「土方さん!」
総司の叫びに、一瞬、土方の手がとまった。だが、それも一瞬だった。総司の手首を掴んで一纏めにすると、頭上で押しつけた。そのまま唇を首筋や胸もとへ這わせてくる。
今まで与えられてきたような、優しい愛撫ではなかった。
「いや、やめて……っ」
そう言いながら、見上げたが、土方の端正な顔は無表情だ。冷たいまなざしで見据えられ、体中が竦み上がった。
(この人は、誰)
駒としてしか扱われていないとわかっていた。
それでも、愛撫や口づけだけなら、我慢することが出来た。むろん、総司だって、愛しい男から与えられる愛撫や口づけだ。嬉しくないはずがなかった。他の男からされる行為なら身の毛がよだつ程嫌だったが、相手が土方なら、何をされても構わないのだ。
だが、それは総司が愛する彼ならの話だった。
駒としてしか思われていなくても、それでも、土方は総司に対していつも優しかった。総司の気持ちを気遣い、優しく可愛がってくれたのだ。総司が嫌がることは決してしようとしなかった。
なのに、今、何をされようとしているのか。
どう考えても、行為を無理強いされていた。手込めにされかけているのだ。
気持ちがないのに、駒のようにしか思っていないのに、それでも、抱くことが出来るのか。いや、それよりも、自分が嫌がっているのをわかっていても、それでもやめない彼はまるで見知らぬ男のようだった。
怖くて怖くて、たまらなくなる。
「いやだ……ッ!」
そう叫びざま、総司は激しく身を捩った。膝で男の腹を蹴りあげる。
一瞬、土方の手が緩んだ。
総司は素早く起き上がると、後ずさった。そのまま這うようにして部屋を横切り、障子を開ける。立ち上がり、部屋を飛び出した。
「……っ」
男は何も言わなかった。何もしなかった。
追うことも引き止めることもせず、ただ見送っているようだった。だが、総司はそんな事に気づく余裕などない。必死に駆けて逃げた。
愛しい男から。
この世の誰よりも好きで好きでたまらない、彼から。
(……土方…さん……!)
己の身体に両手をまわした。震えがとまらなかった。
どうしたらいいのか、わからなかった。
彼から逃げたことを後悔している訳ではない。
ただ、それでも好きだと叫ぶ自分を、どうすればいいのか、わからなかった。
伊東に言われたのだ。
きみは逃げているのだ、と。
念兄弟にはなれないと断った時、総司は伊東にすべてを打ち明けた。土方に対してだけ声が出ないこと、それを告げた後、土方に駒としてしか思われていないのだと知ったことを。
伊東は真剣にすべてを聞いてくれた。
そして、言ったのだ。
「……きみは逃げているのではありませんか」
「え……?」
総司は顔をあげた。まさか、そんな事を言われるとは思っていなかったのだ。
「私が逃げている……?」
「彼を好きだという気持ちから、逃げているのです。だから、声が出なくなったのだと思いますよ」
「どういう意味ですか。私は逃げてなんか」
「逃げていますよ」
伊東は微かに笑った。
「私はきみに念弟になって欲しいと告げた。それは今、断られましたが、しかし、私は口に出したことを後悔していない。ですが、きみは土方君に気持ちを告げたことがありますか」
「そんなこと……ある訳ありません」
首をふった。
「そんな事をしたら、すべてを失ってしまう。あの人に侮蔑されてしまいます」
「だから、気持ちを告げない? 土方君の反応が怖くて逃げているのですか? 言いたくて言いたくてたまらない言葉があるのに、それを告げることは怖くて、だから声がでなくなったのです。土方君の前でだけね」
「……」
呆然と目を見開いた。
まさに、伊東の言葉どおりかもしれなかった。
むろん、わからない。
総司の心は総司にしかわからないのだから。
黙ったまま見上げる総司を、伊東はゆるく抱きしめた。
「きみには、土方君に告げたい言葉があるはずです」
「告げたい言葉……」
「それを口にする勇気がもてたなら、きみは土方君の前で話すことが出来るのではありませんか。私はそう思いますよ」
「……」
総司は何も答えることが出来なかった。伊東の腕の中で、俯いてしまう。
確かに、彼の言葉どおりかもしれなかった。
自分は、土方に告げたい言葉があるのだ。
だが、それが引き起こす彼の侮蔑と拒絶を考えると、指さきがすっと冷たくなった。怖くて怖くてたまらない。
むろん、このままでいいはずがなかった。
土方は既に、総司が自分に恋していることを知っている。
