夏も過ぎようとしているある日のことだった。
総司は君菊と会った。
偶然、町中で会い、声をかけられたのだ。
総司は君菊を見知ってはいなかったが、向こうは知っているようだった。
「……え」
名乗られ、頭を下げられた瞬間、息を呑んだ。
その場から逃げ出したくなったが、そんな情けない真似を出来るはずがなかった。
噂で聞いていた以上の、美しい女だった。品もあり、艶やかで花のように美しい。大輪の花が咲き誇るようだった。
土方と並べば、美男美女でさぞかし似合いだろうと思った。子供の自分とは大違いだと、惨めな気持ちになる。
俯き、小さな声で返礼した。そのまま、足早に君菊の傍から離れてゆく。
それを彼女は見送っているようだったが、とてもふり返る事など出来なかった。
(私は、あの君菊さんとは違うんだ……)
恋人して愛されてなどいない。
それどころか、最後の拠り所だった兄弟同然の愛情も失われてしまった。なのに、君菊はあの彼に愛されているのだ、休息所まで用意してもらって大切にしてもらっている。羨ましくてならなかった。
自分は、駒としてしか見てもらうことが出来ないのに。
その程度の価値でしかないのに。
あの時から、夏の間、土方は総司をよく部屋に呼ぶようになった。
行きたくなかったが、呼ばれれば行くしかない。
副長室に入ると、いつも二人きりだった。そこで土方の腕に抱きしめられ、口づけられたり、身体を愛撫されたりするのだ。それが総司には拷問のように辛い行為だった。
愛しい男からの行為だ、どうしても頬が上気してしまう、身体が熱くなってしまう。
だが、一方で、愛など一片もないとわかっていて、自分の恋心を知った土方が嘲りながら自分を弄んでいるのだと思えば、恥ずかしくて辛くて泣き出したくなった。
実際、泣いてしまったこともあった。身体を愛撫され感じすぎて、そんな自分が嫌で恥ずかしくてたまらなくて、どうしようもなくなって泣いてしまったことがあったのだ。
その時、土方は酷く慌てて、謝ってくれた。
「辛かったか……すまない」
と、何度も謝り、優しく抱きしめてくれた。
「今日はもうしねぇよ」と言って、総司が泣きやむまで傍にいてくれたのだ。
あの日から、土方は二度と冷たい表情を見せることはなかった。
酷い言葉も言われたことはない。優しくされていた。ただ、その形が変わってしまっただけだ。
気まぐれのようにふれてくる、彼のしなやかな指さき。甘く激しい口づけ。
逞しい両腕の中に閉じ込められる抱擁。
それを思い出すたび、総司は、喜びと悲しみと切なさに泣いた。彼は、総司が裏切らず傍にいる褒美として、これらをあたえているのだ。本当は同性になどふれたくないだろう。
なのに、副長として総司を手放せないため、利用するため、こうして繋ぎつづける。
それが総司には堪らなかった。まるで地獄のようだと思った。
片恋していた時の方が、どれ程よかったか。
いや、今も片恋には違いない。
だが、この想いは知られてしまっているのだ。挙句、愛しい男に利用され、弄ばれている。彼は総司が拒絶することが出来ない事を知っているのだ。残酷な話だった。
あんな酷い男なんかと、思い切ってしまえばいい。
だが、そんなこと出来るはずがなかった。
どんな酷い仕打ちを受けても、それでも尚、好きで好きで仕方がないのだ。
(私……本当に土方さんに狂わされている)
ならば、いっそ本当に狂ってしまいたかった。
何もわからなくなって、あの人のことさえわからなくなれば、この苦しみから解放されるのだろうか。
それでも、狂っても尚、あの人への恋心だけは残るのか。
総司は立ち止まると、頭上を見上げた。夏の終わりの空が広がっている。
いつの間にか訪れようとしている秋を感じながら、きつく目を閉じた。
「先日、総司さまにお会いしました」
静かな声で、君菊が言った。
