嬌声があがった。
それに、総司は思わずふり返ってしまったが、すぐにふり返らなきゃよかったと深く後悔した。
場所は京。それも華やかな花街、島原だった。角屋で新選組の宴が開かれるため、幹部である総司も仕方なく訪れていたのだ。
京にのぼって一年半の時が過ぎていた。夏も終わりに近づき、きれいな空にも鱗雲が現れはじめている。
池田屋の後、初めて開かれた宴だけに、皆、どこか浮き立った気分でいたが、総司はとても上機嫌にはなれなかった。
「どうした、難しい顔をして」
不意に、ぽんっと肩を叩かれた。友人である斉藤が覗き込んでいる。
総司は僅かに目を瞬いた。
「私、そんな難しい顔をしていますか」
「しているよ」
「そうですか?」
不思議そうに小首をかしげてから、総司は黙り込んでしまった。いつも明るく朗らかな若者には珍しく、黙々と歩いている。それを横目で眺めた斉藤は、後ろの騒ぎにふり返り、なるほどねと頷いた。
賑やかな嬌声の中にいるのは、一人の若い男だ。
すらりとした長身に、濃紺の着物を粋に着流している武家姿の男だった。
精悍な顔だちは、冷たいほど整っている。
艶やかに結いあげられた黒髪、切れの長い目、黒い瞳。形のよい唇。
しなやかな指さき一つにいたるまで、完璧なまでの男ぶりだ。
女たちを魔力のように惹きつける、色香を纏いつかせている。
「土方さんか」
思わず声に出してしまった斉藤に、総司は、ぱっと顔を赤くした。だが、すぐに桜色の唇を尖らせるようにして、きっぱり否定する。
「違いますよ」
「……」
「副長には何の関係もありません」
そう断言すると、総司は、角屋に向かって、さっさと歩き出した。それを、斉藤は、まずい事を云ったかなぁという顔で見送った。
土方と総司の仲が悪い訳ではない。
むしろ、江戸の頃から見れば、驚くほど良好だった。
だが、京へのぼってきて暫くの間は、そうではなかったのだ。
様々な問題がおこる中、土方と総司の口論は激するばかりだった。口論というより、口喧嘩と云った方が良いのか。あれ程、仲が悪いのも珍しい、まさに犬猿の仲だと噂される程だったのだ。
だからこそ、芹沢派が一掃された後、土方がただ一人の副長に、総司が助勤筆頭となった時、誰もが危惧したものだった。
本来なら、一番手を携え、協力しあわなければならない立場である二人だが、そんな事、期待できるはずもなかった。おそらく、打ち合わせの場は毎回、二人の云い争いに終始すると思われた。
しかし、その予想は全く外れた。
総司は驚くほど従順になり、口答えも全くしなくなった。明るく朗らかな性格はそのままだったが、土方に対しての反発、反抗心は、鳴りをひそめてしまったようだった。
仕事の事でも土方と綿密な打ち合わせをくり返すようになり、今や、誰もが認める副長土方の腹心だ。
そして、土方の方も、そんな総司を重んじていた。今まで、皮肉まじりの鋭い言葉を投げていたのが嘘のように、穏やかで静かな対応へと変わり、総司の意見も聞き入れ、納得すれば取り入れる懐の深さを見せた。
そんな二人の様子に初め戸惑っていた周囲も、やがて、それが当然の姿として受け入れた。
そもそも、副長と助勤筆頭が犬猿の仲など、百害あって一利なしなのだ。
二人の関係が穏やかになったことを、局長近藤も喜んでいるようだった。
だが、そんな二人に、斉藤は疑問を持っていた。
「なぁ、一つ聞いていいか」
角屋に入り、宴会が始まってから、斉藤は総司に話しかけた。
飲めもしない酒の杯を弄っていた総司が、大きな瞳で見返す。
「何です」
「おまえ、本当に土方さんと仲が良いのか」
「え?」
きょとんと目を丸くし、総司は斉藤を見つめた。呆気にとられている。
それに、斉藤は慌てて言葉をつづけた。
「い、いや、その……不思議だなぁと思ってさ。確かに、土方さんもおまえも喧嘩しなくなったし、仕事上では協力もしあっている。けど、ほら、私的な時は言葉一つかわしていないだろう?」
「……」
「だから、本当に仲が良いのかなと……」
「斉藤さん」
不思議そうに、総司が小首をかしげた。細い肩さきで、さらりと柔らかな髪が揺れる。
「どうして、そんな事を聞くのですか?」
「え、いや……」
斉藤は思わず口ごもってしまった。
「とくに理由はないんだ。ただ、気になっただけで……おまえが気分を害したなら謝るよ」
「別に、気分を害してなんかいませんよ」
総司は目を伏せ、箸で綺麗に盛られた煮物を切り分けた。
「私が副長と、私的に言葉を交わさないのは事実ですし」
「……」
「あのね」
総司は長い睫毛を伏せ、ぽつりと云った。
「取引……なのです」
「え」
目を見開いた斉藤に、総司は顔をあげた。なめらかな頬が紅潮し、大きな瞳が僅かに潤んでいる。
その息を呑むほど愛らしい様に見惚れていると、総司はきゅっと桜色の唇を噛みしめた。
「私、弱みを握られていて……それで、副長の云いなりに……」
「えぇっ!?」
思わず声をあげてしまった。
だが、そのとたん、周囲の視線が一斉にこちらへ集中し、慌てて口をふさぐ。
斉藤は口を片手でおおいつつ、訊ねた。
「よ、弱みって、どんな」
「どんな?」
「おまえの弱みって、全然思いつかないしな。そんなのあるのかって思ったんだけど」
「斉藤さん」
総司は目を丸くした。じっと斉藤を見上げている。だが、やがて、俯くと、不意に、くすくすと笑い出した。
呆気にとられている斉藤を前に、総司は明るく笑った。
「冗談ですよ、冗談」
「え」
「そんな弱みなんて、握られている訳ないじゃないですか」
「……総司、おまえな」
ため息をついてしまった斉藤に、総司は「ごめんなさい」と甘く澄んだ声で謝った。細い指さきが斉藤の肩にふれる。
「ちょっとからかってしまいました。気分を害したなら、ごめんなさい」
耳もとに、甘い吐息がふれた。それに、心の臓が跳ね上がる。
斉藤は片恋の相手に身を寄せられ、気持ちが高揚するのをかんじた。だが、すぐ、冷や水を浴びせられたような感覚に襲われる。
「……」
遠くから、鋭い視線が向けられていた。
そちらをふり返るのが、怖いほどだ。
斉藤がさり気なく視線をやると、思ったとおりの相手だった。総司がその仲を聞かれ、上手く誤魔化してしまった相手。
(本当の処は、どうなのだろう)
いつものように屈託のない笑顔をむけてくる総司を見ながら、斉藤はそんな言葉を心に呟いた。
「取引……」
小さな声で、総司は呟いた。
柱に凭れかかり、空を見上げる。秋の空は清々しく澄みわたり、美しかった。
いつもなら、こんな天気の良い日はどこかへ出かけたくなるものだ。ましてや、非番であるなら当然のことだった。
だが、今日はどうしてもそんな気持ちになれない。昨日の斉藤との会話が、心に残っていたのだ。
いつも目をそらし続けている事柄だった。
土方との奇妙な関係から、ずっと目をそらし続けていたのだ。自分の心の中にあるものも、覗かないようにして。
だが、昨日、斉藤に「取引だ」と云った時、胸の奥が冷たくなった。
そう思っているのは、彼の方なのだ。
土方こそが、今の関係を「取引」だと思っているに違いない。
「私は……そんなふうに思えるほど、大人じゃないけれど」
総司はきゅっと唇を噛みしめた。
去年の夏のことだった。芹沢たちの葬儀が終わった後、近藤の部屋に呼ばれたのだ。
行ってみると、土方も同席していた。入ったとたん、気まずそうな顔をしてしまったに違いない。何故なら、こちらに視線をむけた土方が、その端正な顔を微かに歪めたのが目に入ってしまったのだ。
犬猿の仲と云ってもよい関係だった。何がどう上手くいかないのか、二人顔をあわせると、口論ばかりになってしまうのだ。
「総司か、まぁ坐れ」
近藤が鷹揚に云った。それに、「はい」と頷き、末席に座る。
目の前に坐った愛弟子に、近藤は穏やかな口調で話し始めた。
それは、総司にとって、あまり心地のよい話ではなかった。
云うなれば、土方との関係の修復を、近藤は頼んできたのだ。
「……つまり」
総司は大きな瞳で土方を見やった。当の本人は、仏頂面で黙然としている。
「私が、この人と喧嘩するのをやめること、大人しく従うこと、それらを望まれているという事ですか」
「まぁ……そうなるな」
言葉に棘があるのを感じたのだろう。近藤は宥めるような口調だった。
結局の処、年下である総司が譲歩しなければどうにもならないのだ。
だが、それを、総司が受け入れるかどうかは、また話は別だった。
何しろ、総司は可愛い顔に似合わず、とにかく気が強いのだ。だからこそ、土方のような男に、真っ向から歯向かう事も出来ている。
そんな総司が、土方のために折れるなど、ありえない話だった。
「でも」
しばらく考えていた総司は、ぱっと顔をあげた。なめらかな頬を紅潮させているさまは、息を呑むほど愛らしい。
「私が己を抑えようとしても、副長自身も変わらなければ、無理な話だと思います。今までのような態度では、どうしようも……」
「それは歳も承知の上だ」
先ほどから一言も口をきかない土方に代わり、近藤が身を乗り出した。
「歳も、おまえを助勤筆頭として、きちんと遇すると云っている。今までのような扱い方をやめ、取り入れるべき意見は取り入れると約束しているのだ」
「土方さんが……?」
思わず目を見開いた。驚きのあまり、彼の名を口にしてしまう。
だが、すぐに首をふると、目を伏せてしまった。また、何かじっと考え込んでいる。
それに、近藤が真摯な口調で云った。
「おまえにとって、あまりいい話ではないだろう。己を偽り、己を抑えなければならなくなる。素直なおまえにとって、辛いことだろう。だが、新選組は、今、内輪もめをしている時ではないのだ。どんな些細な争い事も摘まなければならない。そうであるのに、副長である歳と、助勤筆頭である総司が争っていては、隊は乱れるばかりだ。隊のためだと思って、頼みを聞いてくれないか」
「近藤先生……」
総司は瞳を揺らした。だが、迷いも一瞬だった。
すぐに、こくりと小さく頷く。それに、近藤も厳つい顔に喜色をうかべた。
「そうか! 承知してくれるか」
「はい」
「すまん。本当に、恩に着る」
頭を下げる近藤に、総司は慌てて身を乗り出した。
「そ、そんな……やめて下さい。たいした事ではありません」
肩の荷が下りたような表情になった近藤は、やがて、黒谷に行かなければならないからと、部屋を出ていった。とりあえず、当事者同士で、今後のことを打ち合わせてくれと云いおいて。
それに、総司は思わず立ち上がりそうになった。
彼と二人きりだなどと、いったい何を話せばいいのか。
逃げ出したくなってしまった総司は、近藤が閉めていった襖を見つめた。さっさと出ていってしまおうかとも思う。
だが、その時、傍らから声をかけられた。
「総司」
初めて、土方が話しかけてきたのだ。
なめらかな低い声に、びくりと肩が震えた。おそるおそるふり返ってみれば、鋭い目が総司を見据えている。
切れの長い目の眦が僅かにつりあがり、口元はきつく引き締まっていた。あまり機嫌がいい状態でない事は、一目でわかった。
思わず、総司の反応も素っ気ないものになる。
「何ですか」
つっけんどんな口調で聞き返した総司に、土方はかるく目を見開いた。だが、すぐに、ふっと唇の端をあげる。
「……近藤さんの前でとは、えらく違う態度だな」
「あなたの前で、丁寧にする必要なんてありませんから」
「だが、これからは改めてもらうぞ。公の場で、俺に逆らうことは許さない」
「――」
相変わらずどこまでも俺様な口調に、総司は呆れかえった。
(これのどこが、承知しているっていう訳!?)
