急いた足音が近づいて来ていた。
 まだ朝早いうちにしては、酷く慌ただしい気配だ。
 最初、それに気づいたのは、土方だった。ゆっくりと身を起こし、乱れた黒髪を片手で煩わしげにかきあげる。
 ふと自分の膝元で眠る総司を見下ろすと、肩まで布団をかけてやった。そこへ、障子が慌ただしく開かれる。
「! 土方さん……っ」
 思ったとおり、飛び込んできたのは斉藤だった。
 だが、入ったとたん、褥で眠る総司と、それを膝元にして悠然とこちらを見返す土方の姿に、絶句した。
 何も云えぬまま、その場に立ち尽くす。
 土方は切れの長い目でそれを眺めてから、薄く嗤ってみせた。
「朝から、随分と忙しそうだな」
「忙しくさせているのは、どちらですか」
 斉藤は押し殺した声で云い返した。
 さすがに外にもれてはまずいと気づいたのだろう、素早く障子を閉める。
 しんと静まり返った部屋の中で、斉藤は土方を睨みつけた。
「総司を、返して下さい」
「返す?」
 土方は冷ややかな声音で聞き返し、目を細めた。
「それは、総司がおまえのものという事か。おまえのものであるが故に、返せと云っているのか」
「そうです」
「契りも結んでいなかったくせに?」
 くっと喉を鳴らした土方に、斉藤はかっとなった。
「そんな事、あなたに関係ないでしょう」
「関係ない、か?」
 土方はゆるく小首をかしげた。
 そして、身をかがめると、総司の顔を覗き込んだ。
 斉藤が見やると、総司は今の騒ぎで起きてしまったようだった。だが、まだ寝ぼけているらしく、ぼうっとした表情で土方を見上げている。
 土方は総司の頭の横に手をつき、甘くなめらかな声で囁きかけた。
「総司、答えろ」
「ん……土方…さん……」
「俺とおまえは、関係ないか? 何の関係もねぇのか……?」
「ううん……」
 即座に、総司は首をふった。両手をのばすと、甘えるように男の胸もとへ抱きつく。
「関係あります……私とあなたは、関係あるでしょう……?」
「そうだな。俺とおまえは、深い関係になっちまったよな」
 どこか自嘲するような声音だった。
 それに、斉藤が尚更怒りをかきたてられた。
「そんな云い方、ありますか! 深い関係になった事を後悔するぐらいなら、何故、総司に手を出したりするのです」
「煩せぇ」
 不意に、乱暴な口調で土方が云い捨てた。
 あれこれ云われる事に、苛立ったのだろう。眉を顰め、剣呑な表情になっている。
「おまえ、朝っぱらからいい加減にしろ。そんなに総司を返して欲しけりゃ、さっさと連れていけよ」
「……返して貰います」
 斉藤は低い声で断言すると、ずかずかと部屋の中へ入ってきた。総司の腕を掴み、褥から引っぱり出す。
 抗うかと思ったが、意外にも、総司は従順だった。黙ったまま潤んだ瞳で、土方を見つめている。
 それを土方も無言で見つめ返していた。
「早くここを出るんだ」
 斉藤は叱責するような口調で云うと、総司を抱え込んだ。そのまま障子を開き、部屋を出てゆく。
 最後の最後まで、総司は土方を見つめていた。今にも泣きだしそうな表情で、彼だけを見つめていたのだ。
「……」
 遠ざかる足音を聞きながら、土方は固く瞼を閉ざした。












「どうして?」
 部屋に戻された総司は、斉藤にくってかかった。
「どうして、何であんな事をしたの?」
「それは、こっちの台詞だ」
 珍しく斉藤は感情を激しているようだった。がっと肩を掴み、顔を覗き込んでくる。
「あんなに云ったのに、どうして土方さんの部屋に行った。何でなんだ、総司」
「だ、だって」
 総司は口ごもった。
「あの人に……逢いたかったんだもの」
「逢いたかった! あの土方さんにか!? さんざんおまえを傷つけた男に逢いたいなんて、どうかしているよ」
 斉藤は部屋の中をぐるぐる回りながら、激しい口調でつづけた。
「あの人がおまえをどんな扱いしたのか、もう忘れたのか? さんざん冷たくしておいて、挙句、おまえの躰だけ抱いて、遊女扱いだぞ! 慰み者にしたと云ったんだぞ。それなのに、おまえは土方さんを許せるのか? 本気で、あの人の傍に行って傷つかないと思っているのか」
「傷ついたっていい!」
 総司は思わず叫んでいた。両手で着物を握りしめ、懸命に言葉を伝えた。
「私、あの人の傍にいられるなら、どんなに傷ついたって構わないもの。好かれていない、愛されていないって、ちゃんとわかっている。取引で抱いてくれているんだって、事も全部。だけど、それでもいいの。土方さんの傍にいられるなら、何でも構わないの」
「……ちょっと待てよ」
 唖然として総司の言葉を聞いていた斉藤が、不意に眉を顰めた。鳶色の瞳に、剣呑な色がうかぶ。
「何…だって?」
「え?」
「今、おまえ何て云った?」
「だから、愛されていないってわかっていても」
「そうじゃなくて、その後だ」
「? 取引で抱いてくれて……あ」
 総司も自分の言葉に気づいたのだろう。慌てて両手で口を抑えたが、もう遅かった。
 みるみるうちに、斉藤の顔が怒りに染まっていく。
「取引、だって?」
「えっと、あの、斉藤さん」
「やっぱり、弱みを握られていた訳か! あの時、云ったことは本当だったんだな」
「そうじゃなくて」
 口をすべらせてしまった自分に泣きそうになりながら、総司は懸命に云った。
「弱みを握られていたとか、そんな事じゃないの。私、云っていたでしょう? 江戸へ帰りたくないって。だから、江戸へ帰さないという約束の代わりに、交換条件として」
「躰を要求された訳か!」
「えっ、違いますよ。口づけだけ」
 慌てて否定する総司に、斉藤はがんがん怒った。
「だったら、何で契りを結んでしまっているんだ。口づけだけって約束なら、おかしいだろ」
「そ、それはそうですけど……」
 もごもごと、総司は口ごもってしまった。


 だが、あの時の微妙な成り行きというものを、上手く説明できるはずがないのだ。
 まるで流されるように、二人して関係をもってしまった。
 斉藤とは念兄弟ではないが、あの時、総司は「あぁ、不義密通ってこんなふうに、関係もっちゃうんだなぁ」と、思ったりしていたのだ。
 ふわふわした幸せな心地の中で。


 気が付くと、斉藤が畳の上に坐りこんでいた。
 頭を抱え、何度もため息をついている。
 自分のことを思ってくれる友人の姿に、総司は胸が痛んだ。
「ごめんね、斉藤さん」
「……謝るぐらいなら、もう少し自分を大事にしろよ」
「うん……でも、土方さんが一番大事だから」
「……」
 臆面もなく云ってのける総司に、斉藤はかなわないなぁと思った。
 だが、それでも、あの男にだけはどうしても渡す気になれない。
 もともと両想いだと知ってはいたが、なら、どうして、あんな傷つけるような事ばかりをするのか。
 斉藤には、土方が総司を弄んでいるようにしか、見えなかった。
 本気の恋ではなかったという事なのか。それとも、いったん手にいれたら、飽きてしまったという事か。
 どのみち、斉藤は、総司が傷ついて泣くことだけは許せなかった。
 こんなにも純真で優しく可愛い総司を、傷つけるものは、誰であっても許せないのだ。


(……絶対に許さない)