久々の訪れだった。その上、土方は上がろうともしなかった。ただ、生活費だろう、金だけを渡して立ち去ろうとしたのだ。
その男の背を見上げ、君菊が言った。
総司と会ったことを。
男が振り返るだろうとは思っていた。だが、その反応は想像以上のものだった。
「!」
弾かれたようにふり返った土方は、手をのばした。君菊の腕を掴むと、引き上げる。
「……おまえ、総司に何をした」
喉奥で押し殺された声に、怒りを感じた。
その切れの長い目に激しい感情をうかべ、君菊を見据えている。
あぁ、やっとうちを見てくれはった。
そう思いながら、君菊は艷然と微笑ってみせた。
「何も」
「何も?」
「なんもしておりません、ただご挨拶をしただけどす」
「本当にか」
「へぇ」
頷いた君菊に、安堵したように土方は彼女の腕を離した。だが、すぐにきつい口調で言った。
「二度と総司には近づくな。見かけても声をかけることは許さん」
「……」
それは、どこから見ても己が愛する女に対する態度ではなかった。まるで敵に対するような激しいまなざしだ。
だが、それに君菊は細い眉ひとつ動かさなかった。それどころか、満足気に薄く嗤う。
この男はいつも己を失うことがなかった。
冷徹で氷のように冷ややかな態度を崩さず、褥の中で彼女を抱く時でさえ、熱一つ見せたことがなかったのだ。
なのに、今はどうだろう。ただ一度、あの存在と言葉を交わしたというだけで、これ程、感情を剥き出しにしてしまっている。
それは、土方にとって、総司が特別な存在であることを意味していた。
否、君菊にすれば、総司が土方の特別であろうと何でも構わない。
ただ、いつも冷静な土方が己の感情を垣間みせたことが、興味深かった。
「そないに気にされてやはるのどすか」
小首をかしげ、ゆったりと問いかけた。まるで誘うように、白い手で男の腕にふれる。
「わかります、とても美しい方どすから」
「余計な差し出口をするな」
ぴしゃりと言い捨てた。冷ややかな一瞥を君菊にくれてから、土方は踵を返した。そのまま声もかけることなく、休息所を出ていく。
それに深く頭を下げながら、君菊は紅い唇の端をつりあげた。
愛など、どこにもなかった。
そんなことは前々からわかっていた。自分はただ欲望を吐き出すためだけの存在なのだ。
土方は傲慢で身勝手極まりない男だった。美しい女が寄ってくることは当然であり、それを気儘に抱いたり捨てたりしている。それを傍から見ていたが、君菊はそれでも彼の女になる道を選んだ。
君菊には好いた男がいた。
だが、その男は倒幕派の浪士であり、このご時勢の中、京で無事にいられるはずがない。ある時から行方しれずになっていた。無事であるかどうかさえわからない。
君菊はその男の子を身ごもっていた。どうしても産みたかったが、女一人ではどうしようもない。
迷った末に、土方の子だと偽ったのだ。彼がそれを信じたのかどうかはわからない。だが、一瞬、目を見開いてから、すぐに休息所を用意しようと言ってくれた。
もしかすると、土方自身が、君菊が愛する男を殺したかもしれなかった。彼は新選組副長なのだ。倒幕派の浪士を討つことが彼の仕事だった。
君菊にとっては仇も同然の男だ。その男の子として偽り、子供を産み、育てることは復讐になるのかもしれないと思った。その上、彼には自分と同じように愛する者がいるらしい。
君菊を初めてまっすぐ見てくれる程、愛している者が。
白い喉を震わせ、君菊は笑い声をたてた。
屯所に帰った土方は、すぐさま総司を探した。
部屋にいなかったので稽古場かと思い、渡り廊下を歩いた。だが、中庭にふと視線をやったとたん、鋭く息を呑んだ。
中庭の木陰だった。普段、人気はない場所だし、この廊下もあまり人が通りかかることは少ない。
それを知っているからだろう。
木陰で、伊東の腕に総司が抱かれていた。俯きがちに、何か小さな声で話をしている。それに伊東は真剣な表情で頷き、答えているようだった。
しばらくすると、総司は顔を両手でおおった。明らかに泣いている。それを見て、伊東は痛ましげな表情で、やさしく抱きしめた。
「……」
そこまで見てから、土方は踵を返した。
他の男の腕に抱かれている総司を、それ以上見ていることなど出来なかった。腹の底が嫉妬と怒りで焦げつき、どうにかなってしまいそうだ。
副長室に戻ると、荒々しく障子をたてきった。天を仰ぎ、固く瞼を閉ざす。
どんなに戒めても、優しくしても、それでも尚、あの可愛い小鳥は俺の手から逃げ出そうとしているのか。
その澄んだ声で囀ってくれるどころか、ふれることさえ許されなくなるのだ。
穢れた男を厭うがごとく、飛び去っていく小鳥を止める術など何処にもなかった。
……わかってはいるのだ。
幸せを望んでいるのなら、本当に愛しているなら、解放してやるべきなのだと。
だが、どうしても己の感情が許せなかった。
いやだ。
総司は誰にも渡さない。
まるで駄々っ子のように叫んでいる惨めな自分がいる。
ふと、君菊のことが思い出された。いつも、自分を憎んでいるかのように、きつい目で見据えている女。
いつか、総司も同じように俺を見る日が来るのだろうか。このまま、伊東とのことを妨げていれば、憎まれてしまうのか。
否、それでもいいとさえ思った。
たとえ憎しみであっても、総司がそんな激しい感情を俺に向けてくれるのだ。それは俺の中で歓喜にとけるだろう。
狂っている、とわかっていた。
こんな感情はもはや愛情でさえない。ただの身勝手な執着、独占欲、狂気だ。だが、わかっているのは理性で、自分でも止めることが出来なかった。
総司を求める狂暴な感情に押し流され、まともな判断が出来なくなってしまう。
「……総司……っ」
呻くようにその名を呼び、両手で顔をおった。
呼吸をくり返し、己を落ち着けさせようとするが、一度荒れ狂ってしまった彼の中の獣はなかなか息をひそめない。総司が欲しかった。今すぐ、あの華奢で白い身体に牙をたて、喰らい尽くしたいと渇望する。
このままでは駄目だと思った。
先日の事から、総司との関係は変わってしまった。
それでも、口づけや愛撫を、総司は受け入れてくれているのだ。
怯えた表情で彼を見上げつつも、拒むことはない。それをいいことに、自分は総司の身体を抱きしめたり、ふれたりしていた。むろん、契りまでは結んでいない。そこまで無理強いすれば、さすがに拒まれることはわかっていた。
だが、こんな嫉妬に狂う己を見せれば、獣じみた情欲で身体を疼かせる男を見せれば、総司も逃げてしまうのは当然だ。
これ以上、関係を壊したくなかった。
ただでさえ、総司は笑顔ひとつ見せてくれなくなっているのだ。いつも声をかけるのは、呼び寄せるのは土方の方だった。総司から彼の傍へ来てくれたことはない。明らかに怖がられていた。
だが、その不安げな表情が、より男の情愛をかきたてる。
総司を部屋に連れ込む時は、いつもすぐに抱きしめた。抱きしめ、口づけ、その身体にふれた。己の腕の中に総司がいることを、確かめるように。
それに対して総司は抗うことはなかったが、いつも不安げな怯えた瞳をしていた。細い指さきがぎゅっと彼の腕を掴んだことを覚えている。
……どうしてなのだろう。
何故、こんなふうになってしまうのか。
いっそ、告げてしまった方が良かったのか。
愛している、と。
それでも逃げていくだろう総司に、俺は慟哭するのだろうか。
殺意を抱き、あの愛しい存在を殺めるのか。
(……この手で)
土方は己の手をあげ、見つめた。
本当に、この手で総司を殺す日がくるのだろうか。ずっと思ってきた。この手で総司を守ってやりたい、と。愛しているからこそ、慈しんできたからこそ、大切に幸せにしてやりたくて、この手で包みこむように守ってきた。
だが、その俺がこの手で総司を殺すのか。
他の男に奪われるという事実に耐え切れず、殺してしまうのか。
「……俺は最低だ」