だが、それでも言及された事がなかった。総司も口にしたことはない。
今更、口にしても驚くことはないだろうが、侮蔑されたり嘲られたりすることは考えられた。冷ややかなまなざしで見据える男の表情が、目にうかぶようだった。
それだけで、躰中が竦み上がってしまう。
(私は、こんなにも臆病だ……)
総司はそう思いながらも、伊東と別れてから土方の部屋へ向かった。先ほど、帰ってきたと聞いたのだ。
部屋に向かってみると、土方は一人だった。
だが、あらたまってみると、どうしたらいいのかわからない。
君菊に会ったことを告げた総司に、土方は酷く不機嫌そうな様子になった。自分の愛する女のことを口出しされたと思ったのか、怒られて当然だと思った。それと同時に、激しい嫉妬心が燃え上がった。
彼に愛されている彼女が羨ましい。
あの時も感じた感情だった。
本当は、自分だって愛されたかったのだ。否、せめて弟としては愛されていると思っていた。
なのに、今は駒同然にしか思われていないのだと、知らされてしまった。
ならば、この気持は、この想いは、どこへいくのだろう。
このまま彼に知られぬまま、胸に抱きつづけていくのだろうか。
そんな自分を思うと、涙がこぼれそうになった。
告げたいと、心から思った。
嘲られてもいい、侮蔑されてもいい。
せめて、この想いを告げてしまいたかった。
そして、気がつけば、彼の名を呼んでいたのだ。
土方さん、と。
声が出た瞬間、誰よりも総司自身が驚いた。
信じられない思いで、そのまま告げた。
彼を好きだという気持ちを、素直に。
心から。
「……駄目だった、けど……」
総司は柱に凭れかかり、目を伏せた。
拒絶された訳ではない、だが、侮蔑されたことは確かだろう。土方は酷く冷たい目で、総司を見ていた。好きだというのなら、身体ぐらい開けるだろうと嘲っていたのか。
その氷のような表情がまなざしが、胸に痛かった。苦しくて辛くてたまらなかった。
何よりも、怖かった。
総司にとって、彼は誰よりも愛しい男だ。
むろん、同性同士の契りに不安もあるし、怖さもある。それでも、愛しい男が抱いてくれるのなら、構わなかった。ただ、やはり優しく抱かれたかったのだ。
あんなふうに手込めまがいで抱かれるなど、どうしても嫌だった。
あれから二日の時が過ぎていた。
その間に、土方とは何度か顔をあわせることがあった。
だが、彼は一瞥さえしなかったのだ。声一つかけることなくすれ違っていく彼に、泣き出しそうになった。
二人の雰囲気は口に出さなくても伝わるのか、斉藤には、仲違いしたのかと問いかけられた。それに曖昧に笑って誤魔化したが、兄弟喧嘩のようなものであれば、どれほど良かったかと思った。
総司はため息をついてから、身を起こした。稽古をしようと歩き出そうとして、どきりと心の臓を跳ね上がらせる。
渡り廊下に、土方が佇んでいたのだ。
こちらを見てはいない。何か思い悩むような表情で、中庭の方を眺めやっている。
その立ち姿に、ぼうっと見惚れた。
(……きれい……)
すらりと引き締まった長身に、濃紺の着物と袴を纏っていた。
ゆるく足を開いて立ち、中庭を眺めやっている。その横顔は息を呑むほどきれいだった。引き締まった頬から顎の線が鋭く、男らしい。形のよい眉に、切れの長い目、引き締まった口もと。
ただ顔立ちが整っているだけではない、彼には、人を魅了する華があるのだ。
しばらくの間、見惚れていた総司だったが、はっと我に返った。あまりに長い間、見ていると気づかれてしまうと思ったのだ。
慌てて視線を外そうとするが、時既に遅しのようだった。
「……」
ふと、土方が微かに眉を顰めた。こちらをふり返ってくる。
そこに立ち尽くす総司の存在に気づいたとたん、目を見開いた。だが、すぐに真っ直ぐこちらを見つめてくる。
あの、濡れたような黒い瞳で。
「──」
時がとまったようだった。
何も言うことが出来ず、ただ、息をとめる。
そんな総司に、土方はゆっくりと歩き出した。総司だけを見つめたまま、歩みよってくる。
それを、ただ見つめていることしか出来なかった。身動き一つできず、土方がこちらへ向かってくるのを、呆然と見ている。
逃げることなんて、出来なかった。
この間、あんな事をした男なのに、それなのに、逃げることなんて出来なくて、ただ立ち尽くした。やがて、土方が総司の前に立つまで。
切れ長の目が総司を静かに見下ろした。それを微かに震えながら見上げる。
「……総司」
彼の唇がその名を呼んだ瞬間、身体の奥が熱くなった……。