昔から、この男はこんな調子なのだ。
いつも俺様で、上から目線の命令口調で話してくる。
いや、それが誰に対しても同様ならいいのだが、何故だか、総司に対してはそれが酷くあからさまだった。
年下だからと見くびっているのかと思ったが、同じ年の斉藤に対してはそんな態度を見せた事もない。
だが、総司に対しては、いつも、俺の命令を聞いて当然と云わんばかりの態度なのだ。
それが総司を苛立たせた。
子どもだと莫迦にされているとしか、思えない。
まともに相手にするに値しないと思われている事が、ひどく悔しかった。
「あなたは私を助勤筆頭として扱うと、約束したのではないのですか」
つけつけとした口調で訊ねた総司に、土方は目を細めた。
「あぁ、約束した」
「なら、その通りに扱って下さい」
「扱っているだろうが」
「どこが!」
「なら、おまえは、俺がおまえをどう扱えば、満足するんだ。こっちが逆に聞きてぇな」
乱暴な口調で云い放った土方を、総司は大きな瞳で睨みつけた。
「助勤筆頭として、扱って下さい。逆らうことは許さないなんて、そんな事、あなたに云われる筋合いじゃない」
「筋合いじゃねぇ、だと?」
土方の声音が、苛立ちをおびた。
「俺がおまえに逆らうなと命じるのは、間違いだと云いたいのか。助勤筆頭として扱って欲しければ、まずは副長の俺の命令を聞くのが筋だろう」
「私はあなたに従う事を、近藤先生に約束しました。でも、それは公の場でだけです。私事の場では、一切、あなたと話をする気にもなれません」
「なら、公の場では、俺に従うのか」
「……従います」
しぶしぶと云った形で、総司は頷いた。それに、土方は鋭いまなざしを向けた。黒い瞳で探るように見つめてくる。
それに、総司はきゅっと唇を噛み、見返した。
「何です」
「……いや」
ゆるく首をふってから、土方は、ふっと吐息をもらした。片手で煩わしげに黒髪をかきあげながら、呟く。
「従うと云うのなら、それでいい。俺も態度を改めよう」
「……」
総司は驚いた。まさか、彼の方が譲歩してくるとは思ってもみなかったのだ。
だが、すぐに、それも当然のことかと思った。
隊の運営をする中で、筆頭助勤である総司の存在は重要だ。打ち合わせごとに口論するより、私情を抑えてでも上手くやっていく方が、彼にとっても楽に違いないのだ。
だが、そうであっても、総司にとっては嬉しいことだった。
彼と仲良く出来るのなら、口論せずに済むのなら、本当にそれは……とても嬉しいことなのだ。
だが、そんな事を考えていた総司を、切れの長い目がまっすぐ見据えた。言葉をつづける。
「但し、公の場だけだ」
鞭打つような、冷たい声音だった。
「二人だけの時や、私事では、俺も態度を変えない。まぁ……公の場以外で、おまえと話をする気もねぇがな」
くっと喉奥で嗤ってみせる土方を、総司は凝視した。
(話をする気もない……)
つまりは、公の場以外で、総司と話などしたくないという事なのだ。
躰中の血の気がひくような気がした。指先が震えるのを覚え、思わずぎゅっと握りこむ。
(そんなに……嫌われていたなんて)
嫌われていることは、わかっていた。
侮蔑されていることも、子供だと見下されていることも。
だが、話をしたくない程、嫌われているという事実は、総司の胸を鋭く刺し貫いたのだ。
今にも泣き出してしまいそうだった。それこそ子どものように泣いて、土方のことを詰ってしまいたい。
むろん、そんな事をしても何にもならないことを、総司はよくよくわかっていた。どんなに泣いても怒っても、この男は眉ひとつ動かさないだろう。呆れたような視線をむけ、冷笑するさまが目にうかぶようだった。
総司は俯き、きつく唇を噛みしめた。
泣いて縋ることは無理でも、何か云ってやりたい。
彼を、この人を、自分自身の力で揺り動かしてやりたかった。
「……これは取引、ですよね」
掠れた声で云った総司に、土方は訝しげな視線をむけた。何を今更という表情になっている。
「私は、あなたが今までどおりの態度であっても、全く構わない。でも、あなたはそうでないでしょう。副長は、私が逆らうと困るはずです。手を焼くのは煩わしいし、隊の運営にも影響してくる。だからこそ、近藤先生も私を宥めてきたのでしょう?」
「あぁ……そうだ」
頷いた男に、総司は顔をあげた。大きな瞳で、目の前に坐る男を、まっすぐ見つめる。
「なら、私からの条件を呑んで下さい。でなければ、この取引には応じません」
「条件?」
「えぇ」
こくりと頷いた総司に、土方は形のよい唇を歪めた。目を眇める。
「とんでもない条件じゃねぇだろうな。俺を副長から降ろせとか、江戸へ自分を返せとか」
「そんな事ではありません。とても簡単で……でも、あなたにしか出来ないことです」
「……わかった」
一瞬の間をおいて、土方は頷いた。
「取引は取引だ。とりあえず、その条件を云ってみろ」
「云ったら、必ず叶えてくれますか」
「俺が叶えてやれる事なら」
即座に答えた男の声音の柔らかさに、総司は驚いた。思わず見やったが、本人は全く気付いてないらしい。
総司は一つ息を吸った。
そして、云ったのだ。
「あなたとの口づけ、です」
新連載スタートです。甘かったり切なかったりする恋バナ♪ ラストまでおつきあい下さいませね♪