目が覚めた時、一瞬、何もわからなかった。
 見たことがない天井に、ぼうっと灯された明かり。まだ外は暗く、夜明け前のようだ。
 総司は違和感を覚えながら寝返りをうとうとしたとたん、どきりと心の臓を跳ね上がらせた。
「!」
 土方が傍でぐっすりと眠り込んでいたのだ。
 乱れた髪が額から目元までかかり、そのためかひどく幼く見えてしまう。男にしては長い睫毛が頬に翳りをおとし、微かに開かれた唇は優しげで、静かな寝息をたてていた。
 端正な顔だちゆえに冷たく見えてしまう事がある土方だが、今は、少年のような顔で眠っている。
 それは、あの鋭い瞳が瞼に隠されているからかもしれなかった。切れの長い目に濡れたような黒い瞳は、総司に向けられる時は優しく甘くなるが、いつもは怜悧で鋭い光を湛えているのだ。


(私は……この人に抱かれた)


 それを思ったとたん、涙がこぼれた。
 嬉しくて泣いているのか、切なくて泣いているのか、自分でもわからなかった。恐らく両方なのだろうと思う。


 愛しい男に抱いてもらえたことは、この上ない歓びだったが、一方で愛されて抱かれたのではないという切なさがあった。
 彼は自分を繋ぎとめるため、利用するために抱いたのだ。
 総司の恋心を知っている彼にすれば、これで総司という駒を新選組に繋ぎ止められるなら、安いものだと思ったのだろう。
 こんな痩せっぽっちで痛がってばかりの自分など、抱いて楽しいはずがなかった。だが、それでも、彼は優しく抱いてくれたのだ。
 それだけは感謝しなければと、思った。


 気がつけば、躰も綺麗に清められていた。
 いつの間にか寝着を着せられているし、脱ぎ捨てたはずの二人の着物もきちんと畳まれて枕元に置かれてあった。意外と彼は世話好きなのかもしれないと思った。むろん、それは間違いで、総司相手だからこそなのだが、そんなことを知る由もない。
「……」
 総司はそっと褥から抜け出ると、躰の痛みを堪えつつ着物を身につけた。襖を開ける時、息をひそめるようにして振り返ったが、土方は眠り込んでいるようだった。


(……土方さん)


 褥に投げ出された手を見ると、その腕の中に戻りたくなった。彼の腕に抱かれ、そのぬくもりを感じたいと願う。
 だが、それは分不相応な願いだと思った。それに、朝、彼と顔をあせるのが怖い。目覚めた彼に、まだいたのかと呆れられたりすれば、どうすればいいのか。駒として利用するために抱いてもらったのだから、これ以上を望んではいけなかった。
 総司は部屋を出ると、ゆっくりと料亭の中を歩いた。料亭は朝が早く、仲居たちがもう起きだして支度を始めている。それに挨拶をして、彼はまだ眠っているのでそのままにして欲しいと告げてから、料亭を出た。
 夜明けの街はしんと静まり返っていた。
 歩きながら、これからどうしようと思った。
 初めは屯所に戻るつもりだったが、結局の処、土方と顔をあわせることになる。一生、逢わない訳にはいかなかったが、それでもしばらくの間、彼と距離を置きたかった。自分の中で気持ちの整理がまったくつかなかったのだ。
「……」
 総司はきつく眉根を寄せた。思わず足をとめてしまう。
 昨夜の行為はやはり、総司の躰には負担が大きすぎたようだった。体格差がある上に、初めてなのだ。土方もかなり手加減してくれたようだったが、それでも、躰が気怠く、痛みもあった。
 路地裏で壁に凭れ、吐息をもらす。
 その時だった。
「沖田さま……?」
 不意にかけられた声に驚いた。ふり返ると、美しい女が小首をかしげるようにして、そこに佇んでいた。
 それに目を見開く。
「君菊……さん」
「へぇ」
「どうして……こんな朝早く」
「うち、そこどすから。水を汲むために来たんどすけど……」
 細い眉を顰めた。
「ご気分でもお悪いのどすか」
「い、いえ。何でもありません」
 総司は躰を起こした。
 彼女の傍から一刻も早く離れたかった。彼に愛されている女性の前で、平然としていられるほどの余裕がなかったのだ。休息所まで用意され、彼に愛されている君菊と、駒として利用価値があるからと抱かれた自分のことを比べると、惨めで悲しくて涙がこぼれそうになった。
 だが、そんな総司に声がかけられた。
「待っておくれやす」
 ふり返った総司を、君菊はまっすぐ見つめた。