 決意した斉藤は、きつく唇を噛みしめた。












 土方と二人きりで逢うことは出来なかった。
 総司にとって、斉藤も大切な友人なのだ。しかも、念兄弟として公認までされてしまっている。
 その彼に、これ以上心配をかけたくなかった。
 土方を巻き込みたくないという思いもあった。
 彼と関係を深めていく事は、ある意味、不義密通なのだ。真実は違うのだが、公然と認められている念兄弟がいる身で、他の男と関係をもつなど、誰が見ても不義とされるだろう。
 そんな醜聞の中に、土方を巻き込みたくなかった。
 ただ想っているだけならいい。見つめているだけならいい。
 だが、もしも、この事がすべて公にされたら、指弾されるのは、総司だけではないのだ。土方も指弾の的にされてしまう。
 それだけは我慢できなかった。
 だからこそ、総司は斉藤の言葉に従ったのだ。二人きりでは二度と逢わないと、約束した。
 だが、公の打ち合わせや廊下で逢う事は、幾度もある。同じ建物の中に起居しているのだ。当然のことだった。
 廊下などですれ違う時、総司は思わず切ない表情で、土方を見上げた。土方も物云いたげなまなざしを向け、すれ違ってゆく。
 互いに言葉を交わす事も、抱きあう事もない、恋だった。
 視線だけで交わされる想い。


(本当に、不義密通しているみたい……)


 総司は自室で小さく笑った。
 だが、だからこそなのか。禁忌だと思っているからこそなのか。
 不思議なもので、いけないと思えば思う程、より強く相手を欲してしまう。
 想いがどんどん激しくなっていくのだ。それは自分でも止めることが出来ない、恐ろしい程の熱情だった。


(こんなにも強い感情が、私の中にあったなんて)


 確かに、土方のことを愛してきた。子どもの頃から憧れ、ずっと恋してきたのだ。
 だが、逢いたくてたまらず、彼だけを求めてしまうこの執着は、自分でも驚くほどだった。ほんの少し逢えただけでも、嬉しいのだ。
 先日も、打ち合わせの時、総司は土方の隣に坐ったのだが、当然、私的に言葉を交わすことはなかった。
 だが、終わった後、立ち上がろうとした瞬間、すっと総司の手に、土方の指さきがふれたのだ。
 ほんの一瞬だった。
 え? と思った時には、もう何もなかった様子で土方は書類に目を落としていた。誰も気づかない一瞬の出来事。
 だが、総司の手はとても熱くなり、胸がどきどきした。


 逢いたい、ふれたい、話したい。


 そう思っているのが自分だけではないのだと、教えられた気がした。
「土方さん……」
 そっと彼の名を呼んでから、総司は立ち上がった。中庭をぼんやりと眺める。
 ここ最近、冷たい冬が続いていたが、今日は不思議なほどあたたかだった。見上げれば、澄み渡った青空が広がっている。
 冬があたたかいと、総司の躰もやはり楽だった。咳もかなり少なくなってくれるのだ。
 総司はふと、薬が切れかけていることを思い出した。取りに行こうと思う。
「ちゃんと飲まなくちゃいけないし……」
 呟き、総司は身支度を整えた。部屋を出て歩いていると、廊下で斉藤と行きあう。
「どこかへ外出か」
 道場へ向かう途中らしい斉藤に、総司はこくりと頷いた。
「非番ですし、薬を貰ってこようと思って」
「ふうん、気をつけてな」
 ひらりと手をふり、斉藤はすれ違っていった。それを見送り、総司は微かに唇を噛んだ。


 斉藤はとても優しいし、友人思いだ。
 総司のことを本当に思ってくれているからこそ、土方から守ろうと必死になっていた。
 だが、斉藤は知らないのだ。
 土方ではなく、総司の方が狂ったように彼を求め、執着していることを。
 おそらく、斉藤は、土方の方が手を出していると思っているに違いなかった。
 だが、それは誤りだ。
 総司の方から接吻もねだったし、あの夜、彼の部屋も訪れたのだ。
 それを斉藤に告げはしたが、ただもう騙されている、いいようにされていると、一蹴されるばかりだった。


 総司は医者の家を訪れると、診察を受け、いつもの薬を貰った。
 まだ青空は広がっていて清々しい。
 どこかへ寄っていこうかと考えながら、歩み出したとたんだった。
「!」
 不意に腕を掴まれたかと思うと、物陰に引きずりこまれたのだ。
 総司は息を呑み、素早く躰をかがめた。刀に手をかけ、一気に相手を倒そうと思ったのだ。
 だが、相手の顔が見えた瞬間、その目は大きく見開かれた。
「……土方…さん……?」
 呆然と呟く総司の前で、土方はその腕を掴んだまま、唇の端をあげてみせた。
「さすがおまえだな。斬られるかと思ったぜ」
「な、何でここに……っ」
「待ち伏せしていたんだよ。おまえ、廊下で云っていただろう? 薬を取りに行くと。だから、ここで待ち伏せていた」
「私を? 土方さんが?」
「あぁ」
 頷いた土方は、微かに眉を顰めた。
「迷惑だったか。俺に待ち伏せされるなんざ、嫌だったか」
「違います。違うんです」
 慌てて総司は首をふった。男の袖を掴み、ぎゅっと握りしめる。
「だって、あんまりびっくりして……土方さんみたいな人が、私を待っていてくれるなんて。土方さん、忙しいのに、なのに……」
「総司」
 土方の瞳の色がとけそうなほど優しくなった。手をのばし、そっと腕の中に小柄な躰を引き込む。
「おまえに逢えることが、一番大事だ。すげぇ逢いたかった……逢いたくて逢いたくてたまらなかった」
「私も、私も……逢いたかったです」
 総司はうっとりと男の胸もとに頬を寄せた。


 いけないとわかっている。
 だが、それでも、待っていたなどと告げられれば、決意も何もかも消え去ってしまうのだ。
 このままずっと傍にいたいと、心から願ってしまう。


 素直に身を寄せてきた総司を、土方も優しく抱きすくめた。髪に額に、頬に、口づけを落としながら、囁きかける。
「可愛い総司……二度と離したくねぇよ」
「土方さん」
「いっそ、このまま二人して逃げちまいてぇな。誰も俺たちを知らない何処かへ」
「逃げる……?」
 それは、夢のような話だった。
 煩わしい現から逃げ出し、二人だけの桃源郷に行くことが出来たなら。
 黙ったまま目を伏せると、土方が吐息をもらした気配がした。
 彼もわかっているのだ。新選組副長である彼が逃げることなど、出来るはずもないと。
「……」
 土方の手が総司の躰を離した。そっと身を放し、物陰から出て、歩きだそうとしている。
 その広い背を、総司は潤んだ瞳で見つめた。


 もう逢瀬は終わりなのだ。
 ふれあい、言葉をかわすことが出来たのは幸せだけれど。
 だからこそ、別れる時は、こんなにも辛い。


 きゅっと唇を噛んで俯いた総司に、土方がふり返った。切れの長い目で見つめる。
 やがて、静かな低い声で云った。
「逃げるのが無理なら……一晩だけでも、共に過ごそう」
「え……」
 総司は驚き、顔をあげた。
 それに、土方がかるく肩をすくめた。
「むろん、外泊届は出すさ。しかし……自分でつくった規則だが、大概面倒くせぇな」
「土方さん、あの」
「また、斉藤に叱られるか」
 先まわりをして云われ、総司は言葉を呑んだ。土方は煩わしげに黒髪を片手でかきあげながら、目を細めた。
「俺と逢うのを禁じられているのは、知っている。当然のことだ。斉藤はおまえの念者だからな」
「……」
「それに、おまえ自身、俺を避けていただろう。俺と二人きりにならぬよう、気をつけていた」
「……あ」
 気づいていたのだと、思った。


 土方を醜聞に巻き込みたくない。
 ただ、それだけの想いのためだったが、彼を避けたことは事実なのだ。


 思わず俯いてしまった総司に、土方は喉奥で低く嗤い、手をのばした。
 しなやかな指先で細い顎を掴むと、くいっと仰向かせる。
「図星だろう?」
 冷たく澄んだ黒い瞳が、総司を見つめた。息をつめると、そのまま耳もとで囁かれる。
「だが、もう遅い。おまえは俺に捕まってしまった」
 言葉が吐かれるのと同時に、再び抱きしめられた。背中がしなるほど抱きしめられ、髪を指さきで乱される。
「おまえは……俺のものだ」


 ――震えがきた。


 それは甘美でありながら、残酷な言葉だった。
 ずっと待ち望んでいた、愛しい男からの睦言にも似た囁き。
 この世の条理や理性など、押し流してしまう激しくも狂おしい執着と熱情。
「土方さん……」
 誰よりも愛しい男の腕の中で、総司は甘い吐息をもらした。
















次で完結です。ラストまでおつきあい下さいませね♪