謝るべきだとわかっていた。
あんな事をするべきではなかったのだ。総司を手込めにしようとするなど、決してやってはいけない事だった。
どれだけ、あの可愛い総司を怯えさせたか、怖がらせてしまったか。だが、あの時はもう止めることさえ出来なかったのだ。無我夢中で総司を貪ろうとしていた。
よくよく考えてみれば、屯所の、それも副長室でだ。とんでもない話だった。
だが、頭に血がのぼってしまっていたのか、そんなこと考える余裕もなかったのだ。
総司が逃げてしまった後、初めて我に返った程だった。
己がした事の重大さに、愕然となったのだ。
総司を傷つけた己が許せなかった。いくら嫉妬したと言っても、自分にとって総司は宝物のような存在だった。誰よりも幸せになって欲しいと願っていたはずだった。
なのに、その総司に自分は何をしたのか。せっかく、好きという想いを告げてくれたのに、それが兄に対する親愛の情以上のものでなくても、それでも、あんなにも素直で純粋な総司に、男の汚れた欲望をぶつけてしまった。
悔いても仕方がないが、それでも、謝ることは出来るはずだった。
総司を失うことだけはしたくないのだ。
己のものになることはなくても、せめて、傍にはいて欲しい。他の誰かに奪われたら、気が狂ってしまう。それこそ、前に総司に言ったとおり、この手で殺してしまうだろう……。
土方は謝ることを決意し、総司の部屋に向かった。
だが、近づくにつれ、躊躇いを覚えてしまったのだ。
不思議なぐらいだった。
他の誰に何を言われても傷つかないのに、総司には、ちょっとした言葉やまなざし、表情だけでひどく動揺してしまう。謝っても拒絶された時、また前のように我を忘れてしまわないか、ふと不安になった。
どうするべきか思い悩み、次第に足取りも重くなってしまう。気がつけば、中庭を眺めながら佇んでいた。
その時だったのだ。
背後に気配を感じて、ふり返った。誰かが自分を見ている、そんな気がしたのだ。
そこにいたのは、総司だった。
華奢な身体に淡い色あいの小袖と袴を纏い、大きな瞳でこちらを見つめている。驚いたような表情が愛らしかった。可憐で愛らしい総司の姿に、胸奥が痛くなる。
二度と傷つけたくない、と思った。
だが、その一方で別の思いもこみあげる。
(誰にも渡したくない)
総司を失うことは、己の世界が終わることを意味していた。
春や夏、秋、冬が色づいているのは、そこに喜びや悲しみがあるのは、すべて、総司が傍にいてくれるからなのだ。
京に来て初めて迎えた秋、二人で紅葉を見るために出かけたことのことを思い出した。
ひらひらと紅葉が舞い散る中、片手をさしのべていた総司の姿は、まるで絵のようだった。可憐で儚くて、かわいくてたまらなかった。
今すぐ抱きしめたいという衝動を堪える土方に、むけられた笑顔が愛らしかったことを、よく覚えている……。
傍で笑っていてくれさえすれば、それでよかったのだ。
なのに、最近、総司は笑顔を己に見せなくなっていた。口づけや愛撫を無理強いするようになってから、総司は淋しげな瞳でいることが多くなった。
抱きしめても抱きしめても、少しでも目を離せば、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
だから、伊東に抱きしめられているのを見た瞬間、我を忘れてしまったのだ。総司を奪われるという恐怖に狼狽し、挙句、あんな事をしてしまった。
(俺は……愚かな男だ)
そう思いながら、土方は総司にむかって歩みだした。びくりと総司が身を竦ませたのがわかったが、それでも、話がしたかった。
目の前に行って見下ろすと、総司は彼を見つめてくれた。だが、その瞳には怯えと不安が揺れ、小柄な身体も震えている。それに胸奥が痛くなった。
(そんなにも、俺が怖いのか)
当然だとも思った。
あんな事をした男を怖がらないはずがないのだ。むしろ、今すぐ逃げ出されないだけ良しとするべきなのか。
「……総司」
低い声で呼びかけると、総司の身体がまた震えた。だが、逃げないことに安堵しつつ、言葉を続けた。
「少し……話がしたい。構わないか」
「……はい」
小さな声で答え、総司はこくりと頷いた。それに頷き、近くの空き部屋へ促した。だが、怖がらせないため、障子は開け放ったままにしておく。
土方は腰を下ろすと、総司に坐るよう促した。それに、総司もおとなしく従う。
少し躊躇ったが、潔く話を切り出すことにした。
「この間はすまなかった」
はっきりと言った。それに、総司の目が見開かれる。
「おまえに酷い事をした……いや、しようとした。いくら頭に血がのぼっていたとはいえ、あんな事をするなんて最低だな。悪かったと思っているんだ」
「土方さん……」
「本当に、すまない」
謝りざま、頭を下げた。それに総司が慌てて腰を浮かせた。
「や、やめて下さい。そんな……っ、土方さんが謝るような事じゃ」
「いや、謝るべき事だ。おまえは嫌がっていたし、それに、俺はおまえを怖がらせた」
「それ…は、怖かったけど……で、でも……」
総司は口ごもった。そして、小さな声で言った。
「……でも、いやって事はなかったし……」
「え?」
「その、あんな無理やりは嫌だけど、でも……その、ちゃんと優しくしてくれるなら……いい、です」
「……」
土方は呆然と、目の前で頬を赤くして俯いている総司を見つめた。
今、自分が何を聞いたのかさえ、わからなくなってしまう。
聞き間違えではないかと思った。
だが、確かに、総司は言ったのだ。
あの行為が嫌ではなかった、優しくしてくれるのなら、いいのだと。
それはつまり……
「……俺に抱かれてもいい、という事か」
単刀直入に訊ねた土方に、総司はかぁぁっと耳朶まで真っ赤になってしまった。
だが、俯いたままじっと唇を噛みしめているところを見ると、否定するつもりはないようだ。
「……」
土方は信じられない思いで、総司を見つめた。
土方の視線が怖くて、思わず目を伏せた。
言ってしまってから、どうしようと思った。
とんでもない事を言ってしまったという自覚があった。彼からの視線が痛いぐらいだった。
だが、後悔はしていなかった。嘘ではなかったのだから。
優しくしてくれるなら、むしろ喜んで身をまかせるつもりだった。気まぐれでもいい、弄ばれていてもいい、彼が少しでも自分を望んでくれているなら、それでいいと心から思った。
こんな自分が彼に望まれるなんて、それ以上に幸せなことはないから。
沈黙が続いていた。
やがて、微かに土方が吐息をついた気配がする。それに、総司はびくりと身体を震わせた。
しばらくして、低い声が言った。
「……八坂の鳥居前に暮六つだ」
「?」
意味がわからず、総司は顔をあげた。ぼんやりと彼の顔を見つめる。
そんな総司に、土方がちょっと困ったように笑った。
「屯所でおまえを抱けるはずがねぇだろう」
「え……」
「今日、仕事が終わったら、八坂神社の鳥居前で暮六つに待っていろ。いいな?」
それだけを告げると、土方は立ち上がった。まるで何事もなかったように、部屋を出て立ち去ってゆく。
それをぼんやりと見送っていた総司だったが、やがて、彼の言葉の意味を理解することが出来た。
(八坂神社の鳥居前に、暮六つって……え、えっえぇえっ!?)
待ち合わせの場所と時刻を指定されたのだ。それも、あんな会話をした後だった。その手のことをするために落ち合うのだとしか、考えられなかった。
とたん、総司は頬が熱くなるのを感じた。
あの、彼に抱かれるのだ。ずっと憧れ、恋してきた人。その腕に抱かれ、口づけられ、愛される。
それは長い間、夢見てきたことだったが、いざ現になると、不安が心の奥をそっと震わせた。
(私なんかを、本当に望んでくれるの……?)
いつも美しくて艶やかな女に纏わりつかれていた彼だった。ましてや、今の彼には、あの美しい君菊がいるのだ。
なのに、どうして、こんな同性の自分を抱こうと思ってくれたのか。
だが、そこまで考えたとたん、総司はすっと頭の奥が冷える思いがした。
自分は手放せない駒なのだ。
彼にとって、新選組を動かしていく中で必要な駒の一つ。その駒が伊東に奪われそうになっていると知ったとたん、土方は総司の恋心を利用して甘やかし、口づけて抱きしめて引き止めた。
そして、今、彼は契りまでも結ぼうとしているのだ。総司を決して手放さないために。
それは愛のためではなかった。そこに愛はなかった。
土方は、総司を利用するために、その身体を抱くのだ。彼にとって、これは仕事の一つに過ぎないのだろう。
そう思ったとたん、ぽろりと涙がこぼれた。
だが、すぐに手の甲で拭い、きつく唇を噛みしめた。
望んだ事のはずだった。
気まぐれでもいい、利用されていてもいい。
それでも、あの人が抱いてくれるのなら……それだけで幸せだから。
「土方さん……」
誰よりも愛しい男の名を呼び、そっと目を閉じた。
つづき、お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいね。