どきりと心の臓が跳ね上がった。
驚いて、ふり返ろうとしたところに、男の手が肩に置かれた。池の水面を同じように覗き込んでくる。
水面に端正な男が映っていた。艶やかな黒髪に、黒い瞳。すらりとした長身に、濃紺の着物を着流している様が艶やかだ。
そっと見上げると、襟元から鎖骨がのぞいて、どきりとした。
「……」
思わず俯いてしまった総司に、土方はどこか翳りのある黒い瞳をむけた。
二人の関係、どんどん変化していきます。