「散らかっていますけど、どうぞ」
 柔らかく微笑みかける君菊に、総司は緊張しつつ首をふった。
「いえ……」
 おずおずと休息所の中へ入る。一瞬、ここで土方が君菊と愛しあい、生活を送っているのだと思うと、指さきが冷たくなった。
 だが、君菊に指摘されたとおり、顔色も悪く、今にも倒れてしまいそうだった。少し休ませてもらう他なかった。
 休息所はそれ程の広さはなかった。部屋が二つほどあるだけだ。休息所という印象からは少し違う、普通の生活を営んでいる女性の家だった。それに、少し甘い匂いがする。
 それを訝しく思った総司は、次の瞬間、鋭く息を呑んだ。
 部屋の片隅に赤ん坊が寝かされていたのだ。よく眠っているのか、二人が入ってきても身動き一つしない。
「……」
 呆然と立ち尽くしている総司の前で、君菊は茶を手早くいれてくれた。だが、それを飲む気にもなれない。


(あの人に子がいたなんて……!)


 思いもしない事だった。だが、考えてみれば、当然なのだ。
 男女が愛しあい、躰を重ねていれば、子供が出来るに決まっている。多くの女たちと遊んでいたのに、君菊だけに休息所を与えたのはそれが理由だったのかと思った。
 悔しかった、妬ましかった。
 彼に愛されているだけでなく、子供まで得ることが出来る彼女が。自分は何一つ彼にあたえてあげられるものがないのに。柔らかい躰も何もかもないのに、なのに。
「……っ」
 涙がこぼれそうになって、きつく唇を噛みしめた。
 その様子に、君菊が気づいたようだった。訝しげに訊ねてくる。
「沖田さま……?」
「……帰ります。すみません、お邪魔しました」
 そう言って立ち上がろうとした総司に、君菊は驚いたようだった。だが、すぐに何かに気づいたのか、先ほどと同じように「待っておくれやす」と総司を引きとめた。
 そして、言った。
「沖田さまは誤解されています」
「……」
「あの子は、土方さまの子やあらしまへん」
「……え」
 総司は驚いて、君菊を見下ろした。それに、君菊はどこか歪んだ笑みをうかべた。
「土方さまには内緒にしておいてくれやす。気がついてはるかもしれへんけど……」
「それはどういう……」
「うちの好いたお人、あの子の父親は、倒幕派の浪士どす。今は行方知れずで、もしかしたら……新選組の手で討たれてしもうたかもしれまへん」
「!」
 総司の目が見開かれた。はっと躰を固くして、君菊を見る。
 だが、それに、君菊はくすくすと笑った。
「うちは何も沖田さまを仇と思うている訳やおまへん。ただ、土方さまは副長やから、関係があるかもしまへんけど……」
「だから、偽ったのですか。土方さんの子だと」
「へぇ」
 あっさりと君菊は答えた。
「うち一人で育てるのは難しかったどすし、せめて三つになるまでは傍にいてやりたいと思うて、それで土方さまを頼らせてもらいました。仇かもしれへん男に身をまかせた挙句、子供を育てるための金を引き出すうちを、ひどい女やと思わはりますか?」
「……」
 何も言うことが出来なかった。ひどいなんて思わない。
 ただ、土方が可哀想だと思った。彼女を愛しているのに、なのに、裏切られている彼が。
 総司は躊躇った挙句、それを口にした。
「ひどいとは思いませんが……でも、土方さんの気持ちを思うと」
「土方さまの気持ち?」
「だって、土方さんはあなたを愛しています。なのに、そんな……」
「……」
 君菊は目を見開いた。それから、急に声をたてて笑い出した。おかしくてたまらぬ事を聞いたように笑う彼女に、総司は呆気にとられた。
「何……どうしたのですか」
「すんまへん」
 君菊は謝ってから、にっこりと笑いかけた。
「ほんまに、沖田さまは可愛らしいお人どすなぁ」
「え……」
「素直で優しくて、土方さまのことを大切に誰よりも大切に思ってはる。そうどすやろ?」
「……」
 かぁぁっと耳朶まで赤くなってしまった。彼のことは誰よりも大切に思っていたが、それを指摘されると恥ずかしくなってしまう。
 黙ったまま俯く総司に、君菊が言った。
「うちらの間に、愛なんてあらしまへんえ」
「……?」
「土方さまは確かにうちを抱かはります。そりゃ、男はんやから欲を吐き出したい時がおありやすやろ。そやけど、そこに愛なんてある訳あらしまへん。うちと土方さまとの関係は、あくまで花街の女と客の間柄どす。持ちつ持たれつという処やろか」
「持ちつ持たれつ……」
「それに、土方さまにはちゃんと好いたお方がいはりますから」
「……」
 総司は思わず片手でぎゅっと胸もとを握りしめた。
 それを、君菊は優しく見つめた。だが、ここで土方の想いを伝えるには躊躇いがあった。自分から言うべきことではないのだ。
 むろん、君菊が土方を愛していないことは、真実だった。ただ、彼を振り向かせたいと思った事はある。それは自分を見ようともしない土方に苛立っていたためだ。芸妓の意地という処だろうか。


(芸妓というより、女としてやろか)


「朝餉、食べていきはりますか?」
 そう問いかけながら、君菊は土間へ降りた。後ろで総司が「そんなご迷惑は……」と遠慮しているのが聞こえる。
 だが、それを強引に食べていくよう薦めつつ、君菊は、ここ最近鬱屈していた想いがきれいに晴れていく気がした。













 結局、君菊の家に随分と長居をしてしまった。
 総司がいるうちに、赤ん坊は目を覚ました。可愛らしい女の子だった。抱かせてもらうと、ふわふわして甘い匂いがする。
 心から可愛いと思った。
 朝餉をごちそうになり、いろいろとお喋りをしてから家を出た。出る時には、君菊が赤ん坊を抱いて一緒に見送ってくれた。
 そのきれいで優しい笑顔を見ると、思わずにはいられなかった。


(本当に、土方さんは君菊さんを愛していないのだろうか)


 だが、君菊はきっぱりと言ったのだ。
 彼には他に好きな人がいると。実際、彼から聞かされたことがあると、楽しそうに笑いながら言っていた。
 それが誰かは教えてくれなかったが、あんなにも美しくて優しい君菊以上の存在など、本当にいるのだろうかと思ってしまった。もしもいるのなら、どんな女性なのか。
「……」
 総司は考えれば考えるほど沈み込んでいきそうな思考に、思わず首をふった。


 これ以上、自分を追い詰めたくなかったのだ。
 ただでさえ、利用するためだけに抱かれたことで、自分が思った以上に傷ついていた。幸せな夜だったが、そこに愛がないことは、総司にとって体に受けた以上の苦痛を心に与えていたのだ。