低い声で呻き、きつく片手を握りしめた。爪が食い込むほど握りしめてしまう。
その時だった。
不意に廊下で足音が響いた。それは近づいてきたかと思うと、副長室の前で立ち止まる。声をかけるのかどうか、躊躇っているようだった。
その気配に、誰かわかってしまう。
黙っていると、踵を返す気配がした。逃げられてしまう。
それを知った瞬間、思わず声をかけていた。
「……総司」
呼んだとたん、びくりと空気が震えた気がした。実際、微かに息を呑んだ気配がある。
それに、土方はふり返った。障子に手をかけ、静かに開く。
「!」
総司がはっとして顔をあげた。大きく目を見開いた表情が愛らしい。
できるだけ優しく微笑みかけてやった。
「どうした、用があってきたのだろう。入れよ」
「……」
こくりと頷き、総司は部屋に入ってきた。それに障子を閉めきり、閉じ込めてしまう。
だが、いつものように総司の身体を抱きしめることはしなかった。せっかく総司から来てくれたのだ。怖がらせたくなかった。
土方は総司を坐らせ、自分も文机の前に腰を下ろした。積み上げられた書をぱらぱらと捲りながら、問いかける。
「それで、何の用だ。おまえが俺の部屋に自分から来るなんざ、珍しいだろう」
「……」
総司が手をのばしたのを感じて、土方は向き直った。手のひらに、いつものように綴られる。
「君菊さん 会いました」
「あぁ」
土方は頷いた。
「今日、君菊に聞いたよ」
彼の言葉に、びくりと総司の肩が震えた。大きな瞳が彼を見上げる。
だが、すぐに言葉をつづけた。
「きれいな人」
「まぁ、売れっ子芸妓だったからな」
「土方さんの 大切な人」
たいせつと綴る時、総司の指が震えている気がした。だが、それにはふれず、微かに喉奥で嗤った。
大切な人、か。
俺の大切な人は君菊などではない。今、目の前にいるおまえだと言ったら、どうするのだろう。
この世の誰よりも、おまえを愛していると。
おまえさえいてくれれば、他には何もいらない。
だから、他の男のもとへ行かないでくれと、みっともなく縋りついたら、おまえは留まってくれるのか。俺を見てくれるのか。
黙ったまま笑った土方に、総司は、それを肯定の意味と受け取ったようだった。
長い睫毛を伏せ、俯いている。
そのきれいな顔に視線をあてた。華奢な体に、細い指さきを、見つめた。
この体が先ほどまで他の男の腕に抱かれていたのかと思うと、どす黒い焔のような嫉妬を覚えた。じりじりと己も己の感情も焦がしていく狂気だ。
彼の中で、また、獣がゆっくりと身じろいだ。
「……」
固く瞼を閉ざす。
総司が不安そうに顔をあげた。何も言わない土方が心配になったのだろう、手が掴まれ、軽く揺さぶられる。
それに、唇を噛んだ。
俺にふれるな。
逃げろ。
俺のいない何処か遠くへ。
「土方、さん」
不意に、小さな声が彼の名を呼んだ。
それに驚いて、目を開いた。
総司は己自身でも驚いたのか、唇に手をあてている。だが、ゆるく首をふると、涙が瞳にあふれた。
そして、ゆっくりと言った。
「好き、だい好き……土方さん」
あの時も、彼の手のひらに綴られた言葉だった。
だが、それを総司の澄んだ声で聞くのは、意味合いがまるで違った。
総司の言葉は彼の胸を貫き、深く深く痺れさせてゆく。毒を塗られた矢でも、そこに突きたてられたようだった。
永遠に、彼を狂わせる毒を。
「!」
もう限界だった。
土方は総司の手首を掴むと、乱暴に引き寄せた。そのまま細い顎を掴んで仰向かせ、激しく唇を重ねる。
「……っ……」
腕の中、びくりと総司の体が震えた。
今までとはまるで違う口づけだった。
貪り尽くすような、激しい口づけ。
それに呆然としていると、総司の肩が強く押された。あっと思った時には畳の上へ倒れこんでしまっている。
慌てて身を起こそうとしたとたん、土方がのしかかってきた。
「土方さん……!」
思わず叫んだ。