 西本願寺の門をくぐったとたん、傍らから声をかけられた。
 ふり返ると、伊東が歩み寄ってくる処だった。
「どこへ行っていたのですか」
 いきなり問いかけられ、総司は驚いた。それに、伊東が苦笑した。
「土方君がきみを探しまわっていましたよ。私のところにまで聞きに来たぐらいですからね」
「え……」
 とたん、血の気がひいた。
 屯所に戻れば、土方と顔をあわさなくてはいけない。その事を忘れていた訳ではないが、目の前に突きつけられた気がしたのだ。
 思わず縋るように、伊東の腕を掴んでいた。
「お願いです、伊東先生。しばらく、伊東先生の部屋にいさせてもらえませんか」
「いったいどうしたのです」
 伊東は驚き、目を見開いた。それに、総司は唇を震わせた。
「土方…さんに会いたくないのです。逢うのが怖いのです、だから……お願いです」
「別に構いませんが……とにかく、屯所へ戻りましょう」
 促され、屯所に戻る。だが、玄関に入ったとたん、総司はびくりと躰を竦み上がらせていた。
 そこに土方が佇んでいたのだ。框に立ち、腕を組んで見下ろしている。そのまなざしは昏く、鋭かった。
 形のよい唇の端がつりあげられた。
「……やはり、伊東先生と一緒でしたか」
「いや、門の処で見つけたのです」
 伊東は穏やかに否定した。
「総司君が帰ってくるのをね。随分と疲れているようなので、私の部屋にいったん連れていきます」
「お断りします。総司があなたの部屋へ行く理由などない」
 そう言うと、土方は総司にむかって冷えた声音で命じた。片手をさしのべる。
「総司、こっちに来い」
「……っ」
 思わず後ずさってしまった。
 何を言われるのかと怖くてたまらなくて、俯いてしまう。彼の元には行きたくなかった。彼が何を考えているのかわからない以上、怖くて怖くてたまらなくなる。
 だが、この状況で伊東の元に留まることは出来なかった。何しろ、総司を挟んで副長と参謀長が言い争っている状況を、他の隊士たちも見ていた。あちこちから視線を感じる。こんな場所で土方に恥をかかせる訳にはいかなかったのだ。
 沈黙の後、総司は小さな声で答えた。
「……はい」
 それを伊東が気遣わしげに見たが、大丈夫というように頷いてみせてから、総司は歩を進めた。下駄を脱ぎ、框を上がる。
 だが、上がろうとした瞬間、手首を掴まれ、引き寄せられた。あっと思った時には土方の腕の中におさめられている。
「ひ、土方さ……」
「伊東先生」
 目を見開いて抗いかけた総司を押しとどめるように、土方が言い放った。冷たく凄味のある声音だった。
「今後、総司には手出し無用に願います」
「……」
「これは俺のものですから」
 きっぱりと断言し、土方は総司の腰と膝裏に腕をまわした。そのまま抱き上げると、歩き出す。
 総司は半ば呆然としていたが、やがて、自分の状況に気づいて慌てて降りようとした。だが、土方の不機嫌そうな表情に気づき、おとなしくなってしまう。
 すれ違う隊士たちが驚いた表情で見送っていたが、土方はまるで気にしていないようだった。着物の裾をひるがえし、歩いてゆく。自分の私室に総司を連れこむと、障子をぴしゃりと閉めきった。
「……っ」
 障子を閉められ、総司は躰を固くしてしまった。怯えきった表情で彼を見上げる。
 それをしばらくの間、土方は暗い瞳で見据えていた。だが、やがて部屋を横切ると、総司を畳の上に下ろし、自分は傍に跪いた。次の瞬間、ふわりと抱きすくめられる。
 耳元で、彼の声が囁いた。
「……あまり心配をかけるな」
 総司の目が見開かれた。先ほどまでとはまるで違う、穏やかな声音だった。ほっとして躰の力を抜いた総司を抱きしめ、土方は言葉をつづけた。
「おまえがいない事に気づいた時の俺の気持ちがわかるか? どれだけ探しまわったか、どれだけ心配したか。屯所に戻ってもいねぇし、挙句、伊東なんざに連れられて帰ってくるし」
「土方…さん……」
「だが、本当によかった。おまえが帰ってきて」
「帰ってこないと……思っていたの?」
 そう問いかけると、土方が気まずげに視線をそらせた。躊躇いがちに答える。
「俺にされた事が嫌で、おまえが……その、自害でもしているんじゃねぇかと思ったんだ」
「そんな」
 総司は目を見開いた。
「嫌だなんて、私、そんなことありません」
「なら、どうして逃げた」
 鋭く問いかけられ、俯いてしまった。何も言えるはずがない。黙りこんでしまった総司に、土方はため息をついた。
 しばらく黙った後、問いかけた。
「それで、おまえ、どこにいたんだ」
 一瞬、躊躇った。だが、いずれ君菊から聞くだろうと思い、正直に答える。
「あなたの……休息所にいました」
「え?」
 土方は思わず聞き返した。いくら明敏な彼でも、あまりに突拍子もない答えに理解できなかったのだろう。
 それに、総司は顔をあげた。
「土方さん、あなたの休息所にいたのです。たまたま通りかかって、君菊さんに声をかけられ、それで休ませて頂きました」
「は? 何でおまえが俺の家に……って、嘘だろ」
「嘘じゃありません。本当のことです……勝手に上がり込んで、申し訳ありませんでした」
「じゃあ、何か? おまえ、ずっと俺の家にいたのかよ」
「はい……」
 頷いた総司を、土方は唖然とした表情で見つめた。





















次、後半でお褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいませね。